「なんでぇ、ありゃあーっ!」
「ば、ばけもんだあー!」
|江戸《・・》の町は阿鼻叫喚の中にあった。
突如日本橋に現れた巨大な|トカゲ《・・・》。それが身動きするだけで木造の街並みが崩れ、人々が踏みつぶされた。
真冬の江戸はパニックに陥った。
二〇二四年|東京《・・》でガジラ目掛けて発射された次元歪曲砲は、その性能をいかんなく発揮した。研究者の想像をはるかに超えて。
次元の裂け目はガジラを飲み込み、時空連続体からはじき出した。
ガジラは二百三十年の時を遡って、寛政六年(西暦一七九四年)正月の江戸に出現した。
直ちに江戸城内で十一代将軍家斉の御前にて会議が開かれた。座をまとめるのは老中首座松平伊豆守である。
「伊豆守様、既に日本橋界隈は化け物に踏みつぶされ、瓦礫と化しました」
「そ、それは真か? 火は、火は出ておらぬか?」
「幸い昼間のことでございまするので、ボヤで収まっております」
「そうか! 良かった……」
伊豆守はほっと溜息をついた。
江戸は木造家屋を寄せ集めた町である。巨大な化け物よりも大火の方が怖い。火が燃え広がれば、何万の人が命を落とす。
「とにかく御城の守りを固めよ! 旗本を集め、御先手組を中心に籠城の支度じゃ!」
「しかしながらそれでは町民を見捨てることになります!」
江戸城に立て籠ろうという伊豆守の案は、江戸市民をガジラの蹂躙に任せるということを意味した。
「仕方なかろう。将軍家の御安泰は江戸町民の命よりもはるかに重要である!」
「――気に入りませんな」
籠城策を宣言する伊豆守の耳に、思ってもいない反対意見が飛び込んできた。声の主は――。
「貴様、長谷川――」
「平蔵|宣以《のぶため》にございます」
刺すような伊豆守の視線をどこ吹く風と受け止めたのは、はるか末座に身を置く老人だった。
火付盗賊改、長谷川平蔵宣以。この時最晩年の四十九歳であった。
「控えよ、長谷川。貴様ごときが物申す場ではない」
「はて、おかしなことを。化け物の跳梁にてボヤが出たとか? 町民の家々も多数打ち壊されております。これすなわち火付盗賊改の職分ではございませんか?」
道理であった。それを為したのがもし「人」であったなら、長谷川平蔵の取り締まるべき対象に違いなかった。
「ば、馬鹿な! 化け物相手に火盗改がどうすると申すか!」
「何もできぬから御城に籠ると仰いまするか?」
「そ、そうは言うておらぬ!」
一座の間に白けた空気が流れる。伊豆守がどう言おうと、籠城とはそういうこと。幕府は町民を見捨てて城に逃げ込むということを意味していた。
「化け物を城に引きつけ、旗本八万騎の力にて討ち果たす! そう言うておるのだ!」
伊豆守は顔を赤くして怒鳴った。
とかげの化け物が「はいそうですか」と言うことを聞くわけがない。城外で暴れ回れば、町家は象に踏まれた蟻の巣のように蹂躙されるであろう。
「では、どうあっても直参総出で城に籠ると仰る?」
「くどい! これ以上、問答無用だ!」
「――そうかい。それじゃあ勝手にさしてもらいやしょう」
平蔵の口調ががらりと変わった。
口調ばかりではない。殿中であるにもかかわらず、膝を崩して胡坐をかき出した。
「き、き、貴様! 場所柄をわきまえろ!」
いきり立つ老中松平伊豆守を真っ向から見返して、平蔵は不敵にも口を歪めて笑った。
「場所柄だぁ? おかしなことを聞く。たった今、籠城すると言ったのはその口じゃあござんせんか? ならばこれは戦だ。場所柄だってェ? |戦場《いくさば》にゃぁ、戦場の作法があらあ!」
平蔵は|裃《かみしも》を一気に脱ぎ捨てた。眼光鋭く、伊豆守をにらみつける。
「ぐ、ぐっ……」
一瞬気圧された伊豆守だったが、老中首座の立場というものがある。ぐっと腹に力を入れ直して平蔵をにらみ返した。
「長谷川っ!」
「じたばたするねぇっ! 埃が立たぁ! 結構だ。御老中はじめ御歴々は城に籠るがよござんしょう。その代わり――市中のことは、この平蔵に任せて頂きやしょう」
「何を勝手なことを!」
「――伊豆」
怒鳴りつけようとする伊豆守を静かに制する声が広間に響いた。
老中首座よりもさらに上座からその声は発せられた。
「上様……」
思わず平伏する伊豆守。
「よい。平蔵の言、もっともである。市中の事は火盗改預かりとする」
「はっ!」
他ならぬ征夷大将軍徳川家斉の言葉である。逆らうことはできなかった。
「平蔵」
「ははっ!」
平蔵は額をぶつける勢いで平伏した。
「町方はお前に任せる。しかし、軍勢を割くことはできぬ。兵を分けるのは愚策の極みだからな。手勢のみで化け物討伐に当たれ。伊豆よ、それで良いな?」
「はっ!」
「仰せのままに!」
