「小学生のとき、あの川の橋の下で仔猫を見つけて……親に隠れて飼ってたことがあるんだ。でも、仔猫を飼い始めてすぐ梅雨に入って……大雨で川が氾濫した。雨が止んでから川に行ったけど、ミィはもうどこにもいなかった」
たぶん、流されてしまったのだと思う。
「……僕のせいだ。僕がミィを殺したんだ。すぐに親に相談して里親を見つけてあげてれば、ミィはあんなことにはならなかったかもしれないのに」
呟くように言うと、本田さんは黙り込んでしまった。
「……だから、僕はもう」
――にゃあ。
重い空気を察したのか、仔猫が足に擦り寄ってきた。そのまま、ジーンズにしがみつくようによじ登ってくる。
……可愛い。
「顔が緩んでますよ?」
「……う、うるさい。とにかく、僕は飼えな……」
「じゃあ分かりました! そういうことならこの子は私が育てます。でもその代わり、野上さんも手伝ってくださいよ!」
「……はぁ?」
本田さんは満面の笑みを浮かべて僕を見ていた。
もはや、ため息しか出ない。
「…………分かったよ」
それからというもの、毎週金曜日にとなり部屋の本田さん家に通う日々が始まった。
手土産は決まって猫缶や猫のおもちゃ。
仔猫には、本田さんがキセキという名前を付けた。
あれから半年。
あの日、今にも死にそうだったキセキは、すくすくと成長して今では立派なお猫様だ。
毛並みは白と茶の
斑模様で、耳は小さめ。大きな目は、猫らしくなく少し垂れていて、そんなところがまた可愛い。
キセキが来てから、僕の中でなにかが変わっていった。
仕事以外では、ほぼ引きこもりのような日々を送っていた僕。
週一で玄関を抜けるようになったからか、毎日ちゃんとした服を着るようになって、キセキの餌を飼うために買い物にもよく出るようになった。
こころなしか仕事も楽しく思えてきて、前向きになれているような気がする。
そして、それは本田さんも同じだったようで。
本田さんは、僕が来ない日はコンビニ弁当やカップラーメンで済ませてしまうようだったけれど、僕が来る金曜日は必ず、手の込んだ晩ご飯を用意してくれた。
栄養に悪いからと、僕が来ない日もちゃんとしたものを食べるように指摘すると、彼女は再び差し入れをくれるようになった。
彼女の言い分によると、ひとり分の料理では逆にお金がかかってしまうのだという。
それからは、仕方なく、僕は食費を渡して差し入れを受け取ることにした。
そんな日が、さらに半年続いたある日のことだった。
「――帰省?」
「はい。いい加減、母に帰ってこいと言われてしまいまして」
「いいんじゃないですか。親もひとり娘の顔が見たいんでしょう」
「じゃあ、キセキのことをおまかせしてもいいですか!?」
「あぁ……そうなるのか」
思わず額を押さえた。
「母は猫アレルギーなので、連れて行けないんです。ほかに頼れるひともいないですし……お願いします!」
ぱん、と顔の前で手を合わせ、頭を下げる本田さんに、僕は深いため息を漏らす。
「ペットホテルとか……」
「そんなのダメです! あんな狭いところに押し込められたら、キセキが可哀想です!」
……まぁ、分からなくもないけれど。
ふと、彼女が少し悲しそうに微笑んだ。
「……野上さんがそんなにキセキを引き取りたがらないのは、過去に飼ってたミィちゃんのことですか」
ぴくりと手が止まる。
「……あぁ、そういえばしましたっけ、そんな話」
たしか、キセキの里親を決める話で揉めたときに少し漏らした程度だったかと思うが。
「野上さんは、ミィちゃんを助けられなかったことをずっと後悔してたんですよね。だからもう、生き物は飼わないって」
「…………」
自分のせいで自分よりも弱いいのちが失われてしまったら、きっとすごく辛い。しかも、それが子供の頃の経験ならなおさらです。
彼女はそう呟き、目を伏せた。
「でも、野上さんに助けられたミィちゃんは、きっと幸せだったと思いますよ」
「……君になにが分かるんだよ」
「……すみません」
「……いや。……僕のほうこそごめん。……たしかにミィは、僕が助けたことで少しは長く生きられたかもしれない。でも、僕が助けなかったら川に流されるだなんて苦しい思いはしなくても済んだかもしれない。ほかのひとに拾われていたら、今も生きていたかもしれない。そう思ったら、とてもじゃないけど……」
本田さんが、そっと僕の手を取る。
「後悔しない生き方なんてないですよ」
「え……」
「だから、野上さんの後悔はきっと正しい。でも……ミィはたぶん、そうやって野上さんが自分のことを引きずったまま生きることを望んではいないと思います」
その手はとても力強く、生命力に満ちていた。
僕はぐったりと力を抜く。
「……帰省はどれくらい?」
「一週間です」
「……まぁ、そのくらいなら」
「本当ですか!? ありがとうございます! えっと、じゃあキセキの荷物は全部まとめて野上さんの部屋に移動させましょう」
「そこまでするんですか? たった一週間なのに大袈裟じゃ」
「キセキにストレスがかからないようにするには、それがいちばんでしょう!」
「……ですね」
こうして、彼女の帰省に伴うキセキの引越しが始まった。
翌週、本田さんが
発つ日。彼女はキセキを連れて、となりの部屋である僕の部屋へとやってきた。
