表示設定
表示設定
目次 目次




始まりの終わり

ー/ー



佐伯は、自分に素直で、器が大きかった。自分に素直になることに価値があることさえ、僕は佐伯に言われるまで考えようともしていなかった。佐伯といると、自分に素直になろうと意識して考えることができた。
 佐伯に小説の話をすると、情事の場面はあるのかとまず聞かれた。僕自身は情事の場面はあまりにも他の作品と同じような動きをしていると飽きてしまう方だった。わざわざ同じ動きを大切な行数を割いて書く意味が僕には理解ができていなかった。彼がわざわざ情事の場面があるか聞くのは場に笑いを提供することや秘密を共有することで距離を縮めようとしてくれているのかと考えていた。実際情事の話はいわば全人類に共通する内輪話のようだった。他人同士の壁を壊し、距離を縮めるには最善の方法の一つにも感じられた。
 佐伯は何も怖いものがなく器が大きく万能で、いつも余裕があるように見えた。でも、佐伯が情事に関わる話をするとき、彼は少しだけ、縋るような目をしていることに気づいた。彼は、他人が情事に関心があることを本気で望んでいて、信じたいようだった。
 佐伯は、僕と同じアイドルグループに所属している仲間だった。いつも明るく空腹であるとき以外は本当に不機嫌になるところを見たことがなかった。歌も踊りもいつの間にかできてしまっていて、失敗しても彼が笑うと周囲も自然と笑顔になってしまった。まるで佐伯の周囲だけ、オレンジ色で丸い空間がある気がした。
 佐伯は無邪気だった。自分を脅かす存在や、自分の周囲のものに手を出す存在全てに敵意を向けている僕から見ると佐伯は完璧な人間に見えた。佐伯のことを考えると、自分のことばかりで焦燥感に駆られていたことが馬鹿らしくなって落ち着くことができた。落ち着くと、張り詰めていた神経が和らいで、自分が近視眼的になっていたことに気づいた。そして、見えていなかったものが見えてくるようになった。しかも、佐伯といると、自分ができないと思いこんでいたことが、できていることに気づいた。その中の一つは、計画的に少しずつ仕事を進めることだった。もともと僕は、瞬間的に気力と体力を爆発させることでしか自分を働かせることができないと考えていた。なぜか僕は集中しようとすると半日ほどで疲れて、二日で限界を迎え、半月ほどで判断能力を失い、以降は惰性で動くことしかできなくなった。だから、僕は僕がやりたいことを継続することを半ば諦めていた。でも佐伯がいれば神経が張り詰めて、張り詰めて、爆発四散する前に和らいで、仕事をすることができた。正に佐伯は僕を永久機関にするために欠かせない人間だった。
 僕は佐伯とずっと一緒にいたいと思った。そもそも、佐伯はおそらく、食べものと情事のこと以外関心がなかった。そのため、僕が自意識過剰であろうと、気恥ずかしい夢を持っていようと、他人の動きに合わせることができなかろうと、自己中心的であろうと、どうでもいいと思っているように見えた。僕の心の中で、僕が自己中心的であることが自然なのであれば受け容れる器の広さがあった。だから、僕の自意識への佐伯のおおらかな無関心さに僕は大変に救われた。
 しかし段々と、僕は佐伯に執着心を持ち始めた。僕が佐伯を求めるように、佐伯も僕を求め返してほしいと期待してしまった。
 ある日の朝、僕は朝五時三〇分に目が覚めた。布団の上で全身が高揚して一分でも長く佐伯のことを考えていたいと思った。毎日寝不足で眠いはずなのに、毎日が恐ろしく楽しく、自分を高揚する成分が脳から分泌され続けているのを感じた。いつか恋が終わったとき、脳からその成分が分泌されなくなるのが怖かった。時には、佐伯のことを目で追っているときに佐伯が自分の方を向き、慌てて顔を伏せた。時には、どこに行っても佐伯のことを思い出し、不意に涙ぐんだ。時には、佐伯との幸せなやり取りに思いを巡らせるあまり、目の前にいる方の言葉が耳に入らなかった。時には、脈があるか判断するための記事をひたすらに読み漁った。時には、女性から食事に誘われたときには好きな人がいるからと伝えて断るようになった。時には、佐伯とやりたいことや、もらったものをメモ帳にまとめ続けた。時折、自分が典型的な恋に落ちた子どものような馬鹿げた行動をしていることに失望した。また、自分の行動が佐伯の好意を得るために必ずしも有効ではないことにも気づいていた。たとえ、好意を得るために有効な方法を他の方に対してであればいくらでも実践できたとしても、佐伯を前にすると冷静に実践することが不可能だった。ただ僕は、佐伯が発して僕が聞き取れたすべての言葉をメモ帳に書き留めて、永遠に僕への気持ちを探し続けた。
 時折佐伯は帰るとき、誰かに止めてほしそうだった。誰でもいいから誰かと一緒にいたいならその誰かに僕がなりたかった。でもその誰かが僕じゃない誰かだったなら、僕が止めるのは間違っていた。それなら、僕は必ず佐伯に笑顔でお疲れ様と言おうと決めた。
 あるとき、僕は佐伯が笑顔を向ける相手を観察した。佐伯は計算ができて計画的に細かい仕事ができる人が好きなようだった。佐伯は大らかで細かい計算が得意ではないように見えたから、器用に俯瞰して佐伯を助けられる存在は佐伯が活躍するために必要な存在であると感じた。そして、佐伯が好み、佐伯を助けられる存在は僕とは真逆の人間だった。佐伯が笑顔を向ける相手は僕と佐伯が毎週トーク番組をしている女性アナウンサーの小泉さんだった。
