しばらくして、惟人は警察に電話をかけ、事の顛末を説明した。
春田の死は、司法解剖の結果、青酸カリによる自殺と断定されたが、たまき荘は登記上は所有者不明の建物で、惟人は建造物侵入で起訴され、一年服役した。
釈放されたとき、彼にはもう行き場がなかった。
「これからどうしよう……」
深い絶望の中、頼れる人もいない自分が行く場所は、たまき荘しかなかった。
留置所から電車に乗って春田と待ち合わせをした駅で下車し、徒歩でたまき荘を目指す。
――あ、ここら辺って実家の近くだ……。
たまき荘の事しか頭になく、駅からたまき荘までのルート上に実家があることをすっかり忘れていた。
一階はコンクリートの土台と車庫になっていて、その上に二階建ての家がある。
家自体はさほど変わっていないが、「中町」と書かれた表札や外階段はまだ新しい。
「ふざけんな!」
閑静な住宅地に突然、男性の怒鳴り声が響く。
玄関前で、トートバッグを肩にかけた女性が、涙声で男性に懇願している。
「お願いです、あと一回だけ惟人に会わせて……」
――なんで俺の名前が……?
玄関前に立つ男は間違いなく父の大介だったし、その向かいに立つ女の顔にも見覚えがあった。
「もうお前は惟人の母親でもなんでもないんですよ。さっさと出ていってください!」
「でも……」
「これ以上居座るなら警察呼びますよ、春田さん」
――嘘だろ……。
惟人は目と耳を疑った。
信じたくはなかったが、女性は時空タクシーの運転手、春田真紀とそっくりだったのだ。
「親権がどうであれ、惟人は私が産んだ子です」
「いい加減にしてくれ!」
堪忍袋の緒が切れたのか、大介が女性を突き飛ばそうとしたら、女性がとっさにしゃがんで避けたので、大介は勢い余って頭から階段を転げ落ちた。
女性の顔は一瞬で青ざめたが、信じられない事に倒れて動かない大介を無視し、走って立ち去ったのだ。
「きゃあ! あなた!」
また別の女性が家から出てきて、悲鳴をあげた。
――母さん……。
それから家の前は救急車やパトカーで塞がれてしまい、惟人は後ろ髪を引かれる思いで実家から離れた。
たまき荘に着き、103号室のドアを開けようとしたが、鍵がかかっていて開かない。
「そうだ、スペアキー!」
ポストを開けると、鍵と一緒に紙切れが入っていた。
「タクシー運転手に気をつけろ」
春田が殴り書きしたと思われる字を読んで、惟人は膝から崩れ落ちた。
「なんなんだよ……誰か説明してくれ……」
春田真紀が自分の本当の母親で、階段から落ちた父親を放置して死なせた――?
激しく頭を振ったが、春田の会話や行動が何度もフラッシュバックする。
――春田真紀、俺は絶対お前を許さないからな!
惟人の胸に芽生えた復讐の火は、一気に激しく燃え上がった。
その日から惟人はたまき荘に閉じこもり、過去の自分に気づかせるため苗字を春田に変え、二十年をただ生き延びた。
時間は止まり、心だけが削れてゆく。
「春田真紀、お前は俺の母なのか……?」
予め用意しておいた睡眠薬入りのお茶で、過去の自分が完全に眠った事を確認すると、惟人は低い声で尋ねた。
「そうよ。私はあなたを愛していたけれど、それを壊してしまったの。だから私は戻され、ここを走り続けている」
真紀は前を向いたまま、淡々と答えた。
「なんで父さんを見殺しにした? そのせいで、俺の人生はめちゃくちゃだ!」
「駄目よ、人のせいにしては。復讐なんて、何も意味はない……」
「黙れ!」
惟人は隠し持っていたナイフを真紀の脇腹に突き刺した。
だが手応えは全く無く、ナイフは真紀の身体を通り抜けてハンドルに触れている。
「それでも復讐を続けたかったら、一人になった時にこれを飲みなさい」
真紀は青酸カリのカプセルを惟人に渡す。
「俺を愛していたんじゃないのか」
「そうよ。だから渡したの。何度でも惟人に会うために」
息子の名前を口にした真紀は、ゆっくりと振り向いた。
「俺がこれを捨てたらどうする?」
「捨てないわ。惟人は優しい子だもの」
初めて見る、本当の母親の微笑み。
その一言で、惟人の理性や感情は全て崩れ去った。
たまき荘に着くと、惟人は例のメモと鍵をポストに入れ、浴槽に入ると震える手でカプセルを口に入れ、噛み砕いた。
「母……さん……」
ぷちっ、という乾いた小さな音が、惟人の最後を伝える。
少し間をおいて、蛇口から滴り落ちた一滴の水が、静かに床を跳ねた。