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ー/ー「こんにちは。先日となりに引っ越してきました、本田といいます」
「……どうも」
突然鳴ったインターホンに玄関の扉を開けてみれば、そこに立っていたのは小柄な女性。茶髪で猫目をした、とてもきれいなひとだった。
「これ、お近づきの印によかったらどうぞ」
差し出されたのは、高級そうな菓子折袋。
「……あぁ、わざわざすみません」
それをさっと受け取ると、僕は小さく会釈をして扉を閉めた。
「……はぁ」
扉を背に、小さく息をつく。
びっくりした。いきなり女性が訪ねてくるなんて、果たしていつぶりだろう。
菓子折をテーブルに放り、冷蔵庫を開ける。ミネラルウォーターのペットボトルを取り出し、喉を潤す。
……僕は、人が苦手だ。
昔からそうだった。
学校が苦手で、教室が苦手で、いつも校庭の池で鯉をぼんやり眺めたりしていた。学生の頃はそれでもなんとか通っていたけれど、人見知りがひとつの個性として扱われるのは未成年までのこと。
おとなの世界でそんなものは通用しない。
周りの空気を読んで、上司の顔色を伺って、取引先には腰より低く頭を下げて。
毎日神経をすり減らして、死への旅路をゆく。それが人生。
そんな毎日に疲れてしまった僕は、すべてにおいて期待するということをやめた。
だって、社会や会社が僕に対してなんにも期待していないということが分かったから。
だから僕も、もらっている給金以上のことはしない。
時間通りに出勤して、定時で帰る。お人好しのいいひとなんて損だし、新人教育なんてものも仕事効率が悪くなるだけだからわざわざしない。
あからさまにそういう態度をする僕を、会社や近所のひとたちは変人だと囁いて、少しづつ避けるようになった。
ちょうど、仕事から帰って部屋着に着替え終わったとき、インターホンが鳴った。
「こんにちは。これ、作り過ぎちゃって。おすそわけです」
「……はぁ。どうも」
となりの部屋に引っ越してきた本田とかいうこの女性は、なぜか僕によく料理の差し入れをくれる。
見た目からして、おそらく二十代前半くらい。
僕のようなくたびれたおじさんに餌付けをしてなにが楽しいのかと思うけれど、まぁ拒絶するのも面倒だし、どうせすぐに飽きるだろう。
……と、思っていたのだけれど。
差し入れが週に一度から三度に増えて、いつの間にか、毎日のようにインターホンが鳴るようになった。
「あの……本田さん」
「ハイ?」
まるまるとした瞳が僕を映し出す。
「その……差し入れはありがたいんですが、なぜこんなに僕によくしてくれるんです?」
すると、彼女は数度瞬きをして、言った。
「好きだからです」
「……は?」
今、なんて? スキダカラ?
「好きなんです、野上さんのこと」
こんな若くて可愛い彼女が、こんなくたびれたサラリーマンの僕を?
……いや、有り得ない。
「……もしかして、バカにしてます?」
「な、なんでですか! してませんよ」
慌てた様子の彼女に、胡散臭い目を向ける。
「……正直、迷惑なんです。若い君に僕が手を出したとか噂になってるし」
「あ……そ、それは……」
本田さんはしゅんとしたように肩を落として、「すみません」と呟いた。
「そういうことなので、明日からこういうことはやめてください」
「……はい」
これだけ差し入れをもらっておいて、冷たい言い方だっただろうか。でも、ほかの言い方が分からない。彼女には悪いけど、僕はもう、だれとも仲良くなるつもりなんてないのだ。
それから、彼女は僕の部屋のインターホンを鳴らさなくなった。
それは、珍しく残業をした日の帰り道だった。河道を歩いていると、前方に人影が見えた。コンビニ袋を手に歩く後ろ姿に覚えがある。
「……あ」
本田さんだった。
僕の気配に気付いたのか、本田さんが振り返る。
「あっ、野上さん! こんばんは」
見つかってしまったら仕方ない。僕はため息混じりに彼女のそばに歩みを進める。
「……こんな時間にコンビニですか」
女の人ひとりでこんな街灯のない道、危ないだろうに。
「あ、えっと、夕飯を買いに」
「夕飯……?」
毎日のように夕飯を作りすぎたと言っていた彼女でも、コンビニに頼ることなんてあるのか。なんて考えながら歩いていると、本田さんが言った。
「……ここらへんって、昔からぜんぜん街灯ないですよね」
「まぁそうですね……って、本田さんってこのへん出身だったんですか?」
「いえ。違いますけど、左右田のおばあちゃんが言ってたから」
「あぁ」
