魯智深がまだ魯達だった遥か昔、東京で出会い、武の道を示してくれた人は、手の付けられない悪童であった魯達に笑いかけて、こう言った。
「魯達よ、どれだけ恐れられようと、お前が打つべきと思ったものに拳を向けなさい」
雪でも降りそうに冷え込んだ朝の風に過ぎた日々のことを思い出し、珍しく感傷に近い気分を感じていた魯達――もとい魯智深は、ふらりと僧鞋を足にひっかけた。
義を、力を、酒を、江湖の噂を語るべき相手もおらず、徒に過ぎゆく時がもどかしい。打つべきと思ったものに拳を向けたはずなのに、いまや酒も肉も食えぬとは、囚人よりも悪い生活ではないか。
「くそ、今まで酒だって肉だって毎日のように食っていたのに、坊主になったおかげで毎日粥と精進ばかり。腹は減るし干物にでもなっちまいそうだ」
もとより一人でぶつくさ騒ぐことの多い智深であったが、話し相手のいない今、独り言はさらに増えていた。
「趙員外も最近は飯すら送ってよこさねえ……そろそろ限界だ。酒を飲まなけりゃ、死んじまう」
髭が伸びてはすぐに剃られるせいで赤くなりがちな顎を撫で、腹が減っている割には相も変らぬ太鼓腹を揺らしながら、最近見つけた山の中腹の庵の肘掛け椅子にどかりと座る。
そもそも修行にいそしむ僧侶たちは、目的もなく山を歩き回ることもしないから、正門の反対側にあるこの庵にはほとんど人が来ない。ここに座り、山の景色や空を行く鳥を眺めながら昼寝をするのが智深の日課となっていたのだが、今日ばかりは、いつもと少し様子が違った。
「……ふん、酒が恋しくて、匂いまで思い出しちまったか」
上酒の香りがふわりと鼻先を掠めた気がして禿げ頭を掌で打った智深の耳に、遠くから調子外れな歌声が聞こえてくる。
「遥か山麓の古戦場 槍や刀は錆だらけ
烏江の水面を揺らすのは 覇王別姫の悲哀だけ……」
なんとも情をくすぐるその歌を高らかに歌うのは、まるで詩になど縁のないような、くたびれた着物を纏うごく普通の町人の男だった。
だが、柄杓を片手に遊ばせながらゆるりと山道を登ってくる男の風体から、智深は、己の嗅覚が幻に捕らわれたわけではないことを悟った。
彼の担ぐ桶の中身は、間違いなく、己の愛してやまないものだ。
「覇王別姫の……おや、お坊様、こんにちは」
ふうふうと息を切らした男は、智深のいる庵まであがってくると、一息つこうと桶をおろし、愛想のよい笑顔を見せた。
「五台山のお坊様がこんなところにいらっしゃるとは珍しいですね」
手を合わせて軽く頭をさげる男にかまわず、智深は椅子から立ち上がり、のしのしと男に詰め寄った。
「なあ、その桶の中身はなんだ?」
「ああ、これですか。とびきりの上酒ですよ」
まさか坊主が酒を欲しがるとは毛ほども思っていないのか、男は何の気なしにそう言った――だが、相手は水のように酒を飲む男、智深である。
「やはりな! おい、一桶いくらする?」
「は……?」
智深に負けず目をかっぴらいた男は、桶を智深から守るように後ずさる。
「はは……お、お坊様、冗談でしょう?」
「ふん、お前をからかったって腹の足しにもならんわ」
「あのですね、お坊様。この酒は、お寺で働いてる職人や掃除の方、寺男衆のみなさんにだけ売ってるんです。もしお坊様に一滴でも売ったことが知られれば、長老様のお達しどおり、叱られるどころか元手を取られ、家から追い出されちまうんですよ。あっしらはお寺から元手を借りて、持ち家も与えられているんでね、長老様の言いつけに背くなんてとても……」
顔を青くしたり赤くしたりしながらも、酒売りの男は懸命に智深から酒を遠ざけようとする。だが、ここを通りがかってしまったのが運の尽きというものだ。桶から立ち上る豊かな酒の香りに、信心もなく成り行きだけで坊主になった男が勝てるはずはない。
