4
ー/ー『もはや私には、妻に赦しを請う力さえ残されていなかった――。』
エンターキーを押し、しばし余韻に浸る。物語の中とはいえ、自分の手であの男の命を奪うのは実に気分がいい。完成した原稿のデータをUSBメモリに移し、パソコン上にデータが残っていないことを確認してから電源をオフにする。夫の書斎を出て、寝室に向かった。
芽依を身ごもり、夫と結婚してからの二十年間はわたしにとってほとんど地獄だった。夫は常にわたしに対して支配的で、わたしをまるで家政婦……いや、奴隷のように扱った。芽依を置いて一人で家を出ることも考えた。けれどそのたび、夫と二人きりで残されてしまう芽依のことを思い、踏みとどまった。あの男のことだ。わたしが出ていった後、次は娘に対してその矛先が向かないとも限らない。他人を見下し、自分に従わせていないと気が済まない。あの男は、そういう男だ。
寝室のドアを開けると、ベッドの上で横になっていた彼がスマートフォンから顔を上げた。
「あら。起きていたの」
「いま、静香さんにメールを送ったとこ」
「わたしならここにいるじゃない」
「起きたらいなかったから。『さみしいよ』って送った」
うふふ、バカね。そう言ってベッドに腰を下ろすと、彼の長い腕がわたしの体を絡めとるように伸びてくる。静香さん、好きだよ。彼が耳元でそっと囁く。わたしもよ、峻也くん。首だけ傾けて振り返り、彼と唇を合わせる。
この二十年、わたしはずっと耐えてきた。けれどもう限界だった。わたしは解放されたかったのだ。夫から。娘から。
今夜、夫は学会の出張でいない。芽依も誰か友だちの家に泊まりに行くと言っていた。だからわたしは峻也くんを家に呼んだ。娘の彼氏とこのような関係をもつなんて母親失格だ。芽依には申し訳ないと思っている。だけどわたしは恋を知ってしまったのだ。夫以外に男を知らなかったわたしにとって、彼の若さや情熱はとても魅力的に映った。
静香さん。彼の目がわたしをじっと見つめる――と、その目の間から、勢いよく何かが噴き出した。それが血だとわかったのは、驚いて後ろを振り返ったときだった。背後に包丁を持って立っている芽依の姿があった。
「め、芽依……!?」
どうして。今夜は友だちの家に泊まりに行ったんじゃ――。そう声をかける間もなく、芽依は奇声を上げながらわたしに襲いかかってくる。すんでのところで身をかわし、部屋から逃げようとするけれど、間に合わなかった。背中に鋭い痛みを感じ、わたしはその場に倒れ伏した。
「……芽依……ゆるし……て……」
倒れているわたしを見下ろしながら、芽依は剣道の竹刀のように包丁をゆっくりと頭上に掲げる。まさか、実の娘に殺されるなんて……。そう思った瞬間、ある考えがわたしの頭に閃いた。
そうだ。きっとこれは、娘の書いた物語。物語の中のわたしが死んでも、現実のわたしはきっと生きている。そう、きっとそう。そうよね、芽依?
