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見栄とおにぎり

ー/ー



 
 
 スマートフォンをかざすとピピッ、と軽快な電子音が鳴り、勉(つとむ)は改札を抜ける。五月の長期休暇ということもあり、駅のホームは新幹線を待つ人で混雑していた。キャリーバックを引きずっている人が多い。旅行、もしくは帰省だろう。勉は後者だった。
 乗り口を確認した勉は、ホーム内にあるコンビニへ向かう。仕事を終えたばかりなので、空腹を感じていた。梅と牛飯、どちらを選ぶかで勉は悩んでいた。新幹線の往復代は決して安くはない。できれば抑えたいところである。しかし、せっかく帰省するのだし、この時くらいは奮発してもいいのでは、と腕を組む。値段を確認し、ふと気づく。あれ?値段上がってない?
 前回の長期休暇で立ち寄った際はこの金額ではなかったはずだ。ため息を()く。財布の紐を締めなければ。勉は梅おにぎりに手を伸ばすと「ベン?」と声をかけられた。顔を向けると怪訝そうな表情を浮かべた男がこちらを見ていた。
 彼は確信したのか声を上げ、相好を崩す。「やっぱり!ベンだよな」
「もしかして」と勉も声を上げる。男は目尻を下げ、小さく頷く。人の良さそうな笑みを浮かべていた。「孝則(たかのり)か?久しぶり!」
 ドリンクコーナーにいた女性客が驚いた表情でこちらを見る。勉は軽く会釈をし、声を落とす。
「孝則も、帰省なの?」
「まあ、そんなとこ」孝則は目を逸らし、頭を掻く。「それよりもさ、タカでいいって」
 気さくで変わらない性格に、勉は懐かしさを感じた。「そうだな。久しぶりだと、つい」
「ベンと会うのは、成人式以来か?」
「そうだね。四年ぶりだ」
「そっかあ。もうそんなに経つのか」一瞬、遠い目を孝則は浮かべ、苦笑する。「社会人になると、色々あって、時間経つのがあっという間だよな」
 孝則の表情の翳りに、胸がキュッと絞られるような痛みを感じる。彼は高校を卒業後に、地元を離れ、東京で就職をしていたはずだ。その後、成人式でも順調そうな様子を周りに話していたのを覚えている。『色々』という言葉の裏に、本当に色々あったのだろう。勉も、上司から詰められる場面が(よぎ)り、憂鬱な気持ちになる。勉は慌てて頭から振り払い、笑みをつくる。「てか、その『ベン』って呼ばれるの、懐かしいな」
「名付け親は俺だからな」孝則が誇らしげに胸を張る。
 メガネをかけているし、真面目そう。そのような安直な理由で(つとむ)という漢字をそのまま読み、『ベン』と呼び始めたのだ。中学の英語の教科書にベンジャミンという男が出てきてからはそのように呼び始める人もいた。
「一時期、他学年の間で海外留学生がいるって噂になったんだからな」
「いいじゃん。人気者になれて」
「相手から勝手に期待されて、『なんだ。あだ名か』と失望した顔を向けられてみろ。悪いことしてないのに、申し訳ない気持ちになるんだぞ」
「それはそれは、申し訳ない」孝則は手を叩きながら笑う。
「まあ、でも初対面の人に話題作りにはなるからいいけどさあ」
 懐かしいな、と言い合っていると、ふと孝則は表情を引き締めた。
「ベンは今—」
 孝則が言いかけるのと同時に、新幹線の到着を知らせるアナウンスが流れた。「孝則は何時発の新幹線に乗るの?」と尋ねると、どうやら同じらしい。
「そろそろ並ばないとな」勉は咄嗟におにぎりを手に取った。「あ、ごめん、何か言いかけてたよな」
「いや、なんでもない」孝則は首を振る。
 あの頃と、何も変わらない。あだ名で呼ばれるだけで、小学生時代に戻ったような気分になる。二人でレジに並んだ。孝則の手には梅おにぎりが握られていた。
 
 ホームでは既に行列ができていた。互いに自由席だったため、孝則と自然に並ぶかたちになる。後ろにも少しずつ人が増えてきて、最終的に列の中間、というところに位置していた。
 新幹線が到着し、開いた扉から人が出て行き、勉達は入れ替わるように車内へと入っていく。「うわあ、人多いな。座れるかな」と孝則が呟いていた。
