冷蔵庫の配線に、金色の蝶が一匹。ほんの数刻前にかえったらしく、羽はまだ湿っている。足元には、未黒から預かった青緑色の卵の殻が転がっていた。
「予定より早く精霊がかえってしまったんだ……。どうしよう……」
朱夏は爪を噛みながら考えをめぐらせる。未黒からは、難しいことが起きたらすぐに相談するようにと言われていたけれど、動転してすっかり忘れてしまっていた。
とにかくこの尊い命を守らなければ――。朱夏は押し入れにしまい込んでいた虫かごを引っ張り出してきて、金色の蝶に声をかけた。
「ごめんね。少しだけ我慢して、この中に入っていてね」
虫かごはとても小さい。けれどそのうち飛び回れるようになった時、羽に傷がついてしまったら大変だ。朱夏は慎重に蝶の細い体をつまんで、虫かごのなかに収めた。
かわいそうという気持ちに反して浮かぶのは、神秘の森の精霊を捕えた背徳感。朱夏はうっとりと、まばゆいばかりに輝く金色の蝶を眺める。
やがて深夜を過ぎた頃、どこからともなくさめざめした泣き声が聞こえてきた。蝶を入れた籠の前でうとうとしていた朱夏は、寝ぼけ眼で口を開いた。
「泣いているのは誰? わたしの前にいる金色の蝶?」
そうよ、と応える声は、金属をこすり合わせた音に似ていた。耳を澄ませなければ、別の物音と間違えてしまうかもしれない。朱夏もつられて小声になった。
「どうして泣いているの?」
「悲しいから」
「朝になれば、魔女のところへ連れて行ってあげるよ」
「朝になってからでは遅いの。朝の光は、わたくしの体をとかしてしまうから」
夢とうつつの合間をたゆたうような眠気が体を襲う。ママはいつも、夜は眠るためにあるものだと朱夏に言ってきかせた。その意味がやっとわかった。夜は精霊のためにある時間なのだ。
「あと少しだけ眠らせて。そうしたら、魔女のところへ……」
「こうしている間にも時間はどんどん過ぎてしまう。お願い、わたくしを早く魔女に会わせて」
相手がママなら、うるさいなぁと文句を言って無視するのだけれど。朱夏はしかたなくぐずぐずと立ち上がって、虫かごを抱えた。
「わかったよ。でもここの魔女はとっても怖くて面倒くさいひとだから、わたしが神秘の森に連れて行ってあげる」
「神秘の森に、あなたは入れないわ」
「入り口までなら何度も行ったことがあるから大丈夫だよ」
誰にも話したことはないけれど、朱夏はいずれ魔女になりたいと思っている。人間と精霊のはしご役。ほんの少しだけ魔法が使えることで敬意の対象になっている彼らは、子供たちの憧れの存在だった。朱夏は魔女になったつもりで、これまでに幾度となく神秘の森のそばまで探検していた。
「信じていいの?」
「もちろんだよ」
朱夏は自信たっぷりにうなづき、念のため、青衣が起きてこないか確かめに行った。おなかを出していびきをかいていた青衣に、朱夏は自分の毛布をかけてあげた。体を動かしたことで、だいぶ頭が冴えた気がする。不安に揺れる蝶の瞳を見なかったことにして、朱夏は家を出た。