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最強のライバルにして、最愛の人

ー/ー



 あれから、もうしばらく月日が経った。

 相変わらず高世アイが無敗のまま伝説を作り続けている傍らで、深井ショウは無敗とまではいかないにしても善戦と辛勝を重ね、名前が認知される程度にまで至った。

 お互いのことは相対することはなくとも、テレビ中継でもネットニュースでも知ることはできた。
 ローカルニュースでは二人の活躍を比較する特番も開かれたくらいだ。

 デビュー時は二歳馬だったショウも今は三歳馬。
 世間の期待に応えるかのように、菊花賞の舞台にまで上り詰めた。それは優れた三歳馬が集うグレードレースであり、クラシック三冠の一つでもある。

 いつもとは一段と違う大舞台。観客席も息をのむ緊迫感に包まれる。

 ゲートの中、整列するのはショウと同じ三歳馬。多くの戦いを潜り抜けてきた猛者たちだ。サラブレッド・プロジェクトに所属しながらアイドル業にも片足を踏み入れている選手もいる。

 競走馬一本だけで人気の維持は難しいのが実情なのだろう。そんな中でも、ショウは泥臭くも走り続けることだけでここにいる。

 このグレードレースにはその名の通りランクがある。そして、これから始まるのは通称G1と呼ばれる高額の賞金や名声が得られるトップランカーのためのレースだ。

(これで優勝したら……)

 呼吸を整え、興奮を抑え、それでもどうにもならない感情が奔流する。



――――ガチャン。



 鉄柵が開いた瞬間、ショウの目の前は一瞬にして真っ白になった――。

 ※ ※ ※

 ※ ※

 ※

 自宅のマンションの一室で、タブレットを片手にニュースを眺めていたのはアイだった。一文字一文字を見落とすまいと目でなぞる。

『【SP躍進】深井ショウ、菊花賞G1優勝』

 フッと笑みをこぼし、アイはさらにフリック操作で次の画面を送る。

『【無敗クイーン引退】高世アイ、有馬記念で電撃引退!?』

 画面に映し出される写真は、アイの記憶に新しい。レース直後、ファンや観客が押し寄せる中、引退すると言い放った、その光景だ。騒然という言葉が相応しい。

 悲鳴にも近い声が飛び交っていたのは未だに耳に残っている。あれからサラブレッド・プロジェクト事務所の方にも鬼電がひっきりなしに飛んできたらしい。

 引退することは前々から決めていたことで、関係者の多くも周知していたが、タイミングまでは予想外だったようで、マネージャーからもトレーナーからもその場で慌てふためくほどの大騒動。

 今見ているニュースサイトのコメント欄も酷いものだ。ファンなのかアンチなのかも分からない連中が賑わっている。

 サラブレッド・プロジェクトの存在を知らないどころか、高世アイをポッと出のアイドルと勘違いしているにわかまで対立煽りしている。

「くだらない……こんなものなのね」

 自分がこれまで何をしてきたのか。その結果がこれなのかと思うと、アイは虚無な気持ちになる。そうして無気力にタブレットをフリックして、ニュースを戻す。

『深井ショウ、有馬記念に出場決定』

 そこで、また少しフゥと笑みをこぼし、表情に色がつく。

 奇しくも、引退を決めたアイの最後のレースには、あの深井ショウも参戦する。
 向こうは三歳馬の牡。アイは四歳馬の牝。これまで縁の遠い二人だったが、どうやら最初で最後の対決をすることになったらしい。

 ふと、スマートフォンが震えだす。見てみるとマネージャーからだった。

 また怒られるのだろうか。
 そんなことを思いながらもアイはスマートフォンを手にとり、通話ボタンを押す。

『アイ、今時間は大丈夫か?』
「ええ、そろそろ寝ようと思っていたところ」

 電話の内容は要約すると、例の引退騒動が思いのほか反響が大きく、多方面に支障が出かねない状態になってしまっているということ。だから少しでも騒動を鎮静化させるために有馬記念の前日に公式の記者会見を開くことになったとのことだ。