 孝則の心配は杞憂だった。二人分の座席が空いていたのだ。「ラッキーだったな」と勉は窓際の席へ。「そうだな」と返す孝則は通路側へ座る。車窓から見える景色が動き出していく。 
「東京の修学旅行を思い出すよな」孝則が笑う。「あの時も、ベンと一緒に座ってたよな」
「そうだな」勉は首肯する。頭に浮かんできた光景は、座席に備え付けられた折りたたみ式のテーブルだった。当時は物珍しく映り、孝則と一緒に開いて閉じてを繰り返していた。そして前に座っている女子に怒られたのだ。当時の出来事を苦笑しながら孝則に話すと、懐かしむように目を細めた。「あぁ、あったあった」
「それとさ、タカはお菓子をテーブルに並べて、バカみたいにはしゃいでたよな」
「そうそう。で、帰りの新幹線で食べるはずだったお菓子を全部食べちゃったんだ」孝則は顔を歪めている。
 
 お菓子を嬉しそうに食べる孝則を横目に、勉は花柄の巾着を広げる。「朝ごはんに」と母が持たせてくれたおにぎりが三個入っていた。頬張ると梅干しの酸味に、顔を顰める。孝則が「すごい顔してるぞ」と指を差してきた。
「タカの朝ごはんはお菓子なの?」と尋ねると「車の中で食べたんだよ」と返ってくる。
 おにぎりを食べていると、停車駅に近づいているアナウンスが流れ始めた。窓側に座っていた勉は驚き、米粒を喉に詰まらせてしまう。咽せていると「大丈夫か?」と孝則がペットボトルを差し出してきた。飲み物を流し込みつつ、外に目を向けると、ピンク色のロゴが入ったショッピングモールが近づいていた。
 勉が「出かけたい」と父にせがむと連れて行ってくれる街。ショッピングモールと映画館が併設されており、遊びに行くのは(もっぱ)らそこだった。しかし車で片道一時間はかかるため、頻繁に行ける場所ではなかったのだ。
「ゆっくり食べろよな」孝則が心配そうに声をかけてくる。そう言いつつ彼はポテトチップスの一袋目を食べ切るところだった。にしても、と嬉しそうに言葉を続ける。
「ベンも修学旅行に、テンション上がってるな」
「だって、すごいじゃん。おにぎりを食べ切る前に、この街に着くんだぜ。新幹線って、早いんだなあ」
「何を当たり前のことを言ってるんだ」孝則が苦笑する。「中三だってのに、子供みたいな反応してるな」
「だって、乗る機会が殆どないんだもの」勉は唇を尖らせる。
「まあ、ベンが楽しそうならよかった」
 孝則は呆れ顔を浮かべながらも、口元が緩んでいた。きっと彼も浮き足立っていたのだろう。
 あの頃の勉にとって、地元が世界の全てだった。他の場所は別世界に思えていたのだ。年齢を経るごとに地元から離れたい気持ちが強くなり、勉は県外の大学に進学し、一人暮らしを始めた。不思議なもので社会人となり一年が過ぎた現在では帰ると安心する場所へと変わっている。
 修学旅行や同級生の近況など、一通り話し終えたところで、会話が止む。トンネルに入ると、窓には疲れた表情の二人の男が浮かんでいた。いつの間に、と勉は思う。いつの間に、沈黙が怖くなったのだろう。
 孝則に、ちらりと目を向ける。彼に、何があったのかは分からない。けれど疲弊した表情がそれを物語っていた。目の下には隈ができ、明らかに人相が変わっていた。口元が震えている。「実はさ」
「無理に話さなくていいって」勉はできるだけの明るさを装い、続く言葉を遮った。「色々、あったんだろ」
 互いの話題は、周りの事ばかりで、自身について話すことはなかった。まるで、牽制し合うようだった。核心に触れるには、自分の近況を打ち明けなくてはならなかった。孝則は「ベンは優しいな」と目元を拭っている。
 そうじゃないんだ、と口を開くことはできなかった。窓を見ると、夜景が広がっていた。
 
「じゃあ、時間あれば飲み行こうな」
 地元の停車駅に着き、ロータリーで互いに手を振って別れた。家族が迎えに来た車へと乗っていく。「飲みに行こうな」とどちらが言い出したのかは覚えていない。
