わたしのアパートの隣に住んでいる綾波さんは、少し変だ。
というのも、別に見た目や性格が変わっているとかじゃなくて、雰囲気が少し人と違うって感じ。
「おはようございます、金宮さん」
「あっ、おはようございます、綾波さん」
ゴミ出しに行こうとドアを開けると、ちょうど彼は部屋へ入ろうとしているところだった。
肩の長さで切りそろえられた黒髪に、白いTシャツにくたびれたジーパン。服で言うと普通の男子大学生っぽい装いなのに、顔の整っている綾波さんが着るとなんだかすごくオシャレに見えてくる。
お互いに軽く会釈をした後、一度綾波さんはドアの向こうに消えていった。しかしわたしがゴミ袋を持って彼の部屋の前を通ろうとしたタイミングで、ドアが小さく開き、綾波さんの顔がひょこりと飛び出してくる。
「あ、金宮さん」
「はい!?」
「今日大学に行かれます?」
「……行きます、けど」
「そうですか」
そう、水曜日は二限から五限までみっちり授業が入っている日。わたしがそう伝えると、綾波さんはそのまま続けて言った。
「あ、それでしたら今日午後二時から雨降るんで傘忘れずに。だいぶ土砂降りなんで、折り畳みじゃないほうがいいかと」
バタン。ドアが閉まって、綾波さんは今度こそ部屋の中へと去って行った。わたしはしばらくその場に立ち尽くす。
今日、午後二時から土砂降り……?
なるほど、情報はありがとう。傘も大きなやつを持っていくことにしよう。
だけど、ちょっと待って。
「……なんでそんなに自信満々に言えるの……?」
天気予報はわたしだってチェックした。降水率が午後から高くなることだって知っている。だけど、見た情報を伝えるなら、「午後二時『くらい』から雨が降る『らしい』ですよ。だいぶ土砂降りになる『らしい』ですよ」――って言うんじゃないの?
綾波さんの迷いない口調と、それが確実だと疑っていないような表情を思い返す。
「……ほんと、変な人」
わたしはようやく綾波さんの部屋の前から足を動かし、ゴミ捨て場へと向かったのだった。
+++
そしてその日の午後二時――。
大学の経済学の授業中、突然ザァッという音がして、それから雨が降り始めた。
ノートを取っていた手を止め、思わず窓の外を見る。
ザアアァアァッァァァァァァァ……。
雨が道路に、屋根に、窓に打ち付けて轟音を響かせている。
教室棟周りの木々が強い雨を打ち付けられ、大きく揺れている。
「……綾波さんの言った通り」
しかも時刻までも寸分たがわない午後二時からだった。
いくら予報といっても当たりすぎじゃないだろうか。
今度綾波さんに、どのニュースで天気をチェックしているか聞かないと。
わたしはそんなことを思いながら、また教授の話に耳を傾ける。
+++
その数日後の夕方、わたしが大学から帰ってくると綾波さんはドアの前の掃き掃除をしていた。
「こんにちは」
「あ、こんにちは」
わたしから声を掛けると綾波さんは少し驚いたような顔をして言った。
「この時間に帰られることもあるんですね」
「たまたまです。今日は四限と五限の実験の授業が休講になったので」
「そうでしたか、それは良かった」
綾波さんは、そう安堵したような顔をする。
「良かった……? 一体どうしてです?」
わたしがそう尋ねると、彼はニコリと笑って言った。
「この後、十七時から雨を降らす予定だったんですよ。それに当たる前に帰ってこられて良かったですね」
「へぇ、なるほど」
って、え?
頷きかけて、一旦立ち止まる。
いま彼は何と言った?
――雨を降らす?
