偶然、小田さんが主人公のドラマに出演できることになった。僕と小田さんとの病院での出会いとは全く関係がなく、偶然関係者の方から僕と小田さんに声がかけられた。ドラマは高校生が主人公の少女漫画を原作としていた。あらすじは小田さん演じる学校には内緒でVチューバーをやっている主人公を、僕達演じる男子生徒らが取り合うというものだった。
僕は、今回の現場が初対面の関係者が多くいらっしゃった。そのため、現場の方との親交を深め、現場の方が笑顔になれば嬉しいと思って、少し高いお店のチョコレートの差し入れをした。なるべく手渡しできる方には日頃のお礼を言いながら渡すと、喜んでくれる方が多いようだった。
僕はそれから何かの節目には差し入れをするようになった。前回よりも良いものにしようとか他の方よりも良いものにしようなどと考えていると、お金は消えていった。お金は消えるとしても、差し入れをした人として僕のことをよく思ってくれるのなら、楽しかった。時々、何もあげるものがないと、今日は何も無いのかと思われているような気がした。逆に、自分もあげなければいけない気がするからなのか少し嫌というような反応をする方もいた。それでも僕は誰々が好きそうだとか、会話ができそうだとか考えることが楽しくて、気づいたら差し入れをせずにはいられなくなった。
また、人の誕生日に贈り物をすることも難しいものだった。当たり前のことだが、全員にあげない限りは、誰かにあげると自然と誰かにあげないということになってしまった。誕生日自体を知らない方もいれば、あげる雰囲気ではない方もいた。また意地の悪いことに、誕生日を言われると、祝うことが前提になるようで逆に意地でも祝いたくなくなってくるときもあった。あるいは誕生日一日中二人で過ごしたいと言われた日には、自分の全身が溶けてなくなるまで相手を喜ばせなければいけないような気がした。しかも、誕生日に言われた言葉は通常の日に言われた言葉よりも残りやすいことを色々な方から聞いていたから自分の発した一言に相手を傷つける可能性があると考えると自分に務まる仕事ではないと感じた。だが、誕生日の一週間前くらいには意気揚々と相手が喜びそうな行き先を考えて、相手に嬉々として提案してしまった。そして三日前には相手の誕生日の重みに潰れそうになり、自分が体調不良になればいいのにとさえ考えてしまった。誕生日の時間を共に過ごすのはあまりに重たくて、逃げたくなってしまった。そして当日、相手と会ってしまえば、楽しくて、相手が良い誕生日を過ごせればよいと願って、楽しめる方法を考えていた。一方でどこか期待外れだと思われているのではないかと、恐れてもいた。そして、鞄に手を入れるたび、あげるものがないことを失望されているのではないかと気になった。だが所詮、僕から見た相手が喜ぶことは、僕の価値観から見た相手が喜ぶことだ。最終的には自分勝手なことに相手が喜ぶことは僕にわかるわけがないから、僕の喜ぶことを僕のお金で、相手の誕生日にやっている可能性があるのは心苦しい気もした。あるいは祝うことを難しく考えなくても、相手の誕生日を祝う言葉があれば、十分なのかもしれなかった。
逆に、自分の誕生日もまた緊張した。誕生日祝いを貰ってしまうと、相手の誕生日を忘れたら絶交されるのではないかと心配になってしまった。また、誕生日祝いに食事に連れて行ってもらうとなると、ご馳走してもらえることが多いから、相手の顔色を伺いながら誕生日祝いのご飯を食べてしまった。たかが毎年来るただの生まれた日なのに、まるで自分の価値が表れてしまうようで本当に緊張した。あるいは祝ってくれたなら素直にありがたいと思えばよいだけなのかもしれなかった。
ドラマの中には、全国大会をかけた僕のサッカーの試合を小田さんが応援に来て、見事全国大会に出場するという場面があった。サッカーをする場面を撮る数週間前から、僕はサッカーを勉強しようと考え、サッカーの動画を見ていた。すると、サッカーの動画がよくおすすめに出てくるようになった。日本代表が誕生日祝いをしていたり、着替えるとしっかりとした筋肉を持っていたりするのを見ていると、彼らは何もかも持っているのだと思った。少し勉強をして、サッカー選手のように格好いい動きをしたら少し格好良く見えるだろうかなどと考えた。
サッカー場は、つくりものだと強く感じる場所だった。もちろんサッカー場が自然にできるわけはないが、外にいるのに、自然界に存在してない場所であると強く感じて少し寂しくなった。人工芝が太陽の光に照らされてきれいな緑色を放っていた。
撮影の間、少し空いた時間でサッカー場を使わせていただいた。サッカーは、難しかった。球が上手に扱えずに、小田さんにもあまり格好良いところを見せられなかった。最後には小田さんも試合に参加したが、小田さんのほうが上手だった。でも、小田さんと一緒に汗をかいて、笑い合えたのは、きっと一生忘れないだろうと思った。
小田さんと僕は偶然同じ野外フェスに出ることになった。
