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憧れとの再会

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 ※ ※ ※

 ※ ※

 ※

 冷たく、張り詰めた空気。熱気という言葉は相応しくない。ただ、もしそんなものがあるとするならば、まだ地の底から震わせるマグマのように沈み込んでいる。

 その場所は競馬場であることには間違いなかった。
 押し寄せる蹄鉄の音が噴火までの秒読みに聞こえるほど、息を吞む静けさ。

 熾烈なつば迫り合いが間近まで迫り、いよいよもって観客席を滾らせた。
 しかし、いやになるほど馬身を伸ばす一頭が先頭を切る。その距離は縮まることがなく、余裕すら感じられた。そうして、各馬たちはゴール板を通過し、勝敗が決する。

『さすが――さすがですね。桜花賞で輝いた一級品。オークスで勝ち抜いた俊足は何処までも衰えない、見事な圧巻。これぞ無敗クイーンの名がふさわしい――』

 実況は熱く語る。ただ熱意が薄く感じる。あたかも、勝って当然であり、必然であるかのようで、新鮮味のなさを吐露しているみたいだった。

 観客席も「またか」「やっぱりな」という言葉が自然と漏れ出してくるほど。

 よく言えば安心と信頼、悪く言えば変化がなく飽きにも近い感情がその栗毛の馬に対して浴びせられていた。当然そんなあからさまな空気を察せないはずもない。

 その牝馬の蹄の踏みしめた芝は、不満の形を刻印するかの如く潰されていた。

 ※ ※ ※

 ガヤガヤと賑やかな控室の中、一人の女性――高世アイがため息をつく。
 汗ばむ体をタオルで拭い、脳裏を過ぎる不快な記憶を振り払う。

 アイは、今日のレースで圧勝して見せたあの栗毛の馬だった。戦績は無配の記録を持ち、勝利を約束された名馬として名を馳せている。

 評判であることには間違いないが、一獲千金を当てる競走馬としての人気は皆無に等しく、耳をすませばいつでも悪辣な言葉が入ってきてしまう。

 そんな現状を、アイは酷く憂えていた。
 どうして自分の実力を存分に発揮しているのに、こんな扱いなのか。

 周囲の牝馬――ライバルたちはアイの実力に嫉妬してか、近寄ろうともしない。
 今日の戦いはお互い同士が善戦し、それで十分といった調子。アイのことなどもう眼中にはない様子だ。
 ふと目に映るポスターがアイをますます不快にさせる。

 それは自分の輝かしい勝利を大きく映した広告ポスター。いかにもな飾り立てたキャッチコピーで煽られる勇ましいその姿は、皮肉にもアイの心を一層傷つけた。

 競馬界にかかわっていればこんなポスターは何処でも目にする。

 サラブレッド・プロジェクトを大々的に宣伝する広告塔としての務めを果たす意味合いもあるのだろう。

 今すぐにでも剥がして、破り捨てて、ゴミ箱に放りたい。そんな気持ちを押し殺すように、アイはそそくさと着替えを済ませ、逃げるように控室を後にしていった。

 ※

 ※ ※

 ※ ※ ※

 梅雨曇りの街中を、ショウはジョギングしていた。肌に触れる空気は生ぬるく、シャツに跡が残るほどに汗が滲む。

 ふと通りすがりのビルに貼られていたポスターが目に入る。サラブレッド・プロジェクトの公式ロゴがついており、栗毛の馬と、まるでアイドルのような愛らしさを振りまく女性の写真が添えられている。

「高世アイ……無敗の、クイーン」

 ぼそりと呟く。
 こぶしを握り締め、闘志をたぎらせる。ショウにとって彼女は幼馴染だった。

 男子と女子とで陸上が一緒になることはなかったため、同じ舞台で相対したことはなかったが、彼女が競馬界にいたからこそ、ショウもこの世界に入ったといっても過言ではない。

 偶然テレビで見た、あの美しくも圧倒される俊足。陸上で走り続けていたショウには届かない世界。そこに並びたい――いや、追い抜きたい。そんな野心を抱き、ハードなトレーニングもこなしてきた。

「いつか……一緒の舞台で走れたらなぁ」

 ショウはポスターを前にして、妄想を膨らませる。
 今だって戦績が悪いわけではない。新人にしては記録も伸びている方だ。
 この世界にいればいずれは並べるときがくるかもしれない。

