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第17話_日常の始まり

ー/ー



喧騒と明かりに包まれていた。
改札前には人の波が途切れることなく流れ、22時を過ぎても活気は失われていない。
電光掲示板には、缶ビールを片手に笑うサラリーマンの広告が映し出されていた。
仕事帰りの人間にとって、これほど購買意欲を刺激するものはないだろう。

気づけば田中は、改札の目の前で立ち尽くしていた。
人の流れに取り残されるように。
周囲のサラリーマンたちは、彼を邪魔そうに横目で見ながら軽快に通り過ぎていく。

(あれ……?)

視界がじわじわとクリアになっていく。
目はずっと開いていたはずなのに、光が遅れて網膜に差し込むような感覚。
胸の奥にわずかな違和感が生まれる。

(俺……何してたんだっけ?)

ここに来るまでの記憶が、一瞬真っ白に途切れていた。
自分がなぜここに立っているのか、まるで分からない。
ふと手元に目を落とす。スマホの画面が明滅していた。

22時30分、月曜日。
出勤日。

その瞬間、記憶が急に繋がった。
(いや、普通にさっきまで残業してたよな……)

思わず苦笑が漏れる。

(……もう歳なのかな)
自分の記憶力の衰えを実感し、アラサーになった現実を突きつけられた気がした。

肩が自然と落ち、大きなため息がこぼれる。
肺の奥がじんわりと熱く、眠気が一気に押し寄せる。

(いや、寝不足だ……これは絶対に寝不足だ。……さっさと帰ろう)
そう言い聞かせるように、スマホを改札にかざした。

――ピッ。

軽快な音とともに、ゲートが開く。
田中は慌ただしく小走りで6番ホームへ向かった。
その背中は、もう日常へ溶け込んでいくサラリーマンの一人に過ぎなかった。

だが、彼は知らない。
どれほど長く歩き回り、どれほどのものを見たかを。
記憶のすべては、すでにどこかへ封じ込められている。


気づかれることなく、一切世界から認識されることもない。
いともたやすく日常に溶け込み、そして取り込もうとする。
存在する理由も目的もなく、ただ無機質な意思を宿す空間――

それが『リミナルスペース』。

傍から見れば魅力的に思えるかもしれない。
だが、もし目の当たりにしたなら――
その幻想は、現実によって容易く打ち砕かれるのだ。


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喧騒と明かりに包まれていた。
改札前には人の波が途切れることなく流れ、22時を過ぎても活気は失われていない。
電光掲示板には、缶ビールを片手に笑うサラリーマンの広告が映し出されていた。
仕事帰りの人間にとって、これほど購買意欲を刺激するものはないだろう。
気づけば田中は、改札の目の前で立ち尽くしていた。
人の流れに取り残されるように。
周囲のサラリーマンたちは、彼を邪魔そうに横目で見ながら軽快に通り過ぎていく。
(あれ……?)
視界がじわじわとクリアになっていく。
目はずっと開いていたはずなのに、光が遅れて網膜に差し込むような感覚。
胸の奥にわずかな違和感が生まれる。
(俺……何してたんだっけ?)
ここに来るまでの記憶が、一瞬真っ白に途切れていた。
自分がなぜここに立っているのか、まるで分からない。
ふと手元に目を落とす。スマホの画面が明滅していた。
22時30分、月曜日。
出勤日。
その瞬間、記憶が急に繋がった。
(いや、普通にさっきまで残業してたよな……)
思わず苦笑が漏れる。
(……もう歳なのかな)
自分の記憶力の衰えを実感し、アラサーになった現実を突きつけられた気がした。
肩が自然と落ち、大きなため息がこぼれる。
肺の奥がじんわりと熱く、眠気が一気に押し寄せる。
(いや、寝不足だ……これは絶対に寝不足だ。……さっさと帰ろう)
そう言い聞かせるように、スマホを改札にかざした。
――ピッ。
軽快な音とともに、ゲートが開く。
田中は慌ただしく小走りで6番ホームへ向かった。
その背中は、もう日常へ溶け込んでいくサラリーマンの一人に過ぎなかった。
だが、彼は知らない。
どれほど長く歩き回り、どれほどのものを見たかを。
記憶のすべては、すでにどこかへ封じ込められている。
気づかれることなく、一切世界から認識されることもない。
いともたやすく日常に溶け込み、そして取り込もうとする。
存在する理由も目的もなく、ただ無機質な意思を宿す空間――
それが『リミナルスペース』。
傍から見れば魅力的に思えるかもしれない。
だが、もし目の当たりにしたなら――
その幻想は、現実によって容易く打ち砕かれるのだ。