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第五章:しろいふく

ー/ー




・安藤佳純:自室───十五年後

「これもダメ。びんぼうになっちゃう」
 黒ヘビのぬいぐるみとお話しながら、チョキチョキとピンクを切り刻む。私の部屋は一色しか許されない。
 だってね、汚れちゃうから。
 何色にも決して染まることのない『黒』しかダメ。
 それなのにパパは何度言っても伝わらないの。
『佳純が好きなピンク色のウサギさんだよ』ってドアの前に置いたんだよ。そういえば、黄色のヒヨコもあったな。
 だからね、『やめて、びんぼうになってしまう』って言ってやったの。
 何度言わせるのよ。
 
 私はパパがきらい。何色にも染まらないはずの『黒』を茶色、赤、ピンク、金色……。
 簡単に貧乏を生み出すから。
 それに、二十歳を超えた娘にぬいぐるみ?笑っちゃう。フリルが泥水で汚れた日からパパは時間が止まっているみたい。
 何年かぶりに顔を合わせた時、私は壁にヒビが入るほどの大声を出し叫んだの。
 だってね、頭に白いものがたくさん生えていたから。
「黒、黒にしろ!」
 外敵を追い出すように声を張り上げてやった。そしたらね、バンッ!っと大きな音を立てパパはドアを閉めたわ。
 その日から、私の髪の毛にもいつか白い物が出てきたらと思うと気が狂いそうになるの。
 だから、自分を映すものを排除した。
 でもね、ハサミは手放せない。だから仕方なくギラつく刃を黒いテープで覆ったの。
 チョキチョキとスムーズに切れないことに腹が立つけれど、これくらい我慢できるかな。白いものを見るよりよっぽどマシだから。
 
 私ね、本当に白いものが怖いの。だから、ご飯を食べるのも大変なのよ。
 だって、ご飯は白いでしょ。だからね、ママに真っ黒な海苔で巻いてもらうの。絶対に白が見えないように。
 食べ方は黒ヘビちゃんに教えてもらったよ。全部飲み込んじゃうんだ。
「ね、黒ヘビちゃん」

 ……黒ヘビちゃん。
 ……この一本の糸は何?

 スーッと抜けた……。
 なに?どうしたの?
 
「嫌。ダメ。いやー!びんぼうだ!びんぼう!」
 
 バタバタと足音がする。私の嫌いなパパが来た。
「佳純!どうした?」
「やだよ。黒ヘビちゃんがびんぼうになっちゃった」
「え?……綿が出ただけじゃないか。びっくりするだろ」
 やっぱりパパは何も分かってない。そうよね。だって、『びんぼう』を作っちゃう人なんだもん。
 きっと、私の黒ヘビちゃんまで『びんぼう』にするつもりなんだ。
「ママはどこ行ったのよ!早く呼んできて!」
 チョキチョキとハサミを鳴らしながら叫んでみた。
「そ、そんな目で見るなよ。ママはいないだろ」

 ……思い出した。
 ママは雨がザーザー降っていたあの日、真っ黒なビニールを着てどこかに行ったよね。そういえば、あれから何日も帰ってこない。あの日に私が渡したもう一本のハサミも。
 目の端で何かが動いている。パパが黒ヘビちゃんに手を伸ばそうとしていた。
「触らないで!……ねぇ、私前から思ってたんだけどパパって悪い人だよね」
「何も悪いことなんてしてないだろ!」
 ほら、そうやって大声出すところも嫌い。
「分かってないんだね。今だってルール違反してるのに」
「ルール……違反?」
「そう。この部屋は『黒』しかダメだって言ってるの。さて、パパは何色の服を着てるでしょうか?」
 この目も憎い。だって、私を裏切った友梨奈みたいなんだもん。
「ピ、ピンク色」
「正解!ほらね、ルール違反でしょ。だからチョキチョキしないと」
「や、やめてくれ」
「パパがいなければ、『びんぼう』が作られることもなくなるんだよ」
 パパの作るおにぎりは「白」がはみ出すから嫌なの。

