四角い安全な場所に住人はいない。
心美はカタカタと音を鳴らすものを必要としなくなったのだ。
私の両手の中にはおさまらない。なぜなら触れようとすると、ヌルッとすり抜けていってしまうから。
そして、唄おうとするとピキッという雑音が入り、おまじないが途切れる。
「ウー、ウー」
足元で言葉にならぬ声を出す。
「お腹すいたの?」
私の手からはすり抜けるのに、おねだりのときはピタリと体をくっつけてくる。
「待って。作るから」
くっついた足と心美の体をサッと離し、キッチンで透明の瓶を手に取る。
「え、どこいったの……」
カウンター越しにテーブルを見た瞬間、心がザワっとした。定位置にあるはずの布に包まれた四角い箱が無い。
ザワザワが増え、一気に体温が下がる。
存在は感じるが、言葉にならない声が聞こえない。心美はお腹が空くと欲求が満たされるまで『ウー、ウー』と発し続けるはずなのに。
「……もしかして」
瓶を胸に抱え、テーブルの下に焦点を合わせた。
───チクリ。
でも、唄えない。
ギュウギュウに詰められていた物体たちは、解放されたことを喜ぶように散らばっていた。思わず嗚咽しそうになる。
「心美!触ったらダメでしょ!叱られるわよ」
……カチャ。
ひんやりした空気が流れ込む。
『来た』
太一さんは黒目をギョロっと動かし、定位置で止めた。
「仕方ないな」
微かに低い音が響き、声を整える仕草をする。
────やめて。……唄えないの。
「里美。笑顔が減ったね」
「ご、ごめんなさい」
「謝らなくていい。僕はその理由を知っているよ」
体内でドクドクと音を立てているものが、口から吐き出されそうだ。そんなことは知らずに太一さんは続ける。
「最近、汚物入れのゴミがたまっていないね」
黒革に挟まった赤い紐を引っ張り、私に見せる。
そこには、順番に並んでいる数字に、一つだけ赤丸が付いていた。
「……」
そういえば、食欲がない。
「完璧な妻だよ。僕のペースを守ってくれる。弁当が作れないのは、君のせいではないよ」
喉元が熱をもち、酸が行き来する。ナメクジだった頃を思い出してしまう。
────唄いたい。
整えた声に体が反応してしまう。
「きっと、形になっている頃だよ。病院に行っておいで。心美は僕に任せて」
「あ、ありがとうございます」
「大丈夫。安定すれば、また笑えるよ」
……そうよね。産み出せばいい。
私の中に突然現れた居候は、次第にスペースを広げていく。でも唄える日の為なら仕方がない。
ガタガタガタと崩れる音の後には『まー』と人間らしい言葉を発する心美の声が聞こえる。
「またなの?……自分で直してみなさい。ずっとママはあなたのそばに居られないのよ」
積木くずしを繰り返しては、何度も私を呼ぶ。
「だから、自分でやりなさいよ!」
棘がついた言葉を投げていた。これでは母と同じになってしまうではないか。
今まで『おまじない』にどれだけ救われていたのかと痛感させられた。
──── ラン、ララ、ラララン
私は唄っていない。
……心美の背中が葉のように揺れている。
それと同時に居候がグニュンと動く。
「こ、心美?」
──── ラン、ララ、ラララン
間違いなく、唄っている。
グニュン。
お腹の子も間違いなく動いている。
「違う。笑うのよ」
思わず揺れている肩を掴み、更に揺らした。そこには無表情が鎮座していた。
「どうして、笑わないのよ」
やっぱり、心美は頭がおかしい。
一体、いつまでスペースを広げるのだろう。
一体、いつになったら酸が消えるのだろう。
出口が見えない状況に限界を感じていた。
先生は、白黒に映された三頭身を見ながら言った。
『逆さまですね』
声が、遠くから聞こえた気がした。
会計を済ませ、病院に背を向けると聞き覚えのある声が耳に飛び込んできた。
「本庄さん、お久しぶりです」
頭にハテナを浮かばせた看護師さんだった。
「ご無沙汰しています」
「足止めしてすみません。本庄さんの素敵な笑顔が見られなくて、つい声をかけてしまいました。……先生からお聞きしたのですがあまり考え込まないでくださいね。お母さんの不安が一番良くないですから」
────やめて、唄えないの。
「は、はい」
目をキラキラさせ口を動かし続けている。
「とても簡単でいい方法がありますよ。それは、お散歩です。リラックス効果もありますし、何人もの方が成功しているんです」
「ご丁寧にありがとうございます」
「とんでもないです。きっと大丈夫ですよ」
制止するために腰を曲げ、その場を去る仕草をした。
「心美ちゃんはお元気で……」
看護師さんの声は、自動に閉まるガラスのおかげで私には届かなかった。
