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(七)

ー/ー



 「智深、智深はおるかい……おや、そんなところに」
 翌朝、かすかに痛む頭を振りながら仏殿の裏で用を足す智深のもとに、長老の従者がやってきた。
 「用が終わったら、長老様のところにいらっしゃい。話があるそうだよ」
 「話……」
 泥酔したまま眠りに落ちた智深とて、さすがに昨日のことは克明に覚えていた。
 手を洗い、うってかわっての殊勝な態度で従者の後に続きながら、智深は柄にもなくこれまでの己の行動を省みていた。
 悪漢を殴り殺したとき、素直に法の裁きのもと罰を受け入れればよかったのか。
 それとも心根を入れ替え、酒も肉も断ち俗世に目を背けて、仏の道に帰依することを受け入れればよかったのか。
 だが、どちらの道を選んだとて、結局己の想いは遂げられることはないのだ。
 「来たか、智深や」
 むっつりと口を閉ざし、あからさまな不満顔で現れた智深をしかし、長老は杖で打とうなどとは言わなかった。
 「お前はもともと軍人であったとはいえ、今は趙員外殿のおかげでこうして出家となり静かに日々を暮らす身。お前が出家したあの日、私はお前の頭を撫でて、五戒を授けたはずだ。忘れたわけではないだろう?」
 その口ぶりは、まるで我が儘な子をいさめる親のようでもあり、出来の悪い弟子に言い聞かせる教師のようでもあった。
 「五戒は僧侶の生きる道そのもの。出家はなによりも酒を飲んではいかんというのに、お前は昨日ひどく酔っぱらい、門番を殴り倒し、倉庫の格子戸を破壊し、そのうえ寺男衆を追いつめ騒ぎ立てた。何故そのようなことをするのだ」
 何故、と問うその言葉が、答えを求めているわけではないことくらい、智深にも理解できた。
 どのような理由を並べたところで、しでかしたことには変わりはなく、そして、しでかしたことでしか人は他人を量らない。それは所詮、俗世であろうが寺であろうが、変わらないのだろう。
 「もう二度とあのような真似はしません」
 跪き、足元で頭を垂れる智深に向かい、長老は小さなため息をついたようであった。
 「智深や。趙員外殿に感謝するのだぞ」
 そして、皺深い手が、智深の手を取り立ち上がらせる。
 「今日はともに朝餉を取ろう。酒はないが、茶の盃ならばいくらでも交わしてやるぞ」
 「は……」
 目を細めてこちらを見上げる長老の表情に、智深は知らず両の手を合わせ――そしてその日から智深は、寺の外へ出るのをやめた。
 朝と夕は、毎日必ず長老とともに食事をした。
 俗世のことになど見向きもしないほかの僧侶たちとは違い、長老はしばしば下界へ赴き、世の姿を見聞きしているようだった。
 長老は上等な木綿の僧衣と僧鞋をひとそろい智深に授け、幾度も供にと誘ったが、また酒の過ちをおかしてはいけないから、と断った。
 最初こそ、今までの威勢はどうしたのか、と不思議そうにしていた長老も、あるいは智深がこの山へのぼった経緯に感付いたのであろう。外へ行こうと声をかけることはなくなった。
 そうしてひどくゆっくりと時は流れ、気が付けば、智深は五台山ですでに三か月もの時を過ごしていた。
 近頃は身を切るような冬の寒さは影をひそめ、辺りは初春の陽気に包まれている。
 その日はなんとも気持ちの良い晴天で、寺にこもりがちであった智深は久々に、行く当てもなくぷらりと山門の外を散策していた。立ち止まり、下りてきた山道を振り返れば、芽吹きの季節を迎えようとしている五台山はやはり荘厳で、しばしその威容に目を見張る。
 しばし鳥の鳴き声に耳を澄ましていると、ふと、なにやら麓の方から聞き慣れた――かつては、の話だが――固く澄んだ音が聞こえてくる。
