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◇番外◇ にじ色の流麗 ~前編~

ー/ー



「では、行って参る」
『はい、お気をつけてくださいまし』

 大納言様の姫君・美月(みづき)様の(しゅ)討伐から明けて翌日。
 暁の報告でその大納言様に呼び出された拓磨(たくま)様と華葉(かよう)を見送り、私は小さく溜め息をついて屋敷の中を見渡しました。

 ガランとした屋敷の中に取り残されるのは、もう慣れっこですの。
 私、式神の雫は拓磨様の身の回りのお世話が主な役割ですから。

 でも今日はいつもと違い、ここに残っているのは私だけではございませんでした。通常なら拓磨様と行動を共にしているはずのが、自室に閉じこもってしまっているのです。

 物音すら一切聞こえないその部屋を見つめるものの、特に声をかけることもせず、私は掃除をすることにしました。
 とりあえず、今はしばらくそっとしておくのが良いと思いまして。

『私がここへ初めて来た時も、同じようなことがありましたわね……』

 ふと何年か前の記憶が頭を過ぎり、渡殿(わたどの)を歩きながら青々とした葉が揺れる壺庭(つぼにわ)に目を向けました。
 寝殿の内部に作られる小さなその庭には、遣水(やりみず)と呼ばれる小さな川が流れており、キラキラと陽の光を受けて輝いて見えます。

 懐かしい。虹色に波打つ水面。
 そう、あれはまだ私が川の底からその景色を、思慕と辛辣の感情に揺れながら見上げていた頃の話。

 暁の代わりに同行すると言った私の申し出を、拓磨様が断る配慮をなさったのも、あの記憶に由来するのですわ――。




 何もない日常。平和な日々。

 平安京は、東西に流るる日本の大河に挟まれた場所に位置していた。
 西側には桂川、東側には鴨川。いずれも平安京に物資を運ぶ重要な役割を果たし、人々の生活を支えている。桂川は平安京からは大きく反れているが、鴨川は一部が平安京に沿って流れており、鮎を捕る者の姿も見られた。

 私が住んでいたのは、その鴨川の清らかな水の中だった。勿論、鮎や山女魚(やまめ)などの川魚たちと共に泳いだこともある。悠然とした流れに身を任せ、輝く水面を見上げているだけで幸せだった。

 人間には捕まらないよう最善の注意を払っていた。この頃から知恵はついていたのか、急に落ちてきた餌には針が付いているということも、魚たちが群がっている場所には網が張られやすいということも学習済みだ。
 怪しい餌には口を付けない、怪しい場所には近づかない。これが鉄則である。そもそも我々はあまり浅瀬では生活せず、深みでゆったり過ごしているのだ。粗相をしなければ人間の目に触れることはあまりない。

 しかしある日、私はその粗相をしてしまった。

「なあ、見ろよ」

 その日も優雅に遊泳していて、何だか水面が騒がしいな……という気はしていた。
 そう思った途端、輪の中に網が貼られた棒が何本も差し込まれ、執拗に私を追いかけ回してきた。迂闊であった。流れに身を任せ、随分と浅瀬に来てしまっていたのに気づかなかった。水面がいつもよりこんなにも近いと言うのに。

 これは完全に私を捕えようとしている。影を見計らって避けてはいるが、数が多すぎる。

 しまった、と思った瞬間には私の体は、網の中で外の空気に晒されていた。
 呼吸ができない。

「よーし、捕まえたぞ! 玉虫色の魚だ!」
「ズルいぞ、オイラにも見せろやい」

 こちらの生命の危機も知らないで、尾びれの根元を掴み上げて逆さづりにされてしまった。体をくねらせて抵抗をするも効果などない。
 一方子供たちは見慣れないモノに高揚しているようで、何人もの手が我も我もと私に手を伸ばした。

 そう、私の正体はこの魚である。玉虫のような虹色の鱗を持つ、極めて珍しい〝鯉〟だった。

 自分でも変異種であろうと思う。生まれた当時周りにいた仲間は皆、鈍色の鯉だったため、目立つ私が群れに入れてもらえることはなかった。
 そのため小さな頃から今に至るまで、毎日ひっそりと単独行動をしてきたわけなのだが、ついに捕えられる日が来ようとは。

 でも……まぁ、いっか。
 別に悲しむ対象もいないでしょうし。

「持って帰って、母ちゃんに捌いてもらおうぜ!」
「え~、綺麗なのに勿体ないよー」
「と言うか、食えるのか? この魚……」

 口々に言い合う子供たちの前に、私はもはや無抵抗だった。
 どうでもいい、息苦しいから早く仕留めてほしい。そう思っていた矢先のことであった。

「やめろ、その魚を放してやれ」

 中低音の声が響き、騒いでいた子供たちはその声の主へと次々に振り返った。私も彼らの隙間に丈の長い被りものを身につけた若い男と、その背後に女の姿を見た。
 すると自分たちと明らかに装いの違う人物の登場に、子供たちは声を潜めて話し合いを始めたのだ。

