表示設定
表示設定
目次 目次




記憶の彼方に残るカフェ

ー/ー



 クレンザーダウンは、裂けた鉄板のような歪な渓谷の底に位置している。
 いつの時代に使われていたのかも分からない配管も剥き出しの状態になっており、断面からひっきりなしに得体の知れない油が滴り落ちてくる。

 誰も修理しようとしていないわけではない。
 ただ、入り組んだ配管は地面の下をスパゲティの如く絡み合っている状態にあり、工事するとなると、渓谷を丸ごと平地にするような土木作業が必須となる。

 そんな大がかりの工事を進めるだけの作業員など集められるわけもない。
 だから、地面の中で潰れた配管を地道に発掘しつつ復旧しつつを繰り返している。極めて残念なこととしては、一つ直しても一つ以上破損する場合が多い。

 酷いときとなると直せないまま他の配管を広範囲に渡って破壊することもある。
 笑いごとではないが、このクレンザーダウンでは日常茶飯事だ。

 よって、この街で暮らしている者たちは大きく分けて三つに分類される。
 直せない配管を延々直し続ける作業員と、配管から溢れる油を処理する作業員と、そんな作業員たちをケアする者たちだ。

 配管工は自身の修理費が嵩んでロクな利益もない。
 清掃員は重労働だが、配管工よりかは少しだけマシで、手元に残る利益はある。
 どちらにせよ、終わりの見えない労働者であることには変わりないが。

 そんな彼らの憩いの場となるのは、リペア施設のファクトリーが主だ。
 だが、それだけではない。飲食店もケアする者の中に含まれる。
 クレンザーダウンで老舗として構えるカフェ「クルード」も勿論そこに該当する。

 身も心もイカれそうな、この油が降り注ぐ底辺の街で、今日もまた開店していた。

 見上げれば割れた鉄板の隙間から見える空は灰色。オイルミストで曇り、太陽までクッキリとは見えないが、光が差し込んでいることだけ分かれば十分。
 関節の錆も剥がれ落ちそうな湿気の中、マスターは玄関前で伸びをする。

「や、マスター。空いてますかい?」
「早いね、本日の一番客だ。さっき新しいブレンドコーディングが終えたところさ」

 看板を磨いているところ、いくつかのボールを雑に継ぎ接ぎさせたような体をした顔のない男が体を左右に揺すりながらマスターに声をかける。
 ボール男は決して踊っているわけではない。均衡をとるために動いているだけだ。

「おおー、じゃあさっそくいただきたいね! マスター、それ頼むよ!」
「はいはい。今開けるから」

 物理的に重い腰をあげながらピカピカになった看板を見やすい位置に置きなおし、よっこいせとマスターは店内へと戻っていく。
 その後ろについていくようにボール男も入店した。

 ガチャン、ころんころん。二名の男を受け入れた店内は、まだ静まり返っており、客もいなければ、染み付いたオイルの匂い以外に香るものは何もない。
 スチールパネルの床の上を歩く、カツンカツンとした音もよく響く。

 マスターがカウンター向こうに入っていくと、ボール男もカウンター席につく。
 ボール男は座ってもなお、左右に体をゆらゆらと揺すっていた。

「お客さん、軋み音が少ないね。最近いいメンテに当たったのかい?」
「そうそ。オイラ、運が良くてね。前までいたスタッフが辞めちまったんだけどさ、代わりに入ってきた子がとびっきりのいい子だったのよ、これが」

 笑い声交じりにボール男が大きく体を揺する。
 相当お気に入りなのは表情を見なくてもよく分かる。

「おかげでさぁ、分かるかい? このつやっつやなコーティングよ。鏡面仕上がり。ほらさ、オイラの担当地区って腐食強いからさ、これがまた具合がいいんだ」

 ボール男の言う通り、錆や曇りのない銀幕のような光沢は見事だ。
 撥水加工が十分に施されているらしい。
 もはや、このクレンザーダウンに似つかわしくないくらいに綺麗だった。

「確かに、表面上はキレイにできてるみたいだ。でもね、過信はしちゃいけないよ。表は良くても内側は劣化していくこともあるんだ。特に関節とかね」
「そうかぁ。今のとこ、内側も外側も悪くないんだけど、コーティングの下側までは劣化しないってわけじゃないもんなぁ」
「お客さんは特に、均衡が不安定で関節を痛めやすいんだから気を付けた方がいい」
「あっはは、いやはやマスターには敵わないねぇ! オイラ一本とられたわ!」

 ボール男は陽気に、くねくねと体を揺さぶって返事する。
 そんな彼にマスターが差し出したのはシリコンオイルのカプチーノだ。
 高温に強く潤滑性も優れており、劣化した金属パーツや老朽化した接合部の保護に適している一杯だ。洒落のきいたアートも心に温もりを残す。

