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◇番外◇ にじ色の流麗 ~後編~

ー/ー



 気がつくと私は狭い入れ物の中にいた。一応水は満たされているが、自由に泳ぎ回れるほどの余裕はない。いつの間にか空は明るさを取り戻していた。
 一時意識を失っていたのだろう。しかしこの状況は、とても「生きていて良かった」と思えるものではなかった。

 むしろその逆ではないかとさえ思った。

「さぁ寄ってらっしゃい、見てらっしゃい。世にも珍しい、玉虫色に光る鯉だよ! どうだい旦那、珍妙だろう?」
「う~ん……気味が悪くて不味そうだ」

 水面を覗く初老の男が渋い顔をして立ち去ると、声をかけた男は小さく舌打ちをした。しかしまた直ぐに別の人間が水面を覗く。周りは活気溢れる声が響いていた。

 何人か私を覗く者が入れ替わった後、今までに見た人たちの誰より綺麗な格好をした男が訪れた。昨日の〝拓磨様〟のような背の高い被りものを身につけている。

「ほう、変わったものを持っておるな。見世物屋(みせものや)
「おお! 流石、お目が高いですね旦那様。愚民は食いもんとしか見ませんで」

 見世物屋と呼ばれた男は畏まった言い方に、高貴な相手なのだと理解する。
 相手の男は考えるように顎の辺りを撫でていたが、「ふむ」と軽く頷いた。

「この鯉が欲しい。何で譲るか?」
「え、えぇーっと。譲りもんではないのですが」
「愚か者め、分かっておる。だから何なら譲るのかと聞いているのだ」

 鋭い目つきで詰め寄られ見世物屋は狼狽えた。しかし直ぐに考えを改めたのか、少し悪い顔をして男に告げた。

「お屋敷でお持ちの、絹織物を頂戴できれば」
「まぁ、そうであろうな。良かろう、後ほど必ず届けさせる」

 男は手にしていた放射状に広がったものをパチンと閉じると、私が入った桶を近くで控えていたお付きの者に持たせた。不安定に揺れる水面に私の体も心も揺らぐ。
 恐怖に襲われる私のことなど知る由もなく、私はこの高貴な男に引き取られたのだった。


 それから数日は、その男の屋敷にある池の中で過ごしていた。
 時々餌も投げ込まれ、私はこの広い池の中で飼われているのだと認識している。それならばそれで今後襲われることはないだろうと思うが、何故か気持ちが落ち着く日はなかった。

 ある日、予感は的中し私は再び池の中から引き出された。見世物屋がそうしていたように狭い桶の中へと移され、物々しい空気の中を通り高い台の上へ置かれた。

「これより、疫病を鎮める供犠(くぎ)を行う」

 そんな声が聞こえて、私の上を白く薄いものが行き来した。そして何か呪文のような言葉を唱える時間が過ぎると、途端に私は再び尾から鷲づかみにされたのだ。
 必死に抵抗するものの、板の上に押さえつけられて身動きが取れないと思った瞬間、エラの辺りを激痛が走った。

 何か、棒のようなもので固定される。

此度(こたび)の供犠の生け贄は、この美しく輝く玉虫色の鯉である。貴重な供え物に神もお応えくださるであろう」

 ……生け贄?
 見渡せば、歓喜の声を上げで私を見る、多くの人だかり。

 慈悲などない、好奇に溢れる多数の目。
 そこに悲しむ者はいなく、憎悪が走る。

<すまなかったな、苦しかったであろう>

 あの優しい目は、どこ?

「神よ、どうかお納めを」

 光る刃物が目に入る。

 嫌だ。
 嫌だ、嫌だ、嫌だ!
 好きでこんな体に生まれたわけじゃないのに。

 こんな死に方、望んでなんてない――!