 これは、と思い当たり、来た道を戻って銀子を懐にしまい込んだ智深は、「五台福地」と記された額を掲げる山門をくぐる。読み方を教えてくれたのは、長老だった。
 「なんだ、こんな場所があることをはやくに知ってりゃ、酒を奪ってへまをした、あんなことを起こさずに自分で大人しく買って飲んでいたものを」
 五台山の山麓に広がる五、六百軒ほどの村を見渡せば、酒屋に肉屋、八百屋に麺屋となんでも揃っている。
 「ふん、このところ、何につけても我慢のし通しだ。自分の金でおとなしく飲み食いするくらいなら、罰はあたらんだろう」
 まちの様子を見まわしながらゆったりと歩けば、かつて提轄を務めていた頃のことが思い出され、智深はつるりと頭を撫でた。あの頃に比べ、随分と、失ったものがある気がする。
 「おい、親方」
 酒屋の目星をつける前に智深は、先ほど山門で聞いた音をたどり、とある鍛冶屋に足を踏み入れた。
 店先で鉄を打っていた三人の男たちは、その音にも負けぬ野太い声に、はっと顔をあげた。智深の顎のあたりをじろじろと見てなにやら目を合わせたあと、一番年かさらしい男が、滴る汗もそのままに揉み手で笑いかける。
 「お、おや、いらっしゃい、お坊さん。どうぞそちらにおかけください。今日は何がご入用で?」
 「禅杖と戒刀が欲しいんだが、良い鉄はあるか?」
 「それなら、ぴったりの上等の鉄がございますよ。重さはどのくらいがよろしいですか?」
 「そうだなあ、百斤で頼む」
 生え始めたばかりの短い髭をかきむしりながら答えれば、ひ、と妙な吐息をもらして親方が首をかしげた。
 「お坊さん、そりゃあ重すぎってもんですよ。お作りすることはできますがね、どうやって使うというんです。かの関羽殿でさえ、刀は八十一斤だったんですから」
 「なんだ貴様、俺が関羽に及ばんと言いたいのか? 関羽と言えど、同じ人間ではないか」
 じろりと睨めば、親方は薄笑いをひっこめ、肩をすくめて後ずさる。
 「いえ、その、まあ、使い勝手がいいのは四、五十斤のものだろう、ってことです。それでも重たい方ですがね」
 「いいや、軽すぎる。お前が言っていたとおり、関羽の刀と同じ、八十一斤のものを作ってくれ」
 「ですが、それだと見た目が太くて不格好になっちまいます。どうです、お任せ下されば、お坊さんにぴったりの、水磨きの禅杖を六十二斤でお作りしますよ。ただし、重くて使えなくっても、金は返さなくていいって約束してくださいね。戒刀のほうは、何もご心配なく。すべて心得ておりますので、こちらも上等の鉄を打っておきます」
 「ふん、いいだろう。それで、いくらになる」
 「二つ合わせて銀子五両、きっかりいただきます」
 おどおどと目を泳がせている割にはきっちり商売をする親方に、智深は懐から銀子を五両出して手渡した。
 「わかった、わかった。ひとまず五両だ。もしも出来がよけりゃ、色をつけてやる」
 「しかとお作りいたします」
 銀子を受け取った親方が、これで用事は終わったとばかりにさっさとこちらに背を向けるのを、肩をつかんで引き戻す。
 酒が飲みたくて降りてはきたが、ここしばらく、おもしろくもない坊主たちとしか話らしい話をしていない。
 かつて酒を酌み交わした男たちのような豪傑ではないが、鍛冶屋ともあれば、様々な武勇伝を聞き及んでいるだろう。
 「おいあんた、なんなら一緒に飲まないか。もちろん、小粒くらいなら持っているから、俺が馳走するぞ」
 「あの……お坊さん、あたしゃまだ仕事が終わってないんです。すいませんが、ご相伴はできません」
 冷たく言い捨てた親方は、今度こそ用済みと、さっさと身を翻して店の奥に消えた。
 「ふん、つまらんやつめ」