「ああ、マスターのカプチーノは最高だね。飲むのも勿体ないくらいさ」

 クレンザーダウンの一角に構えられたカフェ「クルード」。
 そこは油まみれの外界とは隔絶された、癒しのひと時を提供するカフェ。
 次から次へと鉄塊のような客たちが押し寄せては賑わいを見せる。

 そんな歪で異形な客たちに交じり、その男はドアを潜ってきた。

 コツ、コツ、コツ。スチールパネルを叩く、軽い音。
 体格は特筆できるものがない。足は二本で、腕も肩から二本。頭部は丸い。
 何故かは分からないが、表面に布切れのようなカバーをまとっていた。

 肌は晒しているのだろうか。カバーらしきものの隙間から覗かせるものでさえも、金属のような光沢は見られない。かといって、錆びているわけでもない。

「こんにちは」

 すっきりとした発音で、その男はマスターに言い放った。
 よほど精度の良いスピーカーなのか、雑音もなく、自然な発声のように聞こえた。
 螺子の一つもない、継ぎ目も見えない、分厚いゴム製の何かで覆われている体。

 他の客たちとは全てが違う、何者かがカウンター席に向かう。

「いらっしゃいませ。何になさいましょう」

 マスターは少し、不審な面持ちで接客に応じる。この街では見たこともない客だ。
 別段マスターはこの街に住む全てのものを把握しているわけではない。
 それでも、一目見て「見たことがない」「この街のものではない」と確信できた。

「水。水はあるか? 精錬された純水が好ましい」
「……かしこまりました」

 じろじろと店の棚を眺めていた男は一言、それだけを注文し、マスターも応じる。
 すぐそばにいた別の客は、頭にハテナを浮かべていた。

 マスターはアタッチメントを差し替えて、チューブ状のハンドを装着する。
 壁に設置されていたウォーターサーバーのプラグに接続し、吸引。
 すると、マスターのハンドを通して、反対側の手からタンブラーに水が注がれた。

「地下水を精製し、少々のミネラルを加えました。毒素はありませんよ」
「ありがとう」

 男はタンブラーを受け取り、柔らかそうな口元にソレを運ぶ。
 喉にチューブが入っているのか、ゴクゴクと動いているのがよく見えた。

「――ああ、美味い。生き返った気がするよ」
「お客さん、随分と遠くからいらしたようですね」

 マスターの問いに対し、透き通るような綺麗な瞳が返しに見据える。
 何を考えているのか、計測することもできない。

「アンタからすれば、いや、この街の連中からすれば俺は異物かもしれないな」
「いえ、そんなことは」

 否定しかけた言葉を遮るように、男はタンブラーをコトンとカウンターに置く。

「本来は、ここに足を踏み入れるべきではなかった。だが、俺の目的はここにある。探している者がいてな。調べるのも苦労したものだ」
「それはそれは、遠路はるばる私の店にようこそお越しくださいました」

 何処か、含みのある男の言葉も、そのまま飲み込むようにマスターは返す。
 男のぎらついた目の奥に、何かがくすぶっているのを、確かに感じられた。

「まどろっこしいのは無しだ。単刀直入に聞く。この街に俺と同じ者はいるか?」
「……同じ者、というのは?」

 オウム返しに問い返し、男はフゥと口元から息を吐いて、言葉を構える。

「人間は、この街にいるか?」

 そんな言葉一つに、処理落ちしたみたいに僅かな時間だけ思考が停止する。
 検索結果、該当する項目するが見つからなかったとでも言わんばかりだ。

 だが、この店内でマスターだけは、その言葉の意味を誰よりも理解できていた。

「あんたは、あまり驚いていないようだな。知っていることがあるなら教えてくれ」
「何処で聞きつけてきたのかは分からないが、お客さんの望む答えはここにはない」

 それはマスターにしては珍しく、酷く強い口調だった。
 拒絶さえも感じられるくらい、明確に言い放たれた言葉はむしろ男を刺激した。

「マスター、あんたは最初から俺が人間であることに気付いていたはずだ」

 怯みも見せない男は切り返し、続ける。

「この街の住民に、濾過だけならまだしも、ミネラルを加える手間なんて不要だろ。一目見て、あんたは見抜いていた。違うのか?」

 クレンザーダウンの労働者たちがこのカフェに求めているものはオイルだ。
 潤滑剤であったり、酸化防止剤であったり、あるいは燃料であったり。
 そこに栄養素を重視するなんて滅多なことではないはずだ。