出演者用に提供されている屋台の食べ物を食べてから、小田さんが出ている舞台を袖で見た。太陽に照らされる汗と輝く笑顔を見ながら、女神はここにいたのだと思った。ステージの下ではたくさんの人が太陽の光を浴びながら、シャツを着て、短いズボンに黒いスパッツを重ね赤や青のタオルを首にかけ、黒いリュックや斜めがけの鞄をかけ、リストバンドをしていた。
僕が小田さんの家に行ったことがあると言って、あの客席に飛び出したら、僕は骨も残らないかもしれないと思った。小田さんのグループ単体のコンサートよりは音楽目的で来場している方や他のバンド目的で来ている方々が多いから少しましだろうか。それでも、ステージ近くで揉みくちゃになっている方々を見るとあまり正気には見えなくて、少し恐ろしくなった。
揉みくちゃになっている方々もきっと、月曜日になれば、問い合わせの電話に対応したり、窓口に立ったり、後輩に仕事を教えたり、社会人としての顔をするのだろう。そしてまた揉みくちゃになる日を夢見て、仕事をして、フェスの日には朝早くに起きて日焼け止めを塗り、友人が運転する車に乗り、また揉みくちゃになった。彼らはきっと休日のために働いていた。
僕は学生の頃、お台場の広場での企画で幼児向けアニメの音楽に合わせながら、その場に居合わせた大人たちがぐるぐると円を描いて回っている動画を見たことがあった。アニメの音楽と共に踊る大人も、働く大人もどちらも大人に見えた。そして、僕は将来、平日は真面目に懸命に誰かのために働きながら、休日は踊る大人になりたいと思った。
もともと僕は学生時代、社会人になってしまうことが堪らなく格好悪く感じてしまう時期があった。なぜなら学生でいれば、自分を飾る必要がなく、自分の言葉で話せる何者でもない自分でいられる気がしたからだ。できることならば一生学生でいたかった。なぜなら社会人になれば、雇い主からお金を貰って、雇い主が規定する言葉を話さなければいけない気がしたからだ。
年を取り、そのうち学生ではいられなくなった。実際に学生ではなくなってから、時偶服装や仕事の仕方を指示されることはあったが、雇い主が規定する言葉以外も話すことはできた。大人になってからも職業を変えることはできたし、夢も持てた。さらに、仕事でなければ一生行動を共にしないであろう人を理解しようと必死になることも案外楽しかった。そして、人間として多くのことが勉強できていると感じた。
でも、年を取るごとにできなくなることも増えていく気がした。たとえば、医師免許や教員免許を取ることなどは難しかった。時々看護師の資格が欲しいと思うこともあるが、学校に通い、実習をするとなると、働きながらでは厳しそうだった。現在のところは大人は窮屈で、自由だと思っていた。
そして自由は、個人の持つ能力にも依存すると考えた。学生を卒業して初めてのお台場での企画で、僕は嬉々として広場に向かった。僕は楽しそうに踊る大人を見ながら、後ろで立っていることくらいしか出来なかった。僕は学生でも大人でも関係がなく、人前でアニメの音楽と共に踊って、ときには動画に残されるのは恥ずかしくなってしまう人間だと気づいた。現在のところは、羞恥心を取り払う能力を自分が持っていないことを知ることができた。もっと人生を通して勉強をしたら、羞恥心を取り払う能力を得た大人になれるかもしれないから、そのときを待ちたいと、今も思っている。
気づくと小田さんが歌い終えていた。小田さんは深く一礼して、舞台の反対側に歩き出した。一瞬振り返って僕の方に人懐っこい笑顔を向けた気がした。もしかしたら幻覚かもしれないし、後ろのメンバーと笑っていた気もした。僕は成すすべもなく心を掴まれて固まった。彼女達は舞台に熱と煌めきの余韻を残して去っていった。彼女達を一目見たいという思いを抑えながら彼女達と会わないように仲間のもとに準備に戻った。
徐々に僕達の出番が近づいた。そして、会場は思っていたよりも暑かった。確かあのあたりで小田さんがお辞儀をしていた、あのあたりで僕の方を見た気がするなどと考えながら舞台を映した画面を見ていると、ふいに仲間に腕を引っ張られて打ち合わせに戻った。
「一木は、今のところ喉の調子良さそう?」
「うん。多分大丈夫。」
「じゃあ、打ち合わせどおりの構成で。」
「うん。ありがとう。」
「集中しろよ。」
背中を叩いて去っていく仲間の背中を見た。背中から伝わってきた手の感覚が後から心臓を掴んで揺らした。今のやり取りは少し親友らしかったと思い、高揚した。今日僕たちは初めての野外フェスに出ることができた。今までは僕たちをいつも応援して僕達の公演のために高いお金を払ってくださる方々の前で、歌うことが多かった。でも、今日は違った。僕達を初めて見る方々も少なくなかった。舞台は怖く、緊張した。そもそもフェスの舞台に立つ多くの人は自分で曲と詞を作って自分で演奏をしていた。加えて曲の種類も僕達の曲とは違ってしっとりとしたバラード系の曲のバンドは人気があるらしかった。フェスの舞台に対してお金を払っているお客さんに対して求められているものを提供できるのだろうか。普段、嫌なお客さんの対応をして稼いだお金を、肉体を酷使して稼いだお金を、今この時間に使うことを後悔しないだろうか。僕達のことを舞台にふさわしくない場違いな人間だとは思わないだろうか。