 これ以上声をかけても時を無駄にするだけと、智深もまたさっさと身を翻し、さて目あての店はないかと見渡せば、鍛冶屋のすぐ近くに「酒」の看板が立っている。
 さっそく小走りに店を訪れた智深は、暖簾をかきあげざま大声をあげた。
 「おい、小二、酒を持って来い!」
 「はいはい、ただいま……あ!」
 にこにこと商売用の笑顔を貼りつけて現れた小二は、しかし、智深の姿を見ると一瞬にして笑顔を消した。
 「お坊さん、どうかお許しを。実はこの家も、この酒屋の元手も、すべては五台山のもの。智真長老からは、五台山のお僧に酒を飲ませりゃ元手を取り上げ家を無理やり追い出すとまでの言われよう。すみませんが、お坊さんに酒を売ることだけはできません。どうぞお察しくださいな」
 「おいおい、小二。実は、俺がわざわざこんなところまで降りてきたのは、酒を飲むためなんだ。お前のとこで飲んだってことは内緒にするから、頼む、一杯だけでいい」
 心底迷惑そうな顔をした小二は、坊主とは思えぬことをべらべらしゃべる智深の背を押して、店の出口に向かわせた。
 「そうはいかないんですよ、お坊さん。酒がほしいなら、どっか他所に行ってください。うちじゃ、いくら粘っても出せませんよ」
 「ふん、頭のかたいやつだ。違う店で飲ませてもらった暁には、お前にしこたま文句を言いに来るからな」
 むっと唇をとがらせた智深が店を出てしばらくもたたぬうちに、また酒の看板が見えて来る。
 酒のことを考えれば考えるほど、どんどん喉が渇き切り、慌てて店に入って適当な卓につく。
 「やい、店主。はやく酒を持ってきて、俺に飲ませてみろ」
 「なんと、これはお坊様。あなた、ご出家なのにご存じないんですか。五台山の長老から、お坊様には酒を売らぬようお達しがあるんですよ、このあたりでは。我々に罪をかぶせたいのですか」
 「なんだと、貴様も同じことを言うとは。ではこうしよう、絶対にお前の名は口外しない、その約束に、銀子でもなんでもくれてやる。だから頼む、酒を一杯」
 「お出しできません」
 何度繰り返そうが取り付く島もない店主に、さすがにうんざりした智深は、ようやく諦めて店を出た。
 だが、その後どこの酒屋に入ろうと、返ってくるのは同じ言葉だった。
 「くそ、何かいい手を考えなくてはな」
 腕を組み、智深は深々と嘆息する。酒どころか肉の一片すら口にできぬまま不貞腐れて歩く智深は、気が付くと、杏の花が密やかに咲き誇る小路に迷い込んでいた。
 その明媚な様に視線を巡らせていると、通りがかりのこじんまりとした家の軒先に、「酒」の看板がぶらさがっている。
 青い暖簾のかかった入り口からふらりと中をのぞけば、白い椅子の並ぶ店内に客の姿はなかったが、酒仙を描いた壁の際に並べられた甕からは、酒の魅惑的な香りが漂っていた。



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 何故、と問うその言葉が、答えを求めているわけではないことくらい、智深にも理解できた。
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 跪き、足元で頭を垂れる智深に向かい、長老は小さなため息をついたようであった。
 「智深や。趙員外殿に感謝するのだぞ」
 そして、皺深い手が、智深の手を取り立ち上がらせる。
 「今日はともに朝餉を取ろう。酒はないが、茶の盃ならばいくらでも交わしてやるぞ」
 「は……」
 目を細めてこちらを見上げる長老の表情に、智深は知らず両の手を合わせ――そしてその日から智深は、寺の外へ出るのをやめた。
 朝と夕は、毎日必ず長老とともに食事をした。
 俗世のことになど見向きもしないほかの僧侶たちとは違い、長老はしばしば下界へ赴き、世の姿を見聞きしているようだった。