 正直、アイとしては面倒なことこの上なかったが、既に殺害予告といった悪質なものも事務所や競馬場に届いているらしく、警察も動き始めているとのことだ。

 かといって有馬記念を中止にするわけにもいかない。焼け石に水かもしれないが苦肉の策だった。アイも承諾しないわけにもいかない。

「分かったわ。自分の蒔いた種ですから……ええ、ごめんなさい」

 説教臭い言葉も交えられつつ、釘を刺されるような言葉も交えられつつ、マネージャーとの通話も終わり、スマートフォンを下すと同時に、アイは脱力してしまった。

 ※ ※ ※

 刺されるような視線と、焼かれるようなフラッシュの中、高世アイは記者会見の場に立たされていた。何よりも不快だったのは、アイドル業の引退として取り上げられているらしく、競走馬としての認知度があまりに浸透していなかったことだ。

 記者も競馬界を知らない者も多く、ただただ物珍しさだけで駆けつけてきたような連中ばかりで質問の一つにしても中身のないものばかり。

 きっと何か面白いスキャンダルネタがあるに違いないとばかりに深読みした気色悪い言葉を投げかけられてすっかりウンザリした気分だった。

 アイはこれまで自分のことをアスリートのように思っていた。そのための努力もしてきたつもりだし、無敗クイーンの称号も獲得した。

 サラブレッド・プロジェクトの広告塔としての顔もあるが、それは本業ではない。

 別に歌を歌ってるわけでもなく、ダンスを踊っているわけでもない。だが、今日の会見で改めて自分が世間にどれだけ認知されていないのかを思い知った。

 競走馬としての自分も決して人気があるとは言えない。それは引退することを決めた自分が一番よく分かっていることだ。

 鬱陶しいほど長かった記者会見も終え、何処の新聞社かも分からない有象無象たちも解散していった後、アイは控室で休憩していた。

 様々な感情に苛まれる中、どうしてだか、アイの頭の片隅に深井ショウの顔が浮かんできていた。

 だからだろうか。
 アイはスマートフォンを手に取り、アドレス帳から久しい名前を探った。

 ※ ※ ※

 しばらくして、アイのマンションの玄関前にショウの姿があった。血相を変えた様子で、汗も滲んでいた。どうして自分がここにいるのか分からないといった表情。

「アイ、急に呼び出しなんて」
「久しぶりに顔見たくなったから」
「ああ、うん。えっと記者会見見たよ。なんか、その気にしない方がいいというか」

 アイの様子が不機嫌そうな理由は大体察せた。ショウもあのいい加減な記者会見の様子をネット中継で見ていたからだ。

 ほとんどがアイドルの引退を取り上げるような内容で、ショウも見ていて気持ちよくはなかったのだろう。

 確かにサラブレッド・プロジェクトには競走馬としての顔もアイドルとしての顔も持つ者もいるが、アイは前者。無論、広告塔としての顔も持っていてアイドルまがいなこともしているが、あくまで本業は競走馬のみ。

「……いいから入ってよ」
「お、おじゃまします」

 言葉を打ち切るようにアイが促す。ショウもそれに従うしかなかった。

 アイとショウは幼馴染だったが、競走馬になってからは会うこともなく、ましてや家に行くこともなかった。マンションに引っ越してからは初だ。

 室内はトレーニングルーム張りに整った設備があり、それだけでどれくらい金が掛かっているのか一目瞭然だった。一際大きい部屋まで案内されると、ショウはまた唖然としてしまう。床が一面が張り替えられ、まるで簡易な馬屋のようになっている。

 そんなショウをよそにアイは部屋の中に設けられていた冷蔵庫から何やらボトルを取り出す。それはショウもよく知っているもの。
 競走馬に変身するための薬だ。

「ねえ、ショウ。私が馬になる姿を見てほしいの」

 返事をするよりも早く、アイはその薬を軽く口にする。
 すぐさま上着を脱ぎ捨て、下着も下ろし、四つん這いになると大きく息を吐く。

 全裸となった一人の女性が、風船のように膨張していく。
 皮膚の表面が色濃くなっていき、ミチミチと筋肉が破裂しそうなくらいに大きく、そしてしなやかに形を整えていく。

 腕も脚も粘土細工のように骨格ごとゴキゴキと捻じれんばかりに変形し、立ち上がるような姿になる。
 ショウは進化の過程を倍速再生で目の当たりにしているかのような気分だった。