「どうする? 相手は貴族みたいだぞ」
「オイラあの人知ってる。有名な陰陽師だ」

 話し声は聞こえるけれど、私は次第に意識が遠ざかるのを感じた。
 二酸化炭素(息の詰まる気体)が体の中に溜まっていく。

「本当か? それなら試して――」
安曇式(あずみのしき)陰陽術、飛泉水冠(ひせんすいかん)

 完全に意識が飛ぶ直前、私の周りを液体の渦が巻いたかと思うと、丁度体が収まる位の水の玉に覆われた。途端に溜まった気体が放出され、欲していた酸素(気体)が全体を巡るのが分かる。……一体何が起こったのだろうか。
 突然の出来事に私を掴んでいた子供が驚いて手を離すものの、私はその水の玉と共に空中に不自然に浮かんでいるのだ。子供たちは唖然とした目で私を見つめた。

「どうした。お望みの陰陽の術だ、これで信用してもらえたか? 不満なら次はお前たちを蛙に変えてやろうか」

 男が淡々とそう言うと、後ろの女が瞬く間に朱色の鳥の姿へと変化(へんげ)した。目の前で起きた光景に一斉に顔を真っ青にした子供たちへ、追い打ちをかけるように鳥はバサバサと翼をはためかせて威嚇する。

「っわぁああ! 逃げろー!!」

 自然の道理に反し空に漂う私を残し、子供たちは一目散に逃げ去ってしまった。
 それを見た瞬間。

『っぶ! きゃはははははっ!! 愉快ですね、拓磨様』

 鳥は再び元の女の姿へと戻り、腹を抱えて笑うではないか。
 何だあの者は。ただの人間ではないのは確かだが、不思議なことが目の前で次々と起こり私は困惑していた。この者ら、子供たちより危険なのでは。

『人間を変化させる術なんてないのに、私を見て信じちゃいましたよ、あの子たち』
「お前が機転を利かせてくれて良かったよ、暁。……だが、笑いすぎだ」

 上機嫌な女に対して男は呆れたように溜め息を吐くと、私の元へと歩み寄った。差し出された右手の掌の上にポコンと乗る水の玉。ここから逃げる術は私にはない、……と言うか逃げ方が分かるはずもない。
 何をされるのかと戦々恐々していたが、水越しに見た男の目は先ほどまでの冷酷な雰囲気が嘘のように、とても穏やかで――。

「すまなかったな、苦しかったであろう」

 ――優しかった。

「お前からは流麗な気を感じる。美しい鯉よ、逃がしてやるから二度と人間などに捕まるでないぞ」
『じゃあね、可愛い鯉さん』

 男が川の上まで水の玉を移動させると、鬼灯の実が弾けるように玉が割れ、その水と共に私は川の中へと戻ることができた。
 揺らめく水面にハラハラと手を振る女が映っていたが、男が「行くぞ」と声をかけると二人はそこから静かに立ち去った。

 恐ろしく、不思議な出来事だった。
 でも。

<すまなかったな、苦しかったであろう>

 包み込まれるような眼差しを思い出し、ひどく安堵する自分がいる。あんな人間もいるのだと何だか嬉しくなった。美しいと言われたのは初めてだ。
 拓磨様、と女は男のことをそう呼んでいた。彼女が人でないのなら、あの男の傍にいられるのを少し羨ましく思う。

 拓磨様。
 私はこの先、きっとこの名を忘れぬことだろう。



 その夜のこと。水面に篝火が光り、人と思われる影が不自然に右往左往していた。明らかに何かを探している様子だ。
 日中のこともあり疲れていた私は、捕獲された浅瀬からは流石に離れたものの、そう遠くない距離で休息を取っていた。嫌な予感しかしない。

 水中をかき混ぜるように差し込まれるタモ網を避け、私は音を立てることなくその場から離れようとした。でも自らが持つ光る鱗は、無情にもその存在を知らしめてしまった。
 篝火に反射して輝いたそれを、男は見逃さなかった。

「みぃーつけた」

 タモ網を操る力は子供たちよりも俊敏で正確だった。狙った獲物を逃さぬ鷹のように、執拗に追われた私はあっさり捕えられてしまった。拓磨様という男と違い、私を見つめる目は卑しさを醸し出している。

