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13の男の妹、由希子

ー/ー



 兄の雅志とは幼い頃から仲がよく、よくふたりで遊ぶことが多かった。私の結婚式のさいも、司会と、私たちに捧げるオリジナルの歌も歌ってくれた。兄は、幼い頃から不思議な体験をしていたらしく、本当かどうかはともかく、さまざまな怪奇な体験談を聞いている。昨日も兄が携帯にかけてきて、恐怖に満ちた未来がみえたと言ってとても怯えていた。

 また、兄が高校の卒業間近い頃のこと。兄の親しい友人が遊びに来たときだそうだ。ふたりでギターを弾きあっていたときのこと、どこからともなく線香の香りが漂ってきた。誰もいないはずなのに。

「雅志、なんか線香の臭いがしないか?」

「久間田も臭うか、確かに、家には仏壇があるけど、朝から線香は焚いていないはずなんだけどな」

 そのとき、彼が急に頭を抱えて、息を荒くしながら部屋のなかを転げ回ったあげくに気絶してしまったらしい。

 兄は懸命に九字を切ったり、読経をしたりしていたとのことだ。

 彼が気がつくと、兄は彼に話しかけたそうだ。

「久間田に取り憑いていたやつに俺を守護している霊たちが攻撃していたらしいんだ。今だから言うけど、二週間前から久間田に近づくと頭が痛くなって、近づけなくなっていたんだ」

「そうか、なんとなく最近よそよそしいと感じていたけどさ……」 

「おまえの一家を苦しめようとしている怨念霊だな、きっと。このままほっておくと、まだまだ悪いことがおきそうだな。鏡をみてみろよ」

 まだ、ぼおっとしながら鏡を覗くと、首のまわりに、六つの赤い、指の痕のようなものがみえたという。

「雅志、おまえに霊感めいたものがあるとは聞いていたけど、六本指の人間なんていないよな」

「人間が怨念に凝り固まったままあの世にいくと、魔物みたいになるらしい」

 それから数週間後、年にいちどの健康診断で、彼に内臓の病気の恐れがあるとされ、病院で詳細な検査を受けた。彼は卒業式も出られぬまま、そのまま病院で過ごすことになってしまったらしい。

 そうしたことを知っていた私は、兄さんに、ひとつ相談することにしたのだ。
 私の同僚のひとりが、とくに病気というわけでもないのに休みがちになり、どうしたのかと訊いてみると、誰かに呪われていると言うのだ。夜中に怪奇映画でみたような鬼の顔が天井に現れ、事故が続き、体調もだるいのだそうだ。

 兄も祈祷などをすると聞いていた。ものの本によると、呪いよりも呪詛返しのほうが難しいのだそうだ。呪いの種類によっては相手の呪術者のかけた呪術の方法がわからないと術が解けず、呪詛返しをできないこともあるらしい。兄に危険なことはさせたくはない。しかし、兄なら誰か優秀な霊能者を知っているかもしれない。私は兄に携帯でだいたいのことを話した。

「そうか、わかったよ、由希子。その同僚の写真を持って来てくれないか。できたら時間に余裕をとって」

「除霊を頼んでいるわけじゃないのよ」

「わかってるよ。もっと詳しく訊きたいだけさ」

 心なしか、兄の声が弾んでいるように聞こえた。 


 それから三日後、会社の休日に兄が仕事しているビルへとでかけた。

 新潟の秋はときに寒さが厳しい。とくに観光する土地とは思えないが、今の時期は観光客らしい人々を多くみかけるようになる。

 街の裏通りにひっそりとそのビルは建っていた。五階建てで灰色一色。兄の仕事には似つかわしい雰囲気を漂わせていた。

 兄の部屋のドアには、『13色の窓』という看板がかけられている。なんとなく気乗りしないままにドアをあけると、神社の拝殿のあたりにある、しめ縄につけられた、ギザギザの紙がよっつ、紙垂というものが一本の縄につけられたものが上のほうについていた。

