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六話 誓い

ー/ー



「ムカついたからって暴力はダメですよ。もっと大人になってください」
 
 待合室で派遣会社の社員に説教されていた。
 今はまだ作業中のため、広い空間には二人しかいない。
 周りの証言などもあり、樹が手を出した理由に理解は示してくれていたが、それでも怒られた。
 取引先に対し迷惑をかけたことや、他の派遣会社の人間とトラブルになったことは、会社としては看過できないだろう。
 樹もそれは分かっていたが、どこか解せない。

「殴られても仕方ない人間でも?」
 どんなことがあっても力で解決してはいけない。

 それが社会のルールだ。
 だが村内のような人間に話し合いなど意味がない。
 痛みがなければ、人の醜悪さは治らないのだから。

「根本さんは責任を負わなくていいからそんなことが言えるんですよ。社会に出れば、ムカついても我慢しなくちゃいけない。誰でも知ってる常識ですよ。派遣が問題を起こしたら責任を取るのは誰ですか? その後の処理をするのは誰ですか? 全部人任せでしょ? 人を簡単に殴れるのは無責任だからです。何かあったら僕らに言うべきなんですよ。報連相って知ってますか?」

 樹は机の下の拳を握った。
 正論かもしれないが、見下したような口調に腹が立った。
 目の前の社会人の言うことに理解はできるが、正しいと認めたくない。
 自分の行いが間違いだとも思っていない。
 樹は社会の不条理さを受け入れることができなかった。

「村内さんも派遣の女の子にちょっかい出したりして、問題視はされてたんですよ。いずれトラブルが起こるとは思ってたんですけど、まさかうちとはね」

 社員は大きくため息を吐いた。
 わざとらしいそれに、樹は苛立ちを覚える。

「村内さん、相当怒ってましたよ」 

 倉庫の管理者である男性が来て、社員の隣に腰を下ろした。

「なんて言ってました?」

「初めは訴えるとか言ってたんですが、なんとか宥めました。村内さんにも非があるんで」

「ありがとうございます。うちの派遣がご迷惑お掛けして申し訳ありませんでした」

「いえ」

 “うちの派遣”という言葉が気に食わなかった。
 そこには“こんなどうしようもない人間”という意味が込められているように感じたから。

「根本さん、腹が立ったのは理解できますけど、手を出すのはダメです。何かあったら僕らに言ってください。今回みたいなことになるので」

 同じようなことを再度言われた。
 社会の常識が息苦しく感じる。

「村内は金山さんを馬鹿にしました。あの人はミスは多いけど、仕事に対しては懸命に取り組んでます。真面目に生きようとする人間の居場所を奪おうとする奴は、殴られても仕方ない。俺は後悔してないし、また同じことがあったら殴ります」

「話し聞いてた? それをすんなって言ってるの。さっきも言ったけど、責任とるのは僕たちなの。君を派遣してる立場だから。もし同じことをするって言うなら、もううちでは扱えない」

 樹は目つきを鋭くさせて社員を睨んだ。
 言葉では納得しないと思っていた。社会に迎合した人間は常識だけで人を測ろうとするからだ。
 他者の尊厳を踏み躙る行為は、殴られても仕方のないこと。
 樹は自分の行為を、悔い改めることなどできなかった。

「君さ、何をしたか分かってるの? 色んな人に迷惑をかけたのに、よくそんな態度とれるね。人を殴ったらいけないの。そんなことも分からない? せめて頭くらい下げたら。本当に常識がないね。そんなんだから派遣なんだよ」