「くぅ~!」

 いてもたってもいられず、バタバタとその場で足踏みする。少し周囲の目を引いたが、情熱を燃やすショウにとってそんなものは気にもならなかった。

 グッと足を踏み込みジョギングを再開し、歩道橋の階段を駆け足で上る。
 道路の向こう側へと渡るべく、橋の上、対向者とすれ違う。


――そのとき、ショウはその横顔がスロー再生のように見えた。


 知り合いではない。だけど見知った顔。忘れることのない、その顔。
 思わず、ショウは振り返る。確信を持つよりも早く、次の瞬間には声が出ていた。

「待ってくれ、アイ!」

 自分でも驚くほど声を張ってしまい、ハッとしてしまう。すれ違ったその女性も同じように驚いてしまったようで、すぐさまショウの方に向き直る。

「しょ、ショウ?」

 そこでショウはやっと確信した。それとともに興奮も覚えた。

「まさかこんなところで会えるなんて」

 そう。歩道橋の上、すれ違ったその人は今まさにポスターで見かけたばかりの顔。
 競馬界で名を轟かせている無敗クイーンの高世アイその人だった。
 だが、急に呼び止められたからか、酷く不機嫌そうな顔をしている。

「久しぶりね。私が卒業して以来だったかしら。あれからも陸上で頑張ってたの?」

 棘のある言葉を刺され、ショウは自分の不躾さに気付く。いくら幼馴染だったとはいえ、高校を卒業してからはお互いに忙しく、連絡もあまりできていなかった。

 何よりアイはサラブレッド・プロジェクトの競走馬以外にもアイドル業もこなし、今やショウとは住んでいる世界が違うといっても過言ではない。

「俺、サラプロに入ったんだ! 今年の春から!」

 さすがに馴れ馴れしすぎたかと、わたわたと挙動不審になりながらも懸命に弁明する。

「昨日のレースもトレーニングの合間に見たよ! ガチでヤバかったな。もうまさに無敗クイーンっていうかさ……」

 半ば何も考えずに喋るものだから言葉もまとまらない。

 高世アイに呆れられたらどうしよう。最悪、本当に不審者として通報されるかもしれない。そんなことがショウの脳裏を過ぎるも、アイの反応は意外なものだった。

「ふぁぁ? み、み、見てたの?」

 気の抜けた声。声が裏返るほど驚いているのは間違いなかった。

「ああ! いつもチェックしてるぜ。いつか一緒にその、走りたいなぁ……なんて」

 ショウもファイティングポーズで返事する。

「ふ、ふぅん……?」

 ふぅ、と呼吸を整え、アイは速やかに平静を取り繕う。
 普段の活動をしている分には、アイは自身の人気を把握しきれていない。

 無理やり運営に持ち上げられてアイドルじみたこともやらされているが、いざレースの場となると観客も同僚も等しく冷たい目で見ていると思っていたくらい。

 競走馬としてのアイを慕う人間なんてこれまでいなかった。だからこそ動揺を見せてしまったのだ。

「憧れを抱くのはいいけれど、私の背中を追っていても面白いことはないわ」

 無敗を積み重ねてきたクイーンとしてのプライドを保つ。一時の憧れなんて、すぐに飽きられてしまう。
 それを経験してきたからこそ、アイは冷たくあしらうように徹しようとする。

「昔から見てきた背中だ。もう追うんじゃなくて、並ぶ――いいや、追い抜きたい。追い抜いて見せる! 俺、マジで言ってるからな!」

 気合のこもった真っすぐなショウの本音。
 ただそれは、アイには少しカチンとくるものがあった。
 何処までが真意なのか汲み取れない、そんな言葉に苛立ちも覚えてしまう。

 ふと、そんなとき、ポツリと一滴が橋の上を跳ねた。
 それに続くように、ポタポタ、ピチャピチャと勢いが増していく。

「あ、雨が……」

 ショウは空を見上げ、すぐさまフードを被る。
 対するアイは、少し上の空といった様相で空を仰ぎ、踵を返す。

「私を追い抜いて見せる? バカも休み休み言いなさい。同じ場所で戦ったらそんなこと、言えなくなるに決まってるわ」

 雨は一瞬のうちに激しくなっていく。

「そんなの、分からないだろ。俺、昔っから走るの大好きだから」
「ああそう。私は大嫌いよ」

 間髪入れずそれだけ言い放つと、アイは逃げるように歩道橋を駆け下りていく。
 一瞬、追いかけようとしたショウだったが、踏みとどまり、代わりに歩道橋の上から思いっきり声を張る。

