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いつもと変わらぬカフェ

ー/ー



 腐臭としか言いようのない据えた油の染みついた大通り。
 濃いオイルミストで白く濁る視界の先へ進んでいけば、その看板は必ず見つかる。
 割れた鉄板の渓谷の底に築かれたクレンザーダウンという都市で数少ないカフェ。

 丁寧に洗浄され磨き上げられた看板は目を引く。
 あまり破損していないガラス窓も、曇らない程度に処理も行き届いている。
 その「クルード」という名のカフェからは不思議なほど優しい香りが漂っていた。

 芳醇というに相応しい、まろやかなクリーミィオイルというこの店の名物だ。
 これに惹かれて入店する客も少なくはない。
 そうでなくとも、いつだってこの店内は賑わっている。

 鉄柱のような客から、踏み台のような客まで、誰も彼もがその癒しを求めている。
 スチールパネルのカツンカツンという足音すら心地よい。

 ブレンドされたオイルの香りが引き立つ店内の中心にあるカウンター席の向こう。そこに立つ、旧式トラス螺子の目立つマスターは、静かにタンブラーを磨く。

「マスター、レギュラーを頼む。チオグリコールもつけてな」

 陽気な客がカタカタと喉元を鳴らしながら注文する。

「あいよ、いつもの奴でいいんだね」

 承ったマスターは、そのチューブの形状をしていたアタッチメントを付け替えて、指の五本揃ったハンドで、棚からオイル缶を取り出し、ブレンダーにセットする。
 コウコウと小さな音を立てて、甘い匂いを立たせるソレにハンドを接続すると、吸引するようにして腕の中をオイルが行き交いする。

 洗浄したてのピカピカの金属製のタンブラーに指先を突っ込み、そこへ注ぐ。
 鮮やかな七色のマーブル模様を描く液体が客の手元へと届く。

「おお、これだこれ。うーん、この刺激臭がたまらないんだ」

 そういって陽気な客は鼻からチューブを伸ばし、タンブラーの中へ。
 じゅるじゅると吸引し、耳のあたりからポッポーと蒸気を吹いた。

「ふぅ~、効くぜぇ! これであと半月は働けるな!」
「まったく、来週にはメンテが入ってるんだろ? サボるつもりなのかい?」
「わ、分かってるよぅ。気持ちの問題だって」

 言い訳がましくチューブを鼻の中に収納し、バツが悪そうに言い返す。
 あの分だと何処かに不調を抱えても働きづくめになるのは容易に想像できた。

「また鼻に錆が生えても知らないからな」

 そそくさと会計済ませて逃げるように出ていこうとする客の背中に向かって言う。
 がちゃん、ころんころん。そんな音だけ残して、また一人客は去っていく。

 それでもなお、店内は騒々しいくらいまでに賑やかだ。
 外の喧騒とはまるで真逆の、明るく温かいムードに満ちている。

「おーい、マスター、おかわりちょーだい! シリコンオイルたっぷりでね!」
「ええ、かしこまりました」

 別の席からの注文に、マスターは耳を傾け、向き直る。
 アタッチメントをよく伸びるハンドに付け替えて、また別のオイル缶を探る。
 目の前は在庫管理データベースが出力されており、的確に材料を選択する。

 ブレンダーにオイル缶がセットされ、またコウコウと小気味のいい音を立てる。
 マスターのチューブを通してタンブラーへと注がれていき、それは完成する。

 粘性の高い優しい乳白色の液体が客のもとへ伸びたハンドで届けられる。

「サンキュー! やっぱりマスターはサイコーだね! これが一番美味しい!」

 そう言いながらタンブラーを後頭部に差し込みながら、液体を放り込む。
 底抜けに明るい満面の笑みを見せると、活力のあるポーズを見せた。

 体中の錆を抜ききったような爽快感で高揚しているようだ。
 無論、そこまでの効力などないが。

「元気があるのはいいことだ。その調子で仕事の方も頑張ってくれよ」
「へいへい、マスターはいっつも小言ばっかだね。ありがと」

 そういってお礼まじりに笑いかける。これには他の客たちも笑い出す。

 いつもと変わらぬ、平穏という空間を具現化したかのようなカフェ。
 客の誰もが明るく振舞い、その外にある世界など、このときだけは忘れられる。

 このカフェ「クルード」が提供するひと時は、クレンザーダウンの住民にとって、数少ない安らぎであり、言いようのない憩いの場だった。

 終わることのない、延々と続く労働の中で、壊れていく作業員もいる。
 気付かぬうちに部位が劣化して、そのまま動けなくなる作業員もいる。
 何故こんなことをしているのか、この果てに何があるのか、誰も覚えていない。

 クレンザーダウンという街は、そういう街だから、としか言いようがない。
 それでも、この街に留まり続ける住民たちは少なくはない。
 いずれは終わることを夢見ているのか、はたまたそれすら関心がないのか。

 何にせよ、少なくとも言えることはある。

 創業から三百年の歴史を持つカフェ「クルード」には、この街に居続けるだけの理由があるということだ。そして、マスターもそのために今日も店に立ち続ける。

 誰かが、誰もが、忘れ去っていようとも、マスターだけは覚えている。
 このクレンザーダウンに、平穏だった時代があったことを。

 何処までも汚れて、油染みのように拭えなくなってしまっても忘れることはない。
 決して忘れさせることもない。

 かつて荒れ果てた何もないただただ形骸化した紛争地でしかなかったこの場所を、人間の住める豊かな都市へと変えた男がいたように。
 それほどまで大それたことはできないかもしれないと知りつつも。