 マスターは、ただの水を提供するのに最大限のおもてなしをしてしまった。
 人間には毒になるものが多いことを知っていたからだ。

「……お客さん。買い被りはよくない。それに秘密にするつもりもない」
「じゃあ、答えだけ聞かせてくれ。人間はいるのか、いないのか。それとも」

 カウンター席を挟んで向かい合う二人に、カフェ独特の癒しの空気などない。
 揮発油の刺激臭が漂っているかのようにピリピリとしていた。

「――かつていた。それも、三百年も前にな。これが私の答えだ。満足したか?」
「いいや、まだ聞きたい。あんたは、その人間に会ったことはあるのか?」

 男は引かない。どうしてここまで食いついてくるのか分からない。
 人間の寿命なんて長くてせいぜい百年と少し程度。
 三百年も前の人間に、どんな情報を求めているというのか。

 関連性など、考えても分かりようもない。
 そうでなくとも、クレンザーダウンの住民に人間のデータなどないのだから。

「会ったことがあるのか――か。ああ、もちろん。彼はこの街の町長だったからね。まだこんな油雨の降り注ぐ汚染された時代じゃなかった頃だ」

 思いのほか、男の想定した答えとは少し異なっていたらしい。表情がやや揺れる。
 男の質問は「人間はいたか」であって、「誰が」とまでは問うてはいない。

「これ以上知る意味のある情報はないはずだ。何せ、三百年も前だからな」
「確かに、俺にとっては関連性はないと言えるかもしれない。それでも聞きたい」

 男は何をそんなに熱を持っているのか、カウンターに身を乗り出す勢いだ。
 ただ、この街でマスター以外に知るものはいないことだけは明白。

「……何の情報が知りたいんだ。クレンザーダウンの歴史か? 町長の末路か?」

 観念したようにマスターは言葉を吐く。鍵の掛けられた箱が開けられたみたいに。

「その男の名はミオ・アルペストリスか?」
「よくご存じで。その通り、ミオは数少ない私の友人だった」
「俺の先祖とも関わりのある人間でね。本当は、彼の子孫に会いたかったんだ」

 そこで、男から肩の力が抜けるのを感じられた。
 無気力とはまた違う。ようやくして辿り着けたという感情からくるのだろうか。
 何にせよ、カウンター席に座り直し、フゥと長い息をつく。

「ミオは、このクレンザーダウンを開拓し、そして、この街にその骨を埋めたんだ。人間には住める土地ではなかったのに、最後まで生きた住人として残ったのさ」
「そうか……、いや最初から分かっていたことだ。この街は俺の学んだ歴史上でも、踏み入れてはいけない禁足の地。何処かにいると信じたかっただけなんだ」
「そこまで理解していながら、わざわざこんなところまで来たのか」

 マスターは、洗浄したばかりのタンブラーに水のおかわりを注ぐ。
 男はそれを黙って受け取り、また、一口飲み込む。

「ミオという人物は俺の祖国では英雄として歴史に名を刻んでいる偉人だったのさ。禁足の地で消息を絶ったという顛末しか残されていなかった」
「そう、か……、ミオがね。何処の土地かは知らないが、偉人にね」

 ふと、マスターは小さく笑ったように見えた。何処か、誇らしげに。

「もはや伝説だよ。現代でもすがりたくなるような、ね」
「……随分と深い事情がありそうだ」
「あんたなら察せられるはずだ。俺の祖国は、ただ一人の三百年前の人間を心酔し、救世主とまで崇め、国が傾いたときには助けに現れると信じられていた」

 男は自嘲気味に、ハッと鼻で笑って見せ、タンブラーを大きく口元に傾ける。
 トンとカウンターの上に置くと、マスターも黙っておかわりを注いだ。

「俺みたいな人間は他にもいる。国の命を受けてミオの子孫を探し出せってな」
「残念だが、ミオの子孫はこの世界の何処を探したって見つからないよ」

 冷酷に、死刑宣告のようにマスターは言い放つ。
 そうした方がいっそ、男の気が楽になると思ったからだ。

「分かった。もういい。全て終わった。俺の目的も、祖国のことも何もかも全部な。だから、聞かせてくれマスター。あんたの友人であるミオってどんな奴だったんだ。そいつにもこんな風に水をくれてやっていたのか?」

 アルコールの含まれない、ただの水を口に含み、男の顔は赤くなる。
 目の方から少し、水を漏らしながらも。
 その様子を見て、マスターは古いメモリーを引っ張り出す。

「三百年前の私は、このカフェなど開いていなかった。ミオがいなくなってからだ」

 瞳が明滅するマスターの顔は表情こそないように思われたが、感情が溢れていた。
 在りし日の記憶を反芻しているのだろう。

「元々クレンザーダウンなんて街もなかった頃、私は戦闘用の傭兵ロボットだった。戦争なんてとうに終えた土地で、終わりを知らない残党兵を狩るだけの日々を送り、いつかスクラップになるのだろうと思っていたときにミオと出会ったんだ」
「あんた、戦闘兵器だったのか。見かけには寄らないものだな」

