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4

ー/ー



「雪乃……」
 自分のものとは思えない、ひどく掠れた声が出た。なんとか立ち上がり、雪乃のほうへ向かう。
「こ、来ないで」
 雪乃が一歩、後ずさる。
「雪乃……?」
「来ないでって言ってるでしょ!」
 鋭い声で雪乃が言った。両手を前に突き出す。その手には包丁が握られていた。
「雪乃、どうして……」
「トイレに行ったついでにキッチンに寄ってみたのよ。そしたら渚が倒れてた。葉瑠子もいないし、ただ事じゃないと思って戻ってきてみれば……」
 と、雪乃は部屋の奥に視線を向ける。そこには美夕が倒れている。遅まきながらようやく理解した。雪乃は、わたしが二人を殺したと思っているのだ。
「ち、違うの、雪乃。これは……」
「何が違うのよ、そんな血塗れの顔して! さっきからなんか様子おかしいなって思ってたけど、まさか、こんな……!」
「雪乃、聞いて! 二人を殺したのはわたしじゃないの!」
「あんたじゃなければ誰だっていうのよ! この家には今、私とあんたの二人しかいないじゃない」
 雪乃が、怯えと敵意の混じった目でわたしを睨む。駄目だ、完全にわたしが犯人だと思い込んでいる。冷静で落ち着いた性格の雪乃だが、一度決めたことを簡単には曲げない頑固なところもある。ここはいったん感情を抑え、理屈を交えて説明したほうがいいかもしれない。
「……そうだね。たしかに、状況からすれば、雪乃の目にはわたしが二人を殺したように映るかもしれない。でもね、本当にそうじゃないの。思い込みは捨てて、一度冷静にわたしの話を聞いてほしい」
「思い込み?」
 言い方が癇に障ったのだろうか。雪乃の額に皺が寄った。
「あんたに言われたくないわよ! 思い込みが激しいのは葉瑠子のほうでしょ? あんたがそんなだから健太(けんた)だって――」
 言いかけて、はっとしたように雪乃は口を噤む。
「健太?」
 健太はわたしの彼氏の名前だ。どうしてここで健太の名が出てくるのか。いや、というより――
「どうして雪乃が、けんちゃんの名前を知ってるの?」
 健太とは中学が同じで、卒業式の日に告白されて付き合うことになった。高校は違う学校。雪乃に相談するときはいつも「彼氏がね」という言い方をしていたから、雪乃は健太の名前を知らないはず……。
「……塾が、同じなのよ」
 観念したように雪乃が言った。
「クラスも同じで、たまに話すようになって……私と同じ高校の子と付き合ってるって言うから名前を訊いたら、それが葉瑠子で……」
「そんな! どうして言ってくれなかったのよ!」
「い、言いそびれてたのよ! 言うタイミングを失ってるうちに、ずるずると今まで……」
 本当だろうか。そもそも、健太も健太だ。どうして雪乃のことをわたしに教えてくれなかったのだろう。そう思ったところで、はっとする。
「……もしかして、二人で会ったりもしてた?」
「……」
 雪乃は答えない。ああ、なんだ、そういうことだったのか。最近、健太がわたしに冷たかった理由。そしてわたしは愚かにも、その元凶を作っている人間にその相談をもちかけていたのだ。
「雪乃」
「ち、違う! たしかにそういう機会は何度かあったけど、でもそれは遊んでたわけじゃなくて、葉瑠子とのことで相談に乗ってただけ! そのことを本人に言うわけにはいかないでしょ?」
「どうしてよ。友だちならむしろ、こっそり教えてくれてもよかったじゃない。そうやって理性的なこと言ってるふりして、本当はただ健太と二人で会う口実が欲しかっただけなんでしょ? 健太にわたしのことを悪く言って、わたしから離れさせるのが目的だったんだ」