「ガキどもの話を信じて正解だったな。こんな珍しい鯉、繁盛するに違いない」

 男は下品な笑い声を上げると、生け簀かごに私を放り込んで、暗闇の中へと消えていった。


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 暁の報告でその大納言様に呼び出された|拓磨《たくま》様と|華葉《かよう》を見送り、私は小さく溜め息をついて屋敷の中を見渡しました。
 ガランとした屋敷の中に取り残されるのは、もう慣れっこですの。
 私、式神の雫は拓磨様の身の回りのお世話が主な役割ですから。
 でも今日はいつもと違い、ここに残っているのは私だけではございませんでした。通常なら拓磨様と行動を共にしているはずの《《あの子》》が、自室に閉じこもってしまっているのです。
 物音すら一切聞こえないその部屋を見つめるものの、特に声をかけることもせず、私は掃除をすることにしました。
 とりあえず、今はしばらくそっとしておくのが良いと思いまして。
『私がここへ初めて来た時も、同じようなことがありましたわね……』
 ふと何年か前の記憶が頭を過ぎり、|渡殿《わたどの》を歩きながら青々とした葉が揺れる|壺庭《つぼにわ》に目を向けました。
 寝殿の内部に作られる小さなその庭には、|遣水《やりみず》と呼ばれる小さな川が流れており、キラキラと陽の光を受けて輝いて見えます。
 懐かしい。虹色に波打つ水面。
 そう、あれはまだ私が川の底からその景色を、思慕と辛辣の感情に揺れながら見上げていた頃の話。
 暁の代わりに同行すると言った私の申し出を、拓磨様が断る配慮をなさったのも、あの記憶に由来するのですわ――。
 何もない日常。平和な日々。
 平安京は、東西に流るる日本の大河に挟まれた場所に位置していた。
 西側には桂川、東側には鴨川。いずれも平安京に物資を運ぶ重要な役割を果たし、人々の生活を支えている。桂川は平安京からは大きく反れているが、鴨川は一部が平安京に沿って流れており、鮎を捕る者の姿も見られた。
 私が住んでいたのは、その鴨川の清らかな水の中だった。勿論、鮎や|山女魚《やまめ》などの川魚たちと共に泳いだこともある。悠然とした流れに身を任せ、輝く水面を見上げているだけで幸せだった。
 人間には捕まらないよう最善の注意を払っていた。この頃から知恵はついていたのか、急に落ちてきた餌には針が付いているということも、魚たちが群がっている場所には網が張られやすいということも学習済みだ。
 怪しい餌には口を付けない、怪しい場所には近づかない。これが鉄則である。そもそも我々はあまり浅瀬では生活せず、深みでゆったり過ごしているのだ。粗相をしなければ人間の目に触れることはあまりない。
 しかしある日、私はその粗相をしてしまった。
「なあ、見ろよ」
 その日も優雅に遊泳していて、何だか水面が騒がしいな……という気はしていた。
 そう思った途端、輪の中に網が貼られた棒が何本も差し込まれ、執拗に私を追いかけ回してきた。迂闊であった。流れに身を任せ、随分と浅瀬に来てしまっていたのに気づかなかった。水面がいつもよりこんなにも近いと言うのに。
 これは完全に私を捕えようとしている。影を見計らって避けてはいるが、数が多すぎる。
 しまった、と思った瞬間には私の体は、網の中で外の空気に晒されていた。
 呼吸ができない。
「よーし、捕まえたぞ! 玉虫色の魚だ!」
「ズルいぞ、オイラにも見せろやい」
 こちらの生命の危機も知らないで、尾びれの根元を掴み上げて逆さづりにされてしまった。体をくねらせて抵抗をするも効果などない。
 一方子供たちは見慣れないモノに高揚しているようで、何人もの手が我も我もと私に手を伸ばした。
 そう、私の正体はこの魚である。玉虫のような虹色の鱗を持つ、極めて珍しい〝鯉〟だった。
 自分でも変異種であろうと思う。生まれた当時周りにいた仲間は皆、鈍色の鯉だったため、目立つ私が群れに入れてもらえることはなかった。
 そのため小さな頃から今に至るまで、毎日ひっそりと単独行動をしてきたわけなのだが、ついに捕えられる日が来ようとは。
 でも……まぁ、いっか。
 別に悲しむ対象もいないでしょうし。
「持って帰って、母ちゃんに捌いてもらおうぜ!」
「え~、綺麗なのに勿体ないよー」
「と言うか、食えるのか? この魚……」
 口々に言い合う子供たちの前に、私はもはや無抵抗だった。
