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 役場の職員とは、ボランティアで何度も顔を合わせている。
 窓口に行くと、こちらに気づいた担当の谷口が椅子から腰をあげた。

「佐藤さんじゃないですか。お怪我されてしまったんですか?」

 洋司はにこやかにほほえんでから答えた。

「ちょっと転んでしまいましてね。大したことはないんです。それより折りいって確認したいことがあるんですが構いませんか?」

「わたくしでわかることならなんでも聞いてください」

 谷口は素直な若者だ。罪悪感で胸が痛むが、洋司は腹を決めて声をひそめた。

「実は奇妙な噂を聞いたんです。里山ニュータウン計画など初めから存在せず、本当は巨大な貯水施設を作ろうとしているのだと」

 谷口の目が明らかに泳いだのを、洋司は見逃さなかった。しかし若者は、精巧なロボットのように模範解答を述べた。

「噂は噂に過ぎません。里山ニュータウン計画以外の計画などありませんのでご安心ください」

 これ以上の滞在は怪しまれるだけだ。洋司はあっさりと引き下がり、また病院に戻った。

 洋司はかつて交番勤務をしていた。
 あるとき一軒の民家から通報があり、駆けつけると、泥棒に入った男と家主がもみ合っていた。
 無我夢中で逃亡をはかった犯人に飛びかかったため、その時の記憶は曖昧だ。気づけば左の太腿を深く切りつけられていたのである。
 神経はどうにか繋げてもらったが、後遺症が残り、杖なしではまともに歩くことができなくなってしまった。
 英雄のようにもてはやされる一方で、犯人を取り逃がしたことが非難された。虚しさを覚え、知人のいない土地を探し、たどり着いたのがこの町である。故郷を失う悲しみはもう二度と味わいたくない。
 日ごとに深まるその思いは、触れれば爆発する寸前まで高まっていた。バスツアーから帰ってきた愛子が、ひどい香水の匂いを漂わせていたのがトリガーになった。
「どこに行っていたんだ」と、洋司はくぐもった声で問いつめる。愛子は玄関のたたきに立ちつくしたまま、静かに応じた。

「ダムよ。期待してなかったけど、結構面白かったわ」

 怒りが一気に脳天を突き抜けた。洋司は愛子の頬に平手を飛ばし、般若の表情で怒鳴り散らした。

「ダムだと!? この町が水底に沈むかもしれんというのに、なにをのんきな……おまえにはふるさとへの思い入れというものがないのか!」

 愛子には意味がわからなかった。とつぜん殴られたことへの憤りよりも、変わり果てた夫の身を案じた。

「あなた変よ。最近ずっと自分の部屋に閉じこもって、誰かとこそこそ話しているし……いったいどうしちゃったの?」

「おれが誰と話そうが、おまえには関係ない! それに知っているんだぞ! 公園で男と会っていたことをな!」

「友達よ。一度だって口出ししたことなかったくせに、今さらなにを言ってるのよ……」

 愛子はついにさめざめと泣きはじめたが、洋司の怒りは収まらなかった。

「おまえにはつくづく愛想が尽きた! 当分は顔も見たくない!」

 そう言い捨てるなりまた自室にこもり、無線機の前に座る。
 しばらくのあいだ、雑談できる相手を適当に探した。しかしそれに飽きると、無性に腹が減ってきた。

「愛子! おーい、愛子!」

 薄暗い廊下を手すりを頼りに歩いてゆく。しかし妻の返事はない。男友達に会いにいったのかもしれない。

「ほとぼりも冷めんうちに……まったくなにを考えているんだか」

 ぶつぶつつぶやきながら台所へ入り、電気をつける。そこでようやく食卓の置き手紙に気がついた。手紙にはたったひと言、姉夫婦のところでしばらくお世話になります、としたためられていた。


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 役場の職員とは、ボランティアで何度も顔を合わせている。 窓口に行くと、こちらに気づいた担当の谷口が椅子から腰をあげた。
「佐藤さんじゃないですか。お怪我されてしまったんですか?」
 洋司はにこやかにほほえんでから答えた。
「ちょっと転んでしまいましてね。大したことはないんです。それより折りいって確認したいことがあるんですが構いませんか?」
「わたくしでわかることならなんでも聞いてください」
 谷口は素直な若者だ。罪悪感で胸が痛むが、洋司は腹を決めて声をひそめた。
「実は奇妙な噂を聞いたんです。里山ニュータウン計画など初めから存在せず、本当は巨大な貯水施設を作ろうとしているのだと」
 谷口の目が明らかに泳いだのを、洋司は見逃さなかった。しかし若者は、精巧なロボットのように模範解答を述べた。
「噂は噂に過ぎません。里山ニュータウン計画以外の計画などありませんのでご安心ください」
 これ以上の滞在は怪しまれるだけだ。洋司はあっさりと引き下がり、また病院に戻った。
 洋司はかつて交番勤務をしていた。
 あるとき一軒の民家から通報があり、駆けつけると、泥棒に入った男と家主がもみ合っていた。
 無我夢中で逃亡をはかった犯人に飛びかかったため、その時の記憶は曖昧だ。気づけば左の太腿を深く切りつけられていたのである。
 神経はどうにか繋げてもらったが、後遺症が残り、杖なしではまともに歩くことができなくなってしまった。
 英雄のようにもてはやされる一方で、犯人を取り逃がしたことが非難された。虚しさを覚え、知人のいない土地を探し、たどり着いたのがこの町である。故郷を失う悲しみはもう二度と味わいたくない。
 日ごとに深まるその思いは、触れれば爆発する寸前まで高まっていた。バスツアーから帰ってきた愛子が、ひどい香水の匂いを漂わせていたのがトリガーになった。
「どこに行っていたんだ」と、洋司はくぐもった声で問いつめる。愛子は玄関のたたきに立ちつくしたまま、静かに応じた。
「ダムよ。期待してなかったけど、結構面白かったわ」
 怒りが一気に脳天を突き抜けた。洋司は愛子の頬に平手を飛ばし、般若の表情で怒鳴り散らした。
「ダムだと!? この町が水底に沈むかもしれんというのに、なにをのんきな……おまえにはふるさとへの思い入れというものがないのか!」
 愛子には意味がわからなかった。とつぜん殴られたことへの憤りよりも、変わり果てた夫の身を案じた。
「あなた変よ。最近ずっと自分の部屋に閉じこもって、誰かとこそこそ話しているし……いったいどうしちゃったの?」
「おれが誰と話そうが、おまえには関係ない! それに知っているんだぞ! 公園で男と会っていたことをな!」
「友達よ。一度だって口出ししたことなかったくせに、今さらなにを言ってるのよ……」
 愛子はついにさめざめと泣きはじめたが、洋司の怒りは収まらなかった。
「おまえにはつくづく愛想が尽きた! 当分は顔も見たくない!」
 そう言い捨てるなりまた自室にこもり、無線機の前に座る。
 しばらくのあいだ、雑談できる相手を適当に探した。しかしそれに飽きると、無性に腹が減ってきた。
「愛子! おーい、愛子!」
 薄暗い廊下を手すりを頼りに歩いてゆく。しかし妻の返事はない。男友達に会いにいったのかもしれない。
「ほとぼりも冷めんうちに……まったくなにを考えているんだか」
 ぶつぶつつぶやきながら台所へ入り、電気をつける。そこでようやく食卓の置き手紙に気がついた。手紙にはたったひと言、姉夫婦のところでしばらくお世話になります、としたためられていた。