 樹は感情を抑えきれず、社員の胸ぐらを掴んだ。

「ちょっと、落ち着いて」

 管理者が手を解こうとするが、樹は一層力を込めてスーツの襟を握る。

「常識なんて知ったこっちゃねえ。社会のルールより大切なもんがあるだよ。それを守るためなら、俺は迷わず力を振るう」

「根本さん!」

 管理者が大声を上げると、樹は突き放すように手を離した。
 どちらが正しいかなど、もうどうでもいい。
 見下されたことで、理性よりも感情に支配権が移っていた。

「すぐに暴力を使う人間なんて、どこに行っても使い物にならない。君は社会不適合者だ。この意味が分かる? 役に立たないクズってこと」

 樹の怒りが沸点を超える。
 表情にも出てたのだろう、社員の顔に怯えが見えた。

「また殴るの? 僕は警察に言うよ。捕まるけどいいの?」

 腐ってる。
 世の中の人間全部。
 捕まっても構わない。
 刑務所の方が俺には生きやすい。
 樹が拳を握った瞬間、待合室に大勢の人間が入ってきた。

「今日は発送が順調だから、時間調整で休憩にしたんです」

 管理者の言葉の後、樹は拳を解いた。

「根本さん、今日はもう上がってください。次回があるかはわかりませんが、もし来るなら今日のようなことは控えてほしいです。殴った理由は理解できますけど、手を出したとなると話は別です」

 管理者の冷静な言葉に、樹の怒りが徐々に冷めていく。

「もうここには来ないです」

 樹はそう言い残して、待合室を出て行った。
 外に出ると、澄んだ空が視界を染めてきた。
 社会の底辺を見窄らしく映す青は、今の樹からしたら鬱陶しい。

「根本くん」

 駅まで歩いて向かおうとすると、後ろから声が聞こえた。
 振り向くと、倉庫の入り口から金山が走ってくる。

「ごめん、僕のせいで」

 数十メートルほど走っただけなのに、金山は息を切らしている。

「俺が勝手にキレて殴っただけだから、気にしなくていいよ」
「これから、どうするの?」
「ここにはもう来ない。ていうか、来れない」

 金山は何か言いたげな顔をしていたため、樹は言葉を待った。
 沈黙の隙間を埋める空間には、どこか切なさが混じっている。
 きっともう会うことはないだろう。
 これが最後になるだろう。
 お互いにそう思っているのが空気感に滲んでいた。

「僕は失敗するたびに逃げ続けてきた。ここは居場所じゃない、もっと合ってる場所があるんだって言い聞かせながら。だから評価が下がると、すぐに次を探した。失ったものは取り返せないと思ってたから。でも、そんなことを繰り返してたら一生成長はできない。言い訳ばかりの人生だったけど、やっと自分に必要なものに気づけた。若い頃の失敗はきっと財産になる。僕はそれを放棄し続けてきたけど、根本くんはまだ間に合う。社会に出れば嫌なことも、許せないこともたくさんあるけど、力で解決しようとしてはいけない。それは、自分で自分を苦しめることになるから。僕が偉そうに言える立場ではないけど、今の自分と向き合えるかで、この先の道が変わってくると思うんだ」

 もし夢を追い続けていたら、こんな生き方はしていなかったかもしれない。
 頭の片隅にそんな考えもあったが、真っ直ぐ生きていた自分を卑下することで打ち消した。取り戻せない日々に後悔したくないから。
 今はレールから外れ、多くの人が歩いている道に樹はいない。
 自身でもそれを分かっているし、もう戻れないとも思っている。
 金山も人生を諦めていた。
 だが祖母の言葉で変わろうと決意した。
 差し出してきた言葉の行間には、色んな想いが込められているのだろう。
 生き方を変えなければ、一生影の中を歩くことになる。
 金山が伝えようとしていることを、樹はそう受け取った。

「正直、どう生きていいか分からない。俺みたいな社会の底辺が、他の奴らと同じようになれるとは思えないから。真面目に頑張ったって、周りにいる人間が認めなければ意味がないし、笑われるくらいなら今のままでもいい。諦めた方が都合がいいんだよ。真っ直ぐ歩くことなんて、できやしないんだから」

 舐められたくないという気持ちが強すぎて、社会の常識に従うことができなかった。
 その結果、人間関係で仕事が続かず、生活に困って借金をした。
 膨れ上がる利息よりも、止められた電気よりも、プライドが勝り、誰にも理解されない生き方を選んでいる。
 馬鹿なことだと分かっているが、社会というものに迎合するには、自分が嫌悪する人間たちと同じ生き方をする必要がある。
 理不尽なことも受け入れ、下げたくもない頭を下げて、卑俗な人間の奴隷にならなければ、この世の中では受け入れてもらえない。
 真面目に生きても損をするだけだ。
 樹は世間の言う、普通に生きるという行為に抵抗があった。