いよいよ舞台の袖に立った。小田さんも舞台の袖で緊張をしながらも、ときには周囲の年下の後輩に笑顔を向けて舞台に立ったのだろうかと想像した。大丈夫だ。小田さんのことを考えると僕は自信を持っていこうと思えた。自分を大事にしようと思った。嫌われるかもしれないことをしても大丈夫だと思えた。小田さんが見ているから大丈夫だ。たとえ小田さんが僕を見ていないとしても、小田さんが世界に存在しているのなら僕は大丈夫だ。僕は僕でいられる。
僕達が歌うための機材を舞台上に運んでくださっている方々を見た。バンドとは違う機材が舞台上に運ばれてくるのを見て、他のステージに移動するお客さんがいれば、入ってくるお客さんもいた。
「まもなくです。」と係の方が声をかけてくださった。司会の方の紹介とともに舞台に足を進めた。真っ青な空の下に縦長に人が並んで自分たちの方を見ていた。決められた立ち位置に立った。聞き慣れた曲が流れ始めた。僕達の声が青空に吸い込まれていった。まるで世界を手にしたかのような気分になった。
声の調子も良く、段々とお客さんの顔を見る余裕が出てきた。今夜舞台の最後を飾るロックバンドの名前が入ったシャツを着て、同じロックバンドの名前が入ったタオルを首にかけたお姉さんが目に入った。早く最後のロックバンドの歌が聞きたいから僕達の歌が早く終わって夜になってほしいと思っているのだろうか。お姉さんの気持ちを想像すると少し申し訳なく、早く舞台を降りてあげたい気持ちになった。いや、違う。今僕が立っている舞台はさっき小田さんが立って輝かせた舞台であり、今僕達が立っている舞台だった。今という時間は夜が来るまでは消えるべき時間ではなかった。彼女に何としても今という時間があってよかったと思ってほしかった。
最後の曲が終わり、僕達の出番が終わった。楽しかった。夜を待つ彼女も心無し楽しんでくれていたような気がした。小田さんの姿を見つけることはできなかったけれど、今ではなくても、いつか、どこかで僕の歌う姿を見てくれるだろう。先程よりは少し夕焼けを含んだ空に寂しさを感じながら、深く一礼をして仲間とお客さんを振り返りながら舞台を去った。
本当はすべてのお客さんが僕達を好きになってくれるような時間にしたかった。でも、音楽を聞きに来たお客さんの心をどうしたら動かせるのか、お客さんの顔を見たら分からなくなった。いつか、舞台の上から人の心を動かせるような人になれるよう勉強していきたいと思った。
以前小田さんが主演のドラマで僕と共演した透が結婚した。僕と小田さんが出会って、仲良くなってからの作品だったから、楽しくも、仲良く見えすぎないように気を遣った覚えがあった。
結婚式の帰り、それぞれの親戚と久しぶりに僕の両親の家に行くことになった。たこ焼き器があったので、皆でたこ焼きパーティーをすることにした。
向こうで小田さんが、僕の姉の腕の中の姪に手を振っていた。産まれて間もない女の子だが、手を振るように動かしたり、笑ったような顔をしたりしていた。小田さんは普段、聡明で、大人びた雰囲気を絶えず発していた。何をしていても、どこか頭を使っているように見えた。でも、赤ん坊に手を振る小田さんは僕の頭が混乱するほどに違うように見えた。何が違うのかは分からなかった。でもなぜか僕の心が小田さんに釘付けになった。小田さんと、子どもを作りたいと思った。小田さんの子どもはきっと、聡明で、力のある大きな目をしているのだろう。
「最近どうなの?」
僕の視線を辿るように母が聞いた。母には自分の気持ちを誰にも言えず苦しいときに小田さんへの気持ちを話してしまっていた。おそらく小田さんよりも、小田さんへの僕の気持ちを知っていた。
たこ焼きに火が通るように転がしながら周囲には聞こえないように答えた。
「どうって、難しいよ。」
「ふうん。小田さん、可愛いものね。」
「うん。」
僕よりお金持ちの人、頭が良い人、優しい人、面白い人、計画的な人、品がある人、才能がある人、努力ができる人、華がある人で小田さんと子どもを作りたい人はいくらでもいた。それでも、もし小田さんが僕を選んでくれるのなら、一生他の男ではなく僕を選んでよかったと思えるような僕でありたかった。
たこ焼きを祖父の小皿に置きながら、話しかけた。
「おじいちゃんは、赤痢になって、特攻に行けなくならなかったら、お母さんも、僕も、産まれていなかったのでしょう?」
「おおう。皆特攻して死んじゃった。このあたりで残っているのは俺一人。」
「すごいですね。」
すごい。小田さんがいつの間にか祖父の横、僕の斜め右に座っていた。小田さんが僕に一番目のたこ焼きを乗せてくれた。お礼を言って、小田さんが育ててくれたたこ焼きを口の中に入れた。美味しい。小田さんが育ててくれたたこ焼きはこの世で一番美味しいたこ焼きだった。世界が今止まってくれれば良かった。僕の汚いところも嫌なところも今以上に知らないまま、小田さんが育ててくれたたこ焼きを一つずつ食べたかった。贅沢を言うならば、中が多少生焼けでも、お腹を壊してもいいから小田さんの一番目のたこ焼きが食べたかった。