「タカ君と一緒に帰ってきたのね」車に乗り込むと、母が目を細める。「久しぶりに、二人が並んでいる姿を見たわ」
 車が発進する。フロントガラスに、雨の跡がぽつりぽつりと降り注いでいた。ワイパーの動く音が車内に響いている。ラジオではパワーハラスメントの相談者数が増加していると流れていた。勉は浮かんだ光景を、必死で打ち消し、口を開く。
「偶然、ホームで会ったんだ」
「そう」母は眉を下げる。「タカ君も、大変みたいね」
「そんな感じはしてたね」
 そんな感じって、と母が一瞬、目を向けてくる。「あんたが来るまで、タカ君のお母さんと話してたのよ。聞いてないの?」
「久しぶりだったし、そこまで深いことまでは聞き……聞けなかったんだ」
「何だか、友達の借金を背負ってしまったとかで、どうしようもなくなって、戻ることにしたらしいわよ」
 母がその後に続けた言葉は、耳に入っていなかった。そういえば、と勉は思う。靴が履き潰され、明らかにボロボロだった。
 彼は優しい。そのお人好しの良さにつけ込まれてしまったのだろうか。ほんの二時間ほど前の出来事を思い返す。彼は迷いなく梅おにぎりを手に取り、勉は反射的に牛飯おにぎりを手に取っていた。全身がかあっと熱くなる。彼は何かを尋ね、話そうとしていた。ちっぽけなプライドを守るために、見栄を張った自分自身が情けない。
 孝則はそのようなことを気にかける人ではなかったのに。
「あんた、仕事終わりにすぐ来て、小腹空いてるでしょう」母が花柄の巾着を差し出してくる。懐かしい、と勉は思う。いつもお弁当を持たされる度に使われていた巾着だ。膝の上で広げるとラップに包まれたおにぎりが一つ入っていた。
「時間なかったし、塩と梅干ししか入ってない、簡単なものだけど」
 頬張ると、素朴な塩の味がした。そして祖母が作っている梅干しの酸味に、勉は顔を顰める。なぜか込み上げるものを感じ、一気に口へ詰め込んだ。母は「ゆっくり食べな」と小さく笑っている。
「水、もらうね」と勉はドリンクホルダーにあるお茶を喉に流し込み、一息つく。
 勉はポケットからスマートフォンを取り出した。メッセージアプリを開き、孝則の連絡先を探す。小中高、大学の友人、アルバイト、勤めてからの同僚や上司などが並んでいた。いつの間に、関わってきた人がここまで増えていたのだろう。すぐに見つからない程に、彼と連絡をとっていないことを痛感させられる。上下にスワイプした後に、ようやく孝則の連絡先が見つかった。ああ、と思わず呻くような声を出してしまう。
 連絡先に表示されていた写真は、孝則と別れたばかりの、ロータリーで撮られたものだった。二人でピースサインをしている。修学旅行から帰ったばかりなのだろう。キャリーバックと紙袋が周りに置かれていた。母に撮ってもらった写真のはずだ。
 簡素な内容をメッセージで送る。飲みに行こうぜ、と。居酒屋のURLも添付した。ふと思い立ち、付け加える。どうせ、暇だろ?と。
「せっかく会ったんだし、飲みに行けばいいじゃない。あんた、どうせ暇でしょ」
 母の言葉に、勉は顔を顰める。
「もう誘ってるよ」
「そう、行けるといいわね」
 頷くと同時に、手元のスマートフォンが振動した。
 

 


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 スマートフォンをかざすとピピッ、と軽快な電子音が鳴り、勉《つとむ》は改札を抜ける。五月の長期休暇ということもあり、駅のホームは新幹線を待つ人で混雑していた。キャリーバックを引きずっている人が多い。旅行、もしくは帰省だろう。勉は後者だった。
 乗り口を確認した勉は、ホーム内にあるコンビニへ向かう。仕事を終えたばかりなので、空腹を感じていた。梅と牛飯、どちらを選ぶかで勉は悩んでいた。新幹線の往復代は決して安くはない。できれば抑えたいところである。しかし、せっかく帰省するのだし、この時くらいは奮発してもいいのでは、と腕を組む。値段を確認し、ふと気づく。あれ?値段上がってない?