「いつか勝ってやるからぁ! 最高に楽しいレースにしてやるからぁっ!」

 果たして、この鬱陶しいほどの雨の中、ショウの渾身の言葉は届いたのか。
 定かではないが、アイの背中は都会の何処かへと消えていった。

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 冷たく、張り詰めた空気。熱気という言葉は相応しくない。ただ、もしそんなものがあるとするならば、まだ地の底から震わせるマグマのように沈み込んでいる。
 その場所は競馬場であることには間違いなかった。
 押し寄せる蹄鉄の音が噴火までの秒読みに聞こえるほど、息を吞む静けさ。
 熾烈なつば迫り合いが間近まで迫り、いよいよもって観客席を滾らせた。
 しかし、いやになるほど馬身を伸ばす一頭が先頭を切る。その距離は縮まることがなく、余裕すら感じられた。そうして、各馬たちはゴール板を通過し、勝敗が決する。
『さすが――さすがですね。桜花賞で輝いた一級品。オークスで勝ち抜いた俊足は何処までも衰えない、見事な圧巻。これぞ無敗クイーンの名がふさわしい――』
 実況は熱く語る。ただ熱意が薄く感じる。あたかも、勝って当然であり、必然であるかのようで、新鮮味のなさを吐露しているみたいだった。
 観客席も「またか」「やっぱりな」という言葉が自然と漏れ出してくるほど。
 よく言えば安心と信頼、悪く言えば変化がなく飽きにも近い感情がその栗毛の馬に対して浴びせられていた。当然そんなあからさまな空気を察せないはずもない。
 その牝馬の蹄の踏みしめた芝は、不満の形を刻印するかの如く潰されていた。
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 ガヤガヤと賑やかな控室の中、一人の女性――高世アイがため息をつく。
 汗ばむ体をタオルで拭い、脳裏を過ぎる不快な記憶を振り払う。
 アイは、今日のレースで圧勝して見せたあの栗毛の馬だった。戦績は無配の記録を持ち、勝利を約束された名馬として名を馳せている。
 評判であることには間違いないが、一獲千金を当てる競走馬としての人気は皆無に等しく、耳をすませばいつでも悪辣な言葉が入ってきてしまう。
 そんな現状を、アイは酷く憂えていた。
 どうして自分の実力を存分に発揮しているのに、こんな扱いなのか。
 周囲の牝馬――ライバルたちはアイの実力に嫉妬してか、近寄ろうともしない。
 今日の戦いはお互い同士が善戦し、それで十分といった調子。アイのことなどもう眼中にはない様子だ。
 ふと目に映るポスターがアイをますます不快にさせる。
 それは自分の輝かしい勝利を大きく映した広告ポスター。いかにもな飾り立てたキャッチコピーで煽られる勇ましいその姿は、皮肉にもアイの心を一層傷つけた。
 競馬界にかかわっていればこんなポスターは何処でも目にする。
 サラブレッド・プロジェクトを大々的に宣伝する広告塔としての務めを果たす意味合いもあるのだろう。
 今すぐにでも剥がして、破り捨てて、ゴミ箱に放りたい。そんな気持ちを押し殺すように、アイはそそくさと着替えを済ませ、逃げるように控室を後にしていった。
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 梅雨曇りの街中を、ショウはジョギングしていた。肌に触れる空気は生ぬるく、シャツに跡が残るほどに汗が滲む。
 ふと通りすがりのビルに貼られていたポスターが目に入る。サラブレッド・プロジェクトの公式ロゴがついており、栗毛の馬と、まるでアイドルのような愛らしさを振りまく女性の写真が添えられている。
「高世アイ……無敗の、クイーン」
 ぼそりと呟く。
 こぶしを握り締め、闘志をたぎらせる。ショウにとって彼女は幼馴染だった。
 男子と女子とで陸上が一緒になることはなかったため、同じ舞台で相対したことはなかったが、彼女が競馬界にいたからこそ、ショウもこの世界に入ったといっても過言ではない。
 偶然テレビで見た、あの美しくも圧倒される俊足。陸上で走り続けていたショウには届かない世界。そこに並びたい――いや、追い抜きたい。そんな野心を抱き、ハードなトレーニングもこなしてきた。
「いつか……一緒の舞台で走れたらなぁ」
 ショウはポスターを前にして、妄想を膨らませる。
 今だって戦績が悪いわけではない。新人にしては記録も伸びている方だ。
 この世界にいればいずれは並べるときがくるかもしれない。
「くぅ~!」
