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(五)

ー/ー



 空が晴れ渡っている、と思ったのは、久しぶりに周囲の目を気にせず、ゆったりと空を見上げたからかもしれない。
 青空に溶け込むような柔らかな鐘と太鼓の音色が鳴り渡る中、魯達は法堂の中で、この山に住まうすべての僧侶が袈裟を着込んで一堂に会する様をしげしげと眺めていた。
 その心中を推し量りがたい仏頂面を浮かべた僧侶たちは、堂に入ってきては法座の下に進み出て合掌礼拝し、次々と列を成していく。
 法座に腰掛けた智真長老だけが、にこにこと人当たりのよさそうな笑みを浮かべている。その足元には、この三日の短い間に作らせたのであろう、魯達のための僧衣や仏具が綺麗に並べられていた。
 (まったく、妙なことになったものだ)
 つい三日前まで、罪を犯した身とは言え、己は普通の提轄であった。それがたった三日の間に、あれよあれよと事は進み、最も己から縁遠い存在であった坊主になぞなろうとしているのである。それが不思議やらおかしいやらで、魯達は思わず低い笑い声を漏らした。
 「魯提轄、どうされました」
 願書を読み上げ、供物やお香を法座に備えて戻ってきた趙員外の訝し気な視線には首を振って答え、小坊主に導かれるまま、魯達もまた法座の下に身を置いた。そこで待ち構えていた坊主たちの手には、剃刀――いよいよ己も、禿頭になるというわけか。
 「それでは」
 すまし顔の坊主たちは、魯達のぼさぼさ髪を分け束ね、指に挟むと、粛々と剃刀を当てはじめる。しばらく無心でされるがままに座っていた魯達だったが、剃り落とされた髪の一房が鼻先に落ちてきたので目を閉じた刹那、唐突に体が宙に浮いたような心地を覚えて身じろいだ。
 (俺は、このまま一生、この陰気な寺で暮らすのか?)
 罪から逃れ命も助かり、そのうえ他でもない趙員外の願いとも思えば出家の話を受け入れたが、これからの生活は、例えば今までのように酒が飲めなくなるだけではないのだ。
 例えば肉が食えなくなり、例えば悪人を見つけても義憤のまま殴ることができなくなり、例えば、これまで歩んできた武の道は――
 「それはッ」
 寄る辺ない焦燥感は、坊主たちの手が髭に触れた瞬間、頂点に達した。
 東京に学び少林寺で花開かせた武術の才を見込まれ、渭州の武官に取り立てられてから、一度も髭を切ったことはない。自慢の髭だった。
 「……その髭は、残しておいてくれんか」
 魯達の顔がよほど必死だったのか、坊主たちがくすくすと肩を震わせる。その態度に例の癇癪玉がむくむく膨れ上がったところ、それまで穏やかな眼差しで魯達を見下ろしていた智真長老が、低い声で唸るように偈を念じた。
 「皆、よく聞くがよい。寸草を留めずして初めて六根清浄(ろっこんしょうじょう)となる。汝の為に剃を施し、故に争いを免れ得る……」
 老いてなお濁りの一つもない瞳が、まっすぐに魯達を射抜いた。
 「すべて剃り落としなさい」
 長老の喝の残響も消えぬうちに、魯達の髭は、一つの剃り残しもなく消え去った。
 人いきれで暑いはずだった堂の内が急に寒くなった心地さえして、魯達の頬が震える。
 「智真長老、どうかこの者に、法名をお示しください」
 一人の坊主が掲げた度牒には、大きな隙間があいている。死んでもいないのに授けられる法名とやらが収まる場所なのだろう。
 「……霊光一点、価値千金。仏法広大、名を……智深(ちしん)と賜う」
 「智深」
 「魯智深」
 「魯智深……」
 坊主たちが消え入りそうな声で囁きあうその名が、己の新たな名であった。
 隙間を三字で埋められた度牒を受け取った魯達――魯智深は、しげしげとその字を眺める。文字の読めぬ己であったが、この三字だけは忘れまい。
 「魯智深よ、こちらへ」
 法座から降りた長老は、おずおずと歩み寄った智深に法衣と袈裟を着せ掛け、すっかり禿げ上がった坊主頭の上に手を置いた。