好んで二本足で、帰路に着こうとしているわけではない。この方法以外ないのだ。
しかし、そのおかげで出口を照らす微かな光に出会えた。
それは、嗅いだことのある花の匂い。
「一緒に帰ろう」
街を歩く人たちの氷のような視線が刺さる。お腹を膨らませた女が膝をつき、一心不乱に土を掻き分けているからだろう。
「フンッ」
そんなことはどうでもいい。唄えない私には必須なものだからだ。
両手で花をそっと包む。私は心が踊るような感覚をずっと忘れていた。
玄関を通りすぎ、庭に向かう。手から鉢植えに移し茶色で包む。
「とってもいい香りね」
花びらに鼻をくっつけた。
小脇に挟みながら廊下を進み、音を立てずにリビングのドアを開ける。
「おかえり。『ぼく』の成長は順調だった?」
太一さんは黒革の手帳を開き、ペンを握った指先は白く変色している。
「……はい」
カウンターに鉢を置きながら、反射的に返事をしてしまった。
────もう戻ることはできない。
しかし、居候は少しずつ確実に光の世界への準備を整えているのだ。このままでは、私自身が光を失ってしまう。
『匂いを嗅がなくては』
花に近づこうとしたそのとき、ユラユラと葉が動く。きっと栄養を取られているせいだと言い聞かせ、もう一度目を凝らす。
無風の部屋に置かれた花は、やはり葉を揺らしていた。
……喉元の酸が、スーッと溜飲していく。まるで、おまじないを唄ったときのように。
心美は広すぎるソファの上でスースーと一定の呼吸をしている。
「笑うことができないくせに」
優雅な姿でいられるのは『今』外敵がいないからだ。きっと穏やかな時間が永遠に続くと思っているのだろう。
────ビチャ。
居候は準備が整ったらしい。
太ももの内側からツーっと生暖かいものがつたう。一度流れ出したものはもう止めることができない。
このときも、葉は揺れていた。
「これで、やっと笑える」
しかし、一つだけザワザワが残っている。花びらに鼻をくっつけた。
揺れが大きくなり、おまじないが全身を包む。
「……大丈夫だよね。ありがとう」
自分のスペースを取り戻すことは安易でなかった。経験済みのはずなのに、どうして体は痛みを消すことができるのだろう。
チクリは積もっていくのに。
「本庄さん。次の波が来たら力いっぱい頑張りましょう。もう頭は見えていますから」
「ふーっ……んーーっ!」
「おめでと……」
薄れゆく声の中、スーッと暗い世界に堕ちていく。
瞼に淡い光が差し込んでいる。その明かりをゆっくりと受け入れると、常夜灯の下でベッドに体を預けていた。
────どうして。
窓際に置かれていた花は色を失っていた。
「もしかして……」
足音と共に、何かを押すガラガラという音が近づいてくる。
コンコン。乾いたノックをされる。
「……はい」
「失礼します。目を覚まされたようで安心しました」
新生児カートの中には『ぼく』であろう子が眠っている。
「抱っこなされますか」
「いえ。まだ、めまいがするので……」
「わかりました。先ほどミルクを飲んだので、しばらく眠っていると思います」
「ありがとうございます」
「困ったことがあったらいつでも、呼んでください」
静かに戸が閉まっていった。
子を包んでいる白い布に触れることができない。
でも、戻れない。この目で確かめるしかない。
しわしわの足の裏を見つめる。
塩をひとつまみするように布を捲る。
そこには『水色』をしたバンドが巻かれていた。
「ラン、ララ、ラララン
さぁ笑って
ラン、ララ、ラララン」
────唄えた。
空になった植木鉢を最後にバッグへ入れ、口を閉める。
「今回もお忙しい中、お迎えをありがとうございます」
太一さんにバッグをお願いし、深々と頭を下げる。
「やはり僕の目は、間違っていなかったよ」
「感謝しています」
そっと『ぼく』を抱き上げ、二人だけだった空間にさよならを告げた。
左腕からチクタクと刻むものに、視線を落としながら歩く太一さんの背中を追いかける。
すると、また聞き覚えの声が耳を刺す。
「本庄さん!おめでとうございます」
「ありがとうございます。無事に出産できることができました」
「よかったです。何より素敵な笑顔が見られて安心しましたよ」
少し先で、バッグを握る指が白くなっていくのが見える。
「お世話になりました」
「こちらこそありがとうございました。最後に、何か心配なことはありますか」
「ありません」
看護師さんはホッとした表情で胸を撫でおろした。
「この子は、言うことを聞いてくれるんです」
「……」
瞳がガラス玉のように丸くなったのを見逃さなかった。
「笑うんです」
────ラン、ララ、ラララン
さぁ笑って
ラン、ララ、ラララン
綺麗な歌声が響いた。