 どうでもいい、息苦しいから早く仕留めてほしい。そう思っていた矢先のことであった。
「やめろ、その魚を放してやれ」
 中低音の声が響き、騒いでいた子供たちはその声の主へと次々に振り返った。私も彼らの隙間に丈の長い被りものを身につけた若い男と、その背後に女の姿を見た。
 すると自分たちと明らかに装いの違う人物の登場に、子供たちは声を潜めて話し合いを始めたのだ。
「どうする? 相手は貴族みたいだぞ」
「オイラあの人知ってる。有名な陰陽師だ」
 話し声は聞こえるけれど、私は次第に意識が遠ざかるのを感じた。
 |二酸化炭素《息の詰まる気体》が体の中に溜まっていく。
「本当か? それなら試して――」
「|安曇式《あずみのしき》陰陽術、|飛泉水冠《ひせんすいかん》」
 完全に意識が飛ぶ直前、私の周りを液体の渦が巻いたかと思うと、丁度体が収まる位の水の玉に覆われた。途端に溜まった気体が放出され、欲していた|酸素《気体》が全体を巡るのが分かる。……一体何が起こったのだろうか。
 突然の出来事に私を掴んでいた子供が驚いて手を離すものの、私はその水の玉と共に空中に不自然に浮かんでいるのだ。子供たちは唖然とした目で私を見つめた。
「どうした。お望みの陰陽の術だ、これで信用してもらえたか? 不満なら次はお前たちを蛙に変えてやろうか」
 男が淡々とそう言うと、後ろの女が瞬く間に朱色の鳥の姿へと|変化《へんげ》した。目の前で起きた光景に一斉に顔を真っ青にした子供たちへ、追い打ちをかけるように鳥はバサバサと翼をはためかせて威嚇する。
「っわぁああ! 逃げろー!!」
 自然の道理に反し空に漂う私を残し、子供たちは一目散に逃げ去ってしまった。
 それを見た瞬間。
『っぶ! きゃはははははっ!! 愉快ですね、拓磨様』
 鳥は再び元の女の姿へと戻り、腹を抱えて笑うではないか。
 何だあの者は。ただの人間ではないのは確かだが、不思議なことが目の前で次々と起こり私は困惑していた。この者ら、子供たちより危険なのでは。
『人間を変化させる術なんてないのに、私を見て信じちゃいましたよ、あの子たち』
「お前が機転を利かせてくれて良かったよ、暁。……だが、笑いすぎだ」
 上機嫌な女に対して男は呆れたように溜め息を吐くと、私の元へと歩み寄った。差し出された右手の掌の上にポコンと乗る水の玉。ここから逃げる術は私にはない、……と言うか逃げ方が分かるはずもない。
 何をされるのかと戦々恐々していたが、水越しに見た男の目は先ほどまでの冷酷な雰囲気が嘘のように、とても穏やかで――。
「すまなかったな、苦しかったであろう」
 ――優しかった。
「お前からは流麗な気を感じる。美しい鯉よ、逃がしてやるから二度と人間などに捕まるでないぞ」
『じゃあね、可愛い鯉さん』
 男が川の上まで水の玉を移動させると、鬼灯の実が弾けるように玉が割れ、その水と共に私は川の中へと戻ることができた。
 揺らめく水面にハラハラと手を振る女が映っていたが、男が「行くぞ」と声をかけると二人はそこから静かに立ち去った。
 恐ろしく、不思議な出来事だった。
 でも。
<すまなかったな、苦しかったであろう>
 包み込まれるような眼差しを思い出し、ひどく安堵する自分がいる。あんな人間もいるのだと何だか嬉しくなった。美しいと言われたのは初めてだ。
 拓磨様、と女は男のことをそう呼んでいた。彼女が人でないのなら、あの男の傍にいられるのを少し羨ましく思う。
 拓磨様。
 私はこの先、きっとこの名を忘れぬことだろう。
 その夜のこと。水面に篝火が光り、人と思われる影が不自然に右往左往していた。明らかに何かを探している様子だ。
 日中のこともあり疲れていた私は、捕獲された浅瀬からは流石に離れたものの、そう遠くない距離で休息を取っていた。嫌な予感しかしない。
 水中をかき混ぜるように差し込まれるタモ網を避け、私は音を立てることなくその場から離れようとした。でも自らが持つ光る鱗は、無情にもその存在を知らしめてしまった。
 篝火に反射して輝いたそれを、男は見逃さなかった。
「みぃーつけた」
 タモ網を操る力は子供たちよりも俊敏で正確だった。狙った獲物を逃さぬ鷹のように、執拗に追われた私はあっさり捕えられてしまった。拓磨様という男と違い、私を見つめる目は卑しさを醸し出している。
「ガキどもの話を信じて正解だったな。こんな珍しい鯉、繁盛するに違いない」
 男は下品な笑い声を上げると、生け簀かごに私を放り込んで、暗闇の中へと消えていった。