「違うってば! ああもう、だから嫌だったのよ。どうしてすぐそうやってネガティブな方向に思い込むの? けん――大場(おおば)くんも、あなたのそういうところが嫌だって――」
「けんちゃんのこと、わかったように言わないで!」
 雪乃のほうに一歩、寄る。ひっ、と声を上げ、雪乃は手に持った包丁をさらに前に突き出す。その手は震えていた。
「ほ、ほら、言っても無駄だったじゃない。だから言わなかったのよ。何があったかは知らないけど、そうやって勝手に勘違いして渚と美夕のことも殺したんでしょ? そして私のことも、また殺すんでしょ?」
「だからそれは……雪乃こそ――」
 言いかけて、はたと口が止まる。
 私のことも、また(・・)殺す?
 同時に、頭の中で別の声が響いた。
――でもさ、実際すっごい美味しいんだもん、はるの料理。特にこのパエリアなんて、味噌の風味が効いてて、もう最高!
――やっぱりはるちゃんは、わたしを許してくれないんだね。
 それは、死んだ二人の友人の声。
 味噌の風味。たしかにわたしはパエリアを作るときに味噌を使う。トマトペーストと味噌とナンプラーを混ぜ合わせたものを加えると、旨味とコクが増すのだ。だけど完成したパエリアからは味噌の味なんてほとんど感じ取れないはず。事前に味噌を使っていることをどこかで知りでもしない限りは。渚は、それをどこで知ったのだろう。彼女にパエリアを、いや、手料理を振る舞ったこと自体、今日が初めてのはずなのに。
 さらに、美夕が言ったあの台詞。やっぱり(・・・・)許してくれない。「許せない」。わたしがそう言うことを、まるであらかじめ知っていたかのような――
「こ、殺されるくらいなら、先に――」
 雪乃の声で我に返る。包丁の刃をわたしに向けながら、一歩ずつにじり寄ってくる。
「ま、待って、雪乃。もしかしたら、わたしたち、四人とも――」
「うるさい!」
 金切り声を上げながら、雪乃がわたしに向かって突進してくる。わたしはすんでのところでそれをかわした。テニス部のわたしと部活をやっていない雪乃。日ごろの運動量の差がその結果を生んだのかもしれない。
 雪乃は勢い余ったのか、そのまま部屋の奥へと駆け込んでいく。そして何かに足を取られ、床に転んだ。スマートフォンを探すときにそこに置いたわたしのバッグだ。転んだ弾みで、雪乃の手から包丁がこぼれ落ちる。わたしの体が反射的に動いた。
「返して! 返してよ!」
 雪乃はすぐさま立ち上がり、わたしが取り上げた包丁を取り返そうと手を伸ばしてくる。
「雪乃、落ち着いて! 話を聞いて!」
「返せ!」
 雪乃がわたしの腕を掴む。この細い腕のどこに、と思えるほど強い力だった。奪われまいとわたしも思い切り腕を引く。そのとき、「あ」と頼りない声がして、バランスを崩した雪乃の体がこちらに倒れかかってきた。そのまま二人とも、重なるように床に倒れ込む。
「いたた……」
 頭に手をやり半身を起こす。雪乃は未だ倒れたままだ。立ち上がろうと膝を曲げたとき、俯せに倒れた雪乃の体の下から赤い液体が広がっていくのが見えた。
「雪乃!」
 体を抱き起こそうとする。しかしそれは電池が切れた人形のように、力なくわたしの腕にしなだれかかる。雪乃の胸には深々と包丁が刺さっていた。
「雪乃! 雪乃!」
 いくら呼んでも返事は返ってこない。大きく目を見開いた表情は少しも動かなかった。雪乃から手を離し、ぺたりと床に座り込む。音の消えた部屋は絶望的に静かだった。