 目を赤くしながらも、男はせせら笑う。

「ミオは、そう長くない期間、この場所に留まり、このクレンザーダウンを作った。戦争しか知らない連中ばかりの土地に平穏の時代を築き上げたんだ」
「……この場所でも、ミオは英雄だったわけだ」
「まあ、色々とあった。一言で片付けられないほど。顛末はさっき言った通りでね。誰も住めなくなった土地に、ミオは最後まで残って、そして土に還った」

 マスターも、目を赤く点灯させながら、余韻に浸るように遠くを見つめる。
 三百年以上の昔の、どれくらいの時間が集約された情報を垣間見ているのか。
 きっと人間にとっては一生に近いものに違いない。

「一時期は私がこのクレンザーダウンの町長みたいなことをしていたこともあった。今もここで働いている連中の多くは、そのときの私の命令を引き継いでいるんだよ。破損したり換装したりして、当時の記憶まで残しているものはいないだろうが」
「じゃあ、あんただけがこの街の歴史の全てを記憶している唯一の個体ってことか。それがどうしてカフェのマスターなんてやっているんだ?」

 ピッピッピッと電子音がマスターの頭頂部から聞こえてきた。
 何か、深い感情のこもったメモリーが読み込まれているのだろうか。
 忘れようもない、古い記憶を、底から掻き出すみたいに。

「私はただ、かつての手に入れたこの平穏を、二度と手放したくなかっただけだよ。ミオの築き上げたクレンザーダウンの、この優しいひと時をね」

 マスターのファンがグオオと音を立てて、排熱する。
 それはどれほどの感情なのか、男にも計り知れないものだったのかもしれない。

「いつか、このクレンザーダウンがまた人間の住める土地になることを願っていた。今も終わらない労働に追われ続けて、壊れていく住民の数を数えながらね」

 それが叶わぬ願いだと分かっているのは他の誰でもないマスター自身だろう。
 この土地は酷く汚染されすぎていた。地中深く張り巡らされた配管は除染装置の役割を持っていたが、今となっては油を垂れ流すだけの遺物でしかない。

 ミオという人間がどれくらいの功績を残していたのかは今となっては不明。
 それでも、このクレンザーダウンを人が住めるほど開拓した歴史は事実だ。

 三百年という年月は、住民にとってさほど長くないかもしれないが、短くもない。

 今、クレンザーダウンに住む者たちは、その思想の根幹すら形骸化している。
 何故、何のために、この街を直し続けているのか。
 壊れ続ける街を直すことでどんなことが得られるのか。もう誰も認識していない。

 平穏という日常を維持するための、生活の一部でしかなくなっていた。

 混沌とするこのクレンザーダウンで、唯一秩序を保ち続けようと苦心していたのがこのカフェのマスターであることさえも、きっと記憶の彼方なのだろう。

「私はずっと、ここであの日の平穏を提供し続けている。ただ、それだけなんだ」

 アタッチメントを付け替えてはハンドでタンブラーを磨き、ドライヤーで乾かし、マスターは当たり前のようにカウンター向こうで微笑む。
 何も変わることのない、その貫録を蓄えて。

「……あんたの思いは確かに伝わったよ。この一杯の水からもな」

 空になったタンブラーを持ち上げて見せ、男も笑みを見せる。

 ひたすら治安が悪く、汚れ、荒んだこの街は、いずれ朽ちるときがくるのだろう。
 それが何十年後なのか、何百年後なのかは分からない。
 クレンザーダウンの住民の寿命など、あってないようなものだから。

 オイルミストの漂うこの地に人間が住まうことは叶わないかもしれない。
 それでも、いつかの時代、あるいは、全ての作業が終える可能性もゼロではない。

 途方もない年月の先を見据えて、マスターはこのカフェにただ一人佇むのだろう。
 少なくとも、男にはそれだけは確信できた。

「ありがとう、マスター。もう二度と会うことはないだろうが、最高の一杯だった」

 男は席を立ち、コツコツとスチールパネルを踏み鳴らす。
 扉に手を掛ける直前に向き直り、マスターに向けて手を振る。
 マスターも、返すようにして会釈する。

「……またのお越しをお待ちしております」

 意図があったわけではない、いつも通りの言葉を添えて見送った。
 がちゃん、ころんころん。そんな音を店内に鳴り響かせ、男の姿は消えていく。

 客で賑わったその店に静寂など訪れないが、穏やかなひと時は流れる。
 悠久に等しい、気の遠くなるような時間も、彼らにとっては大したことはない。

 何のために、どういう理由で、どんな終わりを迎えるのか。
 考える必要は微塵もないし、あえて考える意味だってありはしない。

 そこにあるのは、ほっと一息のつける、心安らぐ空間だけなのだから――……。

 ※ ※ ※

 ※ ※

 ※


スタンプを贈って作者を応援しよう!