 女だったソレは肉塊の風船に化け、瞬きをする間もなく大きな栗毛の馬がそこに立っていた。
 天井から見下ろすみたいに、凛とした表情にはアイの確かな面影が残っていた。

 しばらくまるで野生の馬のように部屋の中を何歩か歩き回り、やがて栗毛の馬はうずくまる様に床の上に足をたたんでいく。

 あたかもポニーのように小さく小さく縮んでいき、気付いた時には生まれたままの姿の高世アイが横たわっていた。
 服を着ることもなく、そのまますくりと立ち上がり、アイは真っすぐショウを見ながら真剣な眼差しで口を開く。

「私ね、昔は馬になることに憧れてたの。速く走れるのが嬉しかったから。馬になれることを誰よりも喜んでいたと思うわ」

 涙をにじませながら、アイは言葉を続ける。

「でもね、競走馬になってからの私は嫌いなの。誰よりも速く走れても、まるで化け物扱い。ランナーとしては高世アイは見世物小屋の珍獣に堕ちた。少なくとも私はそう思ったわ」
「そんなこと……」

 目のやり場にも困りながら、ショウはアイから目を離すことなく言葉を返す。

「勝っても勝っても純粋な声援をもらえないことに、もう疲れたの」

 それはアイの悲痛の訴えだった。

「競走馬になってからのアイに何があったのかは正直知らない。知らないけど、俺はずっと応援してた。正直ずっと遠い世界に行ってしまったと思ってたから……その距離を離していたかもしれないけど……」

 ふん、と鼻息を一つ。ショウは目を離すまいとアイの肩を抱く。

「もうこれ以上距離を離したくはない。俺は今度の有馬記念、全力でアイに勝って見せるよ。だって、馬として走るアイの姿、とても美しかったから。そんなアイに感動していたんだから、ずっと、ずっとずっと追いつきたいと思っていたんだから」

 ショウは今度こそアイを両腕でギュッと抱きしめる。

「俺は、誰よりも速い、アイのことが昔から好きだったんだ」

 そこで、アイは初めて涙を流す。そして、ショウを抱き返した。

「言葉だけだったら、どうとでも言えるわ。その言葉、本気にしてもいいの?」
「――もちろん」

 アイの心の奥底に凍り付いていたものが一気に溶けていくのを感じていた。
 馬としての自分は何処までも嫌われていると思っていたから、ショウの言葉はその全てを破壊した。

 こんな自分を好きでいてくれる人がいることに、何よりも温かみを感じていた。
 誰にも愛されない、誰からも嫌われる、ただ一頭の馬だった自分を、後ろから追いかけてきていた存在。