将軍の命は下った。臣下として後はこれに従うのみ。
伊豆守は平蔵への隔意を心から追い出し、籠城策に全身全霊で取り組む決意を固めた。
「恐れながら申し上げます」
「なっ、貴様!」
「うん? まだ何かあるか、平蔵?」
君命を受けたはずの平蔵が、顔を上げて口を開いた。
「八岐大蛇ならぬ『かなへび』退治。長谷川平蔵確かに承りやした。どっこい、須佐之男命と違ってこの平蔵、『|十拳剣《とつかのつるぎ》』なんて洒落たモンを持ち合わしちゃおりやせん。御老中、ここはひとつ書付一枚用意しておくんなさい」
「な、何を――」
滔々と語り出した平蔵に、伊豆守は目を白黒させて問い返した。
「何をもへったくれもあるもんけぇ! 江戸中の塩と活き魚、平蔵の勝手次第と一筆書いておくんなさい」
「うっ……」
「よい、伊豆守。平蔵の申す通り書付を渡してやれ」
何のことかわからぬながら、勢いに押されて伊豆守は祐筆に命じて平蔵の求めるまま書付を渡した。
「これさえあれば鬼に金棒。 事を急ぎやす。真っ平ごめんなすって!」
平伏もそこそこに平蔵は嵐のように広間を去った。
◆◆◆
「|銕《て》っつぁん、急な話だねえ」
「文句はかなへび野郎に言ってやれ。いいからさっさとかかってくれ」
魚河岸人足に料亭の板前、果てはボテ振りの魚屋から寿司職人までかき集めて、平蔵が命じたのは「塩辛作り」だった。
「活き魚なら何でもいいんだ。鱗もはらわたもそのままでいい。口からありったけの塩を押し込んだやつを、大樽に漬け込んでくれ」
魚河岸界隈の人手を集めて、平蔵は自ら塩辛作りの指揮を執った。
「銕っつぁんよう。これで化け物退治ができるんだね? お父とおっ母の仇が取れるんだね?」
「あたいんちはあいつの尻尾に潰されちまった……。畜生! きっと退治しておくれよう」
埃にまみれ、髪のほつれた町民たちが平蔵の袖にすがるように訴える。
「おう、おう。そいつぁつらかったなぁ。任せておきな、痩せても枯れても本所の|銕《てつ》だ。かなへびなんぞに驚くもんけぇ。きっと仇は取ってやるからよぅ」
すがる町人の背中をさすり、頭を撫でてやりながら、平蔵は優しく語りかけた。
平蔵は本所の地で生まれ育った。「本所の銕」とはやくざに混じり無頼の生活をしていた頃、平蔵が呼ばれていた通り名である。
人足も職人も、爺いも婆あも、奉公前の餓鬼までも仇を取ってくれと塩辛作りを手伝った。
|鰭《ひれ》で切った傷口に粗塩が染み込もうと、作業の手を止める者は一人もいなかった。
塩辛には江戸庶民の血と汗が溶け込んでいた。
「ようし! でき上がった分から樽を運び出せ! 落とすんじゃねえぜ!」
魚河岸から樽に漬け込んだ塩辛を、できる側から大八車に乗せ、日本橋に運び込む。それを大通りにぶちまけたものだから、真冬と言えども辺りに鼻を摘ままねば歩けぬほどの臭気が漂った。
「ほらよ、かなへび野郎! 江戸前の塩辛だぁ!」
危険を顧みず、人足たちは塩辛をまき散らし、踏み荒らして大声を上げた。
すると臭気に惹かれ、ガジラが近づいてきた。蜘蛛の子を散らすように逃げ去る人足に目もくれず、とかげの化け物は樽ごとバリバリと塩辛をかみ砕く。
「よし! その調子だ。どんどん樽を運んでくれ!」
餌に惹かれたガジラはやがて隅田川に行き当たり、永代橋のたもとで丸くなった。
「食えば眠くなるだろう? 冬場のかなへびなんざ、ろくに動けたもんじゃねえんだから」
平蔵には煙草をふかす余裕すらあった。
以降も塩辛作りを継続し、平蔵はガジラの周りに大樽の山を築かせた。
「八岐大蛇には甕の酒を飲ませたって言うがよ。おめえにゃ酒の代わりにつまみを食ってもらうってわけよ」
そういう平蔵の手には酒を満たした杯があった。
「うわっ! くせえっ!」
大樽を運ぶ人足たちが騒いでいる。どうやらガジラが|粗相《そそう》をしたらしい。
「出物腫物ところ嫌わずってな。塩ばかり食らってりゃ腎虚にならあ」
大量の塩分を一度に摂取してはガジラといえどたまらない。急性塩分中毒となり全身の細胞から水分が失われてしまった。
急激な脱水症状は死に至る重篤である。
「相手が悪かったな、かなへび野郎。こちとら本所の生まれよ。井戸を掘りゃあ塩っ辛い水が出る土地で育ってんだ」
平蔵は杯の酒をぐいっと空けた。
「おととい来やがれ、いなかもんめえ!」
◆◆◆
明くる寛政七年、長谷川平蔵は病を受け享年五十歳でこの世を去った。
魚河岸界隈では町民の間に、「鬼平漬」という飛び切り塩を利かせた塩辛が伝わっていた。
平蔵の命日には、その墓前に塩辛を供えるという風習が幕末まで続いていたと言う。
世が明治になるとその謂れも忘れられ、鬼平漬を作る人はいなくなった。
(完)