手のひらだけで包みきれなくなった心美は、四角い安全な場所の大切さが分からないみたいだ。
小さな手で規律よく並んでいるものを掴み、『カタカタ』と何度も音を鳴らす。
掴まらなければ立つことすらできないのに。
「そこから出ると危ないのよ」
───どうしてわからないの。
「私はずっとあなたのそばで唄ってあげることはできないの。だから、一人でも出来るようにならないとね」
軟体動物のように柔軟性のある指を一本ずつゆっくりと開いていく。心美はバランスを崩し尻もちをつき、声を上げる。
「ほらね。ママの言う通りでしょ」
両手で頭を包み、囁いた。
「さぁ、笑って」
ピタリと音が止む。その沈黙が答えを教えてくれた。
心美にも受け継ぐことができたのだと。
私は祖母からの教えを継承することに成功した。
「おばあちゃん、私を褒めて」
無機質な天井を見上げた。
そこには、最後に見た祖母の表情が浮かんでいるような気がした。
祖母はいつも、小さな身体が沈んでしまうほど柔らかなソファに座り、庭を眺めていた。
その背中に声をかける。
「おばあちゃん、ただいま」
ランドセルを背負ったまま、何よりも先に祖母の部屋に行くのが私の楽しみであった。
「さとちゃん、おかえりなさい。今日もランドセル姿ね。お母さんに叱られてしまいますよ」
フクロウのように首だけを動かし、目の端に皺を集めた表情をする。
「だって、おばあちゃんに早く会いたいんだもん。今日も一緒にお絵描きできる?」
「もちろん。お庭のお花が咲いたから、今日はお花を描きましょうね」
「やったぁ。おばあちゃんが育てたお花は全部、とても綺麗だよね」
小学生の私が横になれるほどの大きさをした花壇は、茶色を覆い尽くほど様々な色で埋めつくされていた。まるで個性を競うかのように。
縁側に座り、それぞれ背丈が違う外履きをひっかけパンジーの近くに寄る。祖母はザッザッと音を立て引きずりながらやっと肩を並べた。
花びらが鼻にくっつく距離でパンジーを眺めていると右端に異色を見つけた。
「おばあちゃん、この列だけ元気がないみたい」
「困ったねぇ。もしかしたら、おまじないが足りないのかもしれないねぇ」
「『おまじない』ってなぁに?」
「ラン、ララ、ラララン
さぁ笑って
ラン、ララ、ラララン」
「それが『おまじない』なの?」
この時、心の温度が上がったことをはっきりと覚えている。
「そうさ。この唄には不思議な力があるんだよ。さとちゃんも一緒に唄ってみるかい?」
「ラン、ララ、ラララン
さぁ笑って
ラン、ララ、ラララン」
暖かな風が吹く中、二人の歌声が響き渡る。花々たちは伴奏者のように葉を揺らす。
───今なら分かる。葉が揺れていたのは、ただの風だったのだと。
「わぁ!おばあちゃんすごい!」
「これで大丈夫。元気になるよ。さとちゃんも同じなんだよ」
「え?私はお花じゃないのに?」
祖母は杖を右手に持ち代え、自由になった手を胸にあてた。
「みんな一緒なのさ。ここがチクチクしたときは、おまじないを唄ってごらん」
「どうして?」
「一緒に唄ったとき、どんな気持ちになったかな」
「うーん……。ここがポワッとした!」
「ほらね。そして今、さとちゃんは笑っているでしょ」
「本当だぁ!おばあちゃん、すごい!すごい!」
「どんなときも笑顔になれる。笑っていれば、チクチクは消えちゃうんだ。そんな力がある素敵なおまじないなんだ」
「おばあちゃん大好き」
ギュっと抱きしめた。思わず力が入り、祖母の身体がふらりと揺れる。
支えようと手を伸ばした瞬間、バランスを崩してドスンと尻餅をついてしまった。
「あ!……だ、大丈夫?」
バタバタと慌ただしい音が近づいてくる。
「里美!何してるの!またランドセルも片付けてないじゃない。何度言ったら分かるの」
母は足音にまで怒りを含ませ、私の腕を引きちぎれるかと思うほど引っ張る。
「ごめんなさい。お、おばあちゃんが……」
「何?はっきり言いなさい。それと、その顔やめて!あんたはいつもそう。自分が悪いくせに怒ってる私が悪いみたいな顔をするのよ」