ふと視線を感じまえをみると、兄の雅志がひっそりと立っていた。

「この縄はいったいなんなの?」

「これもしめ縄の一種さ。しめ縄には結界、邪悪な存在を入れない効力があるとされているんだ」

 兄の目つきが真剣だ。いや、なにか思いつめているような印象さえ感じた。


「もう準備はできている」

 やはり、と私は思った。きっと呪術をするつもりなんだと。

 兄の呪術は神仏習合、神道と仏教をあわせたものだと聞いていた。
 私の家にも新居に移ったさい、居間に神棚を祀っているのだが、兄の神棚は私の家のものよりもかなり大きい。ねじりハチマキのようなしめ縄が神棚の上につけられ、神棚の両隣には榊がおかれている。神棚の右側の壁には、観音さまや不動尊のお姿の掛け軸があった。神棚の下には、長方形の白い布で覆われた箱のようなものが置かれており、その上に白木でつくられた台である三方に、果物や野菜、水とお米、その両脇にお酒が置かれていた。

「写真をみせてくれ」

 私が同僚の写真を渡すと、じぃっと見いっていたが、深く頷き、「わかった。今から修法を執り行うのだが、素人がそばにいてはできないやつだからしばらく外にでてもらう。ただ、ひとつ手伝って欲しいことがある」

 兄はそう言うと、白い封筒を私にみせた。

「この封筒のなかには呪詛返しをするための人形が入っている。なるべく遠くの川や海に行って、封筒から取り出した人形を川や海に流してほしいんだ」

 兄は、神前にひざまずき、ふたつ深くおじぎをし、二回柏手を打った。 

「ちょっと兄さん、私がいたらできないんじゃないのか?」

「いやいや、本格的な修法はおまえがでていってから、おまえに渡す封筒の人形に呪術で攻撃しているモノたちを移す。だが、封筒の人形にある程度、気を入れやすいようにしておきたいんだ」

 兄は私のほうに向き直り、穏やかに言った。

「ちょっと待ってよ。車を運転中にそのモノとやらが入ってきて、私の身になにかあると嫌よ」

 兄は、さも愉快そうな顔をした。

「大丈夫。おまえのことは、いつでも祈って、霊的なバリヤーで包んでいる。これからもずっと、これからもずっとな」と、言った兄さんの顔はとても寂しげにみえた。

 兄は再び神前に向き直った。

「高天原に神留り坐す、皇親神漏峡、神漏美の命以ちて、八百萬神等を神集へに集へ賜ひ、神謀りに謀り賜ひて、我が皇御孫命は、豊葦原水穂国を、安国と平けく知ろし食せと、事依さし泰りき……」

 まえに一度、十二月の大晦日に、大祓に行くからと、私も誘われて、大祓の神事に参加したから、兄が奏上しているのが、『大祓詞』だということはわかった。

 奏上を終えた兄は、封筒を抱きしめるようにして、なにか、封筒に念を込めているようだった。そして、静かにその封筒を私に手渡した。それから兄は私の手を強く握りしめ、「ありがとう……」と、か細い声で言った。目に涙がたまっていた。

「兄さん、命に関わる修法ならやめて!」

 よほど危険な修法なんじゃないか、しだいに嫌な予感がしてきて、少しばかり怒気を込めた言葉を吐いたら、兄は顔をそむけ、

「この修法だけは、俺がやらないといけないんだ!」と、けんか腰な感じで言い返してきた。はじめてみる怖いまでに真剣な兄の形相にたじろぎ、それからなにひとつ言葉を発することができなかった。

 私は封筒を手にして、兄が小さく手を振る姿をみながら、来たときよりも重く感じるドアを開け、そして閉めた。

 車に乗り込みエンジンをかけた。どうにも釈然としない気分だった。

 空は薄曇り。さて、どこへ行こうか、そうだ、加治川に行こう。ここからなら車ですぐだから。車で十分ほどの距離だ。気ぜわしい思いで車を走らせた。はやく人形とやらを海に流して兄のところへと戻りたいのだ。