左右田のおばあちゃんとは、本田さんの左となりの部屋のひとだ。ひとり世帯のさみしい老人で、いつも話し相手を探している。本田さんも彼女の餌食になっていたらしい。
「……ここら辺は、大雨になるとすぐに水かさが増す。氾濫することも多いから、雨が降ってるときは避けたほうがいいですよ」
この川は、かつてこの辺りを襲った大雨で増水し、周辺の家々を浸水させたという前科を持つ。
僕はひとり暮らしをする前からこの街に住んでいた。この川辺にもよく来ていた。いい思い出はないけれど。
「そうなんですか」
川のせせらぎが聞こえるほうへ目を向ける。視界は真っ暗だった。
「それにしてもここ、すごい雑草ですね。野上さんの背よりあるんじゃないですか?」
ぼんやりしていると、突然目の前に顔が現れた。
「わっ!? な、なに!?」
驚いて後退りすると、本田さんはさらりと僕から離れた。
「すみません。そんな驚くと思わず……けど、野上さんちょっと大袈裟ですよ。そんな化け物を見たような顔されたら、さすがの私も落ち込みます」
ぷりぷりとした声を出す本田さんに、僕は何度目か分からないため息をつく。
「それより、どうかしました?」
「……いや、べつに」
河原から視線を外し、帰り道、コンビニで買ったチューハイを喉に流し込む。
炭酸で舌が痺れた。
そのとき、ひゅっと風が吹いた。
風に乗って、なにかが聞こえた気がした。足を止め、耳をすませる。
「野上さん?」
立ち止まった僕を、本田さんが振り返る。
「……あ、いやなんでもない」
再び足を前に出したとき。
――にゃあ。
川のせせらぎの隙間から、たしかに聞こえた。
「……この声」
「え?」
スマホの懐中電灯を付けて、川辺に降りた。
「ちょっ……野上さん!?」
本田さんの止める声も無視して、僕は草の根をかき分けるようにして声の主を探す。
「野上さん! なにしてるんですか」
「猫の声がしたんだ。たぶん、まだ仔猫」
「猫……? ここに?」
本田さんが周囲を見渡す。
「たぶん、すぐ近くにいる気が……」
「え、だからって探すんですか? こんなに真っ暗なのに無理ですよ。もしいたとしても、仔猫じゃ怯えてどこかに隠れちゃうんじゃないですか」
「それならいいんだけど……でも、もし明日ここで仔猫が死んでたら後悔すると思うから、やれることはやりたい。送れなくて申し訳ないんですけど……もう深夜だし、本田さんは先に帰ってください。暗いから気を付けて」
夜露で濡れた草を避けながら、河道にいる本田さんに叫ぶ。
伸び切った雑草は、ただでさえ悪い視界を遮るし皮膚をくすぐるしで鬱陶しい。でも、雑草が濡れているおかげで顔や手の皮膚を切ることはなさそうだ。
無心でちいさな命を探していると、頭上から大きなため息が聞こえてきた。
「こんな夜中に、しかもこんな視界が悪い場所で仔猫探しなんて、無謀にも程がありますよ」
思ったより近くで声がして、驚いて顔を上げる。
「そもそも、考えてみてください。こんな真夜中にひとりで中年の男が河原をうろついていたら」
……想像する。いや、想像しなくても分かる。
「確実に不審者。職質案件ですよ」
「それは……」
「そういうわけだから、さっさと見つけちゃいましょ! さて。可愛いかわいい仔猫ちゃんはどこかなー?」
と、当たり前のように仔猫捜索に合流する本田さん。
「……本田さんって、変わってますよね」
こんな僕なんかに、手を貸すだなんて変人以外の何者でもない。
「え〜? そんなことないですよ〜。少なくとも、野上さんほど不審者がられてないです」
「……それもそうか」
僕は手に持っていたスマホをかざして、階段を降りてくる本田さんの足元を照らした。
――にゃあ。
その声は、聞こえるはずのないものだった。
手の中には、ちいさすぎるいのち。
生まれたてでまだ目も開いておらず、びくびくと震えるだけで鳴き声すらあげられないようだった。
「かなり衰弱してますね」
「…………」
「……どうするんです? このままじゃこの子……」
本田さんは、その先は言わなかった。ぐっと奥歯を噛み締める。いやだ。死なせるのは、いやだ。
「動物病院を探す」
こんな深夜にやっている動物病院があるとは思わない。けど、なにもしなければこの子は死んでしまう。それなら、足掻かないと。
「私、救急外来がある動物病院知ってますよ」
「本当ですか!?」
そのひとことは、一本の藁だった。
その後、深夜もやっている動物病院へ連れていき、処置を終えて帰路に着いたのは、明け方の四時だった。
「……付き合わせてしまって悪かったですね」
「いえ。仔猫ちゃんが無事でなによりでした」
「これから里親探さないと……」