 前回の長期休暇で立ち寄った際はこの金額ではなかったはずだ。ため息を吐《つ》く。財布の紐を締めなければ。勉は梅おにぎりに手を伸ばすと「ベン?」と声をかけられた。顔を向けると怪訝そうな表情を浮かべた男がこちらを見ていた。
 彼は確信したのか声を上げ、相好を崩す。「やっぱり!ベンだよな」
「もしかして」と勉も声を上げる。男は目尻を下げ、小さく頷く。人の良さそうな笑みを浮かべていた。「孝則《たかのり》か?久しぶり!」
 ドリンクコーナーにいた女性客が驚いた表情でこちらを見る。勉は軽く会釈をし、声を落とす。
「孝則も、帰省なの?」
「まあ、そんなとこ」孝則は目を逸らし、頭を掻く。「それよりもさ、タカでいいって」
 気さくで変わらない性格に、勉は懐かしさを感じた。「そうだな。久しぶりだと、つい」
「ベンと会うのは、成人式以来か?」
「そうだね。四年ぶりだ」
「そっかあ。もうそんなに経つのか」一瞬、遠い目を孝則は浮かべ、苦笑する。「社会人になると、色々あって、時間経つのがあっという間だよな」
 孝則の表情の翳りに、胸がキュッと絞られるような痛みを感じる。彼は高校を卒業後に、地元を離れ、東京で就職をしていたはずだ。その後、成人式でも順調そうな様子を周りに話していたのを覚えている。『色々』という言葉の裏に、本当に色々あったのだろう。勉も、上司から詰められる場面が過《よぎ》り、憂鬱な気持ちになる。勉は慌てて頭から振り払い、笑みをつくる。「てか、その『ベン』って呼ばれるの、懐かしいな」
「名付け親は俺だからな」孝則が誇らしげに胸を張る。
 メガネをかけているし、真面目そう。そのような安直な理由で勉《つとむ》という漢字をそのまま読み、『ベン』と呼び始めたのだ。中学の英語の教科書にベンジャミンという男が出てきてからはそのように呼び始める人もいた。
「一時期、他学年の間で海外留学生がいるって噂になったんだからな」
「いいじゃん。人気者になれて」
「相手から勝手に期待されて、『なんだ。あだ名か』と失望した顔を向けられてみろ。悪いことしてないのに、申し訳ない気持ちになるんだぞ」
「それはそれは、申し訳ない」孝則は手を叩きながら笑う。
「まあ、でも初対面の人に話題作りにはなるからいいけどさあ」
 懐かしいな、と言い合っていると、ふと孝則は表情を引き締めた。
「ベンは今—」
 孝則が言いかけるのと同時に、新幹線の到着を知らせるアナウンスが流れた。「孝則は何時発の新幹線に乗るの?」と尋ねると、どうやら同じらしい。
「そろそろ並ばないとな」勉は咄嗟におにぎりを手に取った。「あ、ごめん、何か言いかけてたよな」
「いや、なんでもない」孝則は首を振る。
 あの頃と、何も変わらない。あだ名で呼ばれるだけで、小学生時代に戻ったような気分になる。二人でレジに並んだ。孝則の手には梅おにぎりが握られていた。
 ホームでは既に行列ができていた。互いに自由席だったため、孝則と自然に並ぶかたちになる。後ろにも少しずつ人が増えてきて、最終的に列の中間、というところに位置していた。
 新幹線が到着し、開いた扉から人が出て行き、勉達は入れ替わるように車内へと入っていく。「うわあ、人多いな。座れるかな」と孝則が呟いていた。
 孝則の心配は杞憂だった。二人分の座席が空いていたのだ。「ラッキーだったな」と勉は窓際の席へ。「そうだな」と返す孝則は通路側へ座る。車窓から見える景色が動き出していく。 