 ……グサ、グサリ。

 勇二の胸元が赤色に染まっていく。

 残念。
 ママは絶対にルール違反をしなかったのにな。
 
「パパも『黒』で隠さないとね」
 
───────────────
 
 

 
・安藤純(佳純の母):───独居房(事件直後)

 佳純は真っ黒なおむすびを残さず食べているだろうか。
 夫の勇二はルール違反を犯してないだろうか。
 私は何も悪くない。
 
 あの日、筒井彩美がまた白い服を着ていたのが悪い。
 朝からザーザーと雨の音が重なって佳純の声がはっきりと聞こえなかった。
「おにぎり、置いとくからね」
 
 ……チョキチョキ。

 また勇二が刻むものを与えたのだろう。
 パタパタと階段を降り、ボサボサ頭に向かって言った。
「佳純に何か渡したでしょ」
「ヒヨコのぬいぐるみ」
「黒色の?」
「そんなわけないだろ。ヒヨコは『黄色』に決まってる」
 つい、鋭い目になってしまう。
「何度も言ってるじゃない。『黒』しか与えないでって。ご飯だってわざわざ海苔を巻いてるのよ」
「そんなことしてるからいつまでも、部屋から出てこないんだ。言うことを聞きすぎなんだよ」
「佳純のこと全然、理解しようとしてないわね。そのうちあなたも『チョキチョキ』されちゃうわよ」
 勇二はピースをし、目を細めた。
「全然、笑えない」

 鏡の前で両頬を餅のように伸ばし、柔らかい表情に直してから全身『黒』に着替える。
 佳純の部屋をそっとノックをし、ドアを開けると、ヒヨコであっただろう黄色が花びらのように散りばめられていた。
 刻み疲れた様子で黒ヘビちゃんを抱きながら、体育座りをしている。
「またルール違反したんだよ」
「ごめんね。二度としないように伝えるわね」
「パパのせいで黒いテープもなくなってしまったの」
 ヒヨコから出た薄黄色の綿を、おむすびのように何個も黒く丸めてあるのだ。
「『びんぼう』を隠すの大変なんだからね」
「そうよね。あ、そのハサミ、『黒』が剥がれちゃいそう。直してあげるから貸して」
 また刃先を向け『グッ』と差し出した。
「ハサミを人に渡す……」
 私に向ける鋭い目を見て思い出した。
 この子には無意味だと。
 ザラリとした刃先を握り、佳純の耳に言葉を這わせた。
「ありがとう」

 ザラリとした感触と共に、初めて佳純が服を刻んだ夜を思い出した。
「筒井彩美」
 思わず声に出してしまう。
「汚れた白い服なんて着てるから悪いのよ。貧乏なあいつが全て悪い」
 
 ……そうだ。『差し上げる』って言いにいかなくちゃ。

 ザーザーと鳴らす雨など気にならなかった。黒いビニール生地で全身を覆えばいいのだから。
 玄関でガサガサと音を立て『黒』を纏った。
 一歩外に出ただけであっという間に雫が落ちる。佳純の部屋を見上げ、見ているはずなどないのに手を振る。
 フードを被り、視線を下に向けていたはずだが、彩るランドセルの中にピンク色を見つけてしまった。
「……佳純」
 そんなわけがない。我が家にある同じ色のランドセルは持ち主が不在なのだ。
 全て、『筒井彩美』が悪い。
 西日が当たる教室であの女は、堂々と『蓮を愛しているわ』と発表したのだ。
 まるで、あの汚れが愛情の証だと見せつけるかのように……。
 
「許さない」

 しかし、『差し上げる』と伝えに行くだけなのだとピンクのランドセルを思い出し、心を沈めた。
 ぴたりと足を止め、古びたアパートの前に立つ。
「やっぱり、貧乏なのね」
 インターホンのカメラに、心の中を見られている気がしてフードを深く被り直した。
 
「どうか、白い服を着ていませんように」

 右手を出し、そっとインターホンを押す。
 左手にはザラリとした冷たい感触を抱いたまま。
「安藤です」
 雨音が返事を細かく砕いた。ドアがカチャと開く。
 雫が刃先を伝う。
 