小田さんのためにも焼きたいと思って、たこ焼き器を見た。小田さんが育てている途中のたこ焼きがあった。今小田さんの皿に置いたら、もう少し育てたかったのに、もう少し焼かれている方が好みなのに、順番的に他の人に置きたかったのになどと思うだろうか。ぐるぐる考えている間に小田さんは目まぐるしくたこ焼きを人々の皿に入れていった。小田さんは慣れた手つきでたこ焼きを取り分けられる人間だったのだと感心した。小田さんは他の男性にもよく取り分けていたのだろうか。小田さんはきっと、笑顔で、素早く、綺麗に、取り分けることができただろう。でも大丈夫だ。小田さんは今は僕に取り分けてくれていた。ありがたいことだ。
段々、周囲に関係が分かっても理解されるのではないか、何をしても周囲は可愛いと許してもらえるなどとどこかで思っていたところ、小田さんのマンションから出るところを、僕は撮られた。小田さんは、叩かれた。「グループとして大事な時なのに信じられない。」「ファンを辞めます。」「お金をかけたのに返してほしい。」「信頼していたのに裏切られて悲しい。」「グループの他のメンバーが可愛そう。」「他のメンバーはどこまで知っていたのだろう。」「過去には動画で彼氏の存在を仄めかすことを言っている。」など様々なことが書かれた。
今まで何をしても可愛い、あまりにも尊いと言ってくれていたのに皆一気に掌を引っくり返したように見えた。だがきっと違った。彼女の上から目線の言動や、失言しがちなところ、何事も勢いで誤魔化しがちなところやあまり謙遜しないところ、他のメンバーよりも仕事が多いことなどをどうしても受け入れられない方々はこれまでもいたのだ。でも、小田さんのファンは多かったから、小田さんを褒めれば良い反応が返ってくるし、小田さんを批判すれば反応が無いか批判した人が批判された。小田さんへの表現できない批判は溜まっていった。
そして今、アイドルの小田さんに彼氏がいて批判される真っ当な理由ができた。同時にテレビやネット記事でアイドルが熱愛をしたという情報だけを持った大勢の人が小田さんの名前の下に雪崩込んできた。ファンを辞めますといった言葉はとても強いから沢山の反応が返ってきた。
争いの片隅で、小田さんを世界の中心だと信じて一番応援してくれていたファン達は小田さんに注がれる攻撃の数々に本気で絶望した。今まで、小田さんの名前の周りには可愛いとか大好きだとか温かくて平和な言葉だけが溢れていた。彼等が戦う残酷な社会の中で小田さんの文字そのものが平和で美しい世界だった。今や小田さんの名前の周りには、きたない言葉が並んでいた。見ないほうが良いことは分かっていても、仕事中でも、何をしていても、小田さんが何を言われているのか何度も気になって見てしまった。小田さんが傷つく言葉を見るたび自分の心が抉られて傷を負っていった。もはや小田さん以外を応援することが小田さんにとっても実は有り難いことなのではないかと考えだした。混乱した頭でそれでも小田さんが僕達を笑顔にしてくれた時間は本当だから感謝したいと投稿した。その投稿に対し、彼氏持ちに本気になっているのが気持ち悪いと反応が来たりした。もはや、小田さんを中心としている美しい世界が一瞬で掌を返したように醜く姿が変わったように見えてしまった。
もし僕が小田さんと会っていなかったなら、まるで世界で一番きれいなものが穢されてしまったような気になると思った。小田さんの意思とは関係がなく、僕の見ている世界が壊されてしまったと一人で絶望しただろう。小田さんに彼氏がいることでファンがどれだけ絶望するかきっと小田さんには分からなかった。分からせたくなかった。アイドルに彼氏ができた直後のSNSは誰一人として見て良いものではなかった。
僕もアイドルをやっていたからもちろん叩かれたし、仕事も無くなった。世界中から早く消えろと言われている気がしたし、実際に投稿もされていて、いつ殺されてもおかしくないと思った。実際あまりにも非難されている人間は多少傷付けても罪が軽くなるようにさえ思えてきた。
また、僕が小田さんを好きだからこそ、ファンが僕を殺したくなる気持ちが痛いほどわかった。なんなら、僕が僕を一番殺したかった。小田さんが笑顔になるためなら何度でも僕は僕を殺した。小田さんも同じことをすると思った。でも僕が死んだら、流石に小田さんも後味が悪いだろうと思った。小田さんの彼氏に自死は相応しくなかった。そもそも小田さんの彼氏に僕は相応しくなかった。ひとまず僕のことはどうでもよかった。自分自身のことを考えると気が狂いそうになるのも理由の一つにはあった。ともかく、小田さんのことだけを考えていたかった。