 カチコチと時計の音が響き渡る。
 あれから、どれだけの時間が経っただろう。
 静寂の血の海の中でわたしは一歩も動けずにいた。
 渚、美夕、雪乃。
 三人の友人たちの命は失われた。そしてわたし一人が生き残った。
 そう、生き残ったのだ。
 なのに、どうしてわたしは……。
 取り返しがつかないことなら、諦められたかもしれない。だけど、可能性はゼロじゃない。
 わたしは手に持った包丁を握り直す。さっきまで雪乃の胸に刺さっていた包丁だ。
 様々な行き違いから、わたしたちはこうなった。それは決して些細なものではなかったかもしれない。でも、だからといって死ぬ必要はなかった。
 わたしは包丁を自分の首にあてがう。同じようにしていた美夕の姿が脳裏に浮かぶ。
 大丈夫。きっと次は、うまくやれる。
 包丁を持つ手に力を込める。躊躇いはない。一息に刺し込んだ。
 わたしの体が床に倒れる。意識を失う寸前、わたしの脳内に流れてきたイメージ。
 春夏秋冬、永劫回帰、終わりなき円環――


(了)




みんなのリアクション

「雪乃……」
 自分のものとは思えない、ひどく掠れた声が出た。なんとか立ち上がり、雪乃のほうへ向かう。
「こ、来ないで」
 雪乃が一歩、後ずさる。
「雪乃……?」
「来ないでって言ってるでしょ!」
 鋭い声で雪乃が言った。両手を前に突き出す。その手には包丁が握られていた。
「雪乃、どうして……」
「トイレに行ったついでにキッチンに寄ってみたのよ。そしたら渚が倒れてた。葉瑠子もいないし、ただ事じゃないと思って戻ってきてみれば……」
 と、雪乃は部屋の奥に視線を向ける。そこには美夕が倒れている。遅まきながらようやく理解した。雪乃は、わたしが二人を殺したと思っているのだ。
「ち、違うの、雪乃。これは……」
「何が違うのよ、そんな血塗れの顔して! さっきからなんか様子おかしいなって思ってたけど、まさか、こんな……!」
「雪乃、聞いて! 二人を殺したのはわたしじゃないの!」
「あんたじゃなければ誰だっていうのよ! この家には今、私とあんたの二人しかいないじゃない」
 雪乃が、怯えと敵意の混じった目でわたしを睨む。駄目だ、完全にわたしが犯人だと思い込んでいる。冷静で落ち着いた性格の雪乃だが、一度決めたことを簡単には曲げない頑固なところもある。ここはいったん感情を抑え、理屈を交えて説明したほうがいいかもしれない。
「……そうだね。たしかに、状況からすれば、雪乃の目にはわたしが二人を殺したように映るかもしれない。でもね、本当にそうじゃないの。思い込みは捨てて、一度冷静にわたしの話を聞いてほしい」
「思い込み?」
 言い方が癇に障ったのだろうか。雪乃の額に皺が寄った。
「あんたに言われたくないわよ! 思い込みが激しいのは葉瑠子のほうでしょ? あんたがそんなだから|健太《けんた》だって――」
 言いかけて、はっとしたように雪乃は口を噤む。
「健太?」
 健太はわたしの彼氏の名前だ。どうしてここで健太の名が出てくるのか。いや、というより――
「どうして雪乃が、けんちゃんの名前を知ってるの?」
 健太とは中学が同じで、卒業式の日に告白されて付き合うことになった。高校は違う学校。雪乃に相談するときはいつも「彼氏がね」という言い方をしていたから、雪乃は健太の名前を知らないはず……。
「……塾が、同じなのよ」
 観念したように雪乃が言った。
「クラスも同じで、たまに話すようになって……私と同じ高校の子と付き合ってるって言うから名前を訊いたら、それが葉瑠子で……」
「そんな! どうして言ってくれなかったのよ!」
「い、言いそびれてたのよ! 言うタイミングを失ってるうちに、ずるずると今まで……」
 本当だろうか。そもそも、健太も健太だ。どうして雪乃のことをわたしに教えてくれなかったのだろう。そう思ったところで、はっとする。
「……もしかして、二人で会ったりもしてた?」
「……」
 雪乃は答えない。ああ、なんだ、そういうことだったのか。最近、健太がわたしに冷たかった理由。そしてわたしは愚かにも、その元凶を作っている人間にその相談をもちかけていたのだ。
「雪乃」
「ち、違う! たしかにそういう機会は何度かあったけど、でもそれは遊んでたわけじゃなくて、葉瑠子とのことで相談に乗ってただけ! そのことを本人に言うわけにはいかないでしょ?」
「どうしてよ。友だちならむしろ、こっそり教えてくれてもよかったじゃない。そうやって理性的なこと言ってるふりして、本当はただ健太と二人で会う口実が欲しかっただけなんでしょ? 健太にわたしのことを悪く言って、わたしから離れさせるのが目的だったんだ」