「静かに」
 人差し指を立てた。
 
「残念だわ。『しろいふく』だったのね」
 肩を強く押し、仰向けになった『筒井彩美』に覆いかぶさる。

「ヒヨコみたいな汚れつけやがって」

 ……グサ、グサリ。

「佳純を返せ。この貧乏め」
 透明な雫がゆっくりと赤色に飲み込まれていく。
 白から佳純を守るには……白を切るしかなかった。
 これで、私はあの子を守ることができたのだ。

 それと引き換えに私の身体は、冷たい壁に囚われている。手の届かぬ場所にある小さな窓からは、雨の音しか聞こえない。
 コツコツと規律の靴音が近づき、私の名前を呼ぶ声がする。
「点呼!四十六番!安藤純」

「……呼ぶな」

「四十六番!安藤純」

「やめろ!」
 頭の中で四と六が交互に顔を出す。
 
 ……四は『し』
 ……六は『ろ』

 新たな『白』が私を飲み込んでいくのだった。

───────────────
 


 
 ・筒井蓮:筒井家───十五年後

 黄色の染みに手を合わせた祈りは届かなかった。
 僕の心はずっとザーザー雨のままだから。
 しかし、母が着ていた「しろいふく」に込められていた汚れの意味を知った時、雨は止み、お日様に出会えた。

 あれは、桜が満開になる頃。
 僕は胸ポケットに花が飾られた学生服を脱ぎ白いシャツになった。
 母の変わらない笑顔を見つめ、ゆっくりとまばたきをする。
「無事に卒業しました。洗濯物も自分でできるようになったんだ。干すたび、お母さんを思い出すよ」
 シャボン玉のような匂いを、毎日近くに感じながら生きてきた。まるで、母が隣で微笑んでいてくれるかのように。
 そっと、目を閉じる。
 
 今思い返してみると大人への階段を登るために、母の箪笥を開けたのかもしれない。
 指の痕が付き、ギーッと鈍い音がした。ふわりと白く舞う埃は西日が当たって、花びらのように散っていく。
 何年も眠っていた白い服たちは様々な色に彩られていた。
 一枚ずつ広げていく。
 
 ……学校ごっこをしたケチャップの赤色。
 ……スプーンから飛んだカレーの茶色。
 その中には、覚えていない色もある。
 「クレヨン?」
 そうだ……僕は幼い頃、絵を描くことが好きだった。
 するはずのない香ばしい匂いと共に記憶が蘇る。

 「蓮くんの好きなパンが焼けましたよ」
 「まだ、描いてる」
 「幼稚園バスが来ちゃうわよ」
 「イヤだ」
 きっと欲張りだったのだろう。両手に持てるだけのクレヨンを持ちギャーギャーと喚き散らした。
 「蓮くん……」
 母はそのまま僕を抱きしめた。
 「イヤだ、イヤだ」
 僕の両肩を掴み、そっと胸から距離をとる。
 「ほら見て、服がカラフルになったでしょ」
 目を丸くし、色付いた服で鼻水と涙を拭いた。その汚れを摘み母は言った。
 
 「蓮くんのサイン付きになったわね」
 
 ……その時もシャボン玉の匂いがした。

 桜の花びらが視界を掠めた。
 その先にいる笑顔の母がぼやけている。……温かいものが頬をつたう。
 僕は腕の中にカラフルな『しろいふく』をギュッと抱きしめていた。
「お母さん……。宝物をありがとう」
 
 ───あれから五年。
 もうすぐ家族ができる。宝物が増えるのだ。
 きっと母も祝福してくれていると思う。
 彼女は穏やかで僕の全てを包み込んでくれる。ただ一つだけ、頑なに譲らないことがある。
 彼女は結婚式を挙げることを拒む。恥ずかしがり屋な性格なのだろう。小学生の頃、人前で体操着に着替えることもできなかったのだから。
 そんなところも僕は愛しているのだ。
 