「じゃあ、どうしても売らんというわけか」
「たとえ殺されようが、お売りすることはできません」
「坊主が人を殺すもんか。俺はただ、一口でいいからこっそり売ってくれと言っているんだ!」
「わ、分からないお人だ! 売れないもんは、売れないよ」
ぬう、と伸ばした智深の腕をかいくぐり、男は桶を担ぎ上げると踵をかえし、元来た道を怒涛の勢いで逃げ出した。だが、やはり相手が悪すぎる。
「わからずやはお前のほうだ、待たんか!」
その巨体に似合わぬ素早さであっという間に男の背を捕らえた智深は、太い両の腕で酒の入った桶をむずりと掴み、その勢いで男の股座をためらいもなく蹴り上げた。
「はは、素直に渡さんからこうなる」
そして声もなくうずくまる男を後目に、二つの桶を両脇に抱えて庵に戻り、男が落としていった柄杓を引っ掴むと桶の蓋を開けた。
「おお……こんな山奥で、こんな上酒に巡り合えるとは、これぞ仏の導きか」
祭壇の前では少しも合わせたことのない両の手を酒の前ですり合わせ、体いっぱいにその匂いを吸い込むと、さっそく智深は柄杓を桶につっこみ、浴びるように冷酒を飲み始めた。
「ああ、うまい! はッ、飲ませてやりたいもんだ」
誰に――とは口に出さなかった。ただ、乾いた体を必死に酒で満たした。
息つく間もなく、何度も柄杓を桶に突っ込み、喉を鳴らし、そうして一心不乱にすることわずか、気が付けばすでに片方の桶は、水滴の一つも残らず空になっていた。
「ふん、まあ、今日は一つ分で勘弁してやろう。酒代は明日取りに来な」
生臭い吐息を漏らす智深の視線の先では、ようやく股間の痛みから立ち直った男が、残った酒を慌てて両の桶に分けなおしてそそくさと山を下りていくところだった。どんな目に遭おうと、あの男には身を寄せる場所があるのだろう。
「……やはり酒を断つのは、体に悪いではないか」
この程度の量ですでに熱を帯びてきた気怠い体を、椅子から引きはがす。滝を浴びるがごとく酒を飲んできた己が、この程度で千鳥足になり、おまけにどこか気弱になっているのは、しばらく酒を断っていたからに違いない。毎日酒を飲まなければ、酒を飲めない体になってしまう――それは由々しき事態である。
ふらつく足をもつれさせながら庵を出て、松の木陰から空を見上げた。小さな鳥でさえ思うままに空を飛び回っているというのに、なぜこんなところで、好きなものを口にすることもできず、こうして一人、酔いを求めているというのか。
あの酒を、注いでやる相手もいない、山奥で。
「もう一つの桶も、飲み干してやりゃあよかった!」
銅鑼のような声で吼えると、智深は僧衣の上着をがばりと脱ぎ、袖を腰に巻き付けた。酒で膨れたはずの腹は、どうにも未だ満たされない。
飢えは人を変えてしまうことを、智深は知っていた。
捨ててきたはずの面影が、刹那、脳裏をよぎる。
それを振り払うように、おお、と言葉にならぬ声を何度もあげる。
背に負った刺青を汗に光らせながら、智深はぐるりと両腕を回し、山道を登った。
丸い顔を赤く染め、風に逆らいながら飛ぶ猛禽のように体を揺らし、ぎょろりとした眼を血走らせるその姿に恐れをなしたか、薄く空を覆っていた雲すら姿を消した。
「ハハ、夏でも来たみてぇだ」
呂律の回らぬ舌が、故郷のきつい訛りを紡ぐのもまたおかしくて、智深は肩を揺らす。
「なっ……智深、貴様、何をしている!」
一人笑い、かと思えば大声をあげ、言葉にならぬ言葉で何かを罵る酔漢の姿に、笑い事ではなく仰天したのは寺の山門を守る門番たちだった。