 いつの頃から意識していたのか、もはや自分でも分からない。
 ただ、今こうして抱きしめているだけで愛おしくて愛おしくて、どうしようもなかった。

 どうして自分はショウを呼び出して、馬になる様を見せたのだろう。そんな疑問も瓦解した。馬としての自分も見ていてほしかったからだ。

 二人にとってその日の夜は、長かった。

 ※ ※ ※

 翌日のこと、有馬記念が開催される競馬場は、いつも以上に厳重な警戒態勢がしかれていた。昨日の今日のこともあり、騒動のことを配慮してのことだろう。

 実際のところ、観客席も良くも悪くもざわめいた空気をまとっており、一言では言い表せないくらいに混沌としていた。

 そんな状況も遠くの出来事かのように、ゲートの中にはサラブレッド・プロジェクトに選出された強豪たちが静かにスタートのときを待っていた。

 まるで刺すように凍てつく風を浴びる中、そのときが訪れる。


――ガチャン。


 刹那、柵の開く金属音が鳴り響いた。

 軍隊の行進を早回しにしたかのような轟音とともに馬の列が飛び出していく。
 その中で二頭がスタートダッシュから頭を突き出していた。

 誰もが呆れかえるほどに唖然としてしまう。
 その二頭とはショウとアイだったから。

 勝負の最初から全力だった。こんな悪手なことはない。もはやマッチレースだ。

 すぐバテて落ちてしまうだろう。有馬記念という最高のレースでそんなつまらない結末が待っていると思うと失望しかない。

 観客席、いやその中継を眺めていた全ての者がそう思っていた。だが、どれだけいっても二頭の距離は詰まらない。むしろ後続が何処までいっても離されていく。

 コーナーを回りきったところで、歓声が響き渡った。
 まさか、このままゴールまで走りきるのか。その確信を抱けたからだ。

 ショウとアイ。どちらも競走馬としては名を馳せてきた名馬。
 しかし、無敗クイーンと名高い彼女に並ぶ馬がいることに驚きを隠せない。

 一馬身差、ショウが突き出し、観客はショウの勝利を確信する。

 それまで騒動のこともあり、もやもやとした空気に満ちていた競馬場だったが、そんなものは熱気に全て吹き飛ばされた。



「「「うおおおおおおおおおおぉぉぉぉっっっ!!!!」」」



 最後の直線。並ぶショウとアイ。歓声が全てをかき消す空間の中、一秒一秒が長く感じられた。

 泥臭くも勝利をもぎとってきたショウ。
 無敗クイーンとして勝ち続けてきたアイ。
 最初で最後の直接対決の行方に誰もが息をのんだ。

 そんなときだ。

 ショウの脳裏に、アイの表情が明々と見えた。
 勝利を確信した、最高の笑みだ。

 そのとき、ショウは自分がアイの背中を見ていることに気付いてしまった。
 並んでいたはずなのに、いつの間にか距離が離されている。どれだけ足掻いても詰められない。

 ゴール板をすれ違う。

 終わってみれば、あまりにもあっけない結果だった。
 ショウはアイの背中を追いかけて、そのまま勝ち逃げされてしまったのだ。

 大番狂わせでも何でもない。圧倒的な大差をつけられ、無敗クイーンは逃げ切った。
 観客席がその一瞬、ヒューズが飛んだみたいに止まる。
 そうしてその直後、怒号と罵声が一気に押し寄せてきた。

 してやったりとアイは満足げに引退を決意した。

 ※ ※ ※

 ※ ※

 ※

 サラブレッド・プロジェクトからの正式な引退が決定し、多くから批難される声を浴びせられながらも、アイは競走馬から身を引くこととなった。

 未だ様々な憶測が飛び交う中、アイはマンションの一室で腰を下ろしていた。
 穏やかな心持ちで優しくおなかを撫でる。
 アイのおなかは大きくなっており、そこには新しい命が宿っていた。

 あれからすぐのこと、競馬界から引退したアイはショウと結婚し、今に至る。
 現役のときには考えたこともなかった、至福のひと時を噛みしめるように、タブレットに映り込む、俊足の鹿毛の姿を追いながら、アイは微笑んでいた。