 僕の新しい家族の名前は───
 『筒井友梨奈』だ。
 お祝いに「しろいふく」をプレゼントしようと思う。
 母になる友梨奈へ。
 
 


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・安藤佳純:自室───十五年後
「これもダメ。びんぼうになっちゃう」
 黒ヘビのぬいぐるみとお話しながら、チョキチョキとピンクを切り刻む。私の部屋は一色しか許されない。
 だってね、汚れちゃうから。
 何色にも決して染まることのない『黒』しかダメ。
 それなのにパパは何度言っても伝わらないの。
『佳純が好きなピンク色のウサギさんだよ』ってドアの前に置いたんだよ。そういえば、黄色のヒヨコもあったな。
 だからね、『やめて、びんぼうになってしまう』って言ってやったの。
 何度言わせるのよ。
 私はパパがきらい。何色にも染まらないはずの『黒』を茶色、赤、ピンク、金色……。
 簡単に貧乏を生み出すから。
 それに、二十歳を超えた娘にぬいぐるみ?笑っちゃう。フリルが泥水で汚れた日からパパは時間が止まっているみたい。
 何年かぶりに顔を合わせた時、私は壁にヒビが入るほどの大声を出し叫んだの。
 だってね、頭に白いものがたくさん生えていたから。
「黒、黒にしろ!」
 外敵を追い出すように声を張り上げてやった。そしたらね、バンッ!っと大きな音を立てパパはドアを閉めたわ。
 その日から、私の髪の毛にもいつか白い物が出てきたらと思うと気が狂いそうになるの。
 だから、自分を映すものを排除した。
 でもね、ハサミは手放せない。だから仕方なくギラつく刃を黒いテープで覆ったの。
 チョキチョキとスムーズに切れないことに腹が立つけれど、これくらい我慢できるかな。白いものを見るよりよっぽどマシだから。
 私ね、本当に白いものが怖いの。だから、ご飯を食べるのも大変なのよ。
 だって、ご飯は白いでしょ。だからね、ママに真っ黒な海苔で巻いてもらうの。絶対に白が見えないように。
 食べ方は黒ヘビちゃんに教えてもらったよ。全部飲み込んじゃうんだ。
「ね、黒ヘビちゃん」
 ……黒ヘビちゃん。
 ……この一本の糸は何?
 スーッと抜けた……。
 なに?どうしたの?
「嫌。ダメ。いやー!びんぼうだ!びんぼう!」
 バタバタと足音がする。私の嫌いなパパが来た。
「佳純!どうした?」
「やだよ。黒ヘビちゃんがびんぼうになっちゃった」
「え?……綿が出ただけじゃないか。びっくりするだろ」
 やっぱりパパは何も分かってない。そうよね。だって、『びんぼう』を作っちゃう人なんだもん。
 きっと、私の黒ヘビちゃんまで『びんぼう』にするつもりなんだ。
「ママはどこ行ったのよ!早く呼んできて!」
 チョキチョキとハサミを鳴らしながら叫んでみた。
「そ、そんな目で見るなよ。ママはいないだろ」
 ……思い出した。
 ママは雨がザーザー降っていたあの日、真っ黒なビニールを着てどこかに行ったよね。そういえば、あれから何日も帰ってこない。あの日に私が渡したもう一本のハサミも。
 目の端で何かが動いている。パパが黒ヘビちゃんに手を伸ばそうとしていた。
「触らないで!……ねぇ、私前から思ってたんだけどパパって悪い人だよね」
「何も悪いことなんてしてないだろ!」
 ほら、そうやって大声出すところも嫌い。
「分かってないんだね。今だってルール違反してるのに」
「ルール……違反?」
「そう。この部屋は『黒』しかダメだって言ってるの。さて、パパは何色の服を着てるでしょうか?」
 この目も憎い。だって、私を裏切った友梨奈みたいなんだもん。
「ピ、ピンク色」
「正解!ほらね、ルール違反でしょ。だからチョキチョキしないと」
「や、やめてくれ」
「パパがいなければ、『びんぼう』が作られることもなくなるんだよ」