 長老は上等な木綿の僧衣と僧鞋をひとそろい智深に授け、幾度も供にと誘ったが、また酒の過ちをおかしてはいけないから、と断った。
 最初こそ、今までの威勢はどうしたのか、と不思議そうにしていた長老も、あるいは智深がこの山へのぼった経緯に感付いたのであろう。外へ行こうと声をかけることはなくなった。
 そうしてひどくゆっくりと時は流れ、気が付けば、智深は五台山ですでに三か月もの時を過ごしていた。
 近頃は身を切るような冬の寒さは影をひそめ、辺りは初春の陽気に包まれている。
 その日はなんとも気持ちの良い晴天で、寺にこもりがちであった智深は久々に、行く当てもなくぷらりと山門の外を散策していた。立ち止まり、下りてきた山道を振り返れば、芽吹きの季節を迎えようとしている五台山はやはり荘厳で、しばしその威容に目を見張る。
 しばし鳥の鳴き声に耳を澄ましていると、ふと、なにやら麓の方から聞き慣れた――かつては、の話だが――固く澄んだ音が聞こえてくる。
 これは、と思い当たり、来た道を戻って銀子を懐にしまい込んだ智深は、「五台福地」と記された額を掲げる山門をくぐる。読み方を教えてくれたのは、長老だった。
 「なんだ、こんな場所があることをはやくに知ってりゃ、酒を奪ってへまをした、あんなことを起こさずに自分で大人しく買って飲んでいたものを」
 五台山の山麓に広がる五、六百軒ほどの村を見渡せば、酒屋に肉屋、八百屋に麺屋となんでも揃っている。
 「ふん、このところ、何につけても我慢のし通しだ。自分の金でおとなしく飲み食いするくらいなら、罰はあたらんだろう」
 まちの様子を見まわしながらゆったりと歩けば、かつて提轄を務めていた頃のことが思い出され、智深はつるりと頭を撫でた。あの頃に比べ、随分と、失ったものがある気がする。
 「おい、親方」
 酒屋の目星をつける前に智深は、先ほど山門で聞いた音をたどり、とある鍛冶屋に足を踏み入れた。
 店先で鉄を打っていた三人の男たちは、その音にも負けぬ野太い声に、はっと顔をあげた。智深の顎のあたりをじろじろと見てなにやら目を合わせたあと、一番年かさらしい男が、滴る汗もそのままに揉み手で笑いかける。
 「お、おや、いらっしゃい、お坊さん。どうぞそちらにおかけください。今日は何がご入用で?」
 「禅杖と戒刀が欲しいんだが、良い鉄はあるか?」
 「それなら、ぴったりの上等の鉄がございますよ。重さはどのくらいがよろしいですか?」
 「そうだなあ、百斤で頼む」
 生え始めたばかりの短い髭をかきむしりながら答えれば、ひ、と妙な吐息をもらして親方が首をかしげた。
 「お坊さん、そりゃあ重すぎってもんですよ。お作りすることはできますがね、どうやって使うというんです。かの関羽殿でさえ、刀は八十一斤だったんですから」
 「なんだ貴様、俺が関羽に及ばんと言いたいのか? 関羽と言えど、同じ人間ではないか」
 じろりと睨めば、親方は薄笑いをひっこめ、肩をすくめて後ずさる。
 「いえ、その、まあ、使い勝手がいいのは四、五十斤のものだろう、ってことです。それでも重たい方ですがね」
 「いいや、軽すぎる。お前が言っていたとおり、関羽の刀と同じ、八十一斤のものを作ってくれ」
 「ですが、それだと見た目が太くて不格好になっちまいます。どうです、お任せ下されば、お坊さんにぴったりの、水磨きの禅杖を六十二斤でお作りしますよ。ただし、重くて使えなくっても、金は返さなくていいって約束してくださいね。戒刀のほうは、何もご心配なく。すべて心得ておりますので、こちらも上等の鉄を打っておきます」
 「ふん、いいだろう。それで、いくらになる」
 「二つ合わせて銀子五両、きっかりいただきます」