今や何をするにも面倒で、机の上にも床の上にも片付けられないごみだけが溜まっていった。拾うという考えができないまま、ただ何もできなかった。次第に時が過ぎることに焦燥を覚え、髪が根元から白くなっていくような感覚があった。昼も夜も暗い部屋の中で唯一光を放つスマートフォンだけは片時も離さず、家にいるときはほとんどの時間を寝ながら過ごすようになった。
時々膀胱が熱く腐り始めるような感覚がして蹌踉めきながらお手洗いに向かった。行く先々の床はものだらけで全てのものを踏みつけながら歩いた。もし僕が買ったり、貰ったりしなければ、僕に踏まれるものたちは誰かに大切に扱われていたのかもしれなかった。きっと、僕が所有するものたちは不幸だ。今まで僕は、ものを大切に扱うことができないからなるべくものを持ちたくなかった。なるべく捨てるようにしていた。だけど僕は今、ものを踏みつけながら歩いていた。何も僕の周りに来なければいい。何もないままきれいに朽ち果てていけたら僕は一番幸せだと思った。
小田さんが、小田さんの家に来るように連絡をくれたのはそんな時だった。小田さんの仕事のことを考えれば小田さんの家に行っていいわけがなかった。小田さんの事務所からも、僕の事務所からも小田さんの家に行くなと言われてはいないけれど、一番してはいけない行動の一つであることは明らかだった。周囲の方々とその家族の生活が、僕たちのために今必死で動き回ってくださっている努力が僕たちの一挙手一投足で水の泡になるかもしれなかった。現に僕の仕事は無くなっていて、詳細は分からないが周囲の方々とその家族の生活に影響が出ているのかもしれなかった。何より、僕はお風呂に入っていなかったので、小田さんに会える状況ではなかった。
せめてビデオ通話の方がいいのではないかと考えた。もちろん小田さんの家に行くということは事務所の方に送迎は頼めないし、僕は車を持っていないから公共の交通手段を使うしかなかった。タクシーを呼ぶこともできるが、他人が運転する車に乗るのは怖かった。
小田さんには、「小田さんの仕事のことを考えたら、僕が行くことで迷惑をかけることになるから行かない方がいいと思う。」「ひとまず電話をしたい。」と文を送った。小田さんが文を読んだことが示された。しかし、返事がなかった。小田さんは僕以上に大変だろうし、僕のことにばかりかまけてもいられないだろうと解釈した。
空いた時間で、小田さんがどうしたら一番笑顔になれるかばかりを考えた。例えば、小田さんは僕に無理矢理付き合わされていると示すのはどうだろう。駄目だ。小田さんは報道について何も言及していないのに、僕が言及すれば言及せざるをえなくなるかもしれなかった。僕の言動がどのような反応を引き起こすのか予想ができなさすぎて何もすることができなかった。
地下駐車場のチャイムが鳴った。画面を見ると小田さんが映っていた。体中が熱くなって一瞬で色々な考えが頭を巡った。ひとまず、僕の家にいるところを撮られたら小田さんがさらに非難されるかもしれないと考え、すぐにドアを開いた。
僕の部屋のドアのチャイムが鳴った。すぐにドアを開けた。
「すぐに来てほしいの。」
小田さんが言った。何を言っているのか分からなった。頭の中で声にならない考えだけが巡っていた。せっかく僕のマンションの前で撮られないように気をつけていたのに、今度はわざわざ二人で出て行くのか。今自分達がどのような状況が本当に分かっているのか。周囲の方々に今以上に迷惑をかけるのか。どうして来たのか。小田さんは本当にきれいだな。もしかして誰かに脅されているのか。僕が行かなかったら小田さんが酷い目に遭うのではないか。もしかしたら僕は今行かなければ一生後悔するのではないか。
「少し待っていて。」
スマートフォンと充電器と財布と鍵だけを持ち、すぐに小田さんのもとへ戻った。小田さんが僕の手を取った。
地下駐車場へ降りるとどうやら時間貸で借りたらしい車が止まっていた。車内はほとんど無言のまま小田さんの家の地下駐車場に着いた。そのまま小田さんの居間の椅子に座らされ、小田さんは少し出ると言って出て行った。
何もわからないまま、僕は小田さんの部屋に一人で残された。目の前には小田さんと初めて会ったときに話した大きな本棚があった。大きさごとに分類されていて、きれいに並んでいた。また、小田さんは家具を集めることも好きだったから、様々な大きさや形のランプがあった。
なるべく見ないようにしていたが、耐えきれずスマートフォンで小田さんの名前を調べた。内心自分でも今調べるのは異常だと思った。だけど見逃せなかった。小田さんに纏わる言葉の数々、流れ、小田さんが見たら死んでしまうのではないかと思うほど傷つける言葉がたくさん並んでいた。「まだ必死で擁護しようとしているファンが気持ち悪い。」「もともとどこかおかしいと思っていた。」「人の感情を読み取ることができないサイコパス。」「上から目線で好きじゃないと思っていた。」「理屈っぽくて面倒くさい。」「人のこと見下して誰も信用してなさそう。」「辞めてくれたほうがグループは活躍できるよ。」「メンバーも内心辞めて欲しいって思っているでしょ。」