「綾波さん、雨を降らすって――どういうことですか?」
「あれ」
綾波さんは箒とちりとりを置いてから、天を仰ぐ。
「僕、口滑らしちゃってましたか」
「……」
「ならしょうがないですね、お話ししましょう、金宮さん」
そう言うと綾波さんは指をパチンと鳴らした。
瞬間、周りの景色が変わる。
先ほどまでわたしたちが居たのは、柵とドアの並ぶ壁に挟まれたアパート二階の廊下。
そしてここは――。
「どこですか、ここ」
少し傾斜のある、紺色の地面。少し高度があるようだが、柵はない。
「わかりませんか? 僕たちのアパートの屋根の上ですよ。高さで言えば……建物の四階、と言ったところでしょうかね」
綾波さんは、大したことありませんよ、と言わんばかりに親指をぐっと立てる。
……いやいや、そんなジェスチャーしている場合じゃなくて。
「指パッチンして場所移動っておかしくないですか……。それに雨を降らすとか言ってみたり、それじゃまるで……」
「人間じゃないみたい、と言いたいのですね」
呑み込んだ言葉を言われ、わたしはしぶしぶ頷く。すると綾波さんは、首を縦に振った。
「ええ、そのとおりです。僕は人間ではありません。普段は普通に大学生として生活していますが、それは世を忍ぶ仮の姿――僕は」
その瞬間、風が吹く。綾波さんの綺麗な髪がなびいて、彼の頬にかかる。その美しい彼の口が、こう動いた。
「藤原千方様に仕える四鬼がひとり――水を操り雨を降らす『水鬼』です。
お兄さんならぬ『鬼いさん』ですね、はは」
いやいや、ギャグ言っている場合じゃないですよ……。
綾波さんは、人間じゃなかった、なんてどう捉えればいいのか分からないよ。
それに――。
どくん。
ふじらわのちかた――その名前を聞いた瞬間、わたしの心臓が跳ねた。
知らない名前のはずなのに、どうしてこんなにも懐かしいのだろう。
その疑問を頭の隅に追いやってから綾波さんに向き直る。
「綾波さんは……その『すいき』とやらで、雨を降らす側だから、いつも正確な予報を教えてくれてたってことですか?」
「そうなります。僕は結構細かいことにこだわる性分なので、人間の定めた時間のちょうどいいところに合わせて雨を降らせることが多かったですが」
午後二時、十七時――確かにここ最近、区切りの良いところで雨が降っていたような気もする。もしかしたらずっと前からそうだったのかもしれない。
「どうして、人間のフリをしているんですか」
わたしが尋ねると、綾波さんは静かに答えた。
「言ったでしょう、世を忍ぶためだと。とある昔の仲間を探しているんですよ――だけどその仲間たちは、もしかしたら記憶を失っているかもしれない。自分の正体にも気づかず、人間界で暮らしているかもしれない。だから僕も人間になりすまして、探しているのです」
「なるほど、です」
わたしは少し考えてから、最後に聞きたいことを口にした。
「じゃあ……どうして綾波さんは、わたしに正体を話してくれたんですか?」
そう、これが最大の疑問だ。「雨を降らす」と発言した時、言い間違えだとごまかしてしまえばよかったのだ。なのに、彼はそうしなかった――妖術か何かでわたしを屋根まで連れて来て、彼の正体、そして目的まで話した。
それは何故か――。
「それはですね」
綾波さんがつかつかとこちらへ歩いてきた。緩いとはいえ、傾斜のある屋根の上だ。わたしは足を動かすことができない。
彼がわたしの正面まで来て足を止めた。触れ合いそうなくらい近い距離だ。
「……なんですか?」
「まだ思い出さないのですか」
思い出さない? 何を?
「まあ、いいでしょう。こうすれば分かります」
そう言って、綾波さんはわたしの肩を思い切り突き飛ばした。
「えっ、ちょっ!」
とっさのことにわたしはバランスを崩し、足をもつれさせながら屋根の端まで来て――。
「落ちっ……!」
勢いよく空中へと躍り出る。手を伸ばす、しかし当たり前だけれど掴むものなど何もない。
綾波さん……わたしをこうして口封じさせればいいから全部話したんだ。
そう思ったけれど、もう何もかも遅い。
地面が近くなる。目をギュッとつぶる。
死――――。
「……え?」
確かに衝撃は感じた。しかしどこも痛くないし、怪我もしていないし、何より。
「死んでいない……?」
「金宮さん」
気づくと、目の前に綾波さんが立っていた。わたしは驚いて、勢いよく上体を起こす。
「綾波さん、一体、何が起こって……」
「僕は何もしていませんよ。貴女がただ、四階建ての建物から落ちても怪我をしなかったということ。それだけです」
いやいやいやいや、だからそれがありえないんだってば。
わたしが目をぱちくりさせていると、綾波さんが話し出した。
「金鬼、僕が探している仲間のひとりです。矢で射られても体に突き刺さらないといわれるほど体が堅固にできているそうですが」
きんき。
――金鬼、という漢字がすぐに思い浮かぶ。
合わせて先ほど引っかかった人名――ふじわらのちかた。
これも思い出した。
藤原千方、飛鳥時代を生きた豪族にして、四体の鬼を使役した陰陽師ともいわれている男。
そして彼は鬼とともに謀反を起こした朝敵――。
「ちかた、さま?」
わたしの口がそう勝手に動いた。
瞬間、脳内に流れ込んでくる誰かの記憶――。
その中には、このアパートに越してくるまで知らなかったはずの綾波さんの顔もあった。
誰かの記憶、じゃない。
これはわたしの記憶だ。
そうだ、思い出した。わたしは金鬼、千年以上前に千方様に仕えていた式神で、それで長い間どこかへ封印されていて――。
「思い出しましたか、金宮さん。いや、金鬼殿」
綾波さん、いえ――水鬼が手を伸ばしてくる。
わたしはその手を握り返し、立ち上がった。
そして彼の、その懐かしい顔を見上げて、頷いた。
「思い出しました、ありがとう」
ふと腕時計を見ると、十七時をちょうど過ぎたところだった。
雨は降っていない。
「雨は降らせなくてよいのですか?」
わたしがそう言うと、彼は驚いたように彼自身の時計を確認した。
「おっと、過ぎていましたか。じゃあ……」
細かい性格の水鬼は、笑顔を浮かべてこう口にする。
「雨を降らすのは、十八時からにしましょうか」
人間の定めた時間だというのに、それにこだわる仲間がなんだかおかしくて。
「ふふ、いいですね」
わたしも静かに笑うのだった。
(了)