 おどおどと目を泳がせている割にはきっちり商売をする親方に、智深は懐から銀子を五両出して手渡した。
 「わかった、わかった。ひとまず五両だ。もしも出来がよけりゃ、色をつけてやる」
 「しかとお作りいたします」
 銀子を受け取った親方が、これで用事は終わったとばかりにさっさとこちらに背を向けるのを、肩をつかんで引き戻す。
 酒が飲みたくて降りてはきたが、ここしばらく、おもしろくもない坊主たちとしか話らしい話をしていない。
 かつて酒を酌み交わした男たちのような豪傑ではないが、鍛冶屋ともあれば、様々な武勇伝を聞き及んでいるだろう。
 「おいあんた、なんなら一緒に飲まないか。もちろん、小粒くらいなら持っているから、俺が馳走するぞ」
 「あの……お坊さん、あたしゃまだ仕事が終わってないんです。すいませんが、ご相伴はできません」
 冷たく言い捨てた親方は、今度こそ用済みと、さっさと身を翻して店の奥に消えた。
 「ふん、つまらんやつめ」
 これ以上声をかけても時を無駄にするだけと、智深もまたさっさと身を翻し、さて目あての店はないかと見渡せば、鍛冶屋のすぐ近くに「酒」の看板が立っている。
 さっそく小走りに店を訪れた智深は、暖簾をかきあげざま大声をあげた。
 「おい、小二、酒を持って来い!」
 「はいはい、ただいま……あ!」
 にこにこと商売用の笑顔を貼りつけて現れた小二は、しかし、智深の姿を見ると一瞬にして笑顔を消した。
 「お坊さん、どうかお許しを。実はこの家も、この酒屋の元手も、すべては五台山のもの。智真長老からは、五台山のお僧に酒を飲ませりゃ元手を取り上げ家を無理やり追い出すとまでの言われよう。すみませんが、お坊さんに酒を売ることだけはできません。どうぞお察しくださいな」
 「おいおい、小二。実は、俺がわざわざこんなところまで降りてきたのは、酒を飲むためなんだ。お前のとこで飲んだってことは内緒にするから、頼む、一杯だけでいい」
 心底迷惑そうな顔をした小二は、坊主とは思えぬことをべらべらしゃべる智深の背を押して、店の出口に向かわせた。
 「そうはいかないんですよ、お坊さん。酒がほしいなら、どっか他所に行ってください。うちじゃ、いくら粘っても出せませんよ」
 「ふん、頭のかたいやつだ。違う店で飲ませてもらった暁には、お前にしこたま文句を言いに来るからな」
 むっと唇をとがらせた智深が店を出てしばらくもたたぬうちに、また酒の看板が見えて来る。
 酒のことを考えれば考えるほど、どんどん喉が渇き切り、慌てて店に入って適当な卓につく。
 「やい、店主。はやく酒を持ってきて、俺に飲ませてみろ」
 「なんと、これはお坊様。あなた、ご出家なのにご存じないんですか。五台山の長老から、お坊様には酒を売らぬようお達しがあるんですよ、このあたりでは。我々に罪をかぶせたいのですか」
 「なんだと、貴様も同じことを言うとは。ではこうしよう、絶対にお前の名は口外しない、その約束に、銀子でもなんでもくれてやる。だから頼む、酒を一杯」
 「お出しできません」
 何度繰り返そうが取り付く島もない店主に、さすがにうんざりした智深は、ようやく諦めて店を出た。
 だが、その後どこの酒屋に入ろうと、返ってくるのは同じ言葉だった。
 「くそ、何かいい手を考えなくてはな」
 腕を組み、智深は深々と嘆息する。酒どころか肉の一片すら口にできぬまま不貞腐れて歩く智深は、気が付くと、杏の花が密やかに咲き誇る小路に迷い込んでいた。
 その明媚な様に視線を巡らせていると、通りがかりのこじんまりとした家の軒先に、「酒」の看板がぶらさがっている。
 青い暖簾のかかった入り口からふらりと中をのぞけば、白い椅子の並ぶ店内に客の姿はなかったが、酒仙を描いた壁の際に並べられた甕からは、酒の魅惑的な香りが漂っていた。