みんなのリアクション

 あれから、もうしばらく月日が経った。
 相変わらず高世アイが無敗のまま伝説を作り続けている傍らで、深井ショウは無敗とまではいかないにしても善戦と辛勝を重ね、名前が認知される程度にまで至った。
 お互いのことは相対することはなくとも、テレビ中継でもネットニュースでも知ることはできた。
 ローカルニュースでは二人の活躍を比較する特番も開かれたくらいだ。
 デビュー時は二歳馬だったショウも今は三歳馬。
 世間の期待に応えるかのように、菊花賞の舞台にまで上り詰めた。それは優れた三歳馬が集うグレードレースであり、クラシック三冠の一つでもある。
 いつもとは一段と違う大舞台。観客席も息をのむ緊迫感に包まれる。
 ゲートの中、整列するのはショウと同じ三歳馬。多くの戦いを潜り抜けてきた猛者たちだ。サラブレッド・プロジェクトに所属しながらアイドル業にも片足を踏み入れている選手もいる。
 競走馬一本だけで人気の維持は難しいのが実情なのだろう。そんな中でも、ショウは泥臭くも走り続けることだけでここにいる。
 このグレードレースにはその名の通りランクがある。そして、これから始まるのは通称G1と呼ばれる高額の賞金や名声が得られるトップランカーのためのレースだ。
(これで優勝したら……)
 呼吸を整え、興奮を抑え、それでもどうにもならない感情が奔流する。
――――ガチャン。
 鉄柵が開いた瞬間、ショウの目の前は一瞬にして真っ白になった――。
 ※ ※ ※
 ※ ※
 ※
 自宅のマンションの一室で、タブレットを片手にニュースを眺めていたのはアイだった。一文字一文字を見落とすまいと目でなぞる。
『【SP躍進】深井ショウ、菊花賞G1優勝』
 フッと笑みをこぼし、アイはさらにフリック操作で次の画面を送る。
『【無敗クイーン引退】高世アイ、有馬記念で電撃引退!?』
 画面に映し出される写真は、アイの記憶に新しい。レース直後、ファンや観客が押し寄せる中、引退すると言い放った、その光景だ。騒然という言葉が相応しい。
 悲鳴にも近い声が飛び交っていたのは未だに耳に残っている。あれからサラブレッド・プロジェクト事務所の方にも鬼電がひっきりなしに飛んできたらしい。
 引退することは前々から決めていたことで、関係者の多くも周知していたが、タイミングまでは予想外だったようで、マネージャーからもトレーナーからもその場で慌てふためくほどの大騒動。
 今見ているニュースサイトのコメント欄も酷いものだ。ファンなのかアンチなのかも分からない連中が賑わっている。
 サラブレッド・プロジェクトの存在を知らないどころか、高世アイをポッと出のアイドルと勘違いしているにわかまで対立煽りしている。
「くだらない……こんなものなのね」
 自分がこれまで何をしてきたのか。その結果がこれなのかと思うと、アイは虚無な気持ちになる。そうして無気力にタブレットをフリックして、ニュースを戻す。
『深井ショウ、有馬記念に出場決定』
 そこで、また少しフゥと笑みをこぼし、表情に色がつく。
 奇しくも、引退を決めたアイの最後のレースには、あの深井ショウも参戦する。
 向こうは三歳馬の牡。アイは四歳馬の牝。これまで縁の遠い二人だったが、どうやら最初で最後の対決をすることになったらしい。
 ふと、スマートフォンが震えだす。見てみるとマネージャーからだった。
 また怒られるのだろうか。
 そんなことを思いながらもアイはスマートフォンを手にとり、通話ボタンを押す。
『アイ、今時間は大丈夫か?』
「ええ、そろそろ寝ようと思っていたところ」
 電話の内容は要約すると、例の引退騒動が思いのほか反響が大きく、多方面に支障が出かねない状態になってしまっているということ。だから少しでも騒動を鎮静化させるために有馬記念の前日に公式の記者会見を開くことになったとのことだ。
 正直、アイとしては面倒なことこの上なかったが、既に殺害予告といった悪質なものも事務所や競馬場に届いているらしく、警察も動き始めているとのことだ。
 かといって有馬記念を中止にするわけにもいかない。焼け石に水かもしれないが苦肉の策だった。アイも承諾しないわけにもいかない。
「分かったわ。自分の蒔いた種ですから……ええ、ごめんなさい」
 説教臭い言葉も交えられつつ、釘を刺されるような言葉も交えられつつ、マネージャーとの通話も終わり、スマートフォンを下すと同時に、アイは脱力してしまった。
 ※ ※ ※
 刺されるような視線と、焼かれるようなフラッシュの中、高世アイは記者会見の場に立たされていた。何よりも不快だったのは、アイドル業の引退として取り上げられているらしく、競走馬としての認知度があまりに浸透していなかったことだ。
 記者も競馬界を知らない者も多く、ただただ物珍しさだけで駆けつけてきたような連中ばかりで質問の一つにしても中身のないものばかり。