 パパの作るおにぎりは「白」がはみ出すから嫌なの。
 ……グサ、グサリ。
 勇二の胸元が赤色に染まっていく。
 残念。
 ママは絶対にルール違反をしなかったのにな。
「パパも『黒』で隠さないとね」
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・安藤純(佳純の母):───独居房(事件直後)
 佳純は真っ黒なおむすびを残さず食べているだろうか。
 夫の勇二はルール違反を犯してないだろうか。
 私は何も悪くない。
 あの日、筒井彩美がまた白い服を着ていたのが悪い。
 朝からザーザーと雨の音が重なって佳純の声がはっきりと聞こえなかった。
「おにぎり、置いとくからね」
 ……チョキチョキ。
 また勇二が刻むものを与えたのだろう。
 パタパタと階段を降り、ボサボサ頭に向かって言った。
「佳純に何か渡したでしょ」
「ヒヨコのぬいぐるみ」
「黒色の?」
「そんなわけないだろ。ヒヨコは『黄色』に決まってる」
 つい、鋭い目になってしまう。
「何度も言ってるじゃない。『黒』しか与えないでって。ご飯だってわざわざ海苔を巻いてるのよ」
「そんなことしてるからいつまでも、部屋から出てこないんだ。言うことを聞きすぎなんだよ」
「佳純のこと全然、理解しようとしてないわね。そのうちあなたも『チョキチョキ』されちゃうわよ」
 勇二はピースをし、目を細めた。
「全然、笑えない」
 鏡の前で両頬を餅のように伸ばし、柔らかい表情に直してから全身『黒』に着替える。
 佳純の部屋をそっとノックをし、ドアを開けると、ヒヨコであっただろう黄色が花びらのように散りばめられていた。
 刻み疲れた様子で黒ヘビちゃんを抱きながら、体育座りをしている。
「またルール違反したんだよ」
「ごめんね。二度としないように伝えるわね」
「パパのせいで黒いテープもなくなってしまったの」
 ヒヨコから出た薄黄色の綿を、おむすびのように何個も黒く丸めてあるのだ。
「『びんぼう』を隠すの大変なんだからね」
「そうよね。あ、そのハサミ、『黒』が剥がれちゃいそう。直してあげるから貸して」
 また刃先を向け『グッ』と差し出した。
「ハサミを人に渡す……」
 私に向ける鋭い目を見て思い出した。
 この子には無意味だと。
 ザラリとした刃先を握り、佳純の耳に言葉を這わせた。
「ありがとう」
 ザラリとした感触と共に、初めて佳純が服を刻んだ夜を思い出した。
「筒井彩美」
 思わず声に出してしまう。
「汚れた白い服なんて着てるから悪いのよ。貧乏なあいつが全て悪い」
 ……そうだ。『差し上げる』って言いにいかなくちゃ。
 ザーザーと鳴らす雨など気にならなかった。黒いビニール生地で全身を覆えばいいのだから。
 玄関でガサガサと音を立て『黒』を纏った。
 一歩外に出ただけであっという間に雫が落ちる。佳純の部屋を見上げ、見ているはずなどないのに手を振る。
 フードを被り、視線を下に向けていたはずだが、彩るランドセルの中にピンク色を見つけてしまった。
「……佳純」
 そんなわけがない。我が家にある同じ色のランドセルは持ち主が不在なのだ。
 全て、『筒井彩美』が悪い。
 西日が当たる教室であの女は、堂々と『蓮を愛しているわ』と発表したのだ。
 まるで、あの汚れが愛情の証だと見せつけるかのように……。
「許さない」
 しかし、『差し上げる』と伝えに行くだけなのだとピンクのランドセルを思い出し、心を沈めた。
 ぴたりと足を止め、古びたアパートの前に立つ。
「やっぱり、貧乏なのね」
 インターホンのカメラに、心の中を見られている気がしてフードを深く被り直した。
「どうか、白い服を着ていませんように」
 右手を出し、そっとインターホンを押す。
 左手にはザラリとした冷たい感触を抱いたまま。
「安藤です」