「東京の修学旅行を思い出すよな」孝則が笑う。「あの時も、ベンと一緒に座ってたよな」
「そうだな」勉は首肯する。頭に浮かんできた光景は、座席に備え付けられた折りたたみ式のテーブルだった。当時は物珍しく映り、孝則と一緒に開いて閉じてを繰り返していた。そして前に座っている女子に怒られたのだ。当時の出来事を苦笑しながら孝則に話すと、懐かしむように目を細めた。「あぁ、あったあった」
「それとさ、タカはお菓子をテーブルに並べて、バカみたいにはしゃいでたよな」
「そうそう。で、帰りの新幹線で食べるはずだったお菓子を全部食べちゃったんだ」孝則は顔を歪めている。
 お菓子を嬉しそうに食べる孝則を横目に、勉は花柄の巾着を広げる。「朝ごはんに」と母が持たせてくれたおにぎりが三個入っていた。頬張ると梅干しの酸味に、顔を顰める。孝則が「すごい顔してるぞ」と指を差してきた。
「タカの朝ごはんはお菓子なの?」と尋ねると「車の中で食べたんだよ」と返ってくる。
 おにぎりを食べていると、停車駅に近づいているアナウンスが流れ始めた。窓側に座っていた勉は驚き、米粒を喉に詰まらせてしまう。咽せていると「大丈夫か?」と孝則がペットボトルを差し出してきた。飲み物を流し込みつつ、外に目を向けると、ピンク色のロゴが入ったショッピングモールが近づいていた。
 勉が「出かけたい」と父にせがむと連れて行ってくれる街。ショッピングモールと映画館が併設されており、遊びに行くのは専《もっぱ》らそこだった。しかし車で片道一時間はかかるため、頻繁に行ける場所ではなかったのだ。
「ゆっくり食べろよな」孝則が心配そうに声をかけてくる。そう言いつつ彼はポテトチップスの一袋目を食べ切るところだった。にしても、と嬉しそうに言葉を続ける。
「ベンも修学旅行に、テンション上がってるな」
「だって、すごいじゃん。おにぎりを食べ切る前に、この街に着くんだぜ。新幹線って、早いんだなあ」
「何を当たり前のことを言ってるんだ」孝則が苦笑する。「中三だってのに、子供みたいな反応してるな」
「だって、乗る機会が殆どないんだもの」勉は唇を尖らせる。
「まあ、ベンが楽しそうならよかった」
 孝則は呆れ顔を浮かべながらも、口元が緩んでいた。きっと彼も浮き足立っていたのだろう。
 あの頃の勉にとって、地元が世界の全てだった。他の場所は別世界に思えていたのだ。年齢を経るごとに地元から離れたい気持ちが強くなり、勉は県外の大学に進学し、一人暮らしを始めた。不思議なもので社会人となり一年が過ぎた現在では帰ると安心する場所へと変わっている。
 修学旅行や同級生の近況など、一通り話し終えたところで、会話が止む。トンネルに入ると、窓には疲れた表情の二人の男が浮かんでいた。いつの間に、と勉は思う。いつの間に、沈黙が怖くなったのだろう。
 孝則に、ちらりと目を向ける。彼に、何があったのかは分からない。けれど疲弊した表情がそれを物語っていた。目の下には隈ができ、明らかに人相が変わっていた。口元が震えている。「実はさ」
「無理に話さなくていいって」勉はできるだけの明るさを装い、続く言葉を遮った。「色々、あったんだろ」
 互いの話題は、周りの事ばかりで、自身について話すことはなかった。まるで、牽制し合うようだった。核心に触れるには、自分の近況を打ち明けなくてはならなかった。孝則は「ベンは優しいな」と目元を拭っている。
 そうじゃないんだ、と口を開くことはできなかった。窓を見ると、夜景が広がっていた。