 やがて、加治川がみえてきた。道の脇に車を寄せて、川辺まで走った。
 封筒の封を開けてでてきたのは、序章とタイトルされた手紙だった。筆跡には見覚えがある、そう、兄からの手紙だ。それにしても、なぜ? とにかく、手紙を読んでみた。


『   序章 由希子へ


 おまえの同僚に呪いをかけたのは俺だ。おまえは知らないだろうが、おまえの同僚は数多くの女たちを騙したり、会社のお金を横領したりしている。そのなかの女が俺に呪いを依頼してきたのだ。はじめて死に至らしめる呪術をかけた。

 今から俺は、術を解くのではなく、呪詛返しをするつもりだ。呪いが返ってくるとき、呪いの効果は何倍にもなる。由希子、たぶん、おまえがこの手紙を読んでいるとき、すでに俺はこの世にいないだろう。

 これだけは信じてほしいのだが、いままで呪殺だけはしたことがない。ときには呪殺を依頼されることもあったが、そのときはわざとドジをして、俺自身に呪いをかけて失敗させてきた。まあ、本当にドジったこともあるが。

 いや、本当のことを話そう。この手紙は遺言でもあるのだから。一度だけ本気で人を呪った。妻の危険を避けるために泥棒のやつを呪殺したのだ。

 もともとは占いや恋愛成就、金運財運の招来といった呪術をしてきたのだが、なかには心底憤ってしまう邪悪なヤツもいて、呪いをやることにした。それでも、やはり、気持ちが荒んでくる。葛藤と迷いの日々だった。それが劇画の冷徹でニヒルな主人公に入れ込んでしまう原因だったのだろう……』

 私はそこまで読むと、すぐに走り出し車へと乗り込んだ。キイをねじ込み、アクセルをふかした。エンジンが苦しげなうなりをあげた。

 とても長い時間に思えた。前を走る車も対向車も、すべてが邪魔者に思えてならなかった。


 ようやくとビルのあたりに着き、車を急停止させ、無雑作に車を駐車し、ビルの階段を駆け上がった。兄の部屋のドアは開いていた。

 部屋の中から鼻をつくような臭いがしてくる。

「兄さん! 大丈夫なの?」

 返事がない。いや、なにやらうめき声がする。奧の部屋に入ると兄が嘔吐をくりかえし、床に苦しげに体をねじりながら転がっていた。床じゅうに嘔吐されたものが散乱していた。兄の目は血走ってまるで他人のような顔つきだった。

「由希子……、思ったよりも、ずいぶんはやいな……」

「いったいどういうことなの?」

 そう言いながら、私は受話器をとりあげ、救急車を呼んだ。

「由希子、手紙、手紙は読んだのか?」

「全部は読んでいないわ」

 兄が私に手を伸ばしてきた。私は嘔吐で汚れた兄の手を力強く握った。

「よかった。由希子に看取られて逝きたかったからな」

「しっかりしてよ、もうすぐ救急車が来るんだから」

 兄の、私の手を握る力が消えた。

「兄さん! ……」


 


 救急車は兄と私を乗せて病院に急行してくれた。さまざまな処置がなされていたようだが、病院で兄の死を告げられてしまった。私はくしゃくしゃになった手紙をポケットから取り出し、再び読み始めた。涙をぬぐいながらどうしても今読まなければいけないと思った。だって兄の遺言なのだから。


『由希子、俺はさまざまな人たちの未来をみるようになってから、世界の未来までがリアルにみえるようになってきたんだ。

 今から一週間以内に核を搭載したミサイルが日本に打ち込まれる。それが誘因となって第三次世界大戦が勃発するだろう。その最中、彗星が太平洋に墜ちることによって天変地異が起きる。怖いのは戦争や天災じゃない。パニックになり、狂気に取り憑かれた人々だ。

