第2話 広場の名前
ー/ー 寄席の朝は、思ったより早く来た。
紬はまだ薄暗い時間に店のシャッターを開け、保温ポットと豆の袋を抱えて広場へ向かった。背中に感じる冷たい空気が、妙に気持ちいい。
広場にはすでに悠乃と富士男がいた。富士男は備品の分量を一つずつ確認し、悠乃は持ち込む材料をリストと見比べながら静かに並べている。
「二人とも早いな」
「想定外を減らすには早起きが最適です」
悠乃の答えはいつも通り合理的で、紬は笑って頷いた。
ほどなく羽希が現れた。大きな風呂敷包みを両手で抱え、息を切らしている。
「……どら焼き、追加しました。あと、みたらしも」
「え、そんなに? 羽希、無理してない?」
紬が心配すると、羽希は首を横に振る。
「大丈夫です。……売り切れたら、うれしいから」
その言葉を、悠乃がそっと受け止めるように笑った。
*
開始の合図は、商店街の太鼓だった。
人々はアーケードを抜け、例の看板の前でいったん立ち止まる。
「行き止まり? でも音、こっちからだよね」
「看板、冗談じゃないの?」
さざめきながらも、みんな興味に負けて道へ入ってきた。
紬は屋台の前で呼び込みをしながら、その様子が妙におかしくて仕方なかった。
「“行き止まり”って書いてあるのにみんな来る。俺の店も同じかもな」
「矛盾を越えるのが人の好奇心です」
悠乃は真顔で言い、次の瞬間、湯気の上がるポットに顔を近づけて匂いを確かめた。
寄席の舞台では、近所の会社員が落語を始め、子どもたちが腹を抱えて笑う。合間に客が流れ、ツムギ堂のコーヒーと羽希の菓子を買っていく。
「うわ、ふわふわ!」
「このどら焼き、皮が香ばしい!」
褒め言葉が飛ぶたび、紬は胸の中で小さくガッツポーズをした。
誰かの成功や喜びを一緒に祝えるのは、昔からの自分の強みだ。でも今日は、そこに“自分が役に立ってる”という実感も混じっている。
順調――のはずだった。
昼過ぎ、空が急に暗くなり、冷たい雨が落ち始めた。
仮設の電源が「ブツン」と途切れ、簡易機が沈黙する。
「やばい、コーヒーが淹れられない!」
紬が青ざめる。すぐ横では観客が雨を避けて屋台に押し寄せ始め、足元は一気に泥っぽくなる。
このままじゃ、寄席どころか広場が混乱する。紬は状況に追い詰められて、頭の中が真っ白になった。
「紬、深呼吸」
富士男が肩に手を置いた。声は静かだが、芯がある。
「最悪の形を想像しよう。何が起きる?」
「列が崩れて、みんな濡れて、熱いの出してやけどして……」
「なら、列を作るより先に、濡れない場所を作る」
悠乃がすぐに動く。「屋台の布を二枚つなげば簡易の屋根になります。傘のある人は舞台側、ない人はこっちへ誘導。富士男さん、ロープ借りられます?」
「任せて」
富士男は周囲の屋台に声をかけ、数分でロープと洗濯ばさみを集めて戻ってきた。考えてから動く人の速さは、不思議と骨太だ。
羽希はいつの間にか菓子の箱を高い台に移し、濡れた足元を黙って布で拭いていた。誰にも言わず、誰にも聞かれず、必要なことだけを確実にやる。
紬は沸かしておいたお湯のポットを抱え直す。
「機械がだめなら、手で淹れよう。ドリッパーはある、豆もある。湯温だけ気をつければ――」
「温度は九十二度前後。外気で冷えるから、湯を注ぐ前に器を温めて」
悠乃の指示は冷静で、紬の手を落ち着かせた。
四人がそれぞれの役割で動くうちに、屋台の前に即席の屋根ができ、人の流れが整った。
雨の中で飲む熱いコーヒーは、むしろ特別らしい。
「なんか、こういうのもいいねえ」