 「今からお前に三帰五戒(さんきごかい)を授けよう。一、仏に帰依すること。二、法に帰依すること。三、師友に帰依すること。これを三帰と言う。一、殺生するべからず。二、偸盗(ちゅうとう)するべからず。三、邪婬するべからず。四、妄語するべからず。五、飲酒するべからず……これを五戒と言う。よいかな」
 「……よくわからんが、わかりました。酒を飲むなってことですね」
 不貞腐れた智深の声に、また坊主たちの間から失笑が漏れる。坊主というのは、つくづく人を見下したやつらよと眉を逆立たせる智深に、長老がそっと囁いた。
 「智深よ、禅門では、問いに答えるときは『能』か『否』かで答えるのだ」
 「なんだ長老、そういうことは早く言ってくださいよ」
 智深の授戒が終わると、趙員外は斎で僧侶たちをもてなし、智深は全山の僧侶たちへの目通しに追われ、慌ただしいままに一日が過ぎていった。
 もはや追っ手も来ないであろうというのに落ち着いて深睡も出来ぬまま次の朝を迎えた智深は、趙員外を送る朝の斎に同席し、これでいよいよ己も一人、坊主として生きていくのかと、員外が僧侶たちに挨拶をする姿をぼんやり眺めた。
 「長老様、お僧のみなさま、愚弟の智深はどうにも気性の激しい粗忽者。仏の世界にもなじみのない故、無礼なふるまいをし、寺の法規を犯すこともあるやもしれませんが、どうぞ私に免じてお許しいただき、正しき道に教え導いてくださいますようお願いいたします」
 「員外殿、どうぞご安心なされませ。誰も初めは勝手のわからぬもの。私がじっくり、経や修行のことを教えてまいりますから」
 「長老様にそう言っていただければ安心して愚弟を任せられます。いずれまた、御礼をしに参りますれば……」
 長老との挨拶を終えた趙員外は、ぼけっと突っ立っていた智深を手招き、僧侶たちから少し離れた木陰に呼び寄せ囁いた。
 「恩人様、やむを得ぬ出家とはいえ、今日よりはあなたも仏門の方。どうぞ身を戒め、奔放なことはなさらぬように……そうでなければ、私も、それに翠蓮と義父上も、二度とあなたにお目にかかることができなくなってしまいます。どうか御体に気を付けて。またそのうち衣類なども、使いの者に持ってこさせますから」
 「こうして生きながらえたのもあんたのおかげ。万事うまくやるから心配せんでください」
 風に揺れる松の木が落とした影のせいか、趙員外の端正な顔に刹那、不穏が過る。
 しばし別れを惜しむように目を潤ませていた員外は、どうか御達者で、と消えるような声でつぶやくと、雅な着物の裾を揺らしてきびすをかえし、屋敷から来ていた迎えの籠に乗り込んだ。
 そうして智深はひとり、物寂しい山に残されたのだった。

 「はて、そうは言っても、何をすればいいのか見当もつかんな」
 五台山の僧侶と言えば誰もがありがたがる存在であったはずだが、果たして実際目の前にいる坊主たちは、智深に対して笑顔の一つも見せず、浴びせられるものと言えばあざけったような薄ら笑いと冷たい眼差しだけ。武人が気に食わないだけかとも思ったが、かつて武術を学んだ少林寺のことを思い出せば、決して仏門と武門は別世界とも思えぬ。
 「俺のことが気に食わんのはかまわんが、外面だけでも歓迎するふりをしてくれりゃ、かわいげだってあるものを」
 僧侶たちが己のことを放っているのをいいことに、智深はぶらぶらと境内の木立の中を歩き、昨日から寝起きしている坐禅堂に戻ると床にごろりと横たわった。晩秋の寒さがひやりと背を伝っても、毛布を運んでくれる者もいないのだ。
 それでも慣れぬ儀式の疲れでうつらうつらと智深が船を漕ぎ始めたころ、二人の若い修行僧がたまたま坐禅堂に戻ってきて、だらしなく床に寝そべる智深をあわてて突き起こした。
 「おい、智深。出家早々、坐禅も組まずに惰眠を貪るとは、どういうことだ?」