次のエピソードへ進む いつもと変わらぬカフェ


みんなのリアクション



おすすめ作品を読み込み中です…



 クレンザーダウンは、裂けた鉄板のような歪な渓谷の底に位置している。
 いつの時代に使われていたのかも分からない配管も剥き出しの状態になっており、断面からひっきりなしに得体の知れない油が滴り落ちてくる。
 誰も修理しようとしていないわけではない。
 ただ、入り組んだ配管は地面の下をスパゲティの如く絡み合っている状態にあり、工事するとなると、渓谷を丸ごと平地にするような土木作業が必須となる。
 そんな大がかりの工事を進めるだけの作業員など集められるわけもない。
 だから、地面の中で潰れた配管を地道に発掘しつつ復旧しつつを繰り返している。極めて残念なこととしては、一つ直しても一つ以上破損する場合が多い。
 酷いときとなると直せないまま他の配管を広範囲に渡って破壊することもある。
 笑いごとではないが、このクレンザーダウンでは日常茶飯事だ。
 よって、この街で暮らしている者たちは大きく分けて三つに分類される。
 直せない配管を延々直し続ける作業員と、配管から溢れる油を処理する作業員と、そんな作業員たちをケアする者たちだ。
 配管工は自身の修理費が嵩んでロクな利益もない。
 清掃員は重労働だが、配管工よりかは少しだけマシで、手元に残る利益はある。
 どちらにせよ、終わりの見えない労働者であることには変わりないが。
 そんな彼らの憩いの場となるのは、リペア施設のファクトリーが主だ。
 だが、それだけではない。飲食店もケアする者の中に含まれる。
 クレンザーダウンで老舗として構えるカフェ「クルード」も勿論そこに該当する。
 身も心もイカれそうな、この油が降り注ぐ底辺の街で、今日もまた開店していた。
 見上げれば割れた鉄板の隙間から見える空は灰色。オイルミストで曇り、太陽までクッキリとは見えないが、光が差し込んでいることだけ分かれば十分。
 関節の錆も剥がれ落ちそうな湿気の中、マスターは玄関前で伸びをする。
「や、マスター。空いてますかい?」
「早いね、本日の一番客だ。さっき新しいブレンドコーディングが終えたところさ」
 看板を磨いているところ、いくつかのボールを雑に継ぎ接ぎさせたような体をした顔のない男が体を左右に揺すりながらマスターに声をかける。
 ボール男は決して踊っているわけではない。均衡をとるために動いているだけだ。
「おおー、じゃあさっそくいただきたいね! マスター、それ頼むよ!」
「はいはい。今開けるから」
 物理的に重い腰をあげながらピカピカになった看板を見やすい位置に置きなおし、よっこいせとマスターは店内へと戻っていく。
 その後ろについていくようにボール男も入店した。
 ガチャン、ころんころん。二名の男を受け入れた店内は、まだ静まり返っており、客もいなければ、染み付いたオイルの匂い以外に香るものは何もない。
 スチールパネルの床の上を歩く、カツンカツンとした音もよく響く。
 マスターがカウンター向こうに入っていくと、ボール男もカウンター席につく。
 ボール男は座ってもなお、左右に体をゆらゆらと揺すっていた。
「お客さん、軋み音が少ないね。最近いいメンテに当たったのかい?」
「そうそ。オイラ、運が良くてね。前までいたスタッフが辞めちまったんだけどさ、代わりに入ってきた子がとびっきりのいい子だったのよ、これが」
 笑い声交じりにボール男が大きく体を揺する。
 相当お気に入りなのは表情を見なくてもよく分かる。
「おかげでさぁ、分かるかい? このつやっつやなコーティングよ。鏡面仕上がり。ほらさ、オイラの担当地区って腐食強いからさ、これがまた具合がいいんだ」
 ボール男の言う通り、錆や曇りのない銀幕のような光沢は見事だ。
 撥水加工が十分に施されているらしい。
 もはや、このクレンザーダウンに似つかわしくないくらいに綺麗だった。
「確かに、表面上はキレイにできてるみたいだ。でもね、過信はしちゃいけないよ。表は良くても内側は劣化していくこともあるんだ。特に関節とかね」
「そうかぁ。今のとこ、内側も外側も悪くないんだけど、コーティングの下側までは劣化しないってわけじゃないもんなぁ」
「お客さんは特に、均衡が不安定で関節を痛めやすいんだから気を付けた方がいい」
「あっはは、いやはやマスターには敵わないねぇ! オイラ一本とられたわ!」
 ボール男は陽気に、くねくねと体を揺さぶって返事する。
 そんな彼にマスターが差し出したのはシリコンオイルのカプチーノだ。
 高温に強く潤滑性も優れており、劣化した金属パーツや老朽化した接合部の保護に適している一杯だ。洒落のきいたアートも心に温もりを残す。