 今日も今日とて、ほんのひと時のために、マスターはそこにいるのだ――……。


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 腐臭としか言いようのない据えた油の染みついた大通り。
 濃いオイルミストで白く濁る視界の先へ進んでいけば、その看板は必ず見つかる。
 割れた鉄板の渓谷の底に築かれたクレンザーダウンという都市で数少ないカフェ。
 丁寧に洗浄され磨き上げられた看板は目を引く。
 あまり破損していないガラス窓も、曇らない程度に処理も行き届いている。
 その「クルード」という名のカフェからは不思議なほど優しい香りが漂っていた。
 芳醇というに相応しい、まろやかなクリーミィオイルというこの店の名物だ。
 これに惹かれて入店する客も少なくはない。
 そうでなくとも、いつだってこの店内は賑わっている。
 鉄柱のような客から、踏み台のような客まで、誰も彼もがその癒しを求めている。
 スチールパネルのカツンカツンという足音すら心地よい。
 ブレンドされたオイルの香りが引き立つ店内の中心にあるカウンター席の向こう。そこに立つ、旧式トラス螺子の目立つマスターは、静かにタンブラーを磨く。
「マスター、レギュラーを頼む。チオグリコールもつけてな」
 陽気な客がカタカタと喉元を鳴らしながら注文する。
「あいよ、いつもの奴でいいんだね」
 承ったマスターは、そのチューブの形状をしていたアタッチメントを付け替えて、指の五本揃ったハンドで、棚からオイル缶を取り出し、ブレンダーにセットする。
 コウコウと小さな音を立てて、甘い匂いを立たせるソレにハンドを接続すると、吸引するようにして腕の中をオイルが行き交いする。
 洗浄したてのピカピカの金属製のタンブラーに指先を突っ込み、そこへ注ぐ。
 鮮やかな七色のマーブル模様を描く液体が客の手元へと届く。
「おお、これだこれ。うーん、この刺激臭がたまらないんだ」
 そういって陽気な客は鼻からチューブを伸ばし、タンブラーの中へ。
 じゅるじゅると吸引し、耳のあたりからポッポーと蒸気を吹いた。
「ふぅ~、効くぜぇ! これであと半月は働けるな!」
「まったく、来週にはメンテが入ってるんだろ? サボるつもりなのかい?」
「わ、分かってるよぅ。気持ちの問題だって」
 言い訳がましくチューブを鼻の中に収納し、バツが悪そうに言い返す。
 あの分だと何処かに不調を抱えても働きづくめになるのは容易に想像できた。
「また鼻に錆が生えても知らないからな」
 そそくさと会計済ませて逃げるように出ていこうとする客の背中に向かって言う。
 がちゃん、ころんころん。そんな音だけ残して、また一人客は去っていく。
 それでもなお、店内は騒々しいくらいまでに賑やかだ。
 外の喧騒とはまるで真逆の、明るく温かいムードに満ちている。
「おーい、マスター、おかわりちょーだい! シリコンオイルたっぷりでね!」
「ええ、かしこまりました」
 別の席からの注文に、マスターは耳を傾け、向き直る。
 アタッチメントをよく伸びるハンドに付け替えて、また別のオイル缶を探る。
 目の前は在庫管理データベースが出力されており、的確に材料を選択する。
 ブレンダーにオイル缶がセットされ、またコウコウと小気味のいい音を立てる。
 マスターのチューブを通してタンブラーへと注がれていき、それは完成する。
 粘性の高い優しい乳白色の液体が客のもとへ伸びたハンドで届けられる。
「サンキュー! やっぱりマスターはサイコーだね! これが一番美味しい!」
 そう言いながらタンブラーを後頭部に差し込みながら、液体を放り込む。
 底抜けに明るい満面の笑みを見せると、活力のあるポーズを見せた。
 体中の錆を抜ききったような爽快感で高揚しているようだ。
 無論、そこまでの効力などないが。
「元気があるのはいいことだ。その調子で仕事の方も頑張ってくれよ」
「へいへい、マスターはいっつも小言ばっかだね。ありがと」
 そういってお礼まじりに笑いかける。これには他の客たちも笑い出す。
 いつもと変わらぬ、平穏という空間を具現化したかのようなカフェ。
 客の誰もが明るく振舞い、その外にある世界など、このときだけは忘れられる。
 このカフェ「クルード」が提供するひと時は、クレンザーダウンの住民にとって、数少ない安らぎであり、言いようのない憩いの場だった。
 終わることのない、延々と続く労働の中で、壊れていく作業員もいる。
 気付かぬうちに部位が劣化して、そのまま動けなくなる作業員もいる。
 何故こんなことをしているのか、この果てに何があるのか、誰も覚えていない。
 クレンザーダウンという街は、そういう街だから、としか言いようがない。
 それでも、この街に留まり続ける住民たちは少なくはない。
 いずれは終わることを夢見ているのか、はたまたそれすら関心がないのか。
 何にせよ、少なくとも言えることはある。
 創業から三百年の歴史を持つカフェ「クルード」には、この街に居続けるだけの理由があるということだ。そして、マスターもそのために今日も店に立ち続ける。
 誰かが、誰もが、忘れ去っていようとも、マスターだけは覚えている。
 このクレンザーダウンに、平穏だった時代があったことを。
 何処までも汚れて、油染みのように拭えなくなってしまっても忘れることはない。
 決して忘れさせることもない。
 かつて荒れ果てた何もないただただ形骸化した紛争地でしかなかったこの場所を、人間の住める豊かな都市へと変えた男がいたように。
 それほどまで大それたことはできないかもしれないと知りつつも。
 今日も今日とて、ほんのひと時のために、マスターはそこにいるのだ――……。