わたしの問いかけはもはや声にならない。次の瞬間、包丁の先端がきらりと光り、芽依の両手が勢いよくわたしの頭に振り下ろされた――
(了)
エンターキーを押し、しばし余韻に浸る。物語の中とはいえ、自分の手であの男の命を奪うのは実に気分がいい。完成した原稿のデータをUSBメモリに移し、パソコン上にデータが残っていないことを確認してから電源をオフにする。夫の書斎を出て、寝室に向かった。
芽依を身ごもり、夫と結婚してからの二十年間はわたしにとってほとんど地獄だった。夫は常にわたしに対して支配的で、わたしをまるで家政婦……いや、奴隷のように扱った。芽依を置いて一人で家を出ることも考えた。けれどそのたび、夫と二人きりで残されてしまう芽依のことを思い、踏みとどまった。あの男のことだ。わたしが出ていった後、次は娘に対してその矛先が向かないとも限らない。他人を見下し、自分に従わせていないと気が済まない。あの男は、そういう男だ。
寝室のドアを開けると、ベッドの上で横になっていた彼がスマートフォンから顔を上げた。
「あら。起きていたの」
「いま、静香さんにメールを送ったとこ」
「わたしならここにいるじゃない」
「起きたらいなかったから。『さみしいよ』って送った」
うふふ、バカね。そう言ってベッドに腰を下ろすと、彼の長い腕がわたしの体を絡めとるように伸びてくる。静香さん、好きだよ。彼が耳元でそっと囁く。わたしもよ、峻也くん。首だけ傾けて振り返り、彼と唇を合わせる。
この二十年、わたしはずっと耐えてきた。けれどもう限界だった。わたしは解放されたかったのだ。夫から。娘から。
今夜、夫は学会の出張でいない。芽依も誰か友だちの家に泊まりに行くと言っていた。だからわたしは峻也くんを家に呼んだ。娘の彼氏とこのような関係をもつなんて母親失格だ。芽依には申し訳ないと思っている。だけどわたしは恋を知ってしまったのだ。夫以外に男を知らなかったわたしにとって、彼の若さや情熱はとても魅力的に映った。
静香さん。彼の目がわたしをじっと見つめる――と、その目の間から、勢いよく何かが噴き出した。それが血だとわかったのは、驚いて後ろを振り返ったときだった。背後に包丁を持って立っている芽依の姿があった。
「め、芽依……!?」
どうして。今夜は友だちの家に泊まりに行ったんじゃ――。そう声をかける間もなく、芽依は奇声を上げながらわたしに襲いかかってくる。すんでのところで身をかわし、部屋から逃げようとするけれど、間に合わなかった。背中に鋭い痛みを感じ、わたしはその場に倒れ伏した。
「……芽依……ゆるし……て……」
倒れているわたしを見下ろしながら、芽依は剣道の竹刀のように包丁をゆっくりと頭上に掲げる。まさか、実の娘に殺されるなんて……。そう思った瞬間、ある考えがわたしの頭に閃いた。
そうだ。きっとこれは、娘の書いた物語。物語の中のわたしが死んでも、現実のわたしはきっと生きている。そう、きっとそう。そうよね、芽依?
わたしの問いかけはもはや声にならない。次の瞬間、包丁の先端がきらりと光り、芽依の両手が勢いよくわたしの頭に振り下ろされた――
(了)
みんなのリアクション
まだリアクションはありません。最初の一歩を踏み出しましょう!
『もはや私には、妻に赦しを請う力さえ残されていなかった――。』
エンターキーを押し、しばし余韻に浸る。物語の中とはいえ、自分の手であの男の命を奪うのは実に気分がいい。完成した原稿のデータをUSBメモリに移し、パソコン上にデータが残っていないことを確認してから電源をオフにする。夫の書斎を出て、寝室に向かった。
芽依を身ごもり、夫と結婚してからの二十年間はわたしにとってほとんど地獄だった。夫は常にわたしに対して支配的で、わたしをまるで家政婦……いや、奴隷のように扱った。芽依を置いて一人で家を出ることも考えた。けれどそのたび、夫と二人きりで残されてしまう芽依のことを思い、踏みとどまった。あの男のことだ。わたしが出ていった後、次は娘に対してその矛先が向かないとも限らない。他人を見下し、自分に従わせていないと気が済まない。あの男は、そういう男だ。
寝室のドアを開けると、ベッドの上で横になっていた彼がスマートフォンから顔を上げた。
「あら。起きていたの」
「いま、|静香《しずか》さんにメールを送ったとこ」
「わたしならここにいるじゃない」
「起きたらいなかったから。『さみしいよ』って送った」
うふふ、バカね。そう言ってベッドに腰を下ろすと、彼の長い腕がわたしの体を絡めとるように伸びてくる。静香さん、好きだよ。彼が耳元でそっと囁く。わたしもよ、峻也くん。首だけ傾けて振り返り、彼と唇を合わせる。
この二十年、わたしはずっと耐えてきた。けれどもう限界だった。わたしは解放されたかったのだ。夫から。娘から。
今夜、夫は学会の出張でいない。芽依も誰か友だちの家に泊まりに行くと言っていた。だからわたしは峻也くんを家に呼んだ。娘の彼氏とこのような関係をもつなんて母親失格だ。芽依には申し訳ないと思っている。だけどわたしは恋を知ってしまったのだ。夫以外に男を知らなかったわたしにとって、彼の若さや情熱はとても魅力的に映った。
静香さん。彼の目がわたしをじっと見つめる――と、その目の間から、勢いよく何かが噴き出した。それが血だとわかったのは、驚いて後ろを振り返ったときだった。背後に包丁を持って立っている芽依の姿があった。
「め、芽依……!?」
どうして。今夜は友だちの家に泊まりに行ったんじゃ――。そう声をかける間もなく、芽依は奇声を上げながらわたしに襲いかかってくる。すんでのところで身をかわし、部屋から逃げようとするけれど、間に合わなかった。背中に鋭い痛みを感じ、わたしはその場に倒れ伏した。
「……芽依……ゆるし……て……」
倒れているわたしを見下ろしながら、芽依は剣道の竹刀のように包丁をゆっくりと頭上に掲げる。まさか、実の娘に殺されるなんて……。そう思った瞬間、ある考えがわたしの頭に閃いた。
そうだ。きっとこれは、娘の書いた物語。物語の中のわたしが死んでも、現実のわたしはきっと生きている。そう、きっとそう。そうよね、芽依?