「真面目な人が報われるかは分からない。でも、諦めたら報われることはない。周りの人から馬鹿にされようが、恥を掻いて笑われようが、僕はもう逃げない。人は変われるってことを、役立たずのクズが証明してみせる」

 金山の目には覚悟が宿っていた。
 何度も心を折ったはずなのに、今も傷だらけのはずなのに、目の前の人間はそれでも意志という剣を握った。
 他の人間に言われても、きっと何も感じなかったばずだ。
 社会的弱者である金山だからこそ、樹の心を揺るがした。

「俺も変われると思うか?」
「絶対に変われる。僕が言っても説得力はないけど」

 金山は自分に言い聞かせるように言った。
 今までの経験が無駄にならないように、必要だったと思えるようにと。

「もう少し大人になってみるよ。真面目に生きてたら、報われるかもしれないから。それと、あんたはクズなんかじゃない。俺が言っても説得力はないけど」

「ありがとう」

「じゃあ、もう行くわ」

「バイバイ」

 樹は金山に背を向けて歩き出す。
 村内を殴った理由がはっきりと分かった。
 ムカついたということもあるが、野球選手を目指していた自分と重ねていたからだ。
 あの日に捨てた想いが、また咲いたように思えた。
 本音を言えば諦めたくはなかったが、諦めてしまった方が楽だった。
 夢に背を向けたのは、笑われたり、馬鹿にされたりしたからじゃない。
 実力が伴わなかったことを受け入れられなかったからだ。
 高い所を目指せば、必ず現実を見なければならない。
 そこに向き合うことが怖かった。
 社会のせいだと思えば、頑張らなくていい。
 底辺にいれば自分と同じような人間がいるから安心できるし、今のままでもいいと言い聞かせることができた。
 だが金山と出会い、自分の本心に気づけた。
 直向きに夢を目指しながら生きていた少年時代。
 もう一度あの頃と同じように、懸命に何かに取り組もうと思った。
 好きだった自分を取り戻すために。
 樹は心の中で誓いを立てたが、それはすぐに崩れていくことになる。 


