まさか自分が、彼女に生き写しの人と再び縁を持つことになるなんて思いもしなかった。
三年経って現れたその人は、亡くなった最愛の人と瓜二つの容姿をしていた。
飾り気のないシンプルなワンピースがよく似合う人だ。無駄な装飾を一切省いた服装は、彼女の持つありのままの美しさをいつだって引き立てていた。それでいて、鞄などには可愛らしいマスコットやリボンをつけるのが好きで、素朴な美しさと少女の可憐さが同居している不思議な女性だ。
混雑する駅構内でぶつかってしまい、視界をひらりと掠めた赤いリボンは、まるで僕たちを再び結びつける運命の赤い糸のように思えたのだ。
そこで声をかけなかったら僕たちが恋人同士になることはなかっただろう。
「今度、海に行きたいな」
「海かぁ……そうだね。考えておくよ」
「山でもいいんだよ?」
「山かぁ……熱中症に気をつけて行かないとダメだよな」
それは連日続いた暑さが、思いがけずふっと和らいだ日のこと。
手を繋いで歩く僕たちが次の予定をどうするか話をしていると、目の前から大学時代の友人が歩いてくるのが見えた。軽く手を振って声をかけると向こうは「お」と小さく口を開けて、僕の姿に気づいてすぐに寄ってくる。
「久しぶりだな。元気?」
「お前こそ。あれからさっぱり音沙汰ないからさ、みんな心配してたんだぞ」
「そっか。連絡もせず悪かったよ」
あれから。
彼が口にした四文字は、僕がちょうど恋人を失った時期を端的に指し示している。彼は空気が読めない男ではないのだが、今日に限っては亡くなった彼女の話を思い出話でもするように続けた。
「じゃ、もう行くわ。今度はお前から連絡してこいよ」
過去を懐かしんでいた時間が泡と弾けて消える。ぱちんと夢から覚めた僕を現実に引き戻したのは、隣に佇む彼女のひやっこい手だった。
「ごめん。話し込んじゃって」
「いいの。久しぶりに会った友達なんだから」
抑揚のない声で彼女は言い放つ。昔の話をする僕たちの話に入ることもできず、それでいて話題が前の彼女の思い出話だ。
不快にさせるのも当然のことだと気づいた。
夏の終わりだというのに握った手のひらは冷たくて、僕を何とも言えない気持ちにさせる。
三年前まで仲良くしていた友人と彼女を引き合わせるのは、決してこれが初めてではない。皆は僕の新しい恋人を目の当たりにして、そして毎回同じように昔話をする。故人と瓜二つの容姿を持つ女性を眼前に見据えて過去のことを話す。
そのたびに彼女が傷ついていることは分かっていたが、友人たちの話を聞いていると、どうにもその話題を止めて他のことを話そうという気持ちにはなれなかった。
そんな自分に嫌気が差し、僕は日ごとに例えようのない息苦しさに蝕まれていった。
この他にも僕を悩ませることがある。
「あ……」
手を繋いでいるから彼女にも僕の動揺は伝わっただろう。
取らなくていいの。相手が声に出して尋ねかける前に先回りをして口を塞ぐ。
「ん、メルマガかな。頻繁に来るからちょっと鬱陶しいんだよな」
ポケットの中で震えたスマホはメッセージを受信したことを知らせているが、今ここで確認するつもりはなかった。
『こんなこと、あまり言いたくないんだけどさ。さっきの子はやめておいた方がいいと思う』
『さっきの子といても、お前のためにならない気がする』
根拠を持たない曖昧な忠告。
久しぶりに顔を合わせた昔の友人たちは、同じ内容を僕のスマホに投げ込んでいく。新しい恋人が歓迎されていない空気は嫌でも伝わってきた。
学生時代に大して仲良くなかった人間ですら眉をひそめるのだから、相応の理由があるに違いないと思う一方で、心が彼女に引き寄せられていくのを止められはしなかった。
大切なものを失ってぽっかりと開いた心に触れたのは彼女の冷たい手のひらだ。三年もの時間、開いたままで治療もされていなかった傷を埋めてくれたのは間違いなく彼女だった。
「光瀬川の川下り体験に行ってみたいの。連れて行ってほしいな」
甘えた声を出してカタログを見せてくる彼女はそんな僕の気持ちも知らず、無邪気に次のデートプランを考えている。
聞いたことのない場所だとぼんやりと考えていたのも束の間、「知り合いに融通を利かせてもらって予約枠を勝ち取った」と言うのだから驚いた。既に二人分の枠を確保しているのだと。
「あなたは海も山も乗り気じゃないみたいだから、川ならいいかなって」
控えめな口調ではあったがその口調からは確かな圧を感じた。
「……うん、予約してもらってるなら行った方がいいよね」
「やったぁ。楽しみ」
僕が頑なに夏場のアウトドアスポットを避けていたのには理由がある。
三年前に恋人を失った場所が海だった。
当時、山に行くか海に行くかぎりぎりまで迷って選んだ方で僕たち二人は事故に遭った。川だって事故に遭う確率がないとは言い切れないが、あのとき候補に挙がった海や山に対するほどの拒否感はない。
「晴れてよかったね。写真もいっぱい撮ろ」
スマホのシャッター音が隣から聞こえてくる。全開にした窓からは瑞々しい緑の香りが舞い込む。夏の木漏れ日に包まれた峠道では対向車に出くわすこともなく、カーブにさえ気をつけていれば問題はなさそうだった。
彼女の小さな鞄には蝶々結びの赤いリボンがくっついていた。こういうところもいなくなった恋人と似ている。
はしゃぐ恋人を助手席に乗せ、安全運転を心がけながら目的地へと向かう。ここまでは何もかもが順調だった。
彼女が神妙な顔になって過去の傷に触れてくるまでは。
「前々から思ってたんだけど」
「うん」
「山とか、海とか、私が行きたいって行っても避けてきたのは……前の彼女さんのことを思い出すからだよね」
僕は否定も肯定もしなかった。窓から吹き込む風が互いの声を掻き消そうとする。応える声ができるだけ明るいものになるよう努めて僕は小さく笑った。
「そうかもしれないし、そうじゃないのかもしれない」
「私に似てるって。顔も瓜二つだって……それで今でも忘れられないの?」
「忘れるとかじゃないんだよ。ごめん。三年経って……僕の中ではまだ『三年しか』経ってなくて整理できてないんだ。あの日から一度も忘れたことなんてないから思い出すこともしないって感じかな。いなくなった気がしないんだよ」
とても残酷なことを告げていると分かっていた。新しい恋人を前にして、昔の恋人の存在がどれだけ大きなものだったかを話す男は最低だと思っている。
嘘をついてでも「忘れた」と言えば良いものを、僕は馬鹿正直にかつての恋人への思いを打ち明けていた。
「私の顔を見るたびに思い出してしまうのがよくないんだと思うよ。あなたにとっては」
しばらく黙りこくっていた彼女ではあったが、無言になった僕との時間に耐えかねたのだろう。最後には淡々とそのようなことを口にした。
「私がどんなに望んでも、手放してはくれないの?」
手放す。何を。昔の思い出のことか。それとも亡き恋人を追い続ける自分自身の心か。
極めつけの一言に心臓が嫌な音を立てる。気まずい空気が満ちた車内で、どんなに窓を開けていても二人の間に蔓延する不信感は消えたりしないのだと悟る。
何事か口にしかけた僕は、次の瞬間にあっと叫んでハンドルを勢いよく切っていた。