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 愛子がいなくなると、途端になにも手につかなくなった。三日目には食事がのどを通らなくなり、ひげをそれなくなり、風呂にも入れなくなった。しまいには着替えのしかたもわからなくなった。
 そして一週間経つと、すべてが泥の海に沈められてしまったかのように感じた。朝日を嫌い、昼も夜もまどろんだ。物音が聞こえれば、妻が帰宅したのかと期待したが、ポストへ郵便物が投函されたか、回覧板が回ってきただけだった。
 すでに食料は尽きている。洋司は残されていた気力を振り絞り、無線で山岡を呼んだ。午前十時。彼はいつもの周波数で待っていた。

「しばらくぶりだね、佐藤さん。検査で問題なくて良かったね」

 外で無線機を使う楽しみは、山岡から習った。平和で穏やかな日々がひどく昔のことのようになつかしく思い出され、洋司の涙腺は崩壊した。

「山岡さん、どうしよう。愛子に手をあげてしまった……」

「佐藤さん、そんな話、ここでしちゃいけないよ。世界中の誰でも聞けるところで……。ただの夫婦喧嘩だろう?」

 そもそものきっかけは洋司のやきもちにある。ちいさな疑念から妻を突き放し、ろくに話も聞かずに暴走したのだ。

「違います。おれがひとりで腹を立てただけなんです……」

 声は届いているだろうに、山岡の応答はない。呆れたか、考えているか、どちらかだろう。洋司は無線機の電源を落とし、瞳を閉じた。そうしているとあらゆる苦痛を忘れ、漠然と考えていながらまとめられずにいた答えに、少しずつ近づいていけるような気がするのだ。
 静寂のなかで洋司はずいぶん前に山岡から聞かされた言葉を一言一句違わずに真似た。

「空で会う時は資格の階級はもちろん年齢や性別、身分、貧乏もお金持ちも関係ない。だからこそ嘘は駄目だ。嘘は他人を容赦なく傷つけるものだから」

 遥か遠くからひとすじの光明が射し、暗闇を走る――そのイメージは、ようやく洋司の腑に落ちる悟りをもたらした。
 正義とはなにか、いま一度世に問う。
 これこそが、残された人生をかけ、行うべきことなのだとはっきり自覚した。

 翌朝には町役場の前で『ダム計画反対!』と書いたプラカードを持って立つことにした。谷口やほかの職員はしばらく遠巻きに眺めていたが、まもなくパトカーがサイレンを鳴らしながら駆けつけた。
 かつての同業者の要請に対し、洋司はいっさい抵抗せず、おとなしく連行されることにする。言われている言葉の意味が理解できなかったこともあるが、胸ポケットに入れたトランシーバーを通じ、ファージがささやくからだ。これから迎えにいきます、と。
 彼らは孤独を嘆く洋司に、真の故郷は地中にあると教えてくれた。そこに住む許可は、誰にでも与えられるようでいて、実は選ばれた者にしか与えられないのだ、とも。
 愛のささやきは日々浪々と奏でられ、声の潮流はやがて奔流となり、洋司の頭のなかを侵食していった。呼吸と心拍数が比例して上昇し、体が熱を帯びる。心音が耳元で響く。赤信号で停止したとき、洋司はためらいなくパトカーのドアを開け、外へ飛び出した。
 全身を強打した痛みは、落下直後からじわじわと訪れた。しかしそれを上回る極上の幸福感が胸を満たしている。今から真の意味で卒業を迎えるのだ。洋司は路肩の枯れ草に顔を埋め、声にならない想念を投げた。

「さぁ、みんな! おれを『小さな杖』の一員にしてくれ!」

 こころ通わせた地中の友は、ありとあらゆる枯れ草をわが手のごとく自由に使役し、満身創痍の洋司を取り込む。差し出された洋司の血肉は、踊り沸き立つ彼らへの供物となり、ものの数分もしないうちに分解されてしまった。



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 すでに食料は尽きている。洋司は残されていた気力を振り絞り、無線で山岡を呼んだ。午前十時。彼はいつもの周波数で待っていた。
「しばらくぶりだね、佐藤さん。検査で問題なくて良かったね」
 外で無線機を使う楽しみは、山岡から習った。平和で穏やかな日々がひどく昔のことのようになつかしく思い出され、洋司の涙腺は崩壊した。
「山岡さん、どうしよう。愛子に手をあげてしまった……」
「佐藤さん、そんな話、ここでしちゃいけないよ。世界中の誰でも聞けるところで……。ただの夫婦喧嘩だろう?」
 そもそものきっかけは洋司のやきもちにある。ちいさな疑念から妻を突き放し、ろくに話も聞かずに暴走したのだ。
「違います。おれがひとりで腹を立てただけなんです……」
 声は届いているだろうに、山岡の応答はない。呆れたか、考えているか、どちらかだろう。洋司は無線機の電源を落とし、瞳を閉じた。そうしているとあらゆる苦痛を忘れ、漠然と考えていながらまとめられずにいた答えに、少しずつ近づいていけるような気がするのだ。
 静寂のなかで洋司はずいぶん前に山岡から聞かされた言葉を一言一句違わずに真似た。
「空で会う時は資格の階級はもちろん年齢や性別、身分、貧乏もお金持ちも関係ない。だからこそ嘘は駄目だ。嘘は他人を容赦なく傷つけるものだから」
 遥か遠くからひとすじの光明が射し、暗闇を走る――そのイメージは、ようやく洋司の腑に落ちる悟りをもたらした。
 正義とはなにか、いま一度世に問う。
 これこそが、残された人生をかけ、行うべきことなのだとはっきり自覚した。
 翌朝には町役場の前で『ダム計画反対!』と書いたプラカードを持って立つことにした。谷口やほかの職員はしばらく遠巻きに眺めていたが、まもなくパトカーがサイレンを鳴らしながら駆けつけた。
 かつての同業者の要請に対し、洋司はいっさい抵抗せず、おとなしく連行されることにする。言われている言葉の意味が理解できなかったこともあるが、胸ポケットに入れたトランシーバーを通じ、ファージがささやくからだ。これから迎えにいきます、と。
 彼らは孤独を嘆く洋司に、真の故郷は地中にあると教えてくれた。そこに住む許可は、誰にでも与えられるようでいて、実は選ばれた者にしか与えられないのだ、とも。
 愛のささやきは日々浪々と奏でられ、声の潮流はやがて奔流となり、洋司の頭のなかを侵食していった。呼吸と心拍数が比例して上昇し、体が熱を帯びる。心音が耳元で響く。赤信号で停止したとき、洋司はためらいなくパトカーのドアを開け、外へ飛び出した。
 全身を強打した痛みは、落下直後からじわじわと訪れた。しかしそれを上回る極上の幸福感が胸を満たしている。今から真の意味で卒業を迎えるのだ。洋司は路肩の枯れ草に顔を埋め、声にならない想念を投げた。
「さぁ、みんな! おれを『小さな杖』の一員にしてくれ!」
 こころ通わせた地中の友は、ありとあらゆる枯れ草をわが手のごとく自由に使役し、満身創痍の洋司を取り込む。差し出された洋司の血肉は、踊り沸き立つ彼らへの供物となり、ものの数分もしないうちに分解されてしまった。