次のエピソードへ進む 七話 社会不適合者


みんなのリアクション

「ムカついたからって暴力はダメですよ。もっと大人になってください」
 待合室で派遣会社の社員に説教されていた。
 今はまだ作業中のため、広い空間には二人しかいない。
 周りの証言などもあり、樹が手を出した理由に理解は示してくれていたが、それでも怒られた。
 取引先に対し迷惑をかけたことや、他の派遣会社の人間とトラブルになったことは、会社としては看過できないだろう。
 樹もそれは分かっていたが、どこか解せない。
「殴られても仕方ない人間でも?」
 どんなことがあっても力で解決してはいけない。
 それが社会のルールだ。
 だが村内のような人間に話し合いなど意味がない。
 痛みがなければ、人の醜悪さは治らないのだから。
「根本さんは責任を負わなくていいからそんなことが言えるんですよ。社会に出れば、ムカついても我慢しなくちゃいけない。誰でも知ってる常識ですよ。派遣が問題を起こしたら責任を取るのは誰ですか? その後の処理をするのは誰ですか? 全部人任せでしょ? 人を簡単に殴れるのは無責任だからです。何かあったら僕らに言うべきなんですよ。報連相って知ってますか?」
 樹は机の下の拳を握った。
 正論かもしれないが、見下したような口調に腹が立った。
 目の前の社会人の言うことに理解はできるが、正しいと認めたくない。
 自分の行いが間違いだとも思っていない。
 樹は社会の不条理さを受け入れることができなかった。
「村内さんも派遣の女の子にちょっかい出したりして、問題視はされてたんですよ。いずれトラブルが起こるとは思ってたんですけど、まさかうちとはね」
 社員は大きくため息を吐いた。
 わざとらしいそれに、樹は苛立ちを覚える。
「村内さん、相当怒ってましたよ」 
 倉庫の管理者である男性が来て、社員の隣に腰を下ろした。
「なんて言ってました?」
「初めは訴えるとか言ってたんですが、なんとか宥めました。村内さんにも非があるんで」
「ありがとうございます。うちの派遣がご迷惑お掛けして申し訳ありませんでした」
「いえ」
 “うちの派遣”という言葉が気に食わなかった。
 そこには“こんなどうしようもない人間”という意味が込められているように感じたから。
「根本さん、腹が立ったのは理解できますけど、手を出すのはダメです。何かあったら僕らに言ってください。今回みたいなことになるので」
 同じようなことを再度言われた。
 社会の常識が息苦しく感じる。
「村内は金山さんを馬鹿にしました。あの人はミスは多いけど、仕事に対しては懸命に取り組んでます。真面目に生きようとする人間の居場所を奪おうとする奴は、殴られても仕方ない。俺は後悔してないし、また同じことがあったら殴ります」
「話し聞いてた? それをすんなって言ってるの。さっきも言ったけど、責任とるのは僕たちなの。君を派遣してる立場だから。もし同じことをするって言うなら、もううちでは扱えない」
 樹は目つきを鋭くさせて社員を睨んだ。
 言葉では納得しないと思っていた。社会に迎合した人間は常識だけで人を測ろうとするからだ。
 他者の尊厳を踏み躙る行為は、殴られても仕方のないこと。
 樹は自分の行為を、悔い改めることなどできなかった。
「君さ、何をしたか分かってるの? 色んな人に迷惑をかけたのに、よくそんな態度とれるね。人を殴ったらいけないの。そんなことも分からない? せめて頭くらい下げたら。本当に常識がないね。そんなんだから派遣なんだよ」
 樹は感情を抑えきれず、社員の胸ぐらを掴んだ。
「ちょっと、落ち着いて」
 管理者が手を解こうとするが、樹は一層力を込めてスーツの襟を握る。
「常識なんて知ったこっちゃねえ。社会のルールより大切なもんがあるだよ。それを守るためなら、俺は迷わず力を振るう」
「根本さん!」
 管理者が大声を上げると、樹は突き放すように手を離した。
 どちらが正しいかなど、もうどうでもいい。
 見下されたことで、理性よりも感情に支配権が移っていた。
「すぐに暴力を使う人間なんて、どこに行っても使い物にならない。君は社会不適合者だ。この意味が分かる? 役に立たないクズってこと」
 樹の怒りが沸点を超える。
 表情にも出てたのだろう、社員の顔に怯えが見えた。
「また殴るの? 僕は警察に言うよ。捕まるけどいいの?」
 腐ってる。
 世の中の人間全部。
 捕まっても構わない。
 刑務所の方が俺には生きやすい。
 樹が拳を握った瞬間、待合室に大勢の人間が入ってきた。
「今日は発送が順調だから、時間調整で休憩にしたんです」
 管理者の言葉の後、樹は拳を解いた。
「根本さん、今日はもう上がってください。次回があるかはわかりませんが、もし来るなら今日のようなことは控えてほしいです。殴った理由は理解できますけど、手を出したとなると話は別です」
 管理者の冷静な言葉に、樹の怒りが徐々に冷めていく。
「もうここには来ないです」
 樹はそう言い残して、待合室を出て行った。
 外に出ると、澄んだ空が視界を染めてきた。
 社会の底辺を見窄らしく映す青は、今の樹からしたら鬱陶しい。