しかし探すにしても、俺には友達なんていないし、知り合いもほとんどいない。
「え、野上さん飼わないんですか?」
「……僕は飼えないよ」
「どうして?」
それは……。
喉まででかかった言葉を呑み込み、ぎゅっと唇を噛む。
「……とにかく飼えないんだ。だから、飼ってくれるひとを探さないと」
背中を向けて、夜道を歩き出す。
「ここまでしたのに……」
「本田さん、近くに猫好きな知り合いとかいませんか?」
本田さんの言葉に聞こえないふりをして、僕は訊く。
「うちのアパート、ペット禁止じゃないんですし、飼ってあげましょうよ。ねぇ? この子、野上さんにすごい懐いてるじゃないですか」
「……僕は、猫は飼えない。飼えないんだ」
「アレルギーでもあるんですか?」
「そうじゃないけど……」
「じゃあ飼ってあげましょうよ。私も手伝いますから」
「……できない」
「なんで?」
頑なに首を横に振る僕を、本田さんは怪訝な顔で見つめてくる。
「……なんでも」
「なにか理由があるんです?」
「あなたには関係ないでしょう」
「だったら、なんで助けたんですか」
「……それは、だって、放っておけないから」
目を泳がせる僕に、本田さんは詰め寄ってくる。
「そんなの勝手すぎます! 助けたあとの責任を持てないなら、絶対この子は助けるべきじゃなかった。あのままにしていたら、ほかのだれかがこの子を助けてくれたかもしれないのに」
そのとおりだった。そんなことは、僕だって分かっていた。でも、身体が勝手に……。
「君になにが分かるんだよ」
「……分かります。この子には、野上さんしかいないんですよ」
「……僕はダメなんだよ。動物を飼うことに向いてないから」
「向いてない?」
言葉につまりながら、呻くようにして告げる。
「……昔、飼ってた仔猫を死なせたことがある」
「え……」
みんなのリアクション
まだリアクションはありません。最初の一歩を踏み出しましょう!
「こんにちは。先日となりに引っ越してきました、|本田《ほんだ》といいます」
「……どうも」
突然鳴ったインターホンに玄関の扉を開けてみれば、そこに立っていたのは小柄な女性。茶髪で猫目をした、とてもきれいなひとだった。
「これ、お近づきの印によかったらどうぞ」
差し出されたのは、高級そうな菓子折袋。
「……あぁ、わざわざすみません」
それをさっと受け取ると、僕は小さく会釈をして扉を閉めた。
「……はぁ」
扉を背に、小さく息をつく。
びっくりした。いきなり女性が訪ねてくるなんて、果たしていつぶりだろう。
菓子折をテーブルに放り、冷蔵庫を開ける。ミネラルウォーターのペットボトルを取り出し、喉を潤す。
……僕は、人が苦手だ。
昔からそうだった。
学校が苦手で、教室が苦手で、いつも校庭の池で鯉をぼんやり眺めたりしていた。学生の頃はそれでもなんとか通っていたけれど、人見知りがひとつの個性として扱われるのは未成年までのこと。
おとなの世界でそんなものは通用しない。
周りの空気を読んで、上司の顔色を伺って、取引先には腰より低く頭を下げて。
毎日神経をすり減らして、死への旅路をゆく。それが人生。
そんな毎日に疲れてしまった僕は、すべてにおいて期待するということをやめた。
だって、社会や会社が僕に対してなんにも期待していないということが分かったから。
だから僕も、もらっている給金以上のことはしない。
時間通りに出勤して、定時で帰る。お人好しのいいひとなんて損だし、新人教育なんてものも仕事効率が悪くなるだけだからわざわざしない。
あからさまにそういう態度をする僕を、会社や近所のひとたちは変人だと囁いて、少しづつ避けるようになった。
ちょうど、仕事から帰って部屋着に着替え終わったとき、インターホンが鳴った。
「こんにちは。これ、作り過ぎちゃって。おすそわけです」
「……はぁ。どうも」
となりの部屋に引っ越してきた本田とかいうこの女性は、なぜか僕によく料理の差し入れをくれる。
見た目からして、おそらく二十代前半くらい。
僕のようなくたびれたおじさんに餌付けをしてなにが楽しいのかと思うけれど、まぁ拒絶するのも面倒だし、どうせすぐに飽きるだろう。
……と、思っていたのだけれど。
差し入れが週に一度から三度に増えて、いつの間にか、毎日のようにインターホンが鳴るようになった。
「あの……本田さん」
「ハイ?」
まるまるとした瞳が僕を映し出す。
「その……差し入れはありがたいんですが、なぜこんなに僕によくしてくれるんです?」
すると、彼女は数度瞬きをして、言った。
「好きだからです」
「……は?」
今、なんて? スキダカラ?