「ッやめろ、やめてくれ! その鯉を殺すな!!」

 静寂の中に響いた声は、刃の動きを止めた。
 それは聞き覚えのある声だった。

「これ、拓磨(たくま)。無礼を申すな、儀式の最中であるぞ」
雅章(まさあき)様、あれは先日私が救った鯉です。そもそも生ける物を神を鎮めるために殺すことが間違いです、どうかお救いを!」

 それは確かに、先日私を川に返してくれた〝拓磨様〟の声だった。

「ふん、たかが魚の一匹で喚きおって。これだから安曇の人間は愚かなのだ」
「何だと、蒼士(そうし)……!」
「騒がしいぞ! 陰陽頭(おんみょうのかみ)のお付きの子らよ。雅章、早く黙らせよ」

 騒ぎ立てる若い二人を一掃した男に、二人の傍にいた別の男は深く頭を下げた。その間も二人は構うことなく睨み合いを続けている。

「二人とも落ち着きなさい。拓磨よ、これは儀式なのだ。其方(そなた)の気持ちは分かるが、我々にとって必要なことなのだよ」
「しかし……!」

 再び声を上げる拓磨様の口は男に塞がれ、悲しみに揺れる瞳が私へと向いた。

 私にもいた、悲しんでくれる人。
 そんな思いに浸りながら、再び振り上げられた刃に目を空へ向ける。

 この死に意味をもたらすなら、私の為に声を上げてくれた拓磨様に、幸福が訪れることであると願おう。

 その意識を最期に、私は全ての気を失った。

 ……はずだったのだが、眼下にはまだ儀式の最中の景色が広がっていた。何だこれは、私は死んだのではなかったのだろうか。自分の体を始めて外から見ている。
 命を捧げた私の体は動くことなく、供犠は粛々と進められる、と思われた。

「こんなの……受け入れてたまるか!!」
「お、おい拓磨――!」

 止めようとする男を振り払い、拓磨様は祭壇に捧げられた空っぽの私の体を板ごと持ち上げると、立ち塞がる男たちの間を軽やかにすり抜けて、何処かに走り去ってしまった。
 一瞬の出来事に残された者たちは唖然としており、暫く静寂が訪れた。拓磨様を止めようとした男は頭をうな垂れている。

「……陰陽頭よ、この失態は其方が責任を取ってくれるのであろうな?」

 静かに告げられた声に、男は観念したように返事をした。しかし私には、男は笑っているように見えた。

「勿論、全ては私の責任でございます。一先ず代わりとしては恐縮ですが、あの赤毛の牝馬をお供えいたしましょう。価値としては申し分ないはずですぞ」

 その言葉に老人が引き連れる立派な馬が姿を現すと、大衆は驚愕の声を上げた。
 まるでこの展開を予測していたと思えるあの男に、私は恐怖を覚える。

 しかしこんなところで狼狽えている場合ではない。
 一刻も早く彼を……拓磨様を追いかけなければ。

 何事もなかったように再開した儀式を見ることもなく、私はその場を後にした。


 彼は直ぐに見つかった。地の面を歩く者に対し、こちらは空からの追求だ。恐らく相手に私の姿は見えないだろうけれど。
 誰も居ない川の畔に腰掛けた拓磨様と、いつの間に来たのか隣にかがんでいる昨日の女の姿があった。

「あの時、折角お前を救ったのに……」
『拓磨様……』

 人に比べたら価値なんて低い、奇妙な鯉のために。
 生け贄を持ち逃げするなんて、下手したら大罪でしょうに。

 そんな危険を冒してまで、私を助けたかったのですか?

 拓磨様は震える声で「すまない」と繰り返し、私の体を撫でていた。
 感覚なんて既にないはずなのに、温もりに包まれる気がする。

 神様、生け贄として捧げられた私を逃がしたこの方に罰を与えるならば、私はこの方のためにその罪を負います。
 天国なんて行けなくて良い。魂が滅んでも良い。

 どうかこの方の傍で、お守りさせてください。

「まさか、これは――……」

 青白く光った私を見た拓磨様は、小さく息を飲んだ。




 それからは暁と同じですわ。
 精霊化を望み、式神召喚術を施された私は、再びこの世に舞い戻ったのです。

 その後は当然、朝廷から厳しい叱責がありましたが、供犠の続行を止めることなく無事終えることができたこともあり、雅章様と拓磨様は長期の謹慎処分で処罰は済みました。(蒼士様からは随分嫌がらせを受けました)

