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ー/ー 二人が階段を昇って五階にたどり着くと、未黒は白いリネンをかぶせたラタンの籠を大事そうに抱えながら、玄関前に立っていた。どうやらそろそろ来る頃だと見込んで待っていたようだ。
住民の八割がお年寄りの団地の夜は早い。朱夏は小声で呼びかけて近寄って行った。
「こんばんは、未黒さん」
「こんばんは、朱夏と青衣ちゃん」
なぜ青衣だけちゃん付けなのだろうといぶかしがりながら、朱夏は差し出されたラタンの籠を丁寧に受け取る。
未黒は静かな湖に生まれた泡のようにささやかな声音で言った。
「約束よ。難しいことが起きたら、すぐあたしに相談すること。予定だと孵化はまだ一週間先だから、大丈夫だろうとは思うけれど」
ラタンの籠のなかには、竜に託された精霊の卵が入っている。通常は魔女が管理するのだが、希望があれば、一般の人々がひと晩だけ面倒を見ることができた。たいていはほんの少しだけ魔女の気分を味わってみたいという好奇心に基づくもので、十一歳以上なら誰でも許可が下りることになっていた。
とはいえ、卵はいつでも魔女の手元にあるわけではない。朱夏はたまたま半年前から春休みの体験日記に書きたいと申請を出していて、今回、運良く叶った形だった。
「もちろんです、未黒さん。こう見えて、ママの言いつけを破ったことはないんですから安心してください」
「本当かしら? でも今夜は青衣ちゃんが一緒にいてくれるなら心配無用ね」
ここで言い返したら、卵を預かる話がふいになるかもしれない。朱夏はぐっとおなかに力を入れて我慢して、にこやかにほほえんだ。
未黒はそれを知ってか知らずか、青衣に視線を移した。
「部屋の灯りはなるべく暗く。温度は二十度を保ってね。なにより風を嫌うから、エアコンの羽の向きには気をつけるように。朱夏には事前に説明したけど、青衣ちゃんにも一応、お話しておくわ」
「わかりました。明朝は、何時頃にお伺いすればいいですか?」
「七時に来てくれる?」
「では時間ちょうどに呼び鈴を鳴らします」
「わかったわ」
未黒は感心したようなまなざしを青衣に向け、朱夏に言った。
「朱夏もこのくらいしっかりしていたら、ママも愚痴を言わなくて済むのに。今日だって、夜勤に出かける間際まで、胃に穴が開きそうだって嘆いていたわよ」
「それは単にお酒の飲み過ぎです」
「ふふ。親の心子知らずね。まあいいわ。また明日。おやすみ」
「おやすみなさい」
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二人が階段を昇って五階にたどり着くと、未黒は白いリネンをかぶせたラタンの籠を大事そうに抱えながら、玄関前に立っていた。どうやらそろそろ来る頃だと見込んで待っていたようだ。 住民の八割がお年寄りの団地の夜は早い。朱夏は小声で呼びかけて近寄って行った。
「こんばんは、未黒さん」
「こんばんは、朱夏と青衣ちゃん」
なぜ青衣だけちゃん付けなのだろうといぶかしがりながら、朱夏は差し出されたラタンの籠を丁寧に受け取る。
未黒は静かな湖に生まれた泡のようにささやかな声音で言った。
「約束よ。難しいことが起きたら、すぐあたしに相談すること。予定だと孵化はまだ一週間先だから、大丈夫だろうとは思うけれど」
ラタンの籠のなかには、竜に託された精霊の卵が入っている。通常は魔女が管理するのだが、希望があれば、一般の人々がひと晩だけ面倒を見ることができた。たいていはほんの少しだけ魔女の気分を味わってみたいという好奇心に基づくもので、十一歳以上なら誰でも許可が下りることになっていた。
とはいえ、卵はいつでも魔女の手元にあるわけではない。朱夏はたまたま半年前から春休みの体験日記に書きたいと申請を出していて、今回、運良く叶った形だった。
「もちろんです、未黒さん。こう見えて、ママの言いつけを破ったことはないんですから安心してください」
「本当かしら? でも今夜は青衣ちゃんが一緒にいてくれるなら心配無用ね」
ここで言い返したら、卵を預かる話がふいになるかもしれない。朱夏はぐっとおなかに力を入れて我慢して、にこやかにほほえんだ。
未黒はそれを知ってか知らずか、青衣に視線を移した。
「部屋の灯りはなるべく暗く。温度は二十度を保ってね。なにより風を嫌うから、エアコンの羽の向きには気をつけるように。朱夏には事前に説明したけど、青衣ちゃんにも一応、お話しておくわ」
「わかりました。明朝は、何時頃にお伺いすればいいですか?」
「七時に来てくれる?」
「では時間ちょうどに呼び鈴を鳴らします」
「わかったわ」
未黒は感心したようなまなざしを青衣に向け、朱夏に言った。
「朱夏もこのくらいしっかりしていたら、ママも愚痴を言わなくて済むのに。今日だって、夜勤に出かける間際まで、胃に穴が開きそうだって嘆いていたわよ」
「それは単にお酒の飲み過ぎです」
「ふふ。親の心子知らずね。まあいいわ。また明日。おやすみ」
「おやすみなさい」