「違うってば! ああもう、だから嫌だったのよ。どうしてすぐそうやってネガティブな方向に思い込むの? けん――|大場《おおば》くんも、あなたのそういうところが嫌だって――」
「けんちゃんのこと、わかったように言わないで!」
 雪乃のほうに一歩、寄る。ひっ、と声を上げ、雪乃は手に持った包丁をさらに前に突き出す。その手は震えていた。
「ほ、ほら、言っても無駄だったじゃない。だから言わなかったのよ。何があったかは知らないけど、そうやって勝手に勘違いして渚と美夕のことも殺したんでしょ? そして私のことも、また殺すんでしょ?」
「だからそれは……雪乃こそ――」
 言いかけて、はたと口が止まる。
 私のことも、|また《・・》殺す?
 同時に、頭の中で別の声が響いた。
――でもさ、実際すっごい美味しいんだもん、はるの料理。特にこのパエリアなんて、味噌の風味が効いてて、もう最高!
――やっぱりはるちゃんは、わたしを許してくれないんだね。
 それは、死んだ二人の友人の声。
 味噌の風味。たしかにわたしはパエリアを作るときに味噌を使う。トマトペーストと味噌とナンプラーを混ぜ合わせたものを加えると、旨味とコクが増すのだ。だけど完成したパエリアからは味噌の味なんてほとんど感じ取れないはず。事前に味噌を使っていることをどこかで知りでもしない限りは。渚は、それをどこで知ったのだろう。彼女にパエリアを、いや、手料理を振る舞ったこと自体、今日が初めてのはずなのに。
 さらに、美夕が言ったあの台詞。|やっぱり《・・・・》許してくれない。「許せない」。わたしがそう言うことを、まるであらかじめ知っていたかのような――
「こ、殺されるくらいなら、先に――」
 雪乃の声で我に返る。包丁の刃をわたしに向けながら、一歩ずつにじり寄ってくる。
「ま、待って、雪乃。もしかしたら、わたしたち、四人とも――」
「うるさい!」
 金切り声を上げながら、雪乃がわたしに向かって突進してくる。わたしはすんでのところでそれをかわした。テニス部のわたしと部活をやっていない雪乃。日ごろの運動量の差がその結果を生んだのかもしれない。
 雪乃は勢い余ったのか、そのまま部屋の奥へと駆け込んでいく。そして何かに足を取られ、床に転んだ。スマートフォンを探すときにそこに置いたわたしのバッグだ。転んだ弾みで、雪乃の手から包丁がこぼれ落ちる。わたしの体が反射的に動いた。
「返して! 返してよ!」
 雪乃はすぐさま立ち上がり、わたしが取り上げた包丁を取り返そうと手を伸ばしてくる。
「雪乃、落ち着いて! 話を聞いて!」
「返せ!」
 雪乃がわたしの腕を掴む。この細い腕のどこに、と思えるほど強い力だった。奪われまいとわたしも思い切り腕を引く。そのとき、「あ」と頼りない声がして、バランスを崩した雪乃の体がこちらに倒れかかってきた。そのまま二人とも、重なるように床に倒れ込む。
「いたた……」
 頭に手をやり半身を起こす。雪乃は未だ倒れたままだ。立ち上がろうと膝を曲げたとき、俯せに倒れた雪乃の体の下から赤い液体が広がっていくのが見えた。
「雪乃!」
 体を抱き起こそうとする。しかしそれは電池が切れた人形のように、力なくわたしの腕にしなだれかかる。雪乃の胸には深々と包丁が刺さっていた。
「雪乃! 雪乃!」
 いくら呼んでも返事は返ってこない。大きく目を見開いた表情は少しも動かなかった。雪乃から手を離し、ぺたりと床に座り込む。音の消えた部屋は絶望的に静かだった。
 カチコチと時計の音が響き渡る。
 あれから、どれだけの時間が経っただろう。
 静寂の血の海の中でわたしは一歩も動けずにいた。
 渚、美夕、雪乃。
 三人の友人たちの命は失われた。そしてわたし一人が生き残った。
 そう、生き残ったのだ。
 なのに、どうしてわたしは……。
 取り返しがつかないことなら、諦められたかもしれない。だけど、可能性はゼロじゃない。
 わたしは手に持った包丁を握り直す。さっきまで雪乃の胸に刺さっていた包丁だ。
 様々な行き違いから、わたしたちはこうなった。それは決して些細なものではなかったかもしれない。でも、だからといって死ぬ必要はなかった。
 わたしは包丁を自分の首にあてがう。同じようにしていた美夕の姿が脳裏に浮かぶ。
 大丈夫。きっと次は、うまくやれる。
 包丁を持つ手に力を込める。躊躇いはない。一息に刺し込んだ。
 わたしの体が床に倒れる。意識を失う寸前、わたしの脳内に流れてきたイメージ。
 春夏秋冬、永劫回帰、終わりなき円環――
(了)


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