「好きなんです、|野上《のがみ》さんのこと」
こんな若くて可愛い彼女が、こんなくたびれたサラリーマンの僕を?
……いや、有り得ない。
「……もしかして、バカにしてます?」
「な、なんでですか! してませんよ」
慌てた様子の彼女に、胡散臭い目を向ける。
「……正直、迷惑なんです。若い君に僕が手を出したとか噂になってるし」
「あ……そ、それは……」
本田さんはしゅんとしたように肩を落として、「すみません」と呟いた。
「そういうことなので、明日からこういうことはやめてください」
「……はい」
これだけ差し入れをもらっておいて、冷たい言い方だっただろうか。でも、ほかの言い方が分からない。彼女には悪いけど、僕はもう、だれとも仲良くなるつもりなんてないのだ。
それから、彼女は僕の部屋のインターホンを鳴らさなくなった。
それは、珍しく残業をした日の帰り道だった。河道を歩いていると、前方に人影が見えた。コンビニ袋を手に歩く後ろ姿に覚えがある。
「……あ」
本田さんだった。
僕の気配に気付いたのか、本田さんが振り返る。
「あっ、野上さん! こんばんは」
見つかってしまったら仕方ない。僕はため息混じりに彼女のそばに歩みを進める。
「……こんな時間にコンビニですか」
女の人ひとりでこんな街灯のない道、危ないだろうに。
「あ、えっと、夕飯を買いに」
「夕飯……?」
毎日のように夕飯を作りすぎたと言っていた彼女でも、コンビニに頼ることなんてあるのか。なんて考えながら歩いていると、本田さんが言った。
「……ここらへんって、昔からぜんぜん街灯ないですよね」
「まぁそうですね……って、本田さんってこのへん出身だったんですか?」
「いえ。違いますけど、|左右田《そうだ》のおばあちゃんが言ってたから」
「あぁ」
左右田のおばあちゃんとは、本田さんの左となりの部屋のひとだ。ひとり世帯のさみしい老人で、いつも話し相手を探している。本田さんも彼女の|餌食《えじき》になっていたらしい。
「……ここら辺は、大雨になるとすぐに水かさが増す。|氾濫《はんらん》することも多いから、雨が降ってるときは避けたほうがいいですよ」
この川は、かつてこの辺りを襲った大雨で増水し、周辺の家々を浸水させたという前科を持つ。
僕はひとり暮らしをする前からこの街に住んでいた。この川辺にもよく来ていた。いい思い出はないけれど。
「そうなんですか」
川のせせらぎが聞こえるほうへ目を向ける。視界は真っ暗だった。
「それにしてもここ、すごい雑草ですね。野上さんの背よりあるんじゃないですか?」
ぼんやりしていると、突然目の前に顔が現れた。
「わっ!? な、なに!?」
驚いて後退りすると、本田さんはさらりと僕から離れた。
「すみません。そんな驚くと思わず……けど、野上さんちょっと大袈裟ですよ。そんな化け物を見たような顔されたら、さすがの私も落ち込みます」
ぷりぷりとした声を出す本田さんに、僕は何度目か分からないため息をつく。
「それより、どうかしました?」
「……いや、べつに」
河原から視線を外し、帰り道、コンビニで買ったチューハイを喉に流し込む。
炭酸で舌が痺れた。
そのとき、ひゅっと風が吹いた。
風に乗って、なにかが聞こえた気がした。足を止め、耳をすませる。
「野上さん?」
立ち止まった僕を、本田さんが振り返る。
「……あ、いやなんでもない」
再び足を前に出したとき。
――にゃあ。
川のせせらぎの隙間から、たしかに聞こえた。
「……この声」
「え?」
スマホの懐中電灯を付けて、川辺に降りた。
「ちょっ……野上さん!?」
本田さんの止める声も無視して、僕は草の根をかき分けるようにして声の主を探す。
「野上さん! なにしてるんですか」
「猫の声がしたんだ。たぶん、まだ仔猫」
「猫……? ここに?」
本田さんが周囲を見渡す。
「たぶん、すぐ近くにいる気が……」
