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ちぎっておくれ(2ページ)

ー/ー



 大きく揺れる車体と駆けてくるシカ。
 そしてハンドル越しに感じた衝撃。
 タイヤが道路の表面を擦って悲鳴を上げる。ブレーキ音が響いたと思う間もなく、ひしゃげたガードレールにぶつかってぐらりと車体が弾んだ。数十メートル前に転落注意の看板があったことなどもう覚えていない。
 過去に、同じ場所で動物と遭遇してしまい、カーブを曲がり切れずに落ちていった車がいくつかあるということも僕は知らなかった。

「く……」

 隣の彼女は口元を手で押さえて身動き一つ取らなかった。
 助手席側は落ちかけている。決死の思いでハンドルを握る。頼むから落ちないでくれと願う。少しでもバランスを崩せば崖の下に真っ逆さまだ。
 幸いなことに、このまま切り返せば車体のほとんどは元の道に戻ることができそうだった。

「大丈夫、きっと大丈夫だから」

 からからに乾いた声でやっとの思いで絞り出した台詞に呼応し、隣からは啜り泣くような音がした。
 九死に一生を得る思いで持ち直したことに安堵して息をつく。
 大丈夫だ。助かる。
 自分を鼓舞するために発するはずだった言葉はざっと吹きつけた風に消される。最初は何が起こっているのか理解できなかった。だってこの場面で、僕らは助かるのだと信じて疑わなかったのだから。

 にゅっと伸びてきた白い指がハンドルを掴んで、あらぬ方向に動かすまでは。

 傾く体。いとも簡単にガードレールからはみ出した愛車。決死の思いで這い上がったはずなのにまた元の窮地に追いやられた心地がした。

「あはは」

 彼女が笑っている。肩を小刻みに揺らし、笑い過ぎたせいで苦しそうに肩で呼吸をしている。
 何故と尋ねる暇もなかった。
 呆気にとられて声も出ない僕を見据えたまま、細い指先で握ったハンドルをぐちゃぐちゃに動かした。軋んでいたガードレールが弾ける音と僕の叫び声が辺りに響き渡る。
 落ちた先の海で、僕たちは最初からそこに行くことが決まっていたのかと錯覚するほど、従順に海底へと沈んでいった。
 やっと行ける。
 ぼごぼごと泡を吐き出して彼女はそう言った。僕の腰に腕を巻きつけて、二度と放す気はないのだと命を懸けて伝えているのだと思った。
 僕は、あのとき自分だけが助かってしまったことを悔やんでいた。
 最愛の恋人と同じ場所に行けなかったことを悔みながら生きていたのだ。今ここで似た顔をした、恋人と生き写しのような女性に引きずり込まれるのは必然だったのかもしれない。
 僕に与えられた唯一の贖罪の形。
 もう、もがいたりしない。共に行けるのなら君と一緒にどこまでも行こう。
 あっさりと身を委ねて目を閉じた僕を、下の方から懸命に押し上げる手の感触があった。
 それは先ほどまで僕にしがみついていた手と同じもので、今度こそ「どうして」と声に出して尋ねてしまった。思わず目を剥いて追いかけようとした瞬間、思いきり下の方から突き飛ばされる。
 恐怖に滲んだ彼女の表情はあまりにも美しく、愛おしく、それ故に手放すことはしたくないと感じた。


「……さん! 聞こえますか!」

 自分の名前を叫びながら肩を叩く人影がある。気がついたときには固めのマットに横たえられていて、救急車のサイレンの音や駆けつけた人のざわめきがわんわんと反響した。

「か、彼女は……?」
「同乗者がいるんですか?」
「いや、僕は……今日、川下りの予約をしていて」

 うわごとのように今日の予定を繰り返す男は即座に救急車へと詰め込まれた。後からやってきた警察には事情を聞かれ、そのときになって僕の車に同乗者などいなかったということが判明した。
 ドライブレコーダーの映像にも、峠を下る前に立ち寄った店の監視カメラにも、どこにも彼女の姿は映っていなかった。
 声すら残っていなかったのだ。

「あなたは、最初からずっと一人だったんですよ」

 動物に驚いてハンドルを切り損ねたという運転手の証言と、現場に残っていた状況証拠は完全に一致。実に運の悪い事故だった。
 裏が取れたから用済みだと言わんばかりに警察の人間はあっさりと病室を後にした。

『だから言っただろ。あの子はやめとけって』

 事故後に連絡をくれた友人の一人が、電話越しに低い声で囁いた。

『みつ……? 光瀬川なんて聞いたことねーぞ。どこに向かう気だったんだよ』
「分からない。でも、何となく嫌な感じはしてた」

 その川に行ったら彼女だけが僕を置いて向こう岸に行ってしまうような気がして、それが怖かった。

『忘れろとは言わないけど、そろそろ切り替えた方がいい。お前は執着しすぎてるんだよ。憑かれてるみたいにさ』

 そんなことを言われても困る。今回もそう。あのときもそう。最後の最後で向こうの気が変わって、また自分だけが助かってしまった。
 どうしても連れて行ってもらえない。

「こんなにも愛しているのに……」

 永遠の契りを交わしたいほどに彼女を愛している。濡れてぼろぼろになった赤いリボンを握ってじっと考える。
 次はどんな方法で彼女を手元に引き寄せようか。
 忘れる間もないほどに想っていればいつか叶うだろうか。

「ちぎってよ、もう。ちぎってよ」

 視界の端に、ぽたぽたと滴を落とす影がある。すぐそばに赤い紐で縛られた腕を恨めしそうに擦っている女がいることを、僕は知らない。
 知らないふりをして今日も生きている。