 「なんだ、うるさいやつめ。俺は眠たくなったら寝るんだ。街の見回りなんぞするわけでもない、ただ座ってるお前らに指図されるいわれなんぞないわ」
 「それはそれは、けっこうな行儀(ぎょうぎ)で」
 嘆息する修行僧に、智深はさっそくむかっ腹をたて、半身を起こして腕をまくった。
 「うなぎ? 何をわけのわからんことを。すっぽんなら俺がいつでも食ってやるぞ」
 「これは苦い想いをさせられる……」
 「苦いわけがないだろう。すっぽんを食ったことがないのか? 脂が乗っていてとてもうまいぞ」
 ついに黙りこくった坊主たちに気をよくした智深は、その後も誰も声をかけてこないのをいいことに、そのまま深い眠りについた。
 ――一方、眠ることもできなくなったのは僧侶たちの方である。
 仏門の掟を知らないだけならばいざ知らず、教えようとしても聴く耳も持たず横柄な態度で威張り散らす元武官の様子にいてもたってもいられず、翌朝になって首座の僧侶に訴えかければ、
 「長老様が、あの男は非凡な男であり、将来必ずや悟りを開いて我らでは及びもつかぬ男になるとおっしゃるのだ。どうにも贔屓をされているようで、我々がお諫めしてもどうにもならぬ。お前たちは、あんなものの相手をせず、修行に励みなさい」
 と諦めの境地に立ったような言葉を返されるばかりである。
 そうして誰もが腫れ物に触るように遠巻きになってしまったとなれば、あとは智深の好き放題である。
 日が暮れればどこにいようがすぐにごろりと横になって午睡をむさぼり、夜は夜で雷鳴のようないびきをかいて眠りこける。用を足すとなればどたばたと騒々しい足音を立てて走り回り、場所もわきまえず、御堂の裏や仏塔の足元にさえ大小垂れ流す様に、さすがの僧侶たちも再び長老に窮状を訴えかけるのだが、智真長老はと言えば、そのうちに学ぶ、の一点張り。
 それ以来、誰も智深のことに口を出さなくなり、智深もまた、誰に対して遠慮をすることもなくなっていった。
 民を想い悪を憎み、正義のために拳を振るうことを厭わず恐れられた魯提轄は、張っ倒すべき悪に立ち会えもせぬまま、ただ無為に時を過ごしていた。



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 空が晴れ渡っている、と思ったのは、久しぶりに周囲の目を気にせず、ゆったりと空を見上げたからかもしれない。
 青空に溶け込むような柔らかな鐘と太鼓の音色が鳴り渡る中、魯達は法堂の中で、この山に住まうすべての僧侶が袈裟を着込んで一堂に会する様をしげしげと眺めていた。
 その心中を推し量りがたい仏頂面を浮かべた僧侶たちは、堂に入ってきては法座の下に進み出て合掌礼拝し、次々と列を成していく。
 法座に腰掛けた智真長老だけが、にこにこと人当たりのよさそうな笑みを浮かべている。その足元には、この三日の短い間に作らせたのであろう、魯達のための僧衣や仏具が綺麗に並べられていた。
 (まったく、妙なことになったものだ)
 つい三日前まで、罪を犯した身とは言え、己は普通の提轄であった。それがたった三日の間に、あれよあれよと事は進み、最も己から縁遠い存在であった坊主になぞなろうとしているのである。それが不思議やらおかしいやらで、魯達は思わず低い笑い声を漏らした。
 「魯提轄、どうされました」
 願書を読み上げ、供物やお香を法座に備えて戻ってきた趙員外の訝し気な視線には首を振って答え、小坊主に導かれるまま、魯達もまた法座の下に身を置いた。そこで待ち構えていた坊主たちの手には、剃刀――いよいよ己も、禿頭になるというわけか。
 「それでは」
 すまし顔の坊主たちは、魯達のぼさぼさ髪を分け束ね、指に挟むと、粛々と剃刀を当てはじめる。しばらく無心でされるがままに座っていた魯達だったが、剃り落とされた髪の一房が鼻先に落ちてきたので目を閉じた刹那、唐突に体が宙に浮いたような心地を覚えて身じろいだ。
 (俺は、このまま一生、この陰気な寺で暮らすのか?)