 きっと何か面白いスキャンダルネタがあるに違いないとばかりに深読みした気色悪い言葉を投げかけられてすっかりウンザリした気分だった。
 アイはこれまで自分のことをアスリートのように思っていた。そのための努力もしてきたつもりだし、無敗クイーンの称号も獲得した。
 サラブレッド・プロジェクトの広告塔としての顔もあるが、それは本業ではない。
 別に歌を歌ってるわけでもなく、ダンスを踊っているわけでもない。だが、今日の会見で改めて自分が世間にどれだけ認知されていないのかを思い知った。
 競走馬としての自分も決して人気があるとは言えない。それは引退することを決めた自分が一番よく分かっていることだ。
 鬱陶しいほど長かった記者会見も終え、何処の新聞社かも分からない有象無象たちも解散していった後、アイは控室で休憩していた。
 様々な感情に苛まれる中、どうしてだか、アイの頭の片隅に深井ショウの顔が浮かんできていた。
 だからだろうか。
 アイはスマートフォンを手に取り、アドレス帳から久しい名前を探った。
 ※ ※ ※
 しばらくして、アイのマンションの玄関前にショウの姿があった。血相を変えた様子で、汗も滲んでいた。どうして自分がここにいるのか分からないといった表情。
「アイ、急に呼び出しなんて」
「久しぶりに顔見たくなったから」
「ああ、うん。えっと記者会見見たよ。なんか、その気にしない方がいいというか」
 アイの様子が不機嫌そうな理由は大体察せた。ショウもあのいい加減な記者会見の様子をネット中継で見ていたからだ。
 ほとんどがアイドルの引退を取り上げるような内容で、ショウも見ていて気持ちよくはなかったのだろう。
 確かにサラブレッド・プロジェクトには競走馬としての顔もアイドルとしての顔も持つ者もいるが、アイは前者。無論、広告塔としての顔も持っていてアイドルまがいなこともしているが、あくまで本業は競走馬のみ。
「……いいから入ってよ」
「お、おじゃまします」
 言葉を打ち切るようにアイが促す。ショウもそれに従うしかなかった。
 アイとショウは幼馴染だったが、競走馬になってからは会うこともなく、ましてや家に行くこともなかった。マンションに引っ越してからは初だ。
 室内はトレーニングルーム張りに整った設備があり、それだけでどれくらい金が掛かっているのか一目瞭然だった。一際大きい部屋まで案内されると、ショウはまた唖然としてしまう。床が一面が張り替えられ、まるで簡易な馬屋のようになっている。
 そんなショウをよそにアイは部屋の中に設けられていた冷蔵庫から何やらボトルを取り出す。それはショウもよく知っているもの。
 競走馬に変身するための薬だ。
「ねえ、ショウ。私が馬になる姿を見てほしいの」
 返事をするよりも早く、アイはその薬を軽く口にする。
 すぐさま上着を脱ぎ捨て、下着も下ろし、四つん這いになると大きく息を吐く。
 全裸となった一人の女性が、風船のように膨張していく。
 皮膚の表面が色濃くなっていき、ミチミチと筋肉が破裂しそうなくらいに大きく、そしてしなやかに形を整えていく。
 腕も脚も粘土細工のように骨格ごとゴキゴキと捻じれんばかりに変形し、立ち上がるような姿になる。
 ショウは進化の過程を倍速再生で目の当たりにしているかのような気分だった。
 女だったソレは肉塊の風船に化け、瞬きをする間もなく大きな栗毛の馬がそこに立っていた。
 天井から見下ろすみたいに、凛とした表情にはアイの確かな面影が残っていた。
 しばらくまるで野生の馬のように部屋の中を何歩か歩き回り、やがて栗毛の馬はうずくまる様に床の上に足をたたんでいく。
 あたかもポニーのように小さく小さく縮んでいき、気付いた時には生まれたままの姿の高世アイが横たわっていた。
 服を着ることもなく、そのまますくりと立ち上がり、アイは真っすぐショウを見ながら真剣な眼差しで口を開く。
「私ね、昔は馬になることに憧れてたの。速く走れるのが嬉しかったから。馬になれることを誰よりも喜んでいたと思うわ」
 涙をにじませながら、アイは言葉を続ける。
「でもね、競走馬になってからの私は嫌いなの。誰よりも速く走れても、まるで化け物扱い。ランナーとしては高世アイは見世物小屋の珍獣に堕ちた。少なくとも私はそう思ったわ」
「そんなこと……」
 目のやり場にも困りながら、ショウはアイから目を離すことなく言葉を返す。
「勝っても勝っても純粋な声援をもらえないことに、もう疲れたの」
 それはアイの悲痛の訴えだった。
「競走馬になってからのアイに何があったのかは正直知らない。知らないけど、俺はずっと応援してた。正直ずっと遠い世界に行ってしまったと思ってたから……その距離を離していたかもしれないけど……」
 ふん、と鼻息を一つ。ショウは目を離すまいとアイの肩を抱く。
「もうこれ以上距離を離したくはない。俺は今度の有馬記念、全力でアイに勝って見せるよ。だって、馬として走るアイの姿、とても美しかったから。そんなアイに感動していたんだから、ずっと、ずっとずっと追いつきたいと思っていたんだから」