「行き止まりの奥で雨宿りなんて、粋だな」
客たちが笑い、舞台の噺家まで「雨のネタ」を即興で織り込んで、広場はさらに盛り上がった。
紬は胸に手を当てた。
さっきまでの焦りが、嘘みたいに溶けていく。
自分はふらふらしても、隣には支えてくれる人がいる。しかも、その支えを受け取っていいのだと、今は素直に思える。
*
夕方、雨が上がり、寄席が終わるころには菓子も豆もほとんどなくなっていた。
片付けをしながら、紬は何度も「すごかった!」と三人を褒めた。
「富士男の段取り、完璧だった。悠乃の指示、頼もしすぎ。羽希の菓子、今日の主役だよ」
褒められるたび、悠乃は短く頷き、富士男は照れて耳をかき、羽希は「……そんな」と小さく笑った。
客が去り、広場が静かになる。
黒猫がどこからともなく現れ、ベンチの上に跳び乗った。首の鈴がちりんと鳴る。
羽希が紬の前に、薄い封筒を差し出した。
「……これ、読んでほしいです。帰ってからで」
「羽希から手紙? 珍しいな」
紬が受け取ると、羽希は目を伏せたまま言った。
「……口が固いのが取り柄なので、今まで言えませんでした」
紬はその場で封を切った。便箋には、丁寧な字でこうあった。
――三年前、うちの店が火事のあとで再開できるか分からなかったとき、あなたが毎晩、誰にも知られないように掃除と片付けを手伝ってくれました。父も母も、あなたの名前を最後まで知らず、私は偶然、背中のエプロンで気づきました。
――だから、あなたの店ができたとき、今度は私たちが支えたいと思いました。旧倉庫が使えなくなったのは、広場の完成を早めてもらうために、町にお願いしたからです。あなたが“行き止まり”の先で、たくさんの笑顔を見られるように。
――私の勝手な段取りです。もし嫌だったら、ごめんなさい。でも、今日あなたが笑ってくれたなら、それだけで十分です。
読み終えた紬の喉が、きゅっと詰まった。
羽希は逃げるように一歩下がり、富士男の影に隠れる。
富士男は黙って、羽希の肩をそっと支えた。
「羽希……そんなこと、俺、全然覚えてなくて」
紬は笑いながらも、目が熱い。
「でも、そうか。あのときの俺、ちゃんと誰かの役に立ってたんだな」
悠乃が穏やかに言う。
「あなたは自分の価値を測る物差しを、いつも他人の笑顔にしてる。でも今日は、あなた自身の笑顔が物差しになった」
紬は広場を見回した。
さっきまで賑わっていた石畳が、雨上がりの光を受けてきらきらしている。
ふと足元を見ると、広場の入口に新しいプレートが埋め込まれていた。
今日、みんなの足で泥を落とされ、初めて露わになったらしい。
「行き止まり広場」
紬は吹き出した。
「……名前、逆じゃない? 先、あるのに」
富士男が真面目に首をかしげる。
「先があるから“行き止まり”なんだろ。ここで一度止まって、誰かと話して、また別の道へ行く。そういう場所だ」
羽希が小さく頷いた。
「……だから、看板もそのままでいいって、町の人が」
看板は相変わらず「ここから先は行き止まりです」と言い張っている。
でも、その“先”で、四人は確かに笑っていた。
紬は三人に向き直る。
「ありがとう。俺、ここで店を続けながら、もっとみんなの喜びを見たい。……それと同じくらい、自分の喜びも大事にする」
悠乃が頷き、富士男がにかっと笑い、羽希は照れくさそうに目尻を下げた。
黒猫が「にゃ」と鳴き、鈴がもう一度ちりんと響く。
行き止まりのはずの場所で、今日いちばん予想外だったのは、
“誰かの善意が、静かに巡って戻ってくること”だった。