「ああ、マスターのカプチーノは最高だね。飲むのも勿体ないくらいさ」
 クレンザーダウンの一角に構えられたカフェ「クルード」。
 そこは油まみれの外界とは隔絶された、癒しのひと時を提供するカフェ。
 次から次へと鉄塊のような客たちが押し寄せては賑わいを見せる。
 そんな歪で異形な客たちに交じり、その男はドアを潜ってきた。
 コツ、コツ、コツ。スチールパネルを叩く、軽い音。
 体格は特筆できるものがない。足は二本で、腕も肩から二本。頭部は丸い。
 何故かは分からないが、表面に布切れのようなカバーをまとっていた。
 肌は晒しているのだろうか。カバーらしきものの隙間から覗かせるものでさえも、金属のような光沢は見られない。かといって、錆びているわけでもない。
「こんにちは」
 すっきりとした発音で、その男はマスターに言い放った。
 よほど精度の良いスピーカーなのか、雑音もなく、自然な発声のように聞こえた。
 螺子の一つもない、継ぎ目も見えない、分厚いゴム製の何かで覆われている体。
 他の客たちとは全てが違う、何者かがカウンター席に向かう。
「いらっしゃいませ。何になさいましょう」
 マスターは少し、不審な面持ちで接客に応じる。この街では見たこともない客だ。
 別段マスターはこの街に住む全てのものを把握しているわけではない。
 それでも、一目見て「見たことがない」「この街のものではない」と確信できた。
「水。水はあるか? 精錬された純水が好ましい」
「……かしこまりました」
 じろじろと店の棚を眺めていた男は一言、それだけを注文し、マスターも応じる。
 すぐそばにいた別の客は、頭にハテナを浮かべていた。
 マスターはアタッチメントを差し替えて、チューブ状のハンドを装着する。
 壁に設置されていたウォーターサーバーのプラグに接続し、吸引。
 すると、マスターのハンドを通して、反対側の手からタンブラーに水が注がれた。
「地下水を精製し、少々のミネラルを加えました。毒素はありませんよ」
「ありがとう」
 男はタンブラーを受け取り、柔らかそうな口元にソレを運ぶ。
 喉にチューブが入っているのか、ゴクゴクと動いているのがよく見えた。
「――ああ、美味い。生き返った気がするよ」
「お客さん、随分と遠くからいらしたようですね」
 マスターの問いに対し、透き通るような綺麗な瞳が返しに見据える。
 何を考えているのか、計測することもできない。
「アンタからすれば、いや、この街の連中からすれば俺は異物かもしれないな」
「いえ、そんなことは」
 否定しかけた言葉を遮るように、男はタンブラーをコトンとカウンターに置く。
「本来は、ここに足を踏み入れるべきではなかった。だが、俺の目的はここにある。探している者がいてな。調べるのも苦労したものだ」
「それはそれは、遠路はるばる私の店にようこそお越しくださいました」
 何処か、含みのある男の言葉も、そのまま飲み込むようにマスターは返す。
 男のぎらついた目の奥に、何かがくすぶっているのを、確かに感じられた。
「まどろっこしいのは無しだ。単刀直入に聞く。この街に俺と同じ者はいるか?」
「……同じ者、というのは?」
 オウム返しに問い返し、男はフゥと口元から息を吐いて、言葉を構える。
「人間は、この街にいるか?」
 そんな言葉一つに、処理落ちしたみたいに僅かな時間だけ思考が停止する。
 検索結果、該当する項目するが見つからなかったとでも言わんばかりだ。
 だが、この店内でマスターだけは、その言葉の意味を誰よりも理解できていた。
「あんたは、あまり驚いていないようだな。知っていることがあるなら教えてくれ」
「何処で聞きつけてきたのかは分からないが、お客さんの望む答えはここにはない」
 それはマスターにしては珍しく、酷く強い口調だった。
 拒絶さえも感じられるくらい、明確に言い放たれた言葉はむしろ男を刺激した。
「マスター、あんたは最初から俺が人間であることに気付いていたはずだ」
 怯みも見せない男は切り返し、続ける。
「この街の住民に、濾過だけならまだしも、ミネラルを加える手間なんて不要だろ。一目見て、あんたは見抜いていた。違うのか?」
 クレンザーダウンの労働者たちがこのカフェに求めているものはオイルだ。
 潤滑剤であったり、酸化防止剤であったり、あるいは燃料であったり。
 そこに栄養素を重視するなんて滅多なことではないはずだ。
 マスターは、ただの水を提供するのに最大限のおもてなしをしてしまった。
 人間には毒になるものが多いことを知っていたからだ。
「……お客さん。買い被りはよくない。それに秘密にするつもりもない」