 俺の家族や知り合いたちが、強奪、殺害されていくようすをなんどもみた。とてもみてはいられない、とても冷静ではいられない惨劇だ。

 むごたらしい未来が変えられないものかとさまざまな古来の宗教書を研究した。しかし、たいがいの宗教は、今の世界を救うとは語っていない。今の世界が滅んだあと、新生の世界が誕生する、と記している。新しい世界に入るための教えが説かれているんだ。世界の運命は変えられない。今の世界をつくっているのは人々の意識だと思うが、その意識さえも誘導しているなんらかの力が存在しているようだ。必然的に今の世界があるのだ。俺は無力感と絶望感に打ちひしがれたよ。また、愛憎と虚偽にまみれた相談を受けるたびに、今の世界がたまらなく嫌になってきていた。

 俺は俺の家族の知り合いを呪殺する依頼があったら、今度はその知り合いに対して本気で呪いをかけてやろうと決めた。そして、念じて、俺の家族に相談をするように術をかけようと思っていた。そうすれば、きっと呪いに詳しい俺に相談するはずだと思っていたんだ。俺に相談をさせ、俺が呪詛返しをすればその呪いは俺自身に降りかかる。そうすることによって自殺を謀ることにしたんだ。そうすることで、いままで呪いによって人を苦しめてきた罪を少しでも償いたい。

 これから起きる悲惨な出来事から目を背けようとしている俺を、現実から逃避しようとしている俺をどうか許してくれ。あの世で新たな人生を送りたい。これから俺の人生の本当の序章がはじまるんだ。


                       樽橋雅志』 


 私は手紙を破り捨てた。兄は敵前逃亡した卑怯者だ。だけど、少しは知っているつもりでいた兄のことが本当にはなにも知らなかったのではないかと思えてきた。そうだ、いったい誰が兄を責めることができると言うのだろう。悲惨なニュースばかりが毎日のように流され、醜い映像が飛びこんでくるではないか。

 私は改めて、はじめてみる安らかに眠るような兄の死に顔をみつめた。するとどうにも涙があふれて止まらなくなった。両手で顔を覆ったとき、携帯電話の着信音、ビートルズの『レット・イット・ビー』が流れた。なすがままに、ただなすがままに……、だけど、どうなすがままに思い、どうなすがままに生きればいいと言うのだろう。


「由希子です……」

 私は携帯電話にでた。

「栗原、栗原だよ」

「栗原さん……、体は、体の方はいいの?」

「ああ、突然気分も体も楽になった。由希子さんのお兄さんの修法のおかげかな。いや、そんなことで連絡したんじゃない。ついさっき、札幌に核を搭載されたミサイルが打ち込まれたそうだ。戦争になる恐れもあるらしい。だから休日返上で会社で緊急会議をするというんだ」

 栗原の声は震えていた。

 ついにやってしまったのだ。人間とはほんとうに救いようがない生き物だ。

「そう、わかった……」

 私はスマホの電話を切った。 

 走り続ける車の窓から北の方角をみつめた。思い込みのせいなのか、黒い雲がしだいに迫ってきているようにみえた。これからの日本は岩戸に隠れた天照大神のようになるのかもしれない。闇に覆われ、悪鬼が好き放題に騒ぎまくり、世界の混乱が治まらなかった。

 そして、神々が相談し、わざと明るく騒いで天照大神を天の岩戸から誘い出し、再び世界に光が戻ったという物語だ。


「ええっ、なんですって! 本当ですか?」

 ただぼんやりと、古事記の物語を思い浮かべていると、救急車の助手席にいた男が無線機に向かって叫んでいた。

「関東や新潟にもミサイルが!……」

  すべてが空々しい。なにもかもが虚構の世界のようにみえてきた。ああ、そうだ。今度スマホの着信音を兄が好きだったビートルズの『ジ・エンド』にしよう。それまでに、今の日本が残っていたのなら。