「じゃあ、時間あれば飲み行こうな」
 地元の停車駅に着き、ロータリーで互いに手を振って別れた。家族が迎えに来た車へと乗っていく。「飲みに行こうな」とどちらが言い出したのかは覚えていない。
「タカ君と一緒に帰ってきたのね」車に乗り込むと、母が目を細める。「久しぶりに、二人が並んでいる姿を見たわ」
 車が発進する。フロントガラスに、雨の跡がぽつりぽつりと降り注いでいた。ワイパーの動く音が車内に響いている。ラジオではパワーハラスメントの相談者数が増加していると流れていた。勉は浮かんだ光景を、必死で打ち消し、口を開く。
「偶然、ホームで会ったんだ」
「そう」母は眉を下げる。「タカ君も、大変みたいね」
「そんな感じはしてたね」
 そんな感じって、と母が一瞬、目を向けてくる。「あんたが来るまで、タカ君のお母さんと話してたのよ。聞いてないの?」
「久しぶりだったし、そこまで深いことまでは聞き……聞けなかったんだ」
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 母がその後に続けた言葉は、耳に入っていなかった。そういえば、と勉は思う。靴が履き潰され、明らかにボロボロだった。
 彼は優しい。そのお人好しの良さにつけ込まれてしまったのだろうか。ほんの二時間ほど前の出来事を思い返す。彼は迷いなく梅おにぎりを手に取り、勉は反射的に牛飯おにぎりを手に取っていた。全身がかあっと熱くなる。彼は何かを尋ね、話そうとしていた。ちっぽけなプライドを守るために、見栄を張った自分自身が情けない。
 孝則はそのようなことを気にかける人ではなかったのに。
「あんた、仕事終わりにすぐ来て、小腹空いてるでしょう」母が花柄の巾着を差し出してくる。懐かしい、と勉は思う。いつもお弁当を持たされる度に使われていた巾着だ。膝の上で広げるとラップに包まれたおにぎりが一つ入っていた。
「時間なかったし、塩と梅干ししか入ってない、簡単なものだけど」
 頬張ると、素朴な塩の味がした。そして祖母が作っている梅干しの酸味に、勉は顔を顰める。なぜか込み上げるものを感じ、一気に口へ詰め込んだ。母は「ゆっくり食べな」と小さく笑っている。
「水、もらうね」と勉はドリンクホルダーにあるお茶を喉に流し込み、一息つく。
 勉はポケットからスマートフォンを取り出した。メッセージアプリを開き、孝則の連絡先を探す。小中高、大学の友人、アルバイト、勤めてからの同僚や上司などが並んでいた。いつの間に、関わってきた人がここまで増えていたのだろう。すぐに見つからない程に、彼と連絡をとっていないことを痛感させられる。上下にスワイプした後に、ようやく孝則の連絡先が見つかった。ああ、と思わず呻くような声を出してしまう。
 連絡先に表示されていた写真は、孝則と別れたばかりの、ロータリーで撮られたものだった。二人でピースサインをしている。修学旅行から帰ったばかりなのだろう。キャリーバックと紙袋が周りに置かれていた。母に撮ってもらった写真のはずだ。
 簡素な内容をメッセージで送る。飲みに行こうぜ、と。居酒屋のURLも添付した。ふと思い立ち、付け加える。どうせ、暇だろ?と。
「せっかく会ったんだし、飲みに行けばいいじゃない。あんた、どうせ暇でしょ」
 母の言葉に、勉は顔を顰める。
「もう誘ってるよ」
「そう、行けるといいわね」
 頷くと同時に、手元のスマートフォンが振動した。