「え、だからって探すんですか? こんなに真っ暗なのに無理ですよ。もしいたとしても、仔猫じゃ怯えてどこかに隠れちゃうんじゃないですか」
「それならいいんだけど……でも、もし明日ここで仔猫が死んでたら後悔すると思うから、やれることはやりたい。送れなくて申し訳ないんですけど……もう深夜だし、本田さんは先に帰ってください。暗いから気を付けて」
夜露で濡れた草を避けながら、河道にいる本田さんに叫ぶ。
伸び切った雑草は、ただでさえ悪い視界を遮るし皮膚をくすぐるしで鬱陶しい。でも、雑草が濡れているおかげで顔や手の皮膚を切ることはなさそうだ。
無心でちいさな命を探していると、頭上から大きなため息が聞こえてきた。
「こんな夜中に、しかもこんな視界が悪い場所で仔猫探しなんて、無謀にも程がありますよ」
思ったより近くで声がして、驚いて顔を上げる。
「そもそも、考えてみてください。こんな真夜中にひとりで中年の男が河原をうろついていたら」
……想像する。いや、想像しなくても分かる。
「確実に不審者。職質案件ですよ」
「それは……」
「そういうわけだから、さっさと見つけちゃいましょ! さて。可愛いかわいい仔猫ちゃんはどこかなー?」
と、当たり前のように仔猫捜索に合流する本田さん。
「……本田さんって、変わってますよね」
こんな僕なんかに、手を貸すだなんて変人以外の何者でもない。
「え〜? そんなことないですよ〜。少なくとも、野上さんほど不審者がられてないです」
「……それもそうか」
僕は手に持っていたスマホをかざして、階段を降りてくる本田さんの足元を照らした。
「……あ」
本田さんだった。
僕の気配に気付いたのか、本田さんが振り返る。
「あっ、野上さん! こんばんは」
見つかってしまったら仕方ない。僕はため息混じりに彼女のそばに歩みを進める。
「……こんな時間にコンビニですか」
女の人ひとりでこんな街灯のない道、危ないだろうに。
「あ、えっと、夕飯を買いに」
「夕飯……?」
毎日のように夕飯を作りすぎたと言っていた彼女でも、コンビニに頼ることなんてあるのか。なんて考えながら歩いていると、本田さんが言った。
「……ここらへんって、昔からぜんぜん街灯ないですよね」
「まぁそうですね……って、本田さんってこのへん出身だったんですか?」
「いえ。違いますけど、|左右田《そうだ》のおばあちゃんが言ってたから」
「あぁ」
左右田のおばあちゃんとは、本田さんの左となりの部屋のひとだ。ひとり世帯のさみしい老人で、いつも話し相手を探している。本田さんも彼女の|餌食《えじき》になっていたらしい。
「……ここら辺は、大雨になるとすぐに水かさが増す。|氾濫《はんらん》することも多いから、雨が降ってるときは避けたほうがいいですよ」
この川は、かつてこの辺りを襲った大雨で増水し、周辺の家々を浸水させたという前科を持つ。
僕はひとり暮らしをする前からこの街に住んでいた。この川辺にもよく来ていた。いい思い出はないけれど。
「そうなんですか」
川のせせらぎが聞こえるほうへ目を向ける。視界は真っ暗だった。
「それにしてもここ、すごい雑草ですね。野上さんの背よりあるんじゃないですか?」
ぼんやりしていると、突然目の前に顔が現れた。
「わっ!? な、なに!?」
驚いて後退りすると、本田さんはさらりと僕から離れた。
「すみません。そんな驚くと思わず……けど、野上さんちょっと大袈裟ですよ。そんな化け物を見たような顔されたら、さすがの私も落ち込みます」
ぷりぷりとした声を出す本田さんに、僕は何度目か分からないため息をつく。
「それより、どうかしました?」
「……いや、べつに」
河原から視線を外し、帰り道、コンビニで買ったチューハイを喉に流し込む。
炭酸で舌が痺れた。
そのとき、ひゅっと風が吹いた。
風に乗って、なにかが聞こえた気がした。足を止め、耳をすませる。
「野上さん?」
立ち止まった僕を、本田さんが振り返る。