「じゃあ、答えだけ聞かせてくれ。人間はいるのか、いないのか。それとも」
 カウンター席を挟んで向かい合う二人に、カフェ独特の癒しの空気などない。
 揮発油の刺激臭が漂っているかのようにピリピリとしていた。
「――かつていた。それも、三百年も前にな。これが私の答えだ。満足したか?」
「いいや、まだ聞きたい。あんたは、その人間に会ったことはあるのか?」
 男は引かない。どうしてここまで食いついてくるのか分からない。
 人間の寿命なんて長くてせいぜい百年と少し程度。
 三百年も前の人間に、どんな情報を求めているというのか。
 関連性など、考えても分かりようもない。
 そうでなくとも、クレンザーダウンの住民に人間のデータなどないのだから。
「会ったことがあるのか――か。ああ、もちろん。彼はこの街の町長だったからね。まだこんな油雨の降り注ぐ汚染された時代じゃなかった頃だ」
 思いのほか、男の想定した答えとは少し異なっていたらしい。表情がやや揺れる。
 男の質問は「人間はいたか」であって、「誰が」とまでは問うてはいない。
「これ以上知る意味のある情報はないはずだ。何せ、三百年も前だからな」
「確かに、俺にとっては関連性はないと言えるかもしれない。それでも聞きたい」
 男は何をそんなに熱を持っているのか、カウンターに身を乗り出す勢いだ。
 ただ、この街でマスター以外に知るものはいないことだけは明白。
「……何の情報が知りたいんだ。クレンザーダウンの歴史か? 町長の末路か?」
 観念したようにマスターは言葉を吐く。鍵の掛けられた箱が開けられたみたいに。
「その男の名はミオ・アルペストリスか?」
「よくご存じで。その通り、ミオは数少ない私の友人だった」
「俺の先祖とも関わりのある人間でね。本当は、彼の子孫に会いたかったんだ」
 そこで、男から肩の力が抜けるのを感じられた。
 無気力とはまた違う。ようやくして辿り着けたという感情からくるのだろうか。
 何にせよ、カウンター席に座り直し、フゥと長い息をつく。
「ミオは、このクレンザーダウンを開拓し、そして、この街にその骨を埋めたんだ。人間には住める土地ではなかったのに、最後まで生きた住人として残ったのさ」
「そうか……、いや最初から分かっていたことだ。この街は俺の学んだ歴史上でも、踏み入れてはいけない禁足の地。何処かにいると信じたかっただけなんだ」
「そこまで理解していながら、わざわざこんなところまで来たのか」
 マスターは、洗浄したばかりのタンブラーに水のおかわりを注ぐ。
 男はそれを黙って受け取り、また、一口飲み込む。
「ミオという人物は俺の祖国では英雄として歴史に名を刻んでいる偉人だったのさ。禁足の地で消息を絶ったという顛末しか残されていなかった」
「そう、か……、ミオがね。何処の土地かは知らないが、偉人にね」
 ふと、マスターは小さく笑ったように見えた。何処か、誇らしげに。
「もはや伝説だよ。現代でもすがりたくなるような、ね」
「……随分と深い事情がありそうだ」
「あんたなら察せられるはずだ。俺の祖国は、ただ一人の三百年前の人間を心酔し、救世主とまで崇め、国が傾いたときには助けに現れると信じられていた」
 男は自嘲気味に、ハッと鼻で笑って見せ、タンブラーを大きく口元に傾ける。
 トンとカウンターの上に置くと、マスターも黙っておかわりを注いだ。
「俺みたいな人間は他にもいる。国の命を受けてミオの子孫を探し出せってな」
「残念だが、ミオの子孫はこの世界の何処を探したって見つからないよ」
 冷酷に、死刑宣告のようにマスターは言い放つ。
 そうした方がいっそ、男の気が楽になると思ったからだ。
「分かった。もういい。全て終わった。俺の目的も、祖国のことも何もかも全部な。だから、聞かせてくれマスター。あんたの友人であるミオってどんな奴だったんだ。そいつにもこんな風に水をくれてやっていたのか?」
 アルコールの含まれない、ただの水を口に含み、男の顔は赤くなる。
 目の方から少し、水を漏らしながらも。
 その様子を見て、マスターは古いメモリーを引っ張り出す。
「三百年前の私は、このカフェなど開いていなかった。ミオがいなくなってからだ」
 瞳が明滅するマスターの顔は表情こそないように思われたが、感情が溢れていた。
 在りし日の記憶を反芻しているのだろう。
「元々クレンザーダウンなんて街もなかった頃、私は戦闘用の傭兵ロボットだった。戦争なんてとうに終えた土地で、終わりを知らない残党兵を狩るだけの日々を送り、いつかスクラップになるのだろうと思っていたときにミオと出会ったんだ」
「あんた、戦闘兵器だったのか。見かけには寄らないものだな」
 目を赤くしながらも、男はせせら笑う。