                (THE・END)      
  


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 兄の雅志とは幼い頃から仲がよく、よくふたりで遊ぶことが多かった。私の結婚式のさいも、司会と、私たちに捧げるオリジナルの歌も歌ってくれた。兄は、幼い頃から不思議な体験をしていたらしく、本当かどうかはともかく、さまざまな怪奇な体験談を聞いている。昨日も兄が携帯にかけてきて、恐怖に満ちた未来がみえたと言ってとても怯えていた。
 また、兄が高校の卒業間近い頃のこと。兄の親しい友人が遊びに来たときだそうだ。ふたりでギターを弾きあっていたときのこと、どこからともなく線香の香りが漂ってきた。誰もいないはずなのに。
「雅志、なんか線香の臭いがしないか?」
「久間田も臭うか、確かに、家には仏壇があるけど、朝から線香は焚いていないはずなんだけどな」
 そのとき、彼が急に頭を抱えて、息を荒くしながら部屋のなかを転げ回ったあげくに気絶してしまったらしい。
 兄は懸命に九字を切ったり、読経をしたりしていたとのことだ。
 彼が気がつくと、兄は彼に話しかけたそうだ。
「久間田に取り憑いていたやつに俺を守護している霊たちが攻撃していたらしいんだ。今だから言うけど、二週間前から久間田に近づくと頭が痛くなって、近づけなくなっていたんだ」
「そうか、なんとなく最近よそよそしいと感じていたけどさ……」 
「おまえの一家を苦しめようとしている怨念霊だな、きっと。このままほっておくと、まだまだ悪いことがおきそうだな。鏡をみてみろよ」
 まだ、ぼおっとしながら鏡を覗くと、首のまわりに、六つの赤い、指の痕のようなものがみえたという。
「雅志、おまえに霊感めいたものがあるとは聞いていたけど、六本指の人間なんていないよな」
「人間が怨念に凝り固まったままあの世にいくと、魔物みたいになるらしい」
 それから数週間後、年にいちどの健康診断で、彼に内臓の病気の恐れがあるとされ、病院で詳細な検査を受けた。彼は卒業式も出られぬまま、そのまま病院で過ごすことになってしまったらしい。
 そうしたことを知っていた私は、兄さんに、ひとつ相談することにしたのだ。
 私の同僚のひとりが、とくに病気というわけでもないのに休みがちになり、どうしたのかと訊いてみると、誰かに呪われていると言うのだ。夜中に怪奇映画でみたような鬼の顔が天井に現れ、事故が続き、体調もだるいのだそうだ。
 兄も祈祷などをすると聞いていた。ものの本によると、呪いよりも呪詛返しのほうが難しいのだそうだ。呪いの種類によっては相手の呪術者のかけた呪術の方法がわからないと術が解けず、呪詛返しをできないこともあるらしい。兄に危険なことはさせたくはない。しかし、兄なら誰か優秀な霊能者を知っているかもしれない。私は兄に携帯でだいたいのことを話した。
「そうか、わかったよ、由希子。その同僚の写真を持って来てくれないか。できたら時間に余裕をとって」
「除霊を頼んでいるわけじゃないのよ」
「わかってるよ。もっと詳しく訊きたいだけさ」
 心なしか、兄の声が弾んでいるように聞こえた。 
 それから三日後、会社の休日に兄が仕事しているビルへとでかけた。
 新潟の秋はときに寒さが厳しい。とくに観光する土地とは思えないが、今の時期は観光客らしい人々を多くみかけるようになる。
 街の裏通りにひっそりとそのビルは建っていた。五階建てで灰色一色。兄の仕事には似つかわしい雰囲気を漂わせていた。
 兄の部屋のドアには、『13色の窓』という看板がかけられている。なんとなく気乗りしないままにドアをあけると、神社の拝殿のあたりにある、しめ縄につけられた、ギザギザの紙がよっつ、紙垂というものが一本の縄につけられたものが上のほうについていた。