 罪から逃れ命も助かり、そのうえ他でもない趙員外の願いとも思えば出家の話を受け入れたが、これからの生活は、例えば今までのように酒が飲めなくなるだけではないのだ。
 例えば肉が食えなくなり、例えば悪人を見つけても義憤のまま殴ることができなくなり、例えば、これまで歩んできた武の道は――
 「それはッ」
 寄る辺ない焦燥感は、坊主たちの手が髭に触れた瞬間、頂点に達した。
 東京に学び少林寺で花開かせた武術の才を見込まれ、渭州の武官に取り立てられてから、一度も髭を切ったことはない。自慢の髭だった。
 「……その髭は、残しておいてくれんか」
 魯達の顔がよほど必死だったのか、坊主たちがくすくすと肩を震わせる。その態度に例の癇癪玉がむくむく膨れ上がったところ、それまで穏やかな眼差しで魯達を見下ろしていた智真長老が、低い声で唸るように偈を念じた。
 「皆、よく聞くがよい。寸草を留めずして初めて|六根清浄《ろっこんしょうじょう》となる。汝の為に剃を施し、故に争いを免れ得る……」
 老いてなお濁りの一つもない瞳が、まっすぐに魯達を射抜いた。
 「すべて剃り落としなさい」
 長老の喝の残響も消えぬうちに、魯達の髭は、一つの剃り残しもなく消え去った。
 人いきれで暑いはずだった堂の内が急に寒くなった心地さえして、魯達の頬が震える。
 「智真長老、どうかこの者に、法名をお示しください」
 一人の坊主が掲げた度牒には、大きな隙間があいている。死んでもいないのに授けられる法名とやらが収まる場所なのだろう。
 「……霊光一点、価値千金。仏法広大、名を……|智深《ちしん》と賜う」
 「智深」
 「魯智深」
 「魯智深……」
 坊主たちが消え入りそうな声で囁きあうその名が、己の新たな名であった。
 隙間を三字で埋められた度牒を受け取った魯達――魯智深は、しげしげとその字を眺める。文字の読めぬ己であったが、この三字だけは忘れまい。
 「魯智深よ、こちらへ」
 法座から降りた長老は、おずおずと歩み寄った智深に法衣と袈裟を着せ掛け、すっかり禿げ上がった坊主頭の上に手を置いた。
 「今からお前に|三帰五戒《さんきごかい》を授けよう。一、仏に帰依すること。二、法に帰依すること。三、師友に帰依すること。これを三帰と言う。一、殺生するべからず。二、|偸盗《ちゅうとう》するべからず。三、邪婬するべからず。四、妄語するべからず。五、飲酒するべからず……これを五戒と言う。よいかな」
 「……よくわからんが、わかりました。酒を飲むなってことですね」
 不貞腐れた智深の声に、また坊主たちの間から失笑が漏れる。坊主というのは、つくづく人を見下したやつらよと眉を逆立たせる智深に、長老がそっと囁いた。
 「智深よ、禅門では、問いに答えるときは『能』か『否』かで答えるのだ」
 「なんだ長老、そういうことは早く言ってくださいよ」
 智深の授戒が終わると、趙員外は斎で僧侶たちをもてなし、智深は全山の僧侶たちへの目通しに追われ、慌ただしいままに一日が過ぎていった。
 もはや追っ手も来ないであろうというのに落ち着いて深睡も出来ぬまま次の朝を迎えた智深は、趙員外を送る朝の斎に同席し、これでいよいよ己も一人、坊主として生きていくのかと、員外が僧侶たちに挨拶をする姿をぼんやり眺めた。
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 「長老様にそう言っていただければ安心して愚弟を任せられます。いずれまた、御礼をしに参りますれば……」
 長老との挨拶を終えた趙員外は、ぼけっと突っ立っていた智深を手招き、僧侶たちから少し離れた木陰に呼び寄せ囁いた。
 「恩人様、やむを得ぬ出家とはいえ、今日よりはあなたも仏門の方。どうぞ身を戒め、奔放なことはなさらぬように……そうでなければ、私も、それに翠蓮と義父上も、二度とあなたにお目にかかることができなくなってしまいます。どうか御体に気を付けて。またそのうち衣類なども、使いの者に持ってこさせますから」