 ショウは今度こそアイを両腕でギュッと抱きしめる。
「俺は、誰よりも速い、アイのことが昔から好きだったんだ」
 そこで、アイは初めて涙を流す。そして、ショウを抱き返した。
「言葉だけだったら、どうとでも言えるわ。その言葉、本気にしてもいいの?」
「――もちろん」
 アイの心の奥底に凍り付いていたものが一気に溶けていくのを感じていた。
 馬としての自分は何処までも嫌われていると思っていたから、ショウの言葉はその全てを破壊した。
 こんな自分を好きでいてくれる人がいることに、何よりも温かみを感じていた。
 誰にも愛されない、誰からも嫌われる、ただ一頭の馬だった自分を、後ろから追いかけてきていた存在。
 いつの頃から意識していたのか、もはや自分でも分からない。
 ただ、今こうして抱きしめているだけで愛おしくて愛おしくて、どうしようもなかった。
 どうして自分はショウを呼び出して、馬になる様を見せたのだろう。そんな疑問も瓦解した。馬としての自分も見ていてほしかったからだ。
 二人にとってその日の夜は、長かった。
 ※ ※ ※
 翌日のこと、有馬記念が開催される競馬場は、いつも以上に厳重な警戒態勢がしかれていた。昨日の今日のこともあり、騒動のことを配慮してのことだろう。
 実際のところ、観客席も良くも悪くもざわめいた空気をまとっており、一言では言い表せないくらいに混沌としていた。
 そんな状況も遠くの出来事かのように、ゲートの中にはサラブレッド・プロジェクトに選出された強豪たちが静かにスタートのときを待っていた。
 まるで刺すように凍てつく風を浴びる中、そのときが訪れる。
――ガチャン。
 刹那、柵の開く金属音が鳴り響いた。
 軍隊の行進を早回しにしたかのような轟音とともに馬の列が飛び出していく。
 その中で二頭がスタートダッシュから頭を突き出していた。
 誰もが呆れかえるほどに唖然としてしまう。
 その二頭とはショウとアイだったから。
 勝負の最初から全力だった。こんな悪手なことはない。もはやマッチレースだ。
 すぐバテて落ちてしまうだろう。有馬記念という最高のレースでそんなつまらない結末が待っていると思うと失望しかない。
 観客席、いやその中継を眺めていた全ての者がそう思っていた。だが、どれだけいっても二頭の距離は詰まらない。むしろ後続が何処までいっても離されていく。
 コーナーを回りきったところで、歓声が響き渡った。
 まさか、このままゴールまで走りきるのか。その確信を抱けたからだ。
 ショウとアイ。どちらも競走馬としては名を馳せてきた名馬。
 しかし、無敗クイーンと名高い彼女に並ぶ馬がいることに驚きを隠せない。
 一馬身差、ショウが突き出し、観客はショウの勝利を確信する。
 それまで騒動のこともあり、もやもやとした空気に満ちていた競馬場だったが、そんなものは熱気に全て吹き飛ばされた。
「「「うおおおおおおおおおおぉぉぉぉっっっ!!!!」」」
 最後の直線。並ぶショウとアイ。歓声が全てをかき消す空間の中、一秒一秒が長く感じられた。
 泥臭くも勝利をもぎとってきたショウ。
 無敗クイーンとして勝ち続けてきたアイ。
 最初で最後の直接対決の行方に誰もが息をのんだ。
 そんなときだ。
 ショウの脳裏に、アイの表情が明々と見えた。
 勝利を確信した、最高の笑みだ。
 そのとき、ショウは自分がアイの背中を見ていることに気付いてしまった。
 並んでいたはずなのに、いつの間にか距離が離されている。どれだけ足掻いても詰められない。
 ゴール板をすれ違う。
 終わってみれば、あまりにもあっけない結果だった。
 ショウはアイの背中を追いかけて、そのまま勝ち逃げされてしまったのだ。
 大番狂わせでも何でもない。圧倒的な大差をつけられ、無敗クイーンは逃げ切った。
 観客席がその一瞬、ヒューズが飛んだみたいに止まる。
 そうしてその直後、怒号と罵声が一気に押し寄せてきた。
 してやったりとアイは満足げに引退を決意した。
 ※ ※ ※
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 サラブレッド・プロジェクトからの正式な引退が決定し、多くから批難される声を浴びせられながらも、アイは競走馬から身を引くこととなった。
 未だ様々な憶測が飛び交う中、アイはマンションの一室で腰を下ろしていた。
 穏やかな心持ちで優しくおなかを撫でる。
 アイのおなかは大きくなっており、そこには新しい命が宿っていた。
 あれからすぐのこと、競馬界から引退したアイはショウと結婚し、今に至る。
 現役のときには考えたこともなかった、至福のひと時を噛みしめるように、タブレットに映り込む、俊足の鹿毛の姿を追いながら、アイは微笑んでいた。


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