ふと視線を感じまえをみると、兄の雅志がひっそりと立っていた。
「この縄はいったいなんなの?」
「これもしめ縄の一種さ。しめ縄には結界、邪悪な存在を入れない効力があるとされているんだ」
 兄の目つきが真剣だ。いや、なにか思いつめているような印象さえ感じた。
「もう準備はできている」
 やはり、と私は思った。きっと呪術をするつもりなんだと。
 兄の呪術は神仏習合、神道と仏教をあわせたものだと聞いていた。
 私の家にも新居に移ったさい、居間に神棚を祀っているのだが、兄の神棚は私の家のものよりもかなり大きい。ねじりハチマキのようなしめ縄が神棚の上につけられ、神棚の両隣には榊がおかれている。神棚の右側の壁には、観音さまや不動尊のお姿の掛け軸があった。神棚の下には、長方形の白い布で覆われた箱のようなものが置かれており、その上に白木でつくられた台である三方に、果物や野菜、水とお米、その両脇にお酒が置かれていた。
「写真をみせてくれ」
 私が同僚の写真を渡すと、じぃっと見いっていたが、深く頷き、「わかった。今から修法を執り行うのだが、素人がそばにいてはできないやつだからしばらく外にでてもらう。ただ、ひとつ手伝って欲しいことがある」
 兄はそう言うと、白い封筒を私にみせた。
「この封筒のなかには呪詛返しをするための人形が入っている。なるべく遠くの川や海に行って、封筒から取り出した人形を川や海に流してほしいんだ」
 兄は、神前にひざまずき、ふたつ深くおじぎをし、二回柏手を打った。 
「ちょっと兄さん、私がいたらできないんじゃないのか?」
「いやいや、本格的な修法はおまえがでていってから、おまえに渡す封筒の人形に呪術で攻撃しているモノたちを移す。だが、封筒の人形にある程度、気を入れやすいようにしておきたいんだ」
 兄は私のほうに向き直り、穏やかに言った。
「ちょっと待ってよ。車を運転中にそのモノとやらが入ってきて、私の身になにかあると嫌よ」
 兄は、さも愉快そうな顔をした。
「大丈夫。おまえのことは、いつでも祈って、霊的なバリヤーで包んでいる。これからもずっと、これからもずっとな」と、言った兄さんの顔はとても寂しげにみえた。
 兄は再び神前に向き直った。
「高天原に神留り坐す、皇親神漏峡、神漏美の命以ちて、八百萬神等を神集へに集へ賜ひ、神謀りに謀り賜ひて、我が皇御孫命は、豊葦原水穂国を、安国と平けく知ろし食せと、事依さし泰りき……」
 まえに一度、十二月の大晦日に、大祓に行くからと、私も誘われて、大祓の神事に参加したから、兄が奏上しているのが、『大祓詞』だということはわかった。
 奏上を終えた兄は、封筒を抱きしめるようにして、なにか、封筒に念を込めているようだった。そして、静かにその封筒を私に手渡した。それから兄は私の手を強く握りしめ、「ありがとう……」と、か細い声で言った。目に涙がたまっていた。
「兄さん、命に関わる修法ならやめて!」
 よほど危険な修法なんじゃないか、しだいに嫌な予感がしてきて、少しばかり怒気を込めた言葉を吐いたら、兄は顔をそむけ、
「この修法だけは、俺がやらないといけないんだ!」と、けんか腰な感じで言い返してきた。はじめてみる怖いまでに真剣な兄の形相にたじろぎ、それからなにひとつ言葉を発することができなかった。
 私は封筒を手にして、兄が小さく手を振る姿をみながら、来たときよりも重く感じるドアを開け、そして閉めた。
 車に乗り込みエンジンをかけた。どうにも釈然としない気分だった。
 空は薄曇り。さて、どこへ行こうか、そうだ、加治川に行こう。ここからなら車ですぐだから。車で十分ほどの距離だ。気ぜわしい思いで車を走らせた。はやく人形とやらを海に流して兄のところへと戻りたいのだ。