「今までお世話になりました。キセキのこと、よろしくお願いします」
「たった一週間の帰省でなにを大袈裟な」
呆れた声を出す僕に、本田さんは小さく笑う。
「ですね。すみません。……キセキと離れるのが、ちょっと寂しくて」
そう言って、本田さんは少しだけ寂しそうに俯いた。
「…………」
沈黙が落ちる。
「あ、そうだ。これ、差し入れ」
「えっ、なんですか?」
「……僕は自炊ができないから、ただのコンビニのものだけど、よかったら」
「なんだ。コンビニかぁ。せっかくくれるなら、もうちょっと色気のあるものが」
「文句言うならいいですよ、僕が食べます」
「すみませんありがたくいただきます」
慌てた仕草で袋を奪われた。
「えへへ。車内で食べますね」
「それじゃあ、気を付けて」
「はい。あの……さよなら、野上さん」
なにかを覚悟したような口調の本田さんに、僕は一度目を伏せた。
背を向け、キャリーケースを引いて歩いていく本田さんの背中に、僕は小さく呟く。
「わざわざ来てくれて、ありがとな」
ほんのり冷たい風が吹く。
「え? なにか言いました?」
「……いや。なんでもない」
振り向いて首を傾げた本田さんに笑みを返して、僕は玄関の扉を閉めた。
***
――夢の終わりというのは、こんなにも呆気ないものなんだな。
閉じた扉を見て、小さく息を漏らす。たぶん、しっぽがあったら垂れている。
私は、この街に来る前から彼のことを知っていた。だって、彼がかつて助けた仔猫のミィは、ほかでもない私なのだから。
私にとって、彼は恩人だった。でも、私は……彼の中での私は、トラウマとなっていた。
あの大雨で流され死んだ私は、天に昇ってずっと彼を見ていた。
あれから、彼はずっと私のことを後悔していた。それが苦しくて、見ていられなくて、私はここへやってきたのだ。神様と、一年限りで戻るという約束をして。
そうして、隣人として出会いからやり直してみれば、彼は完全に人生をこじらせていた。
だけどあのとき、私は確信した。
キセキを拾ったあのとき――キセキは、ぜんぜん声なんてあげられる状態じゃなかった。
でも君は――今にも消えそうなキセキの声に気付いた。
君はどうしたって優しいんだ。
猫を遠ざけながらも、見つけてしまう。猫を愛してしまう。
そんな君が、私は今も昔も大好きなんだ。
だから、君が前を向けるように、私はこの一年、キセキと頑張った。
その結果、君は今前を向いて歩き出そうとしている。
さよならは悲しいけど、でも今の君ならもうひとりでも大丈夫。いや、ひとりじゃないか。今の君にはキセキがいるから。
あの河道で佇んでいると、列車が到着した。
「どちらまで?」
「空の彼方、幸せの南十字まで」
ガタンゴトン。
車窓から流れる銀河の景色を、ぼんやりと眺める。
「……本当は、言いたかったな」
ぽつりと呟く。
私がミィだよって言ったら、君はどんな顔をしたかな。きっと驚いて、信じてくれないんだろうな。
そんな君に、私は私しか知らない君のことを話してみたりして。そうしたら君は、きっともっと驚いて。
それでようやく、本当渋々といった感じで信じてくれるんだろう。
私がミィだって分かったら、また頭撫でてくれるのかな。……撫でてほしいなぁ。
人の姿になってからは、ちょっと距離が遠かったから。
君とお話ができるのはすごく嬉しかったけど、私はやっぱり、人間より猫のほうがあってたみたい。だから……次に生まれ変わったらまた、私は猫がいい。
猫になって、また君のいちばんの友達になりたいな。
「欲を言ったら、もう少し……一緒にいたかったけれど」
君との一年はあっという間だった。
猫の姿ではたった二週間ほどしか同じ時間を過ごせなかったというのに、こうして出会ってしまうと、こんなにも欲があふれてくるものなのか。
まったく、なんてことだ。
小さく肩を揺らしていると、膝の上にあったコンビニ袋がかさりと音を立てた。
「あ……」
別れ際に彼がくれたコンビニフードだった。最後の別れの挨拶でコンビニフードを渡すなんて、と思うけれど。
まぁ、彼にとっては、たった一週間の別れなのだから、仕方ない。
「帰ってこなかったら心配するかな……でもまぁ、すぐに私のことなんて忘れちゃうか」
袋の中身を見ると、そこには私の大好物の鮭おにぎりとツナマヨおにぎり。それから唐揚げに……。
下のほうに缶のようなものが入っていることに気付いて、袋を漁る。取り出してみて、息が詰まった。
「猫、缶……?」
それはかつて――私が猫だったときに、好きだったもの。私を拾ってくれた彼が、私によくくれていた猫缶だった。
その猫缶のプルタブには、小さな紙切れが挟まれていた。
抜き取り、開く。
そこには、たった一文、書かれていた。
『僕はもう大丈夫だから心配しないで、ミィ』
一瞬にして視界が潤んだ。
ぼろぼろと涙が頬をつたっては膝に落ちる。ごし、と目元を服の袖で乱雑に拭っても、涙は止まりそうにない。
「もう……君には敵わないや」
猫缶を見ながら、泣き笑う。
「こんな仔猫用の猫缶なんて、もうずっと前に卒業したってば……」
小さく文句を呟きながら、猫缶を開ける。
車窓には、耳を垂らしてしっぽをパタパタと揺らす
私の姿が映っていた。