午後の陽射しが、街の影を長くしていた。
約束のカフェに入ったマリアは、すでに席に座っている風雅を見つけて、少し胸をなで下ろした。
「お待たせしました……」
「ああ、いえ。僕も今来たところなので」
その言葉に嘘はなさそうだったが、どこか風雅の様子はいつもと違っていた。
コーヒーを口に運ぶ手が落ち着かず、目線もどこか泳いでいる。
話しかけようとすると、先に彼の口から、ぽつりと問いが落ちた。
「……配信、見てくれましたか?」
その一言に、マリアの背筋が凍りついた。
“その質問が来るかもしれない”――そう思っていたはずなのに、どう答えていいかわからない。
(見てない……けど、きっと……順調なんだよね)
マリアは口元に笑みを作りながら、ぎこちなく頷いた。
「うん……調子いいって、聞いてる。すごいなって……思ってる。おめでとう」
その瞬間だった。
風雅の顔が、はっきりと、困惑に染まった。
まるで「何を言ってるんだ」とでも言いたげな、そんな表情。
マリアの心臓が、ドクンと跳ねた。
(私……なにか……間違えた?)
胸の奥でざわめきが広がる中、マリアは目を伏せ、そっと唇を噛んだ。
嘘を重ねるほど、風雅が遠くなっていく気がして怖くなった。
「……見てないの、ごめんなさい」
小さな声で、マリアは言った。
「ブランの配信、見なくなっちゃったの。あなたのことを……思い出してしまうから」
カップを握る指が震える。
「配信を見てると、あなたの声が響いて……話してた言葉とか、笑い方とか、全部、思い出して……それが辛くて」
そして、そっと顔を上げる。
「ブランとしてのあなたを好きだったのは本当。でも……それよりもずっと、私は“阿部風雅”としてのあなたのことを、気づいたらずっと見てたの。だから――配信が、見られなかった」
その言葉が静かに空気に溶けていく中、風雅は、ふっと小さく息をついた。
そして、ポケットからスマホを取り出し、画面をマリアの前にそっと差し出す。
そこには、黒背景に白文字で、はっきりと書かれていた。
「ブラン・パルティータ、引退配信」
目を見開くマリア。
「えっ……え、これ……」
うまく言葉にならないまま、風雅を見つめると、彼はどこか寂しげに、でも優しく笑った。
「――だったら、こんなこと、意味なかったかもしれませんね」
そう言って、肩を落とす。
マリアは、手に持ったスマホを見つめながら、言葉を失っていた。
「……なんで……こんなこと……」
問いかけるように言うと、風雅は少し目線を落とし、ゆっくりと語り出した。
「……マリアさんのこと、好きでした。ずっと」
その言葉に、マリアの喉がかすかに鳴る。
「でも……どうしても信じきれなかった。君が俺を見てくれてるのか、ブランを通しての俺なのか。どうしても、自信がなかったんです」
風雅の目が、苦しそうに揺れる。
「だから……試したんです。ブランじゃなくなった俺でも、君は、ここに来てくれるのかって」
「……そんなの……」
マリアの目に、涙が滲んでいた。
自分の曖昧な態度が、どれだけ彼を不安にさせていたか、ようやく痛いほどわかった。
涙声のまま、マリアは言った。
「そんなの、試さなくたってよかった……私、本当に……あなたが好きだったのに」
声が震えた。
だけど、それが、いまの自分にできる一番の本音だった。
「配信が好きだったわけじゃない。ブランが有名になることが嬉しいだけじゃない。……あなたが、嬉しそうに話す姿が、私にとって一番大事だったの」
風雅は、じっとマリアを見ていた。
それから、ほんの少しだけ照れたように、笑った。
「……そう言ってもらえるなら、やめる理由、もう一つ増えたかもしれません」
「……え?」
「ブランを辞めたら、“阿部風雅”として、ちゃんと君と向き合えると思ったんです。最初は、君が俺の何を見てるのかわからなくて不安だった。でも、君が泣いてまでそう言ってくれるなら、もう迷わない」
マリアは涙を拭いながら、彼の言葉を一つひとつ受け止める。
それは、過去の推しとか、嘘とか、そんなものを超えたところにある、ただ一人の人間としての、風雅の告白だった。
「……じゃあ、これからは、風雅さんとして……」
「うん。君と、ちゃんと向き合いたい。過去のことじゃなくて、これからのことで、君を笑わせたい」
マリアは、ふっと微笑んだ。
「じゃあ、最初のお願い……聞いてくれますか?」
「なんでも」
「もう一回……“お見合い”から始めてください。今度は“ブランの中の人”じゃなく、“阿部風雅”として」
その言葉に、風雅は少しだけ目を細めて、手を差し出した。
「じゃあ……改めて。阿部風雅、三十七歳。会社員。よろしくお願いします」
マリアは、笑いながら、その手を握った。
「戸塚マリア、三十五歳。商社勤め。よろしくお願いします」
二人の手のひらが、初めて本当の意味で、しっかりと結ばれた。
カフェの窓の外では、夕陽が街をやさしく包んでいた。
その光の中で、もうひとつの新しい物語が、ゆっくりと始まろうとしていた。
――お見合い相手は、推しだった。
でも、恋に落ちたのは、画面の中の“声”じゃない。
私が恋をしたのは、画面の外にいた“あなた”でした。
― 完 ―