紬はまだ薄暗い時間に店のシャッターを開け、保温ポットと豆の袋を抱えて広場へ向かった。背中に感じる冷たい空気が、妙に気持ちいい。
広場にはすでに悠乃と富士男がいた。富士男は備品の分量を一つずつ確認し、悠乃は持ち込む材料をリストと見比べながら静かに並べている。
「二人とも早いな」
「想定外を減らすには早起きが最適です」
悠乃の答えはいつも通り合理的で、紬は笑って頷いた。
ほどなく羽希が現れた。大きな風呂敷包みを両手で抱え、息を切らしている。
「……どら焼き、追加しました。あと、みたらしも」
「え、そんなに? 羽希、無理してない?」
紬が心配すると、羽希は首を横に振る。
「大丈夫です。……売り切れたら、うれしいから」
その言葉を、悠乃がそっと受け止めるように笑った。
*
開始の合図は、商店街の太鼓だった。
人々はアーケードを抜け、例の看板の前でいったん立ち止まる。
「行き止まり? でも音、こっちからだよね」
「看板、冗談じゃないの?」
さざめきながらも、みんな興味に負けて道へ入ってきた。
紬は屋台の前で呼び込みをしながら、その様子が妙におかしくて仕方なかった。
「“行き止まり”って書いてあるのにみんな来る。俺の店も同じかもな」
「矛盾を越えるのが人の好奇心です」
悠乃は真顔で言い、次の瞬間、湯気の上がるポットに顔を近づけて匂いを確かめた。
寄席の舞台では、近所の会社員が落語を始め、子どもたちが腹を抱えて笑う。合間に客が流れ、ツムギ堂のコーヒーと羽希の菓子を買っていく。
「うわ、ふわふわ!」
「このどら焼き、皮が香ばしい!」
褒め言葉が飛ぶたび、紬は胸の中で小さくガッツポーズをした。
誰かの成功や喜びを一緒に祝えるのは、昔からの自分の強みだ。でも今日は、そこに“自分が役に立ってる”という実感も混じっている。
順調――のはずだった。
昼過ぎ、空が急に暗くなり、冷たい雨が落ち始めた。
仮設の電源が「ブツン」と途切れ、簡易機が沈黙する。
「やばい、コーヒーが淹れられない!」
紬が青ざめる。すぐ横では観客が雨を避けて屋台に押し寄せ始め、足元は一気に泥っぽくなる。
このままじゃ、寄席どころか広場が混乱する。紬は状況に追い詰められて、頭の中が真っ白になった。
「紬、深呼吸」
富士男が肩に手を置いた。声は静かだが、芯がある。
「最悪の形を想像しよう。何が起きる?」
「列が崩れて、みんな濡れて、熱いの出してやけどして……」
「なら、列を作るより先に、濡れない場所を作る」
悠乃がすぐに動く。「屋台の布を二枚つなげば簡易の屋根になります。傘のある人は舞台側、ない人はこっちへ誘導。富士男さん、ロープ借りられます?」
「任せて」
富士男は周囲の屋台に声をかけ、数分でロープと洗濯ばさみを集めて戻ってきた。考えてから動く人の速さは、不思議と骨太だ。
羽希はいつの間にか菓子の箱を高い台に移し、濡れた足元を黙って布で拭いていた。誰にも言わず、誰にも聞かれず、必要なことだけを確実にやる。
紬は沸かしておいたお湯のポットを抱え直す。
「機械がだめなら、手で淹れよう。ドリッパーはある、豆もある。湯温だけ気をつければ――」
「温度は九十二度前後。外気で冷えるから、湯を注ぐ前に器を温めて」
悠乃の指示は冷静で、紬の手を落ち着かせた。
四人がそれぞれの役割で動くうちに、屋台の前に即席の屋根ができ、人の流れが整った。
雨の中で飲む熱いコーヒーは、むしろ特別らしい。
「なんか、こういうのもいいねえ」
「行き止まりの奥で雨宿りなんて、粋だな」