小田さんが責められるなら初めから僕と会わなければよかった。食事をしたいなんて、会いたいなんて言わなければよかった。小田さんとの楽しかった時間は無くても良かった。小田さんが汚い言葉に塗れるのは間違っていた。僕が小田さんを汚いところに追いやった。僕なんて存在しなければ良かった。
小田さんが帰ってきた。
「少し、お手洗いの中に居てくれる?」
小田さんが言うので、何か意味があるのだろう。僕はお手洗いの中に入って外の様子を伺った。重いものが動かされる音がした。大きい本棚には車輪がついていたから本棚を動かしているのだろうか。本棚はお手洗いの前あたりで止まり、車輪を固定している音がした。何が起こっているのだろう。僕はすぐにでも飛び出せるように構えていた。
「一木さんにはここにいてほしいの。」
小田さんの声が外から聞こえた。
「分かった。」
ひとまず今の時間を見ようとポケットを探った。スマートフォンが無かった。先ほど座っていた机の上に置いてきたようだった。僕は社会から隔絶されてしまった。
正午一二時、扉が開いた。お盆にクリームシチューを乗せた小田さんが入ってきて、折り畳み式の机にクリームシチューを置こうとした。反芻していた言葉を一度飲み込んで、吐き出した。
「小田さん、今大丈夫?」
「うん。どうしたの?」
「僕、最近役者の仕事やりたくなってきちゃった。」
「そっか。」
「それに小田さんも、仕事している俺がかっこいいって言ってくれたでしょ?」
「うん。出る?」
「うん。え?小田さんは?いいの?」
「うん。私もそろそろ、仕事している一木さんを見たいと思っていたから。一木さんは、周りの人みんなと仲良くなれるし、笑顔にできるよね。ときには自分を犠牲にしてでも誰かのために動けるよね。一木さんを手に入れられれば、一木さんの力が手に入る気がしたの。でも、違った。実際には一木さんがどんなふうに誰かのために動いているのか見て、勉強するのが大事だと思ったの。だから、私は遠くから一木さんを見て、勉強することにする。」
「え?それってもう会わないってこと?」
「うん。それにもう、会いたくないでしょ?」
「ううん。小田さんが自分の大切なものを手元に置いておきたい性格だって僕は理解しているつもりだから、僕のことを閉じ込めておきたいっていうくらい大切だって思ってくれたってことでしょ?僕は小田さんが僕のことを大切に思ってくれたなら嬉しいよ。」
「ありがとう。一木さんは優しいね。一木さんが優しいこと言ってくれているときも、私のこと理解してくれているって思うときも、堪らなくうれしくなる。でも一木さんは周りの人みんなにも優しくするって思うと苦しくなるの。だからもう一木さんとは、会いたくない。」
「そっか。分かった。僕は小田さんと出会えて楽しかった。嫌なところばかりの僕とずっと一緒にいてくれて、ありがとう。折角小田さんが作ってくれたから、クリームシチュー、食べてもいい?」
「うん。折角だから、私も食べてもいい?」
「うん。食べよう。ありがとう。」
小田さんの家のお風呂場から久々に出るとき、小田さんに手を取られ、僕は久々にお風呂場以外の床を踏んだ。居間の机には、僕が席を立ったときそのままの状態でスマートフォンが置かれていた。小田さんが少し待っていてねと言って席を外した。僕はすぐに小田さんの名前を調べた。初めに目に飛び込んできたのは「小田ちゃん大好き。」という言葉だった。他にも、「攻撃している人は小田ちゃんが活躍し過ぎだから引きずりおろそうとしているだけでしょ。」「流石に彼氏がいたくらいで叩きすぎ。」といった言葉が並んでいた。
分かっていた。一方的に非難されすぎている人間を見ると、おかしいと思う人間が一定層いた。おかしいという声が増え始めると段々擁護する人間の声が拡散されやすくなった。
僕が何度も見てきた、いつもの流れだ。気になって日付を見ると、お風呂場に入った日から1ヶ月ほどが経っていた。
小田さんがクリームシチューを持ってきて、僕の斜め左の席に座った。いただきますと伝えてクリームシチューを木のスプーンで口に入れた。暖かくて、美味しくて、安心した。僕がいつも作る鶏肉のクリームシチューよりも、高級に感じられた。
「小田さん、聞いてもいい?」
「何?」
「なんで会いたくないっていうの?急に僕の部屋に来たのも、僕を部屋につれてくるなり居なくなったのも、その後なぜ僕をお手洗いに入れたままにしていたのかも分からない。」
「私が仕事している姿が好きって言ったから仕事したいって言ったよね。でも、違うの。自分の仕事が無くなって、何もする気がなかったよね。なんで自分の仕事のために動こうとしなかったの?自分の仕事のこと気にしたとしても周囲に嫌われるとか迷惑がかかるとかくらいだよね。人の意見ばっかりずっと伺っているのはいいけどさ、もう少し自分の仕事に集中してよ。仕事していても周りの顔色ばっかり伺ってさ。笑顔で仕事してほしいっていうのは分かるよ?でも仕事はしようよ。流石に座長が仕事してなかったら私だったら正直座長降りてほしいなって思うよ?