 持ち逃げした生け贄を式神にしたなど言えるはずもなく、私は丁寧に埋められたことになっておりますわ。
 騒動が落ち着いた後、人の姿で雅章様にはお目に掛かったことはありますが、正体を晒したことはございません。むしろ私は式神としてこの世に留まってから、一度も鯉の姿に変化(へんげ)したことはございませんの。

 身の危険を避けるためもありますが……、あの姿に良い思い出はないもので、戻りたいと思ったこともありませんわ。
 元の姿に嫌悪を感じると同時に、私は大衆の目に恐怖を覚えるようになってしまいました。だから私は暁のように任務で外に出ることは、ほぼないのです。

 だから私は私にできることで、拓磨様に救われた(たましい)を捧げてお仕えしたい。
 それが私、式神・雫の使命なのですわ。

『さて、そろそろ暁の機嫌を直さなくては』

 拓磨様の式神としてこの屋敷に来た時、暁は自分以外の存在ができたことに嫉妬して同じように部屋に閉じこもったことがあります。
 あの時も私は誠心誠意に暁と向き合い、拓磨様をお守りしたいことが目的であり、決して彼女から拓磨様を奪うつもりはないと話し合いました。

 よもやあの日を忘れたとは言わせませんが、あの子のことですから頭に血が昇っている今、すっかり吹き飛んでいるのでしょう。

<拓磨様、私以外にも式神がご必要なのですか……?>

 不安げに瞳を揺らし、呟いたあの言葉。
 あの子が拓磨様に、式神として以上の強い感情を抱いておりますこと、何となく気づいておりましたので。

 そんな貴女から拓磨様を奪おうとした華葉(かよう)に怒り狂うのはごもっともなのですが……。愚かですわね、拓磨様が貴女を手放すわけないではないですか。
 安曇拓磨(あずみのたくま)という心優しき人がいる限り、きっと何とかしてくださいますわ。