───これだ。チクチクする。
「お義母さん、何度言えばやめてくれるんですか。庭には出ないでください。それと、里美に甘すぎます。ランドセルの約束だって知っているはずです」
杖がブルブルと祖母の体重を支えている。それなのに母は身動きひとつもせず棘を投げているだけ。
きっと私と同じようにチクチクしているのだろう。
やっと、二本足が地についたとき祖母と目が合った。
『さぁ、笑って』
母には絶対に分からない。
祖母は二人のおまじないを声に出さず口だけ動かし、笑った。
このとき私は初めて一人で唄った。
そして、祖母と同じように……笑った。
この日以来、一緒に夕飯作りをする約束をさせられた。相変わらず棘を投げるのが得意な母の前で、私は何度唄ったのだろう。
「最近、笑顔が増えたわね。やっぱり、おばあちゃんといるより私の方が楽しいのよね。だって親子だもの。当たり前だわ」
「……。あ、お母さん。お皿が一枚足りないよ」
唐揚げを取り分けていた私は話を変えた。
「お父さん、私、里美。三枚でいいのよ」
「おばあちゃんのは?」
「こんな脂っこいもの食べないわよ。それに、一緒に食べないんだから別にいいでしょ」
「え、でも……」
「おばあちゃんと一緒に食事すると好きなものが食べられないの。里美だってハンバーグとか、中華食べたいでしょ?」
チクリ。
……ラン、ララ、ラララン
さぁ笑って
ラン、ララ、ラララン
「おばあちゃんにご飯届けてくる!」
おまじないの力を借りて笑った。
食事を運ぶときだけが二人の時間になってしまった。
カタカタと不揃いな音が私にとっては心が踊る音色。
「おばあちゃん。ご飯だよぉ」
ゴホゴホと乾いた声が聞こえる。
「さとちゃん、ありがとうね」
「風邪?声が変だよ」
「大丈夫さ。おまじないで元気になるからね。一緒に唄ってくれるかい?」
「ラン、ララ、ラララン
さぁ笑って
ラン、ララ、ラララン」
これが、最後の楽しいおまじないだった。
『カタカタ』と鳴る音が微かに聞こえる。
次第に音量が上がり、心美の手が目に映った。
「だからね、言ったで……」
チクリ。
───あの時のように楽しいおまじないは、もう唄えない。
音を鳴らす心美を見つめ、懐かしい痛みを思い出していたそのとき、ドアの向こうからジャーっという音が聞こえ背中に冷たいものが伝う。窓の外を見て、ついに背筋が凍った。
傾き始めていた全体を照らす光はとっくに沈み、一部分だけの黒を照らす光に交代していた。
ガチャと開いた先には太一さんが立っている。
「おかえりなさい。すみません、心美の体調があまりよくなくて……」
筆を整えるように髪へ手を伸ばしながら、私はまさに泡を食っていた。
それなのに太一さんは、淡々とお弁当箱を定位置に置く。無人の部屋なのかと勘違いしてしまう。
「急いでお夕飯の支度をします」
「まさか忘れている訳ではないですよね」
「すみません」
「僕は言いましたよ。君を拾った時に。やはり、意味を理解していなかったようですね」
生活感を感じさせないテーブルの上に腕を置き、チクタクと刻み続けるものと交互に私を見ている。
「本当にごめんなさい。ペースを乱してしまいました。で、でも心美が……」
ゴンと鈍い音と共に白く変色した拳をテーブルに叩きつける。
「心美がどうしました?体調がわるい?泣いていた?こんな小さな子のせいにするんですね」
「ち、違うんです」
「体調が悪くなるのも、泣くのも母親のあなたの責任ではないのですか」
チクリ。
「ラン、ララ、ラララン
さぁ笑って
ラン、ララ、ラララン」
「その通りです」
おまじないの力を借りた。これで大丈夫。
「……こんな状況でも笑っているなんて、僕のことをバカにしているのですか?」
柔らかくなるはずの空気が、どんどん固くなっていく。
どうして……。唄ったのに。
どうして……。なにか間違えたの?
───ピキッ。
両手で顔を確かめる。
───ピキ、ピキッ。
おばあちゃん、お願い。一緒に唄って。
無表情な太一さんの肩越しに、ムクっと二本足で立つ心美がいた。
しかし、その顔までは霞んで見えなかった。