 いてもたってもいられず、バタバタとその場で足踏みする。少し周囲の目を引いたが、情熱を燃やすショウにとってそんなものは気にもならなかった。
 グッと足を踏み込みジョギングを再開し、歩道橋の階段を駆け足で上る。
 道路の向こう側へと渡るべく、橋の上、対向者とすれ違う。
――そのとき、ショウはその横顔がスロー再生のように見えた。
 知り合いではない。だけど見知った顔。忘れることのない、その顔。
 思わず、ショウは振り返る。確信を持つよりも早く、次の瞬間には声が出ていた。
「待ってくれ、アイ!」
 自分でも驚くほど声を張ってしまい、ハッとしてしまう。すれ違ったその女性も同じように驚いてしまったようで、すぐさまショウの方に向き直る。
「しょ、ショウ?」
 そこでショウはやっと確信した。それとともに興奮も覚えた。
「まさかこんなところで会えるなんて」
 そう。歩道橋の上、すれ違ったその人は今まさにポスターで見かけたばかりの顔。
 競馬界で名を轟かせている無敗クイーンの高世アイその人だった。
 だが、急に呼び止められたからか、酷く不機嫌そうな顔をしている。
「久しぶりね。私が卒業して以来だったかしら。あれからも陸上で頑張ってたの?」
 棘のある言葉を刺され、ショウは自分の不躾さに気付く。いくら幼馴染だったとはいえ、高校を卒業してからはお互いに忙しく、連絡もあまりできていなかった。
 何よりアイはサラブレッド・プロジェクトの競走馬以外にもアイドル業もこなし、今やショウとは住んでいる世界が違うといっても過言ではない。
「俺、サラプロに入ったんだ! 今年の春から!」
 さすがに馴れ馴れしすぎたかと、わたわたと挙動不審になりながらも懸命に弁明する。
「昨日のレースもトレーニングの合間に見たよ! ガチでヤバかったな。もうまさに無敗クイーンっていうかさ……」
 半ば何も考えずに喋るものだから言葉もまとまらない。
 高世アイに呆れられたらどうしよう。最悪、本当に不審者として通報されるかもしれない。そんなことがショウの脳裏を過ぎるも、アイの反応は意外なものだった。
「ふぁぁ? み、み、見てたの?」
 気の抜けた声。声が裏返るほど驚いているのは間違いなかった。
「ああ! いつもチェックしてるぜ。いつか一緒にその、走りたいなぁ……なんて」
 ショウもファイティングポーズで返事する。
「ふ、ふぅん……?」
 ふぅ、と呼吸を整え、アイは速やかに平静を取り繕う。
 普段の活動をしている分には、アイは自身の人気を把握しきれていない。
 無理やり運営に持ち上げられてアイドルじみたこともやらされているが、いざレースの場となると観客も同僚も等しく冷たい目で見ていると思っていたくらい。
 競走馬としてのアイを慕う人間なんてこれまでいなかった。だからこそ動揺を見せてしまったのだ。
「憧れを抱くのはいいけれど、私の背中を追っていても面白いことはないわ」
 無敗を積み重ねてきたクイーンとしてのプライドを保つ。一時の憧れなんて、すぐに飽きられてしまう。
 それを経験してきたからこそ、アイは冷たくあしらうように徹しようとする。
「昔から見てきた背中だ。もう追うんじゃなくて、並ぶ――いいや、追い抜きたい。追い抜いて見せる! 俺、マジで言ってるからな!」
 気合のこもった真っすぐなショウの本音。
 ただそれは、アイには少しカチンとくるものがあった。
 何処までが真意なのか汲み取れない、そんな言葉に苛立ちも覚えてしまう。
 ふと、そんなとき、ポツリと一滴が橋の上を跳ねた。
 それに続くように、ポタポタ、ピチャピチャと勢いが増していく。
「あ、雨が……」
 ショウは空を見上げ、すぐさまフードを被る。
 対するアイは、少し上の空といった様相で空を仰ぎ、踵を返す。
「私を追い抜いて見せる? バカも休み休み言いなさい。同じ場所で戦ったらそんなこと、言えなくなるに決まってるわ」
 雨は一瞬のうちに激しくなっていく。
「そんなの、分からないだろ。俺、昔っから走るの大好きだから」
「ああそう。私は大嫌いよ」
 間髪入れずそれだけ言い放つと、アイは逃げるように歩道橋を駆け下りていく。
 一瞬、追いかけようとしたショウだったが、踏みとどまり、代わりに歩道橋の上から思いっきり声を張る。
「いつか勝ってやるからぁ! 最高に楽しいレースにしてやるからぁっ!」
 果たして、この鬱陶しいほどの雨の中、ショウの渾身の言葉は届いたのか。
 定かではないが、アイの背中は都会の何処かへと消えていった。
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