 雨音が返事を細かく砕いた。ドアがカチャと開く。
 雫が刃先を伝う。
「静かに」
 人差し指を立てた。
「残念だわ。『しろいふく』だったのね」
 肩を強く押し、仰向けになった『筒井彩美』に覆いかぶさる。
「ヒヨコみたいな汚れつけやがって」
 ……グサ、グサリ。
「佳純を返せ。この貧乏め」
 透明な雫がゆっくりと赤色に飲み込まれていく。
 白から佳純を守るには……白を切るしかなかった。
 これで、私はあの子を守ることができたのだ。
 それと引き換えに私の身体は、冷たい壁に囚われている。手の届かぬ場所にある小さな窓からは、雨の音しか聞こえない。
 コツコツと規律の靴音が近づき、私の名前を呼ぶ声がする。
「点呼!四十六番!安藤純」
「……呼ぶな」
「四十六番!安藤純」
「やめろ!」
 頭の中で四と六が交互に顔を出す。
 ……四は『し』
 ……六は『ろ』
 新たな『白』が私を飲み込んでいくのだった。
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 ・筒井蓮:筒井家───十五年後
 黄色の染みに手を合わせた祈りは届かなかった。
 僕の心はずっとザーザー雨のままだから。
 しかし、母が着ていた「しろいふく」に込められていた汚れの意味を知った時、雨は止み、お日様に出会えた。
 あれは、桜が満開になる頃。
 僕は胸ポケットに花が飾られた学生服を脱ぎ白いシャツになった。
 母の変わらない笑顔を見つめ、ゆっくりとまばたきをする。
「無事に卒業しました。洗濯物も自分でできるようになったんだ。干すたび、お母さんを思い出すよ」
 シャボン玉のような匂いを、毎日近くに感じながら生きてきた。まるで、母が隣で微笑んでいてくれるかのように。
 そっと、目を閉じる。
 今思い返してみると大人への階段を登るために、母の箪笥を開けたのかもしれない。
 指の痕が付き、ギーッと鈍い音がした。ふわりと白く舞う埃は西日が当たって、花びらのように散っていく。
 何年も眠っていた白い服たちは様々な色に彩られていた。
 一枚ずつ広げていく。
 ……学校ごっこをしたケチャップの赤色。
 ……スプーンから飛んだカレーの茶色。
 その中には、覚えていない色もある。
 「クレヨン?」
 そうだ……僕は幼い頃、絵を描くことが好きだった。
 するはずのない香ばしい匂いと共に記憶が蘇る。
 「蓮くんの好きなパンが焼けましたよ」
 「まだ、描いてる」
 「幼稚園バスが来ちゃうわよ」
 「イヤだ」
 きっと欲張りだったのだろう。両手に持てるだけのクレヨンを持ちギャーギャーと喚き散らした。
 「蓮くん……」
 母はそのまま僕を抱きしめた。
 「イヤだ、イヤだ」
 僕の両肩を掴み、そっと胸から距離をとる。
 「ほら見て、服がカラフルになったでしょ」
 目を丸くし、色付いた服で鼻水と涙を拭いた。その汚れを摘み母は言った。
 「蓮くんのサイン付きになったわね」
 ……その時もシャボン玉の匂いがした。
 桜の花びらが視界を掠めた。
 その先にいる笑顔の母がぼやけている。……温かいものが頬をつたう。
 僕は腕の中にカラフルな『しろいふく』をギュッと抱きしめていた。
「お母さん……。宝物をありがとう」
 ───あれから五年。
 もうすぐ家族ができる。宝物が増えるのだ。
 きっと母も祝福してくれていると思う。
 彼女は穏やかで僕の全てを包み込んでくれる。ただ一つだけ、頑なに譲らないことがある。
 彼女は結婚式を挙げることを拒む。恥ずかしがり屋な性格なのだろう。小学生の頃、人前で体操着に着替えることもできなかったのだから。
 そんなところも僕は愛しているのだ。
 僕の新しい家族の名前は───
 『筒井友梨奈』だ。
 お祝いに「しろいふく」をプレゼントしようと思う。
 母になる友梨奈へ。