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ー/ー 神秘の森は、団地から歩いて五分ほどのところにある。
いつも霧がかかっているのでなかの様子を確認することはできないのだが、今夜は違った。
白銀の月光の下、森は深緑のベールをまとったように輝いていたのだ。どの木も見上げるほど大きく育ち、生き生きしていて、風もないのに葉を揺らしている。
もし魔女でもない人間が足を踏み入れたらどうなるのだろう。初めはただ呆然とたたずんでいただけだったが、やはり好奇心は止められなかった。朱夏は金色の蝶がやめるよう諭しても、構わず一歩また一歩と進んでいった。
最初はおそるおそる、慣れてくると、スキップしながらどんどん奥へ。虫かごの格子に捕まった金色の蝶が金切り声を上げて停止を求めるけれど、朱夏は気にも留めない。ようやく足を止めたのは、絵本で読んでいた湖にたどり着いた時のことだった。
もはや金色の蝶になど、興味を失っていた。朱夏はそれまでの執着心などどこかへ置き去りにした様子で虫かごの格子を開けた。
「さよなら、精霊さん。一時の間だったけれど、楽しかったよ」
金色の蝶はあわてて虫かごを飛び出した。また捕まってはかなわないと思ったのかもしれない。お別れのあいさつがないことに朱夏は不満を覚えたけれど、それもつかの間。湖畔にあるナナカマドの木がひと粒の赤い実を落とすと、忘れてしまった。赤い実は、水底に沈む前に、一匹の鯉の餌になった。食事を終えた鯉は、朱夏には目もくれずにしゃがれた声で話をした。
「魔性の蝶よ。今ならばまだ間に合う。主に見つかる前に立ち去るがいい」
「魔性の蝶……?」
ここには鯉と自分しかいない。朱夏は首をかしげたが、鯉はあさっての方角に顔を向けたまま、独り言のように語った。
「そうさ、おまえは魔性の蝶。世の理を乱す不穏分子。主には考えがあり、生かされておる」
「意味がわからない……」
朱夏は心を落ち着けるべく爪を噛もうとした。そこで初めて、自分が蝶になっていることに気がついた。
広げた羽は、血の色に似たまがまがしい朱色。夢なら醒めてほしいと願って乱暴に宙を羽ばたいたが、ただならぬ疲労感が、これは現実なのだと教えていた。
魔女しか立ち入りを許されていない聖域に足を踏み入れた罰を与えられてしまったのだろうか。絶望した朱夏は、ナナカマドの木の枝にぐったりと寄りかかった。すると木の根元あたりがかすかに揺らぎ、地の底から立ち上るかのような声が辺りに響いた。
「おまえだな。もぐりこんだ魔性というのは」
鯉は素知らぬ顔で水底に消えてしまった。彼の言う主が、この声の主なのだろう。朱夏は姿の見えない相手に対し、息も絶え絶えに懇願した。
みんなのリアクション
まだリアクションはありません。最初の一歩を踏み出しましょう!
神秘の森は、団地から歩いて五分ほどのところにある。
いつも霧がかかっているのでなかの様子を確認することはできないのだが、今夜は違った。
白銀の月光の下、森は深緑のベールをまとったように輝いていたのだ。どの木も見上げるほど大きく育ち、生き生きしていて、風もないのに葉を揺らしている。
もし魔女でもない人間が足を踏み入れたらどうなるのだろう。初めはただ呆然とたたずんでいただけだったが、やはり好奇心は止められなかった。朱夏は金色の蝶がやめるよう諭しても、構わず一歩また一歩と進んでいった。
最初はおそるおそる、慣れてくると、スキップしながらどんどん奥へ。虫かごの格子に捕まった金色の蝶が金切り声を上げて停止を求めるけれど、朱夏は気にも留めない。ようやく足を止めたのは、絵本で読んでいた湖にたどり着いた時のことだった。
もはや金色の蝶になど、興味を失っていた。朱夏はそれまでの執着心などどこかへ置き去りにした様子で虫かごの格子を開けた。
「さよなら、精霊さん。一時の間だったけれど、楽しかったよ」
金色の蝶はあわてて虫かごを飛び出した。また捕まってはかなわないと思ったのかもしれない。お別れのあいさつがないことに朱夏は不満を覚えたけれど、それもつかの間。湖畔にあるナナカマドの木がひと粒の赤い実を落とすと、忘れてしまった。赤い実は、水底に沈む前に、一匹の鯉の餌になった。食事を終えた鯉は、朱夏には目もくれずにしゃがれた声で話をした。
「魔性の蝶よ。今ならばまだ間に合う。主に見つかる前に立ち去るがいい」
「魔性の蝶……?」
ここには鯉と自分しかいない。朱夏は首をかしげたが、鯉はあさっての方角に顔を向けたまま、独り言のように語った。
「そうさ、おまえは魔性の蝶。世の理を乱す不穏分子。主には考えがあり、生かされておる」
「意味がわからない……」
朱夏は心を落ち着けるべく爪を噛もうとした。そこで初めて、自分が蝶になっていることに気がついた。
広げた羽は、血の色に似たまがまがしい朱色。夢なら醒めてほしいと願って乱暴に宙を羽ばたいたが、ただならぬ疲労感が、これは現実なのだと教えていた。
魔女しか立ち入りを許されていない聖域に足を踏み入れた罰を与えられてしまったのだろうか。絶望した朱夏は、ナナカマドの木の枝にぐったりと寄りかかった。すると木の根元あたりがかすかに揺らぎ、地の底から立ち上るかのような声が辺りに響いた。
「おまえだな。もぐりこんだ魔性というのは」
鯉は素知らぬ顔で水底に消えてしまった。彼の言う主が、この声の主なのだろう。朱夏は姿の見えない相手に対し、息も絶え絶えに懇願した。