客たちが笑い、舞台の噺家まで「雨のネタ」を即興で織り込んで、広場はさらに盛り上がった。
紬は胸に手を当てた。
さっきまでの焦りが、嘘みたいに溶けていく。
自分はふらふらしても、隣には支えてくれる人がいる。しかも、その支えを受け取っていいのだと、今は素直に思える。
*
夕方、雨が上がり、寄席が終わるころには菓子も豆もほとんどなくなっていた。
片付けをしながら、紬は何度も「すごかった!」と三人を褒めた。
「富士男の段取り、完璧だった。悠乃の指示、頼もしすぎ。羽希の菓子、今日の主役だよ」
褒められるたび、悠乃は短く頷き、富士男は照れて耳をかき、羽希は「……そんな」と小さく笑った。
客が去り、広場が静かになる。
黒猫がどこからともなく現れ、ベンチの上に跳び乗った。首の鈴がちりんと鳴る。
羽希が紬の前に、薄い封筒を差し出した。
「……これ、読んでほしいです。帰ってからで」
「羽希から手紙? 珍しいな」
紬が受け取ると、羽希は目を伏せたまま言った。
「……口が固いのが取り柄なので、今まで言えませんでした」
紬はその場で封を切った。便箋には、丁寧な字でこうあった。
――三年前、うちの店が火事のあとで再開できるか分からなかったとき、あなたが毎晩、誰にも知られないように掃除と片付けを手伝ってくれました。父も母も、あなたの名前を最後まで知らず、私は偶然、背中のエプロンで気づきました。
――だから、あなたの店ができたとき、今度は私たちが支えたいと思いました。旧倉庫が使えなくなったのは、広場の完成を早めてもらうために、町にお願いしたからです。あなたが“行き止まり”の先で、たくさんの笑顔を見られるように。
――私の勝手な段取りです。もし嫌だったら、ごめんなさい。でも、今日あなたが笑ってくれたなら、それだけで十分です。
読み終えた紬の喉が、きゅっと詰まった。
羽希は逃げるように一歩下がり、富士男の影に隠れる。
富士男は黙って、羽希の肩をそっと支えた。
「羽希……そんなこと、俺、全然覚えてなくて」
紬は笑いながらも、目が熱い。
「でも、そうか。あのときの俺、ちゃんと誰かの役に立ってたんだな」
悠乃が穏やかに言う。
「あなたは自分の価値を測る物差しを、いつも他人の笑顔にしてる。でも今日は、あなた自身の笑顔が物差しになった」
紬は広場を見回した。
さっきまで賑わっていた石畳が、雨上がりの光を受けてきらきらしている。
ふと足元を見ると、広場の入口に新しいプレートが埋め込まれていた。
今日、みんなの足で泥を落とされ、初めて露わになったらしい。
「行き止まり広場」
紬は吹き出した。
「……名前、逆じゃない? 先、あるのに」
富士男が真面目に首をかしげる。
「先があるから“行き止まり”なんだろ。ここで一度止まって、誰かと話して、また別の道へ行く。そういう場所だ」
羽希が小さく頷いた。
「……だから、看板もそのままでいいって、町の人が」
看板は相変わらず「ここから先は行き止まりです」と言い張っている。
でも、その“先”で、四人は確かに笑っていた。
紬は三人に向き直る。
「ありがとう。俺、ここで店を続けながら、もっとみんなの喜びを見たい。……それと同じくらい、自分の喜びも大事にする」
悠乃が頷き、富士男がにかっと笑い、羽希は照れくさそうに目尻を下げた。
黒猫が「にゃ」と鳴き、鈴がもう一度ちりんと響く。
行き止まりのはずの場所で、今日いちばん予想外だったのは、
“誰かの善意が、静かに巡って戻ってくること”だった。
みんなのリアクション
まだリアクションはありません。最初の一歩を踏み出しましょう!