わたしの問いかけはもはや声にならない。次の瞬間、包丁の先端がきらりと光り、芽依の両手が勢いよくわたしの頭に振り下ろされた――
エンターキーを押し、しばし余韻に浸る。物語の中とはいえ、自分の手であの男の命を奪うのは実に気分がいい。完成した原稿のデータをUSBメモリに移し、パソコン上にデータが残っていないことを確認してから電源をオフにする。夫の書斎を出て、寝室に向かった。
芽依を身ごもり、夫と結婚してからの二十年間はわたしにとってほとんど地獄だった。夫は常にわたしに対して支配的で、わたしをまるで家政婦……いや、奴隷のように扱った。芽依を置いて一人で家を出ることも考えた。けれどそのたび、夫と二人きりで残されてしまう芽依のことを思い、踏みとどまった。あの男のことだ。わたしが出ていった後、次は娘に対してその矛先が向かないとも限らない。他人を見下し、自分に従わせていないと気が済まない。あの男は、そういう男だ。
寝室のドアを開けると、ベッドの上で横になっていた彼がスマートフォンから顔を上げた。
「あら。起きていたの」
「いま、|静香《しずか》さんにメールを送ったとこ」
「わたしならここにいるじゃない」
「起きたらいなかったから。『さみしいよ』って送った」
うふふ、バカね。そう言ってベッドに腰を下ろすと、彼の長い腕がわたしの体を絡めとるように伸びてくる。静香さん、好きだよ。彼が耳元でそっと囁く。わたしもよ、峻也くん。首だけ傾けて振り返り、彼と唇を合わせる。
この二十年、わたしはずっと耐えてきた。けれどもう限界だった。わたしは解放されたかったのだ。夫から。娘から。
今夜、夫は学会の出張でいない。芽依も誰か友だちの家に泊まりに行くと言っていた。だからわたしは峻也くんを家に呼んだ。娘の彼氏とこのような関係をもつなんて母親失格だ。芽依には申し訳ないと思っている。だけどわたしは恋を知ってしまったのだ。夫以外に男を知らなかったわたしにとって、彼の若さや情熱はとても魅力的に映った。
静香さん。彼の目がわたしをじっと見つめる――と、その目の間から、勢いよく何かが噴き出した。それが血だとわかったのは、驚いて後ろを振り返ったときだった。背後に包丁を持って立っている芽依の姿があった。
「め、芽依……!?」
どうして。今夜は友だちの家に泊まりに行ったんじゃ――。そう声をかける間もなく、芽依は奇声を上げながらわたしに襲いかかってくる。すんでのところで身をかわし、部屋から逃げようとするけれど、間に合わなかった。背中に鋭い痛みを感じ、わたしはその場に倒れ伏した。
「……芽依……ゆるし……て……」
倒れているわたしを見下ろしながら、芽依は剣道の竹刀のように包丁をゆっくりと頭上に掲げる。まさか、実の娘に殺されるなんて……。そう思った瞬間、ある考えがわたしの頭に閃いた。
そうだ。きっとこれは、娘の書いた物語。物語の中のわたしが死んでも、現実のわたしはきっと生きている。そう、きっとそう。そうよね、芽依?
わたしの問いかけはもはや声にならない。次の瞬間、包丁の先端がきらりと光り、芽依の両手が勢いよくわたしの頭に振り下ろされた――
(了)