みんなのリアクション

 大きく揺れる車体と駆けてくるシカ。
 そしてハンドル越しに感じた衝撃。
 タイヤが道路の表面を擦って悲鳴を上げる。ブレーキ音が響いたと思う間もなく、ひしゃげたガードレールにぶつかってぐらりと車体が弾んだ。数十メートル前に転落注意の看板があったことなどもう覚えていない。
 過去に、同じ場所で動物と遭遇してしまい、カーブを曲がり切れずに落ちていった車がいくつかあるということも僕は知らなかった。
「く……」
 隣の彼女は口元を手で押さえて身動き一つ取らなかった。
 助手席側は落ちかけている。決死の思いでハンドルを握る。頼むから落ちないでくれと願う。少しでもバランスを崩せば崖の下に真っ逆さまだ。
 幸いなことに、このまま切り返せば車体のほとんどは元の道に戻ることができそうだった。
「大丈夫、きっと大丈夫だから」
 からからに乾いた声でやっとの思いで絞り出した台詞に呼応し、隣からは啜り泣くような音がした。
 九死に一生を得る思いで持ち直したことに安堵して息をつく。
 大丈夫だ。助かる。
 自分を鼓舞するために発するはずだった言葉はざっと吹きつけた風に消される。最初は何が起こっているのか理解できなかった。だってこの場面で、僕らは助かるのだと信じて疑わなかったのだから。
 にゅっと伸びてきた白い指がハンドルを掴んで、あらぬ方向に動かすまでは。
 傾く体。いとも簡単にガードレールからはみ出した愛車。決死の思いで這い上がったはずなのにまた元の窮地に追いやられた心地がした。
「あはは」
 彼女が笑っている。肩を小刻みに揺らし、笑い過ぎたせいで苦しそうに肩で呼吸をしている。
 何故と尋ねる暇もなかった。
 呆気にとられて声も出ない僕を見据えたまま、細い指先で握ったハンドルをぐちゃぐちゃに動かした。軋んでいたガードレールが弾ける音と僕の叫び声が辺りに響き渡る。
 落ちた先の海で、僕たちは最初からそこに行くことが決まっていたのかと錯覚するほど、従順に海底へと沈んでいった。
 やっと行ける。
 ぼごぼごと泡を吐き出して彼女はそう言った。僕の腰に腕を巻きつけて、二度と放す気はないのだと命を懸けて伝えているのだと思った。
 僕は、あのとき自分だけが助かってしまったことを悔やんでいた。
 最愛の恋人と同じ場所に行けなかったことを悔みながら生きていたのだ。今ここで似た顔をした、恋人と生き写しのような女性に引きずり込まれるのは必然だったのかもしれない。
 僕に与えられた唯一の贖罪の形。
 もう、もがいたりしない。共に行けるのなら君と一緒にどこまでも行こう。
 あっさりと身を委ねて目を閉じた僕を、下の方から懸命に押し上げる手の感触があった。
 それは先ほどまで僕にしがみついていた手と同じもので、今度こそ「どうして」と声に出して尋ねてしまった。思わず目を剥いて追いかけようとした瞬間、思いきり下の方から突き飛ばされる。
 恐怖に滲んだ彼女の表情はあまりにも美しく、愛おしく、それ故に手放すことはしたくないと感じた。
「……さん! 聞こえますか!」
 自分の名前を叫びながら肩を叩く人影がある。気がついたときには固めのマットに横たえられていて、救急車のサイレンの音や駆けつけた人のざわめきがわんわんと反響した。
「か、彼女は……?」
「同乗者がいるんですか?」
「いや、僕は……今日、川下りの予約をしていて」
 うわごとのように今日の予定を繰り返す男は即座に救急車へと詰め込まれた。後からやってきた警察には事情を聞かれ、そのときになって僕の車に同乗者などいなかったということが判明した。
 ドライブレコーダーの映像にも、峠を下る前に立ち寄った店の監視カメラにも、どこにも彼女の姿は映っていなかった。
 声すら残っていなかったのだ。
「あなたは、最初からずっと一人だったんですよ」
 動物に驚いてハンドルを切り損ねたという運転手の証言と、現場に残っていた状況証拠は完全に一致。実に運の悪い事故だった。
 裏が取れたから用済みだと言わんばかりに警察の人間はあっさりと病室を後にした。
『だから言っただろ。あの子はやめとけって』
 事故後に連絡をくれた友人の一人が、電話越しに低い声で囁いた。
『みつ……? 光瀬川なんて聞いたことねーぞ。どこに向かう気だったんだよ』
「分からない。でも、何となく嫌な感じはしてた」
 その川に行ったら彼女だけが僕を置いて向こう岸に行ってしまうような気がして、それが怖かった。
『忘れろとは言わないけど、そろそろ切り替えた方がいい。お前は執着しすぎてるんだよ。憑かれてるみたいにさ』
 そんなことを言われても困る。今回もそう。あのときもそう。最後の最後で向こうの気が変わって、また自分だけが助かってしまった。
 どうしても連れて行ってもらえない。
「こんなにも愛しているのに……」
 永遠の契りを交わしたいほどに彼女を愛している。濡れてぼろぼろになった赤いリボンを握ってじっと考える。
 次はどんな方法で彼女を手元に引き寄せようか。
 忘れる間もないほどに想っていればいつか叶うだろうか。
「ちぎってよ、もう。ちぎってよ」
 視界の端に、ぽたぽたと滴を落とす影がある。すぐそばに赤い紐で縛られた腕を恨めしそうに擦っている女がいることを、僕は知らない。
 知らないふりをして今日も生きている。


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