寄席の朝は、思ったより早く来た。
紬はまだ薄暗い時間に店のシャッターを開け、保温ポットと豆の袋を抱えて広場へ向かった。背中に感じる冷たい空気が、妙に気持ちいい。
紬はまだ薄暗い時間に店のシャッターを開け、保温ポットと豆の袋を抱えて広場へ向かった。背中に感じる冷たい空気が、妙に気持ちいい。
広場にはすでに悠乃と富士男がいた。富士男は備品の分量を一つずつ確認し、悠乃は持ち込む材料をリストと見比べながら静かに並べている。
「二人とも早いな」
「想定外を減らすには早起きが最適です」
悠乃の答えはいつも通り合理的で、紬は笑って頷いた。
「想定外を減らすには早起きが最適です」
悠乃の答えはいつも通り合理的で、紬は笑って頷いた。
ほどなく羽希が現れた。大きな風呂敷包みを両手で抱え、息を切らしている。
「……どら焼き、追加しました。あと、みたらしも」
「え、そんなに? 羽希、無理してない?」
紬が心配すると、羽希は首を横に振る。
「大丈夫です。……売り切れたら、うれしいから」
「……どら焼き、追加しました。あと、みたらしも」
「え、そんなに? 羽希、無理してない?」
紬が心配すると、羽希は首を横に振る。
「大丈夫です。……売り切れたら、うれしいから」
その言葉を、悠乃がそっと受け止めるように笑った。
*
開始の合図は、商店街の太鼓だった。
人々はアーケードを抜け、例の看板の前でいったん立ち止まる。
人々はアーケードを抜け、例の看板の前でいったん立ち止まる。
「行き止まり? でも音、こっちからだよね」
「看板、冗談じゃないの?」
さざめきながらも、みんな興味に負けて道へ入ってきた。
「看板、冗談じゃないの?」
さざめきながらも、みんな興味に負けて道へ入ってきた。
紬は屋台の前で呼び込みをしながら、その様子が妙におかしくて仕方なかった。
「“行き止まり”って書いてあるのにみんな来る。俺の店も同じかもな」
「矛盾を越えるのが人の好奇心です」
悠乃は真顔で言い、次の瞬間、湯気の上がるポットに顔を近づけて匂いを確かめた。
「“行き止まり”って書いてあるのにみんな来る。俺の店も同じかもな」
「矛盾を越えるのが人の好奇心です」
悠乃は真顔で言い、次の瞬間、湯気の上がるポットに顔を近づけて匂いを確かめた。
寄席の舞台では、近所の会社員が落語を始め、子どもたちが腹を抱えて笑う。合間に客が流れ、ツムギ堂のコーヒーと羽希の菓子を買っていく。
「うわ、ふわふわ!」
「このどら焼き、皮が香ばしい!」
褒め言葉が飛ぶたび、紬は胸の中で小さくガッツポーズをした。
誰かの成功や喜びを一緒に祝えるのは、昔からの自分の強みだ。でも今日は、そこに“自分が役に立ってる”という実感も混じっている。
「このどら焼き、皮が香ばしい!」
褒め言葉が飛ぶたび、紬は胸の中で小さくガッツポーズをした。
誰かの成功や喜びを一緒に祝えるのは、昔からの自分の強みだ。でも今日は、そこに“自分が役に立ってる”という実感も混じっている。
順調――のはずだった。
昼過ぎ、空が急に暗くなり、冷たい雨が落ち始めた。
仮設の電源が「ブツン」と途切れ、簡易機が沈黙する。
仮設の電源が「ブツン」と途切れ、簡易機が沈黙する。
「やばい、コーヒーが淹れられない!」
紬が青ざめる。すぐ横では観客が雨を避けて屋台に押し寄せ始め、足元は一気に泥っぽくなる。
このままじゃ、寄席どころか広場が混乱する。紬は状況に追い詰められて、頭の中が真っ白になった。
紬が青ざめる。すぐ横では観客が雨を避けて屋台に押し寄せ始め、足元は一気に泥っぽくなる。
