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ー/ー



 机の上のテキストをバッグに詰め、席を立つ。教室を出たところで、「じゃあここで」と澄香に声をかけた。
「ああ、そうか。アズはこのあと数学の授業あるんだっけ?」
「うん、そう」
 大変だね、国立志望は。まあね。授業がんばって。ありがとう、また明日。そんなやりとりをして澄香と別れた。澄香とはこの春から同じ予備校に通っている。
 家に帰り手を洗い、ハナちゃんのもとへ向かう。ただいま、とケージをのぞくと、小さな黒い瞳がこちらを向く。給水器の水は減っているが、エサの量は今朝とあまり変わっていなかった。
 二年の学年末テストのころからハナちゃんは小さくなりはじめた。毎日少しずつ小さくなっていき、学年が変わり一か月近く経った現在、ハナちゃんは最初に家に来たときとほとんど変わらない大きさにまで戻っている。
 給水器に水を入れてやると、ハナちゃんはおずおずと飲み口に口をつけた。最近、母はハナちゃんの世話をほとんどしない。三年生になり新しい友だちができた妹は、その友だちと外で遊ぶ時間が増えた。父はケージに近寄ることすらしなくなった。たまにケージをのぞくと給水器がからっぽになっていたりするので、近ごろは気づいたときにわたしが水やエサを補充するようにしている。とはいえわたしも予備校や部活で家にいない時間も多いから、常に様子を気にかけてやれているわけではないのだけど。
 給水器の飲み口から口を離すと、ハナちゃんは奥の小屋のほうへと移動する。なんだかよたよたとした足どりだ。ハナちゃんはエサ皿の横を素通りし、小屋の中でうずくまるように丸くなった。
「おやすみ、ハナちゃん」
 そう声をかけ、ケージのそばを離れた。背中に視線を感じ、振り返るとハナちゃんがこちらを見ていた。おやすみ。もう一度言って、わたしはリビングのドアを閉めた。
 それから一週間もしないうちに、ハナちゃんはケージの中で冷たくなった。
 ハナちゃんの体をタオルで包み、家の庭にシャベルで穴を掘っていると、母が買い物から帰ってきた。
「あら。なにしてるの?」
「ハナちゃん、埋めてあげようと思って」
「ハナちゃん?」
「モルモット。死んじゃったから」
 母は、ああ、とつまらなそうに言った。
「それよりあんた、今日帰り早いわね。予備校は?」
「今日、授業休みだから」
「授業がなくたって、勉強してきたらいいじゃない。自習室、あるんでしょ?」
「うん、まあ」
 この前の模試、数学の結果があまり良くなかったわよ。そう言って母は家の中に入っていった。母はこのごろわたしの勉強に口出しをしてくることが増えた。

 日曜日。わたしはリビングで勉強をしていた。父はジムに行き、母と妹は朝から出かけていた。家族全員出払って静かなので、たまには広い部屋で勉強でもしようかなという気になった。
 数学の問題集を五ページほど解き終え、軽く伸びをしたところでお腹が鳴った。時計を見るともうすぐお昼だ。なにか食べるものはないかとキッチンへ向かう。
 冷蔵庫の中には食材しか入っていなかった。鶏のむね肉や魚など、高たんぱく・低脂肪の食品が目立つのは、最近筋トレにはまりだした父が勝手に買ってくるからだ。そのくせ自分では調理ができないので、いつも母に頼んで筋力増強に効果のあるメニューを作ってもらっている。付き合わされる母は大変だ。父も一度、自分で料理を作ってみればいいと思う。
 諦めて冷蔵庫を閉める。戸棚のほうを見てみようとして、キッチンの台の上に薄いピンク色の液体が半分ほど入ったグラスが置かれているのが目に留まった。最近母が好んで飲んでいるココナッツウォーターだ。グラスを手に取り、残った液体をシンクに流した。
 そこへ、玄関のドアが開く音がした。母と妹の声が聞こえてくる。「おねえちゃん、見て見て」とリビングにやってきた妹の手には小さなハムスターが乗っていた。
「どうしたの、これ」
「買ってもらったの」
 ビニール袋を提げた母がリビングに入ってくる。「ママ、はやくハナちゃんのおうち作ってあげて」と妹が母にせがむ。妹は早くもハムスターに名前をつけているようだ。名前の由来はなんだろう。ハムスターは雑食だというから、花が好物なのだろうか。
 母はさっそくケージの組み立てを始めた。わたしはテーブルの上の勉強道具を片付けて二階に向かった。リビングはしばらく騒がしくなりそうだ。
 自室に戻り、勉強する教科を変えようと棚の教材をいじっていると、端から本が一冊床に落ちた。勉強に関係する本ではないようだ。体に赤いラインが入った魚が写っている表紙には『ネオンテトラの飼い方』というタイトルが書かれている。
 見覚えのない本だった。いつからここに置かれていたのだろう。いずれにしろ、わたしには特に必要のないものだ。
 わたしは本を拾い上げ、そのまま部屋のゴミ箱に捨てた。


(了)