 やがて、加治川がみえてきた。道の脇に車を寄せて、川辺まで走った。
 封筒の封を開けてでてきたのは、序章とタイトルされた手紙だった。筆跡には見覚えがある、そう、兄からの手紙だ。それにしても、なぜ? とにかく、手紙を読んでみた。
『   序章 由希子へ
 おまえの同僚に呪いをかけたのは俺だ。おまえは知らないだろうが、おまえの同僚は数多くの女たちを騙したり、会社のお金を横領したりしている。そのなかの女が俺に呪いを依頼してきたのだ。はじめて死に至らしめる呪術をかけた。
 今から俺は、術を解くのではなく、呪詛返しをするつもりだ。呪いが返ってくるとき、呪いの効果は何倍にもなる。由希子、たぶん、おまえがこの手紙を読んでいるとき、すでに俺はこの世にいないだろう。
 これだけは信じてほしいのだが、いままで呪殺だけはしたことがない。ときには呪殺を依頼されることもあったが、そのときはわざとドジをして、俺自身に呪いをかけて失敗させてきた。まあ、本当にドジったこともあるが。
 いや、本当のことを話そう。この手紙は遺言でもあるのだから。一度だけ本気で人を呪った。妻の危険を避けるために泥棒のやつを呪殺したのだ。
 もともとは占いや恋愛成就、金運財運の招来といった呪術をしてきたのだが、なかには心底憤ってしまう邪悪なヤツもいて、呪いをやることにした。それでも、やはり、気持ちが荒んでくる。葛藤と迷いの日々だった。それが劇画の冷徹でニヒルな主人公に入れ込んでしまう原因だったのだろう……』
 私はそこまで読むと、すぐに走り出し車へと乗り込んだ。キイをねじ込み、アクセルをふかした。エンジンが苦しげなうなりをあげた。
 とても長い時間に思えた。前を走る車も対向車も、すべてが邪魔者に思えてならなかった。
 ようやくとビルのあたりに着き、車を急停止させ、無雑作に車を駐車し、ビルの階段を駆け上がった。兄の部屋のドアは開いていた。
 部屋の中から鼻をつくような臭いがしてくる。
「兄さん! 大丈夫なの?」
 返事がない。いや、なにやらうめき声がする。奧の部屋に入ると兄が嘔吐をくりかえし、床に苦しげに体をねじりながら転がっていた。床じゅうに嘔吐されたものが散乱していた。兄の目は血走ってまるで他人のような顔つきだった。
「由希子……、思ったよりも、ずいぶんはやいな……」
「いったいどういうことなの?」
 そう言いながら、私は受話器をとりあげ、救急車を呼んだ。
「由希子、手紙、手紙は読んだのか?」
「全部は読んでいないわ」
 兄が私に手を伸ばしてきた。私は嘔吐で汚れた兄の手を力強く握った。
「よかった。由希子に看取られて逝きたかったからな」
「しっかりしてよ、もうすぐ救急車が来るんだから」
 兄の、私の手を握る力が消えた。
「兄さん! ……」
 救急車は兄と私を乗せて病院に急行してくれた。さまざまな処置がなされていたようだが、病院で兄の死を告げられてしまった。私はくしゃくしゃになった手紙をポケットから取り出し、再び読み始めた。涙をぬぐいながらどうしても今読まなければいけないと思った。だって兄の遺言なのだから。
『由希子、俺はさまざまな人たちの未来をみるようになってから、世界の未来までがリアルにみえるようになってきたんだ。
 今から一週間以内に核を搭載したミサイルが日本に打ち込まれる。それが誘因となって第三次世界大戦が勃発するだろう。その最中、彗星が太平洋に墜ちることによって天変地異が起きる。怖いのは戦争や天災じゃない。パニックになり、狂気に取り憑かれた人々だ。
 俺の家族や知り合いたちが、強奪、殺害されていくようすをなんどもみた。とてもみてはいられない、とても冷静ではいられない惨劇だ。