このままじゃ、寄席どころか広場が混乱する。紬は状況に追い詰められて、頭の中が真っ白になった。
「紬、深呼吸」
富士男が肩に手を置いた。声は静かだが、芯がある。
「最悪の形を想像しよう。何が起きる?」
富士男が肩に手を置いた。声は静かだが、芯がある。
「最悪の形を想像しよう。何が起きる?」
「列が崩れて、みんな濡れて、熱いの出してやけどして……」
「なら、列を作るより先に、濡れない場所を作る」
「なら、列を作るより先に、濡れない場所を作る」
悠乃がすぐに動く。「屋台の布を二枚つなげば簡易の屋根になります。傘のある人は舞台側、ない人はこっちへ誘導。富士男さん、ロープ借りられます?」
「任せて」
富士男は周囲の屋台に声をかけ、数分でロープと洗濯ばさみを集めて戻ってきた。考えてから動く人の速さは、不思議と骨太だ。
富士男は周囲の屋台に声をかけ、数分でロープと洗濯ばさみを集めて戻ってきた。考えてから動く人の速さは、不思議と骨太だ。
羽希はいつの間にか菓子の箱を高い台に移し、濡れた足元を黙って布で拭いていた。誰にも言わず、誰にも聞かれず、必要なことだけを確実にやる。
紬は沸かしておいたお湯のポットを抱え直す。
「機械がだめなら、手で淹れよう。ドリッパーはある、豆もある。湯温だけ気をつければ――」
「機械がだめなら、手で淹れよう。ドリッパーはある、豆もある。湯温だけ気をつければ――」
「温度は九十二度前後。外気で冷えるから、湯を注ぐ前に器を温めて」
悠乃の指示は冷静で、紬の手を落ち着かせた。
悠乃の指示は冷静で、紬の手を落ち着かせた。
四人がそれぞれの役割で動くうちに、屋台の前に即席の屋根ができ、人の流れが整った。
雨の中で飲む熱いコーヒーは、むしろ特別らしい。
雨の中で飲む熱いコーヒーは、むしろ特別らしい。
「なんか、こういうのもいいねえ」
「行き止まりの奥で雨宿りなんて、粋だな」
客たちが笑い、舞台の噺家まで「雨のネタ」を即興で織り込んで、広場はさらに盛り上がった。
「行き止まりの奥で雨宿りなんて、粋だな」
客たちが笑い、舞台の噺家まで「雨のネタ」を即興で織り込んで、広場はさらに盛り上がった。
紬は胸に手を当てた。
さっきまでの焦りが、嘘みたいに溶けていく。
自分はふらふらしても、隣には支えてくれる人がいる。しかも、その支えを受け取っていいのだと、今は素直に思える。
さっきまでの焦りが、嘘みたいに溶けていく。
自分はふらふらしても、隣には支えてくれる人がいる。しかも、その支えを受け取っていいのだと、今は素直に思える。
*
夕方、雨が上がり、寄席が終わるころには菓子も豆もほとんどなくなっていた。
片付けをしながら、紬は何度も「すごかった!」と三人を褒めた。
片付けをしながら、紬は何度も「すごかった!」と三人を褒めた。
「富士男の段取り、完璧だった。悠乃の指示、頼もしすぎ。羽希の菓子、今日の主役だよ」
褒められるたび、悠乃は短く頷き、富士男は照れて耳をかき、羽希は「……そんな」と小さく笑った。
褒められるたび、悠乃は短く頷き、富士男は照れて耳をかき、羽希は「……そんな」と小さく笑った。
客が去り、広場が静かになる。
黒猫がどこからともなく現れ、ベンチの上に跳び乗った。首の鈴がちりんと鳴る。
黒猫がどこからともなく現れ、ベンチの上に跳び乗った。首の鈴がちりんと鳴る。
羽希が紬の前に、薄い封筒を差し出した。
「……これ、読んでほしいです。帰ってからで」
「……これ、読んでほしいです。帰ってからで」
「羽希から手紙? 珍しいな」
紬が受け取ると、羽希は目を伏せたまま言った。
「……口が固いのが取り柄なので、今まで言えませんでした」