仕事に集中したら自分の嫌な面を見せることになるのが嫌だって思っているでしょ。言っておくけど、あなたはあなたの周りの人をあなただと思っているかもしれないけど、あなたの周りの人はあなたじゃないの。少なくとも私は人徳とか好感度とかあなたほど気にしていない。興味がないの。あなたは前に欠けている気がするっていう表現をしたよね。そうなの。欠けているの。でも好感度に興味がないから自分の能力を活かすことに集中できる。だから、あなたは私が色々と言われて気になっているみたいだったけど、本当に興味がないの。心配してくれてありがとうね。でも気にしていないって言うのは本音なの。SNSで今の自分の好感度を測る暇があったら、私は新しいことを学んでいたいの。
私があなたの仕事を好きっていうのは、あなたの能力が好きっていうことなの。
仕事をしない人は嫌い。自分の能力を最大限活かす気がない人はもっと嫌い。会いたくない。分かった?それ以外の質問は、あなたのことが嫌いだから、答えない。」
小田さんがきっと、僕とはもう会うことはないと思っていると感じたとき、聞いたことのない音がした。胸が絞られて、中の空気が全て抜けた。抜けて真空になった空間に何色かも液体か気体かもしれないようなものが吹き込もうとした。だがそれは吹き込んでいいものか惑って永遠に身体の内に外に吹き荒れていた。彼女がいなければ、僕は何もできないと思った。似たような感情をどこかで見たことがあるような気もしたが、違う気もした。
「小田さんは、相当俺のことが好きでしょう。」
「ん?」
「俺は、生きていてよかった。小田さん、俺と一緒にいてくれてありがとう。」
「どういたしまして。」
朝七時四〇分。洗面台を譲ってもらったことに対してお礼を言うと息子がゆっくりと答えた。彼はいつも動きがゆっくりとしていて、表情が読み取りにくかった。初対面の方から見ると、彼の話し方は感じが悪いと思われて誤解を与えやすいらしかった。だが、彼は勉強も習い事も一度始めたら地道に最後までやり切って、驚くような成果を残したりした。子どものときから、色々なものに目移りしてしまって、机に座っていられなかった僕とは大違いだった。だから、彼の地道に努力ができる力が欲しくて、僕は息子をいつも尊敬していた。
いつも用が済んだら洗面台からすぐ移動するように娘から言われていることを思い出し、すぐに移動しようと手早く手を洗う。
「パパ、わたしの靴、どこお?」
下駄箱の方から娘の声がする。
「ん?どこだっけ。昨日上の方に入れた気がするな。お、あった。」
「さすがパパ。ありがとう!」
「どういたしまして。いい笑顔にいいお礼だなあ。だけどそこまで語尾を伸ばすのは流石に友達に嫌われないか?」
「んー。みんなの前ではやらないよ?可愛い子たちに嫌われたくないしねー。」
「はは。流石僕の娘だ。」
「ありがと!行ってきます。」
「気をつけて。」
「いってらっしゃい。気をつけてね!」
部屋の奥から妻の声がした。今日もいい日だ。
妻に娘と息子との四人家族。正直、自分が手に入れていいものか分からないくらい幸せな家庭だ。いや、手に入れるというのも変な表現だ。今偶々僕たちは生活を共にしていて、一人ひとりが違う人生を生きていた。きっとすぐに形は変わっていく。それなら、変わっていく形を楽しめるような家族でありたいと近頃は思った。
正午一二時。トーク番組の本番前に、小泉さんに話しかけられた。
「お子さんはお元気ですか?」
「はい。小泉さんと佐伯のお子さんにも負けないくらい、今日も元気いっぱいで可愛い子どもたちです。」
「ふふ。私達の子達も負けていませんよ。でも仕事との両立はやっぱり大変ですよね?」
「そうですよね。でも小泉さんは佐伯の世話も子どもの世話もあるからさらに大変でしょう。」
「本当にそうですよ。分かってくれるのは一木さんくらいです。正直もっと優しいスパダリを旦那にしたいですよ。」
番組が始まる合図がして、唾を飲み込んだ。番組の冒頭では、子育てと仕事を両立する人として、僕と小泉さんが紹介された。そのまま時短勤務をしながら仕事と子育てを両立する社会人の様子を撮った動画を見た。続いて、動画への感想を話したあと仕事への姿勢を聞かれた。
「どんなふうに仕事をしたいと考えていますか?」
「家族や僕の大切な方々が笑顔になるような仕事をしたいですね。照れ臭いですけど。最終目標は、皆の生きる理由の一つになることです。」
僕は、まるでカメラの向こうから僕に見つめられているような気がした。僕はきっと、気持ちが悪くなっただろう。気持ちが悪くなったならばいい。どう足掻いたってきっと僕はずっと気持ちが悪かった。
「そして、自分の能力を最大限に活かしたいと思っています。そうでないと大好きな奥さんに嫌われてしまいますから。」
日本で最たる映画賞後の会にて、自分も妻も受賞者であったことも、二人とも参加していたことも知っていたが、一緒にいるのも気恥ずかしいので僕は仲間と集まって談笑していた。遠くのテーブルには僕が仕事を始める前から好きで、世界でも最たる賞を受賞している監督も参加していた。僕は監督をちらちらと見ながらも自分が話しかけるのは格好悪いかもしれないという反発心が働いて話しかけられずにいた。また、年上の方に嫌われずに何を話せばいいのかも分からず、会はこのまま終わるのだろうと考えていた。急に妻が俺を肘で突いたことに気づいた。
「ねえ、監督さんに挨拶しなくていいの?昔からあなた、監督さんの作品が好きだと業界に入る前から思っていると言っていたじゃない。あなたって本当に憧れている人には声をかけられない性分でしょう?」
「ん?ああ。いいよ。今日は面皰ができている。皆が挨拶している中で俺も行ったらちょっと格好悪い気もするし。それに今は、あの監督さんは俺のことを嫌いじゃないかもしれない。でも、話したら俺のこと嫌いになっちゃうかもしれないだろ。それにほら、俺だけ抜け駆けしたら皆に嫌われちゃうかもしれない。」