「ミオは、そう長くない期間、この場所に留まり、このクレンザーダウンを作った。戦争しか知らない連中ばかりの土地に平穏の時代を築き上げたんだ」
「……この場所でも、ミオは英雄だったわけだ」
「まあ、色々とあった。一言で片付けられないほど。顛末はさっき言った通りでね。誰も住めなくなった土地に、ミオは最後まで残って、そして土に還った」
 マスターも、目を赤く点灯させながら、余韻に浸るように遠くを見つめる。
 三百年以上の昔の、どれくらいの時間が集約された情報を垣間見ているのか。
 きっと人間にとっては一生に近いものに違いない。
「一時期は私がこのクレンザーダウンの町長みたいなことをしていたこともあった。今もここで働いている連中の多くは、そのときの私の命令を引き継いでいるんだよ。破損したり換装したりして、当時の記憶まで残しているものはいないだろうが」
「じゃあ、あんただけがこの街の歴史の全てを記憶している唯一の個体ってことか。それがどうしてカフェのマスターなんてやっているんだ?」
 ピッピッピッと電子音がマスターの頭頂部から聞こえてきた。
 何か、深い感情のこもったメモリーが読み込まれているのだろうか。
 忘れようもない、古い記憶を、底から掻き出すみたいに。
「私はただ、かつての手に入れたこの平穏を、二度と手放したくなかっただけだよ。ミオの築き上げたクレンザーダウンの、この優しいひと時をね」
 マスターのファンがグオオと音を立てて、排熱する。
 それはどれほどの感情なのか、男にも計り知れないものだったのかもしれない。
「いつか、このクレンザーダウンがまた人間の住める土地になることを願っていた。今も終わらない労働に追われ続けて、壊れていく住民の数を数えながらね」
 それが叶わぬ願いだと分かっているのは他の誰でもないマスター自身だろう。
 この土地は酷く汚染されすぎていた。地中深く張り巡らされた配管は除染装置の役割を持っていたが、今となっては油を垂れ流すだけの遺物でしかない。
 ミオという人間がどれくらいの功績を残していたのかは今となっては不明。
 それでも、このクレンザーダウンを人が住めるほど開拓した歴史は事実だ。
 三百年という年月は、住民にとってさほど長くないかもしれないが、短くもない。
 今、クレンザーダウンに住む者たちは、その思想の根幹すら形骸化している。
 何故、何のために、この街を直し続けているのか。
 壊れ続ける街を直すことでどんなことが得られるのか。もう誰も認識していない。
 平穏という日常を維持するための、生活の一部でしかなくなっていた。
 混沌とするこのクレンザーダウンで、唯一秩序を保ち続けようと苦心していたのがこのカフェのマスターであることさえも、きっと記憶の彼方なのだろう。
「私はずっと、ここであの日の平穏を提供し続けている。ただ、それだけなんだ」
 アタッチメントを付け替えてはハンドでタンブラーを磨き、ドライヤーで乾かし、マスターは当たり前のようにカウンター向こうで微笑む。
 何も変わることのない、その貫録を蓄えて。
「……あんたの思いは確かに伝わったよ。この一杯の水からもな」
 空になったタンブラーを持ち上げて見せ、男も笑みを見せる。
 ひたすら治安が悪く、汚れ、荒んだこの街は、いずれ朽ちるときがくるのだろう。
 それが何十年後なのか、何百年後なのかは分からない。
 クレンザーダウンの住民の寿命など、あってないようなものだから。
 オイルミストの漂うこの地に人間が住まうことは叶わないかもしれない。
 それでも、いつかの時代、あるいは、全ての作業が終える可能性もゼロではない。
 途方もない年月の先を見据えて、マスターはこのカフェにただ一人佇むのだろう。
 少なくとも、男にはそれだけは確信できた。
「ありがとう、マスター。もう二度と会うことはないだろうが、最高の一杯だった」
 男は席を立ち、コツコツとスチールパネルを踏み鳴らす。
 扉に手を掛ける直前に向き直り、マスターに向けて手を振る。
 マスターも、返すようにして会釈する。
「……またのお越しをお待ちしております」
 意図があったわけではない、いつも通りの言葉を添えて見送った。
 がちゃん、ころんころん。そんな音を店内に鳴り響かせ、男の姿は消えていく。
 客で賑わったその店に静寂など訪れないが、穏やかなひと時は流れる。
 悠久に等しい、気の遠くなるような時間も、彼らにとっては大したことはない。
 何のために、どういう理由で、どんな終わりを迎えるのか。
 考える必要は微塵もないし、あえて考える意味だってありはしない。
 そこにあるのは、ほっと一息のつける、心安らぐ空間だけなのだから――……。
 ※ ※ ※
 ※ ※
 ※