 むごたらしい未来が変えられないものかとさまざまな古来の宗教書を研究した。しかし、たいがいの宗教は、今の世界を救うとは語っていない。今の世界が滅んだあと、新生の世界が誕生する、と記している。新しい世界に入るための教えが説かれているんだ。世界の運命は変えられない。今の世界をつくっているのは人々の意識だと思うが、その意識さえも誘導しているなんらかの力が存在しているようだ。必然的に今の世界があるのだ。俺は無力感と絶望感に打ちひしがれたよ。また、愛憎と虚偽にまみれた相談を受けるたびに、今の世界がたまらなく嫌になってきていた。
 俺は俺の家族の知り合いを呪殺する依頼があったら、今度はその知り合いに対して本気で呪いをかけてやろうと決めた。そして、念じて、俺の家族に相談をするように術をかけようと思っていた。そうすれば、きっと呪いに詳しい俺に相談するはずだと思っていたんだ。俺に相談をさせ、俺が呪詛返しをすればその呪いは俺自身に降りかかる。そうすることによって自殺を謀ることにしたんだ。そうすることで、いままで呪いによって人を苦しめてきた罪を少しでも償いたい。
 これから起きる悲惨な出来事から目を背けようとしている俺を、現実から逃避しようとしている俺をどうか許してくれ。あの世で新たな人生を送りたい。これから俺の人生の本当の序章がはじまるんだ。
                       樽橋雅志』 
 私は手紙を破り捨てた。兄は敵前逃亡した卑怯者だ。だけど、少しは知っているつもりでいた兄のことが本当にはなにも知らなかったのではないかと思えてきた。そうだ、いったい誰が兄を責めることができると言うのだろう。悲惨なニュースばかりが毎日のように流され、醜い映像が飛びこんでくるではないか。
 私は改めて、はじめてみる安らかに眠るような兄の死に顔をみつめた。するとどうにも涙があふれて止まらなくなった。両手で顔を覆ったとき、携帯電話の着信音、ビートルズの『レット・イット・ビー』が流れた。なすがままに、ただなすがままに……、だけど、どうなすがままに思い、どうなすがままに生きればいいと言うのだろう。
「由希子です……」
 私は携帯電話にでた。
「栗原、栗原だよ」
「栗原さん……、体は、体の方はいいの?」
「ああ、突然気分も体も楽になった。由希子さんのお兄さんの修法のおかげかな。いや、そんなことで連絡したんじゃない。ついさっき、札幌に核を搭載されたミサイルが打ち込まれたそうだ。戦争になる恐れもあるらしい。だから休日返上で会社で緊急会議をするというんだ」
 栗原の声は震えていた。
 ついにやってしまったのだ。人間とはほんとうに救いようがない生き物だ。
「そう、わかった……」
 私はスマホの電話を切った。 
 走り続ける車の窓から北の方角をみつめた。思い込みのせいなのか、黒い雲がしだいに迫ってきているようにみえた。これからの日本は岩戸に隠れた天照大神のようになるのかもしれない。闇に覆われ、悪鬼が好き放題に騒ぎまくり、世界の混乱が治まらなかった。
 そして、神々が相談し、わざと明るく騒いで天照大神を天の岩戸から誘い出し、再び世界に光が戻ったという物語だ。
「ええっ、なんですって! 本当ですか?」
 ただぼんやりと、古事記の物語を思い浮かべていると、救急車の助手席にいた男が無線機に向かって叫んでいた。
「関東や新潟にもミサイルが!……」
  すべてが空々しい。なにもかもが虚構の世界のようにみえてきた。ああ、そうだ。今度スマホの着信音を兄が好きだったビートルズの『ジ・エンド』にしよう。それまでに、今の日本が残っていたのなら。
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