「根本くん」
 駅まで歩いて向かおうとすると、後ろから声が聞こえた。
 振り向くと、倉庫の入り口から金山が走ってくる。
「ごめん、僕のせいで」
 数十メートルほど走っただけなのに、金山は息を切らしている。
「俺が勝手にキレて殴っただけだから、気にしなくていいよ」
「これから、どうするの?」
「ここにはもう来ない。ていうか、来れない」
 金山は何か言いたげな顔をしていたため、樹は言葉を待った。
 沈黙の隙間を埋める空間には、どこか切なさが混じっている。
 きっともう会うことはないだろう。
 これが最後になるだろう。
 お互いにそう思っているのが空気感に滲んでいた。
「僕は失敗するたびに逃げ続けてきた。ここは居場所じゃない、もっと合ってる場所があるんだって言い聞かせながら。だから評価が下がると、すぐに次を探した。失ったものは取り返せないと思ってたから。でも、そんなことを繰り返してたら一生成長はできない。言い訳ばかりの人生だったけど、やっと自分に必要なものに気づけた。若い頃の失敗はきっと財産になる。僕はそれを放棄し続けてきたけど、根本くんはまだ間に合う。社会に出れば嫌なことも、許せないこともたくさんあるけど、力で解決しようとしてはいけない。それは、自分で自分を苦しめることになるから。僕が偉そうに言える立場ではないけど、今の自分と向き合えるかで、この先の道が変わってくると思うんだ」
 もし夢を追い続けていたら、こんな生き方はしていなかったかもしれない。
 頭の片隅にそんな考えもあったが、真っ直ぐ生きていた自分を卑下することで打ち消した。取り戻せない日々に後悔したくないから。
 今はレールから外れ、多くの人が歩いている道に樹はいない。
 自身でもそれを分かっているし、もう戻れないとも思っている。
 金山も人生を諦めていた。
 だが祖母の言葉で変わろうと決意した。
 差し出してきた言葉の行間には、色んな想いが込められているのだろう。
 生き方を変えなければ、一生影の中を歩くことになる。
 金山が伝えようとしていることを、樹はそう受け取った。
「正直、どう生きていいか分からない。俺みたいな社会の底辺が、他の奴らと同じようになれるとは思えないから。真面目に頑張ったって、周りにいる人間が認めなければ意味がないし、笑われるくらいなら今のままでもいい。諦めた方が都合がいいんだよ。真っ直ぐ歩くことなんて、できやしないんだから」
 舐められたくないという気持ちが強すぎて、社会の常識に従うことができなかった。
 その結果、人間関係で仕事が続かず、生活に困って借金をした。
 膨れ上がる利息よりも、止められた電気よりも、プライドが勝り、誰にも理解されない生き方を選んでいる。
 馬鹿なことだと分かっているが、社会というものに迎合するには、自分が嫌悪する人間たちと同じ生き方をする必要がある。
 理不尽なことも受け入れ、下げたくもない頭を下げて、卑俗な人間の奴隷にならなければ、この世の中では受け入れてもらえない。
 真面目に生きても損をするだけだ。
 樹は世間の言う、普通に生きるという行為に抵抗があった。
「真面目な人が報われるかは分からない。でも、諦めたら報われることはない。周りの人から馬鹿にされようが、恥を掻いて笑われようが、僕はもう逃げない。人は変われるってことを、役立たずのクズが証明してみせる」
 金山の目には覚悟が宿っていた。
 何度も心を折ったはずなのに、今も傷だらけのはずなのに、目の前の人間はそれでも意志という剣を握った。
 他の人間に言われても、きっと何も感じなかったばずだ。
 社会的弱者である金山だからこそ、樹の心を揺るがした。
「俺も変われると思うか?」
「絶対に変われる。僕が言っても説得力はないけど」
 金山は自分に言い聞かせるように言った。
 今までの経験が無駄にならないように、必要だったと思えるようにと。
「もう少し大人になってみるよ。真面目に生きてたら、報われるかもしれないから。それと、あんたはクズなんかじゃない。俺が言っても説得力はないけど」
「ありがとう」
「じゃあ、もう行くわ」
「バイバイ」
 樹は金山に背を向けて歩き出す。
 村内を殴った理由がはっきりと分かった。
 ムカついたということもあるが、野球選手を目指していた自分と重ねていたからだ。
 あの日に捨てた想いが、また咲いたように思えた。
 本音を言えば諦めたくはなかったが、諦めてしまった方が楽だった。
 夢に背を向けたのは、笑われたり、馬鹿にされたりしたからじゃない。
 実力が伴わなかったことを受け入れられなかったからだ。
 高い所を目指せば、必ず現実を見なければならない。
 そこに向き合うことが怖かった。
 社会のせいだと思えば、頑張らなくていい。
 底辺にいれば自分と同じような人間がいるから安心できるし、今のままでもいいと言い聞かせることができた。
 だが金山と出会い、自分の本心に気づけた。
 直向きに夢を目指しながら生きていた少年時代。
 もう一度あの頃と同じように、懸命に何かに取り組もうと思った。
 好きだった自分を取り戻すために。
 樹は心の中で誓いを立てたが、それはすぐに崩れていくことになる。