「僧侶の身でそのように泥酔し、この山を穢すつもりか! 盲でもあるまいし、そこに掲示があるのが見えぬのか!」
神経質そうな痩せぎすの男が指さした高札を、智深はすっかりあぐらをかいた目で睨みつけた。
「俺は字が読めん!」
「ならば私が言い聞かせてやる。戒律を破り、酒を飲めば、この杖で四十回打ち据えたのち、寺から追放されるのだ! もし酔った僧侶を寺に入れでもしたら、今度は私たち門番が十回打たれてしまう。こうとなってはお前を打つのはやめにしてやるから、さっさと山を下りるのだ」
「なんだと?」
音さえしそうな勢いで、智深は座っていた目をかっ開いた。
「貴様ら坊主はこんな山奥で何を見てもいないくせに、どうしてそう偉そうな口ぶりだ! 俺を打つと言うのなら、とことん相手をしてやるぞ!」
「ひっ……!」
天蓬元帥も裸足で逃げ出すほどの智深の様に、さしもの門番たちもこれはまずいと後ずさる。
「お前は監守様のところに報告へ行くのだ!」
「は、はい……!」
小太りな方の門番が転がるように逃げていくのを横目に、智深はもう一人の門番が掲げた杖を片手でいともたやすくへし折った。
「誰が誰を追放するだと?」
「がっ!」
甲高い音を立て、肉の厚い智深の平手が門番の頬にめり込んだ。
「俺だって好きでこんな寂れた寺に来たわけじゃねえ! お前ぇら坊主が口先ばかりで世の中の不正を見逃しているから、かわりに俺が悪を成敗したんじゃねぇか」
幼子のごとき軽さで吹き飛んだ門番の体に、さらに拳を叩き込む。
「ハハッ、今日はこれで勘弁してやるぞ!」
随分と久しぶりに体を動かした爽快さに肩を揺らし、智深がゆらゆらと山門をくぐると、ちょうど門番の報告を受けた監守の声で、寺男や職人たちが二、三十人ほど飛び出てきたところだった。
手に手に棒や杖を持っている男たちを前に、智深の鼓動が早まり、すでに血がのぼりきった頭が痛いほどに熱くなる。
「かかって来い!」
雷鳴の如く吼え業火の如く踏み込む智深のその凶暴な熱波は、山の静謐を瞬く間に呑み込んだ。
生臭坊主をこらしめようと集まった男たちにはもはや戦意の欠片もなく、悪鬼を前にしたかのように蒼白な顔で倉庫に駆け込み、格子戸を閉める。
「逃げるな!」
倉庫の階段を駆け上がった智深の腕が隆と盛り上がったかと思うと、頑強な格子戸が鈍い音を立てて木っ端に戻る。
もはやこれまで、と寺男たちが脳裏に御仏の姿を描いたその時、
「智深!」
さして大きくも恐ろしくもない声だった。
だが、何かの戒めを解かれたように屈強な体を暴れさせていた智深を止めるには、その声だけで十分だった。
「……無礼をするな」
振り上げた腕をゆるりと下ろした智深の頭から、潮が引くように熱が去っていく。
「長老……」
振り返った智深の前には、初冬の木漏れ日を背負う智真長老が、白く長い眉毛の下の目に不思議な光を乗せて立っていた。
「……長老!」
まるで目に見えぬ力に引きずり倒されたかのように、智深は床にひれ伏し、額をこすりつけた。
「確かに、酒を飲んじまったのは悪かった。だが、俺はあいつらに何も悪さをしちゃいない! それなのにあいつら、寄ってたかって俺を打ちのめそうとしたんです」
「部屋に戻り、すぐに休みなさい。後のことは、明日にしよう」
己の言葉に同情もせず、かといってこの場で罰することもせず、長老は静かに智深の背を叩いた。
「さあ」
「……はい」
去り際、魂が抜けたように己を見つめる寺男たちに向かい、智深は鼻を鳴らした。
「ふん、長老様が来なけりゃ、今頃お前たち役立たずどもなんぞひねりつぶしていたわ」
行き場を無くした熱は消え去り、諸肌脱いだ半身に、ようやく北風の寒さが突き刺さった。