「……あ、いやなんでもない」
再び足を前に出したとき。
――にゃあ。
川のせせらぎの隙間から、たしかに聞こえた。
「……この声」
「え?」
スマホの懐中電灯を付けて、川辺に降りた。
「ちょっ……野上さん!?」
本田さんの止める声も無視して、僕は草の根をかき分けるようにして声の主を探す。
「野上さん! なにしてるんですか」
「猫の声がしたんだ。たぶん、まだ仔猫」
「猫……? ここに?」
本田さんが周囲を見渡す。
「たぶん、すぐ近くにいる気が……」
「え、だからって探すんですか? こんなに真っ暗なのに無理ですよ。もしいたとしても、仔猫じゃ怯えてどこかに隠れちゃうんじゃないですか」
「それならいいんだけど……でも、もし明日ここで仔猫が死んでたら後悔すると思うから、やれることはやりたい。送れなくて申し訳ないんですけど……もう深夜だし、本田さんは先に帰ってください。暗いから気を付けて」
夜露で濡れた草を避けながら、河道にいる本田さんに叫ぶ。
伸び切った雑草は、ただでさえ悪い視界を遮るし皮膚をくすぐるしで鬱陶しい。でも、雑草が濡れているおかげで顔や手の皮膚を切ることはなさそうだ。
無心でちいさな命を探していると、頭上から大きなため息が聞こえてきた。
「こんな夜中に、しかもこんな視界が悪い場所で仔猫探しなんて、無謀にも程がありますよ」
思ったより近くで声がして、驚いて顔を上げる。
「そもそも、考えてみてください。こんな真夜中にひとりで中年の男が河原をうろついていたら」
……想像する。いや、想像しなくても分かる。
「確実に不審者。職質案件ですよ」
「それは……」
「そういうわけだから、さっさと見つけちゃいましょ! さて。可愛いかわいい仔猫ちゃんはどこかなー?」
と、当たり前のように仔猫捜索に合流する本田さん。
「……本田さんって、変わってますよね」
こんな僕なんかに、手を貸すだなんて変人以外の何者でもない。
「え〜? そんなことないですよ〜。少なくとも、野上さんほど不審者がられてないです」
「……それもそうか」
僕は手に持っていたスマホをかざして、階段を降りてくる本田さんの足元を照らした。
――にゃあ。
その声は、聞こえるはずのないものだった。
手の中には、ちいさすぎるいのち。
生まれたてでまだ目も開いておらず、びくびくと震えるだけで鳴き声すらあげられないようだった。
「かなり衰弱してますね」
「…………」
「……どうするんです? このままじゃこの子……」
本田さんは、その先は言わなかった。ぐっと奥歯を噛み締める。いやだ。死なせるのは、いやだ。
「動物病院を探す」
こんな深夜にやっている動物病院があるとは思わない。けど、なにもしなければこの子は死んでしまう。それなら、足掻かないと。
「私、救急外来がある動物病院知ってますよ」
「本当ですか!?」
そのひとことは、一本の|藁《わら》だった。
その後、深夜もやっている動物病院へ連れていき、処置を終えて帰路に着いたのは、明け方の四時だった。
「……付き合わせてしまって悪かったですね」
「いえ。仔猫ちゃんが無事でなによりでした」
「これから里親探さないと……」
しかし探すにしても、俺には友達なんていないし、知り合いもほとんどいない。
「え、野上さん飼わないんですか?」
「……僕は飼えないよ」
「どうして?」
それは……。
喉まででかかった言葉を呑み込み、ぎゅっと唇を噛む。
「……とにかく飼えないんだ。だから、飼ってくれるひとを探さないと」
背中を向けて、夜道を歩き出す。
「ここまでしたのに……」
「本田さん、近くに猫好きな知り合いとかいませんか?」
本田さんの言葉に聞こえないふりをして、僕は訊く。
「うちのアパート、ペット禁止じゃないんですし、飼ってあげましょうよ。ねぇ? この子、野上さんにすごい懐いてるじゃないですか」
「……僕は、猫は飼えない。飼えないんだ」