みんなのリアクション

 机の上のテキストをバッグに詰め、席を立つ。教室を出たところで、「じゃあここで」と澄香に声をかけた。
「ああ、そうか。アズはこのあと数学の授業あるんだっけ?」
「うん、そう」
 大変だね、国立志望は。まあね。授業がんばって。ありがとう、また明日。そんなやりとりをして澄香と別れた。澄香とはこの春から同じ予備校に通っている。
 家に帰り手を洗い、ハナちゃんのもとへ向かう。ただいま、とケージをのぞくと、小さな黒い瞳がこちらを向く。給水器の水は減っているが、エサの量は今朝とあまり変わっていなかった。
 二年の学年末テストのころからハナちゃんは小さくなりはじめた。毎日少しずつ小さくなっていき、学年が変わり一か月近く経った現在、ハナちゃんは最初に家に来たときとほとんど変わらない大きさにまで戻っている。
 給水器に水を入れてやると、ハナちゃんはおずおずと飲み口に口をつけた。最近、母はハナちゃんの世話をほとんどしない。三年生になり新しい友だちができた妹は、その友だちと外で遊ぶ時間が増えた。父はケージに近寄ることすらしなくなった。たまにケージをのぞくと給水器がからっぽになっていたりするので、近ごろは気づいたときにわたしが水やエサを補充するようにしている。とはいえわたしも予備校や部活で家にいない時間も多いから、常に様子を気にかけてやれているわけではないのだけど。
 給水器の飲み口から口を離すと、ハナちゃんは奥の小屋のほうへと移動する。なんだかよたよたとした足どりだ。ハナちゃんはエサ皿の横を素通りし、小屋の中でうずくまるように丸くなった。
「おやすみ、ハナちゃん」
 そう声をかけ、ケージのそばを離れた。背中に視線を感じ、振り返るとハナちゃんがこちらを見ていた。おやすみ。もう一度言って、わたしはリビングのドアを閉めた。
 それから一週間もしないうちに、ハナちゃんはケージの中で冷たくなった。
 ハナちゃんの体をタオルで包み、家の庭にシャベルで穴を掘っていると、母が買い物から帰ってきた。
「あら。なにしてるの?」
「ハナちゃん、埋めてあげようと思って」
「ハナちゃん?」
「モルモット。死んじゃったから」
 母は、ああ、とつまらなそうに言った。
「それよりあんた、今日帰り早いわね。予備校は?」
「今日、授業休みだから」
「授業がなくたって、勉強してきたらいいじゃない。自習室、あるんでしょ?」
「うん、まあ」
 この前の模試、数学の結果があまり良くなかったわよ。そう言って母は家の中に入っていった。母はこのごろわたしの勉強に口出しをしてくることが増えた。
 日曜日。わたしはリビングで勉強をしていた。父はジムに行き、母と妹は朝から出かけていた。家族全員出払って静かなので、たまには広い部屋で勉強でもしようかなという気になった。
 数学の問題集を五ページほど解き終え、軽く伸びをしたところでお腹が鳴った。時計を見るともうすぐお昼だ。なにか食べるものはないかとキッチンへ向かう。
 冷蔵庫の中には食材しか入っていなかった。鶏のむね肉や魚など、高たんぱく・低脂肪の食品が目立つのは、最近筋トレにはまりだした父が勝手に買ってくるからだ。そのくせ自分では調理ができないので、いつも母に頼んで筋力増強に効果のあるメニューを作ってもらっている。付き合わされる母は大変だ。父も一度、自分で料理を作ってみればいいと思う。
 諦めて冷蔵庫を閉める。戸棚のほうを見てみようとして、キッチンの台の上に薄いピンク色の液体が半分ほど入ったグラスが置かれているのが目に留まった。最近母が好んで飲んでいるココナッツウォーターだ。グラスを手に取り、残った液体をシンクに流した。
 そこへ、玄関のドアが開く音がした。母と妹の声が聞こえてくる。「おねえちゃん、見て見て」とリビングにやってきた妹の手には小さなハムスターが乗っていた。
「どうしたの、これ」
「買ってもらったの」
 ビニール袋を提げた母がリビングに入ってくる。「ママ、はやくハナちゃんのおうち作ってあげて」と妹が母にせがむ。妹は早くもハムスターに名前をつけているようだ。名前の由来はなんだろう。ハムスターは雑食だというから、花が好物なのだろうか。
 母はさっそくケージの組み立てを始めた。わたしはテーブルの上の勉強道具を片付けて二階に向かった。リビングはしばらく騒がしくなりそうだ。
 自室に戻り、勉強する教科を変えようと棚の教材をいじっていると、端から本が一冊床に落ちた。勉強に関係する本ではないようだ。体に赤いラインが入った魚が写っている表紙には『ネオンテトラの飼い方』というタイトルが書かれている。
 見覚えのない本だった。いつからここに置かれていたのだろう。いずれにしろ、わたしには特に必要のないものだ。
 わたしは本を拾い上げ、そのまま部屋のゴミ箱に捨てた。
(了)


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