 安曇家として暮らしていた頃の、たった一人残されたご家族なのですから。

 私は深呼吸をして暁の部屋の御簾(みす)の前に立ちました。
 大丈夫、貴女は必要とされている。

『暁、おりますの?』

 返事を聞くことなく私はその御簾を開き、中へと足を進めたのですわ。
 そこからは、皆様の知るとおり……ですことよ。


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 気がつくと私は狭い入れ物の中にいた。一応水は満たされているが、自由に泳ぎ回れるほどの余裕はない。いつの間にか空は明るさを取り戻していた。
 一時意識を失っていたのだろう。しかしこの状況は、とても「生きていて良かった」と思えるものではなかった。
 むしろその逆ではないかとさえ思った。
「さぁ寄ってらっしゃい、見てらっしゃい。世にも珍しい、玉虫色に光る鯉だよ! どうだい旦那、珍妙だろう?」
「う~ん……気味が悪くて不味そうだ」
 水面を覗く初老の男が渋い顔をして立ち去ると、声をかけた男は小さく舌打ちをした。しかしまた直ぐに別の人間が水面を覗く。周りは活気溢れる声が響いていた。
 何人か私を覗く者が入れ替わった後、今までに見た人たちの誰より綺麗な格好をした男が訪れた。昨日の〝拓磨様〟のような背の高い被りものを身につけている。
「ほう、変わったものを持っておるな。|見世物屋《みせものや》」
「おお! 流石、お目が高いですね旦那様。愚民は食いもんとしか見ませんで」
 見世物屋と呼ばれた男は畏まった言い方に、高貴な相手なのだと理解する。
 相手の男は考えるように顎の辺りを撫でていたが、「ふむ」と軽く頷いた。
「この鯉が欲しい。何で譲るか?」
「え、えぇーっと。譲りもんではないのですが」
「愚か者め、分かっておる。だから何なら譲るのかと聞いているのだ」
 鋭い目つきで詰め寄られ見世物屋は狼狽えた。しかし直ぐに考えを改めたのか、少し悪い顔をして男に告げた。
「お屋敷でお持ちの、絹織物を頂戴できれば」
「まぁ、そうであろうな。良かろう、後ほど必ず届けさせる」
 男は手にしていた放射状に広がったものをパチンと閉じると、私が入った桶を近くで控えていたお付きの者に持たせた。不安定に揺れる水面に私の体も心も揺らぐ。
 恐怖に襲われる私のことなど知る由もなく、私はこの高貴な男に引き取られたのだった。
 それから数日は、その男の屋敷にある池の中で過ごしていた。
 時々餌も投げ込まれ、私はこの広い池の中で飼われているのだと認識している。それならばそれで今後襲われることはないだろうと思うが、何故か気持ちが落ち着く日はなかった。
 ある日、予感は的中し私は再び池の中から引き出された。見世物屋がそうしていたように狭い桶の中へと移され、物々しい空気の中を通り高い台の上へ置かれた。
「これより、疫病を鎮める|供犠《くぎ》を行う」
 そんな声が聞こえて、私の上を白く薄いものが行き来した。そして何か呪文のような言葉を唱える時間が過ぎると、途端に私は再び尾から鷲づかみにされたのだ。
 必死に抵抗するものの、板の上に押さえつけられて身動きが取れないと思った瞬間、エラの辺りを激痛が走った。
 何か、棒のようなもので固定される。
「|此度《こたび》の供犠の生け贄は、この美しく輝く玉虫色の鯉である。貴重な供え物に神もお応えくださるであろう」
 ……生け贄?
 見渡せば、歓喜の声を上げで私を見る、多くの人だかり。
 慈悲などない、好奇に溢れる多数の目。
 そこに悲しむ者はいなく、憎悪が走る。
<すまなかったな、苦しかったであろう>
 あの優しい目は、どこ?
「神よ、どうかお納めを」
 光る刃物が目に入る。
 嫌だ。
 嫌だ、嫌だ、嫌だ!
 好きでこんな体に生まれたわけじゃないのに。
 こんな死に方、望んでなんてない――!
「ッやめろ、やめてくれ! その鯉を殺すな!!」
 静寂の中に響いた声は、刃の動きを止めた。
 それは聞き覚えのある声だった。
「これ、|拓磨《たくま》。無礼を申すな、儀式の最中であるぞ」
「|雅章《まさあき》様、あれは先日私が救った鯉です。そもそも生ける物を神を鎮めるために殺すことが間違いです、どうかお救いを!」
 それは確かに、先日私を川に返してくれた〝拓磨様〟の声だった。
「ふん、たかが魚の一匹で喚きおって。これだから安曇の人間は愚かなのだ」
「何だと、|蒼士《そうし》……!」
「騒がしいぞ! |陰陽頭《おんみょうのかみ》のお付きの子らよ。雅章、早く黙らせよ」
 騒ぎ立てる若い二人を一掃した男に、二人の傍にいた別の男は深く頭を下げた。その間も二人は構うことなく睨み合いを続けている。
「二人とも落ち着きなさい。拓磨よ、これは儀式なのだ。|其方《そなた》の気持ちは分かるが、我々にとって必要なことなのだよ」
「しかし……!」
 再び声を上げる拓磨様の口は男に塞がれ、悲しみに揺れる瞳が私へと向いた。
 私にもいた、悲しんでくれる人。
 そんな思いに浸りながら、再び振り上げられた刃に目を空へ向ける。