「そうなの。私、監督さんと一緒にあなたが仕事をするところ、見たいな。」
「分かった。行こう。」
申し訳ないという顔で話していた仲間に手を合わせた。仲間達は少し同情のこもった笑顔で送り出してくれた。
妻が手を引き、前を歩いた。少し照れながら、監督の席に近づいていった。自分達に向けられる目が怖かった。同情、羨望、疑問、異分子への怒りなどがあるだろうかと想像をした。妻の横顔を後ろから伺った。妻の目には、監督の作品に参加する僕だけが映っているように思えた。きっと妻の目に映るためには僕は必死で自分の能力を最大限に活かすしかなかった。
監督が他の方と話し終えたところを、妻が声をかけた。
「旦那が、監督の作品を業界に入る前から好きだったと話しています。ぜひよろしくお願いいたします。」
監督が自分達に関心の目を向けた。どうしよう。関心の目に応えられるような話題が無かった。監督に嫌われたくなかった。自分に挨拶に来る人を媚びているとは感じない人だろうか。常識のない行動を嫌わない人だろうか。何を言えば嫌われないかばかりが頭を巡ってやはり何も話せなくなった。こんなことなら仲間と一緒に監督を遠くからちらちらと盗み見るだけで十分だった。
「失礼ですが、時計、新作ですよね。私も同じブランドを愛用しています。」
監督の顔が目に見えてほころんだ。
「そうですか?奥さんが愛用しているなんて、だいぶ渋いですね。」
「ええ。昔から渋くて良いものを集めるのが大好きです。」
正直時計のブランド、それも新作なんて分からなかった。完全に勉強不足だった。加えて、監督と妻があまりにも楽しそうに話していて、監督と妻どちらにも嫉妬をして目眩を起こすようだった。
「ごめんなさい。時計の話こんなにできる方なかなかいらっしゃらなくて、楽しく話してしまいました。あなたがもともとは話したそうにしていたのにね。」
「いや、監督と妻が楽しそうに話しているところを見られただけで僕は満足です。ありがとうございます。」
「はは。本当にいい奥さんを持って羨ましい限りですね。」
「そうですね。僕は妻に置いていかれないように日々勉強させていただいております。」
五年後に映画は実現した。五年間、様々な方と出会い、様々なことを勉強して、やっと妻と監督の目に映ることができたと思いたかった。
やはり五年前と同じ賞の授賞式にて僕はスピーチをしていた。スピーチの中で、僕は妻のおかげで監督と初めて話すことができたときのことを話した。
「監督とはじめにお話することができたのはそのときでした。その後偶然僕の作品を見ていただいて気になってくださったようで、今作品に参加することができました。妻がいなければ本当に僕は弱いですし、妻がいるから自分が自分でいられます。僕は妻に一生頭が上がりません。本当にありがとうございます。」
壇上からでは、たとえ妻がどこにいるのか分からなくても、妻が僕を見ているのが分かった。それでも僕は家に帰って、結婚指輪をはめた左手で妻の右手を握りたいと思った。
一木さんは、裏表がなくて、どこにいても楽しそうだった。まるで地球のように、ある一面を見ればある一面は見えなくなったが、見えなくなった部分は裏側というよりも、あまりにも遠すぎて見えなくなった部分に思えた。まるで、一木さんの世界はどこまでもつながっていて、境界線が無いようだった。だからなのか、いい意味でも悪い意味でも一木さんは誰とでも親しくなった。たとえ二人で出かけたとしても、一木さんは色々な人に話しかけられた。そして、一木さんも当たり前のように要望に応えた。時々、誰とでも話す人間の隣に毎日いるのは疲れたけれど、同時に自分が自分の力を発揮するには最適な相方だった。そして、毎日会っている人間を一木さんは絶対に嫌いにはならなかった。どんなに理解ができなくても、理解ができないことがあることを理解していた。逆に会わなくなる期間が空けば、その期間に会った人との出来事が色濃く上書きされた。当たり前のように、会っていない人間の存在はあっさりと薄くなった。おそらく一木さんにとっては、近くに人がいれば誰とでも色濃い思い出を残すことができて当たり前だった。だから、会っていない人間の存在を忘れたとしても、相手も自分以外と色濃い思い出を作っているはずだから、申し訳ないとは思わないようだった。むしろ、自分と離れれば、すぐに新しい人に大事にされると思い込んでいるようで、いつでも大事な人を手放したがった。確かに一木さんはいくらでも自分を大事にしてくれる人間と出会えるようだった。
どの世界でも生きられるという自信があるからなのか、一木さんは自分の世界で生きていた。たとえば、周囲に誰もいないときには、一人でとても楽しそうに話していた。また、外ですれ違うときには、一人で楽しそうに空を見上げていることが多かった。あまりにも一木さんは自分の世界で生きていたから、周囲に人がいたときには、周囲の世界に合わせることに必死になりすぎているように見えた。そして、見目麗しい人間が端から見れば理解ができないほどに必死になっている様は周囲の嗜虐心を刺激した。また、格好をつける必要がないような相手にまで良く見られようとする様は滑稽だった。そして、一木さんは普段は何も計算ができないことを表すように少年のような顔をして笑ったが、一度誰かに踏みつけられると、面白いほどに反抗的な顔をした。少年のように笑う顔と反抗的な顔は、全く違うように見えて、やはり同じようにも見えた。
普段子どものように笑う一木さんはお金を手放して人を喜ばせるときに殊更嬉しそうに笑った。お金を扱うのが得意ではないことはもちろん、お金を手放すことが快感であるようだった。お金だけではなく、自分が価値のあるものを所有しているのが耐えられないように見えた。あたかも、一木さんの存在そのものが青空のようで、上から落ちてきたものも、下から投げられたものも、下に落とすことしかできないようにも見えた。あるいは、目の前の人を大切にしてしまうのも、大切な人を留めてはおけないことを恐れているためなのかもしれなかった。