 「こうして生きながらえたのもあんたのおかげ。万事うまくやるから心配せんでください」
 風に揺れる松の木が落とした影のせいか、趙員外の端正な顔に刹那、不穏が過る。
 しばし別れを惜しむように目を潤ませていた員外は、どうか御達者で、と消えるような声でつぶやくと、雅な着物の裾を揺らしてきびすをかえし、屋敷から来ていた迎えの籠に乗り込んだ。
 そうして智深はひとり、物寂しい山に残されたのだった。
 「はて、そうは言っても、何をすればいいのか見当もつかんな」
 五台山の僧侶と言えば誰もがありがたがる存在であったはずだが、果たして実際目の前にいる坊主たちは、智深に対して笑顔の一つも見せず、浴びせられるものと言えばあざけったような薄ら笑いと冷たい眼差しだけ。武人が気に食わないだけかとも思ったが、かつて武術を学んだ少林寺のことを思い出せば、決して仏門と武門は別世界とも思えぬ。
 「俺のことが気に食わんのはかまわんが、外面だけでも歓迎するふりをしてくれりゃ、かわいげだってあるものを」
 僧侶たちが己のことを放っているのをいいことに、智深はぶらぶらと境内の木立の中を歩き、昨日から寝起きしている坐禅堂に戻ると床にごろりと横たわった。晩秋の寒さがひやりと背を伝っても、毛布を運んでくれる者もいないのだ。
 それでも慣れぬ儀式の疲れでうつらうつらと智深が船を漕ぎ始めたころ、二人の若い修行僧がたまたま坐禅堂に戻ってきて、だらしなく床に寝そべる智深をあわてて突き起こした。
 「おい、智深。出家早々、坐禅も組まずに惰眠を貪るとは、どういうことだ?」
 「なんだ、うるさいやつめ。俺は眠たくなったら寝るんだ。街の見回りなんぞするわけでもない、ただ座ってるお前らに指図されるいわれなんぞないわ」
 「それはそれは、けっこうな|行儀《ぎょうぎ》で」
 嘆息する修行僧に、智深はさっそくむかっ腹をたて、半身を起こして腕をまくった。
 「うなぎ? 何をわけのわからんことを。すっぽんなら俺がいつでも食ってやるぞ」
 「これは苦い想いをさせられる……」
 「苦いわけがないだろう。すっぽんを食ったことがないのか? 脂が乗っていてとてもうまいぞ」
 ついに黙りこくった坊主たちに気をよくした智深は、その後も誰も声をかけてこないのをいいことに、そのまま深い眠りについた。
 ――一方、眠ることもできなくなったのは僧侶たちの方である。
 仏門の掟を知らないだけならばいざ知らず、教えようとしても聴く耳も持たず横柄な態度で威張り散らす元武官の様子にいてもたってもいられず、翌朝になって首座の僧侶に訴えかければ、
 「長老様が、あの男は非凡な男であり、将来必ずや悟りを開いて我らでは及びもつかぬ男になるとおっしゃるのだ。どうにも贔屓をされているようで、我々がお諫めしてもどうにもならぬ。お前たちは、あんなものの相手をせず、修行に励みなさい」
 と諦めの境地に立ったような言葉を返されるばかりである。
 そうして誰もが腫れ物に触るように遠巻きになってしまったとなれば、あとは智深の好き放題である。
 日が暮れればどこにいようがすぐにごろりと横になって午睡をむさぼり、夜は夜で雷鳴のようないびきをかいて眠りこける。用を足すとなればどたばたと騒々しい足音を立てて走り回り、場所もわきまえず、御堂の裏や仏塔の足元にさえ大小垂れ流す様に、さすがの僧侶たちも再び長老に窮状を訴えかけるのだが、智真長老はと言えば、そのうちに学ぶ、の一点張り。
 それ以来、誰も智深のことに口を出さなくなり、智深もまた、誰に対して遠慮をすることもなくなっていった。
 民を想い悪を憎み、正義のために拳を振るうことを厭わず恐れられた魯提轄は、張っ倒すべき悪に立ち会えもせぬまま、ただ無為に時を過ごしていた。