 この死に意味をもたらすなら、私の為に声を上げてくれた拓磨様に、幸福が訪れることであると願おう。
 その意識を最期に、私は全ての気を失った。
 ……はずだったのだが、眼下にはまだ儀式の最中の景色が広がっていた。何だこれは、私は死んだのではなかったのだろうか。自分の体を始めて外から見ている。
 命を捧げた私の体は動くことなく、供犠は粛々と進められる、と思われた。
「こんなの……受け入れてたまるか!!」
「お、おい拓磨――!」
 止めようとする男を振り払い、拓磨様は祭壇に捧げられた空っぽの私の体を板ごと持ち上げると、立ち塞がる男たちの間を軽やかにすり抜けて、何処かに走り去ってしまった。
 一瞬の出来事に残された者たちは唖然としており、暫く静寂が訪れた。拓磨様を止めようとした男は頭をうな垂れている。
「……陰陽頭よ、この失態は其方が責任を取ってくれるのであろうな?」
 静かに告げられた声に、男は観念したように返事をした。しかし私には、男は笑っているように見えた。
「勿論、全ては私の責任でございます。一先ず代わりとしては恐縮ですが、あの赤毛の牝馬をお供えいたしましょう。価値としては申し分ないはずですぞ」
 その言葉に老人が引き連れる立派な馬が姿を現すと、大衆は驚愕の声を上げた。
 まるでこの展開を予測していたと思えるあの男に、私は恐怖を覚える。
 しかしこんなところで狼狽えている場合ではない。
 一刻も早く彼を……拓磨様を追いかけなければ。
 何事もなかったように再開した儀式を見ることもなく、私はその場を後にした。
 彼は直ぐに見つかった。地の面を歩く者に対し、こちらは空からの追求だ。恐らく相手に私の姿は見えないだろうけれど。
 誰も居ない川の畔に腰掛けた拓磨様と、いつの間に来たのか隣にかがんでいる昨日の女の姿があった。
「あの時、折角お前を救ったのに……」
『拓磨様……』
 人に比べたら価値なんて低い、奇妙な鯉のために。
 生け贄を持ち逃げするなんて、下手したら大罪でしょうに。
 そんな危険を冒してまで、私を助けたかったのですか?
 拓磨様は震える声で「すまない」と繰り返し、私の体を撫でていた。
 感覚なんて既にないはずなのに、温もりに包まれる気がする。
 神様、生け贄として捧げられた私を逃がしたこの方に罰を与えるならば、私はこの方のためにその罪を負います。
 天国なんて行けなくて良い。魂が滅んでも良い。
 どうかこの方の傍で、お守りさせてください。
「まさか、これは――……」
 青白く光った私を見た拓磨様は、小さく息を飲んだ。
 それからは暁と同じですわ。
 精霊化を望み、式神召喚術を施された私は、再びこの世に舞い戻ったのです。
 その後は当然、朝廷から厳しい叱責がありましたが、供犠の続行を止めることなく無事終えることができたこともあり、雅章様と拓磨様は長期の謹慎処分で処罰は済みました。(蒼士様からは随分嫌がらせを受けました)
 持ち逃げした生け贄を式神にしたなど言えるはずもなく、私は丁寧に埋められたことになっておりますわ。
 騒動が落ち着いた後、人の姿で雅章様にはお目に掛かったことはありますが、正体を晒したことはございません。むしろ私は式神としてこの世に留まってから、一度も鯉の姿に|変化《へんげ》したことはございませんの。
 身の危険を避けるためもありますが……、あの姿に良い思い出はないもので、戻りたいと思ったこともありませんわ。
 元の姿に嫌悪を感じると同時に、私は大衆の目に恐怖を覚えるようになってしまいました。だから私は暁のように任務で外に出ることは、ほぼないのです。
 だから私は私にできることで、拓磨様に救われた|命《たましい》を捧げてお仕えしたい。
 それが私、式神・雫の使命なのですわ。
『さて、そろそろ暁の機嫌を直さなくては』
 拓磨様の式神としてこの屋敷に来た時、暁は自分以外の存在ができたことに嫉妬して同じように部屋に閉じこもったことがあります。
 あの時も私は誠心誠意に暁と向き合い、拓磨様をお守りしたいことが目的であり、決して彼女から拓磨様を奪うつもりはないと話し合いました。
 よもやあの日を忘れたとは言わせませんが、あの子のことですから頭に血が昇っている今、すっかり吹き飛んでいるのでしょう。
<拓磨様、私以外にも式神がご必要なのですか……?>
 不安げに瞳を揺らし、呟いたあの言葉。
 あの子が拓磨様に、式神として以上の強い感情を抱いておりますこと、何となく気づいておりましたので。
 そんな貴女から拓磨様を奪おうとした|華葉《かよう》に怒り狂うのはごもっともなのですが……。愚かですわね、拓磨様が貴女を手放すわけないではないですか。
 |安曇拓磨《あずみのたくま》という心優しき人がいる限り、きっと何とかしてくださいますわ。
 安曇家として暮らしていた頃の、たった一人残されたご家族なのですから。
 私は深呼吸をして暁の部屋の|御簾《みす》の前に立ちました。
 大丈夫、貴女は必要とされている。
『暁、おりますの?』
 返事を聞くことなく私はその御簾を開き、中へと足を進めたのですわ。
 そこからは、皆様の知るとおり……ですことよ。