紬が受け取ると、羽希は目を伏せたまま言った。
「……口が固いのが取り柄なので、今まで言えませんでした」
紬はその場で封を切った。便箋には、丁寧な字でこうあった。
――三年前、うちの店が火事のあとで再開できるか分からなかったとき、あなたが毎晩、誰にも知られないように掃除と片付けを手伝ってくれました。父も母も、あなたの名前を最後まで知らず、私は偶然、背中のエプロンで気づきました。
――だから、あなたの店ができたとき、今度は私たちが支えたいと思いました。旧倉庫が使えなくなったのは、広場の完成を早めてもらうために、町にお願いしたからです。あなたが“行き止まり”の先で、たくさんの笑顔を見られるように。
――私の勝手な段取りです。もし嫌だったら、ごめんなさい。でも、今日あなたが笑ってくれたなら、それだけで十分です。
読み終えた紬の喉が、きゅっと詰まった。
羽希は逃げるように一歩下がり、富士男の影に隠れる。
富士男は黙って、羽希の肩をそっと支えた。
羽希は逃げるように一歩下がり、富士男の影に隠れる。
富士男は黙って、羽希の肩をそっと支えた。
「羽希……そんなこと、俺、全然覚えてなくて」
紬は笑いながらも、目が熱い。
「でも、そうか。あのときの俺、ちゃんと誰かの役に立ってたんだな」
紬は笑いながらも、目が熱い。
「でも、そうか。あのときの俺、ちゃんと誰かの役に立ってたんだな」
悠乃が穏やかに言う。
「あなたは自分の価値を測る物差しを、いつも他人の笑顔にしてる。でも今日は、あなた自身の笑顔が物差しになった」
「あなたは自分の価値を測る物差しを、いつも他人の笑顔にしてる。でも今日は、あなた自身の笑顔が物差しになった」
紬は広場を見回した。
さっきまで賑わっていた石畳が、雨上がりの光を受けてきらきらしている。
さっきまで賑わっていた石畳が、雨上がりの光を受けてきらきらしている。
ふと足元を見ると、広場の入口に新しいプレートが埋め込まれていた。
今日、みんなの足で泥を落とされ、初めて露わになったらしい。
今日、みんなの足で泥を落とされ、初めて露わになったらしい。
「行き止まり広場」
紬は吹き出した。
「……名前、逆じゃない? 先、あるのに」
「……名前、逆じゃない? 先、あるのに」
富士男が真面目に首をかしげる。
「先があるから“行き止まり”なんだろ。ここで一度止まって、誰かと話して、また別の道へ行く。そういう場所だ」
「先があるから“行き止まり”なんだろ。ここで一度止まって、誰かと話して、また別の道へ行く。そういう場所だ」
羽希が小さく頷いた。
「……だから、看板もそのままでいいって、町の人が」
「……だから、看板もそのままでいいって、町の人が」
看板は相変わらず「ここから先は行き止まりです」と言い張っている。
でも、その“先”で、四人は確かに笑っていた。
でも、その“先”で、四人は確かに笑っていた。
紬は三人に向き直る。
「ありがとう。俺、ここで店を続けながら、もっとみんなの喜びを見たい。……それと同じくらい、自分の喜びも大事にする」
「ありがとう。俺、ここで店を続けながら、もっとみんなの喜びを見たい。……それと同じくらい、自分の喜びも大事にする」
悠乃が頷き、富士男がにかっと笑い、羽希は照れくさそうに目尻を下げた。
黒猫が「にゃ」と鳴き、鈴がもう一度ちりんと響く。
黒猫が「にゃ」と鳴き、鈴がもう一度ちりんと響く。
行き止まりのはずの場所で、今日いちばん予想外だったのは、
“誰かの善意が、静かに巡って戻ってくること”だった。
“誰かの善意が、静かに巡って戻ってくること”だった。