「アレルギーでもあるんですか?」
「そうじゃないけど……」
「じゃあ飼ってあげましょうよ。私も手伝いますから」
「……できない」
「なんで?」
頑なに首を横に振る僕を、本田さんは怪訝な顔で見つめてくる。
「……なんでも」
「なにか理由があるんです?」
「あなたには関係ないでしょう」
「だったら、なんで助けたんですか」
「……それは、だって、放っておけないから」
目を泳がせる僕に、本田さんは詰め寄ってくる。
「そんなの勝手すぎます! 助けたあとの責任を持てないなら、絶対この子は助けるべきじゃなかった。あのままにしていたら、ほかのだれかがこの子を助けてくれたかもしれないのに」
そのとおりだった。そんなことは、僕だって分かっていた。でも、身体が勝手に……。
「君になにが分かるんだよ」
「……分かります。この子には、野上さんしかいないんですよ」
「……僕はダメなんだよ。動物を飼うことに向いてないから」
「向いてない?」
言葉につまりながら、呻くようにして告げる。
「……昔、飼ってた仔猫を死なせたことがある」
「え……」
その声は、聞こえるはずのないものだった。
手の中には、ちいさすぎるいのち。
生まれたてでまだ目も開いておらず、びくびくと震えるだけで鳴き声すらあげられないようだった。
「かなり衰弱してますね」
「…………」
「……どうするんです? このままじゃこの子……」
本田さんは、その先は言わなかった。ぐっと奥歯を噛み締める。いやだ。死なせるのは、いやだ。
「動物病院を探す」
こんな深夜にやっている動物病院があるとは思わない。けど、なにもしなければこの子は死んでしまう。それなら、足掻かないと。
「私、救急外来がある動物病院知ってますよ」
「本当ですか!?」
そのひとことは、一本の|藁《わら》だった。
その後、深夜もやっている動物病院へ連れていき、処置を終えて帰路に着いたのは、明け方の四時だった。
「……付き合わせてしまって悪かったですね」
「いえ。仔猫ちゃんが無事でなによりでした」
「これから里親探さないと……」
しかし探すにしても、俺には友達なんていないし、知り合いもほとんどいない。
「え、野上さん飼わないんですか?」
「……僕は飼えないよ」
「どうして?」
それは……。
喉まででかかった言葉を呑み込み、ぎゅっと唇を噛む。
「……とにかく飼えないんだ。だから、飼ってくれるひとを探さないと」
背中を向けて、夜道を歩き出す。
「ここまでしたのに……」
「本田さん、近くに猫好きな知り合いとかいませんか?」
本田さんの言葉に聞こえないふりをして、僕は訊く。
「うちのアパート、ペット禁止じゃないんですし、飼ってあげましょうよ。ねぇ? この子、野上さんにすごい懐いてるじゃないですか」
「……僕は、猫は飼えない。飼えないんだ」
「アレルギーでもあるんですか?」
「そうじゃないけど……」
「じゃあ飼ってあげましょうよ。私も手伝いますから」
「……できない」
「なんで?」
頑なに首を横に振る僕を、本田さんは怪訝な顔で見つめてくる。
「……なんでも」
「なにか理由があるんです?」
「あなたには関係ないでしょう」
「だったら、なんで助けたんですか」
「……それは、だって、放っておけないから」
目を泳がせる僕に、本田さんは詰め寄ってくる。
「そんなの勝手すぎます! 助けたあとの責任を持てないなら、絶対この子は助けるべきじゃなかった。あのままにしていたら、ほかのだれかがこの子を助けてくれたかもしれないのに」
そのとおりだった。そんなことは、僕だって分かっていた。でも、身体が勝手に……。
「君になにが分かるんだよ」
「……分かります。この子には、野上さんしかいないんですよ」
「……僕はダメなんだよ。動物を飼うことに向いてないから」
「向いてない?」
言葉につまりながら、呻くようにして告げる。
「……昔、飼ってた仔猫を死なせたことがある」
「え……」