  小泉さんは、僕が持っている高い自尊心や理屈っぽさを持っていないように思えた。そして、小泉さんは何事も一人で進めようとする気力のようなものも持っていなかった。小泉さんは仕事でもお金でもいつも計算をしていて、自分が少しでも得をするように振る舞っているようだった。僕は初め、少しでも得をしようとする小泉さんが小賢しく感じてあまり良い印象を持てなかった。でも、佐伯が好意を向ける相手として見てみると、人を見下すことや、支配しようとすることはなく自分だけが少し得をしようと計算している小泉さんは実はとてもさっぱりとした機械的な無機質さがあって、きれいな存在なのではないかとも思えてきた。いずれにしても、僕は無機質な人間になれる気はしなかった。また、小泉さんは真ん中や普通を好む人だった。ときには、全体を俯瞰したうえで人々の中でどのように振舞うべきか計算をして器用に立ち回ることができた。ある意味では僕と同じように誰とでも関われるようだった。しかし、僕は自分の世界の内側に引き込むことでしか周囲と関われないのに対して、小泉さんは外側から広い視野で見ることで場面に適応して必要な役割をこなすことができた。まるで、外側から広い視野で観測しようとする小泉さんを内側に引き込めず僕が苦労するように、小泉さんとまともに向き合うと苦労するのだろうと感じられた。また、小泉さんは普通の家庭で育った、問題のない普通の人を好むようだった。その結果、僕は小泉さんの前で大人しくて優しい僕だけが見えるようにしていた。
佐伯が小泉さんを好きでいるなら、僕は小泉さんになりたいと思った。小泉さんが困っている様子のときは手を差し伸べ、疲れている様子のときには話を聞いて小泉さんの頑張っているところを褒め、優しい言葉だけを投げかけ続けた。話を聞くうちに小泉さんが上司との関係に悩んでいることや、周囲が結婚をしていて焦りつつあることを聞くことができた。おそらく小泉さんは様々な人に適応できる分、器用に適応し続けることに疲れてしまうことがあるようだった。小泉さんの悩みが僕の中に入ってくるたび、僕は小泉さんが手に入っているような気がして楽しかった。結果として、僕は小泉さんにはなれなかった。小泉さんの悩みや考え方を知ったところで僕は小泉さんの器用さも、細やかさも、豊満な肉体も、色気も身につけることはできなかった。代わりに、小泉さんが僕に好意を向けるようになった。僕が佐伯に向け、佐伯が小泉さんに向け、小泉さんが僕に向けた好意は自分の尾を噛んで輪を作る蛇のようだった。
 段々と佐伯のあまりの僕への無関心さに、僕は、佐伯に強く当たってしまうことがあった。佐伯は、考えていないと言葉で言って、やはり考えているようで、考えていないようだった。佐伯を傷つけてしまったかもしれないと思うたび、僕一人で絶望をして無関心な佐伯によくわからない言い訳をした。その結果、僕は佐伯に対して、本当に恥ずかしい姿ばかりを見せた。理不尽なことに、僕は恥ずかしいものに触れようとする人は全て傷つけてしまった。まるで、僕の中の佐伯の周りには数え切れないほどの地雷が埋められたようだった。
  同じように、僕が小泉さんに無関心であれば、どのように傷つくのか、想像をせずにはいられなかった。まるで、地雷が作られないように優しくし、地雷を爆破させないように優しくするようだった。そしてまるで、僕の中に数多くの地雷が埋められたことで、地雷が多い人は優しい人だと僕は学んだような気がした。そして僕の目には、恋をする人は本当に愛おしく、傷つきやすく映った。
 初めは佐伯が僕の自意識に無関心だったことに救われたが、段々と佐伯の無関心さに僕は耐えられなくなってきた。そして僕は小泉さんのように自分の強い自意識を表に出さないようにしていることに気づいた。同時に、僕が佐伯の一番になることを望む限り、僕は僕ではいられないのだと気づいた。僕が、目の前の人間に好かれていなければ生きられない人間ではなかったのなら僕は佐伯の前でも僕でいられたのかもしれなかった。でも、僕は佐伯の一番になれないのに佐伯の目の前にいられるほど、正常な自意識を持ち合わせていなかった。僕のことを好きにならない人間が僕は嫌いだった。
 僕は佐伯と一緒に活動することを辞めようと決めた。佐伯のように自分に素直な人間が僕は好きだったはずなのに嫌いに思えてしまったことが辛かった。さらに、ときには佐伯の姿を見ると無意識に佐伯の不幸を願ってしまう自分が、本当に悲しかった。僕は僕が佐伯の側にいるべき人間だとは思えなかった。また、僕が側にいるのに佐伯が他の誰かを選ぶくらいなら、僕が側にいなくなってから佐伯が他の誰かを選んだほうが僕は耐えられた。一刻も早く佐伯と離れたかったし、別れを告げたかった。誰にも相談しないまま、自分の中で決めた最後の公演で、僕は佐伯に口づけをして、そのままきれいな海がある島国にでも行って、二度と誰とも会わないようにしようと決めた。
 公演の日、佐伯は相変わらず僕が求める感情を僕に向けてはいなかった。僕にとって最後の開演の合図だけを待つ暗い舞台袖で、佐伯を盗み見た。佐伯の万能さを感じさせず何も考えていなさそうな頬が、男らしく骨ばった尺骨がきれいだった。また、佐伯は袖のない衣装を着ていて、白い肩が露わになっていた。肩は、体と腕の間にあって、まるでどちらからも仲間外れにされながらも存在感を示して、二つを繋いでいるように感じた。佐伯の白い肩を見ていると、佐伯の白い裸を想像せずにはいられなかった。佐伯が僕以外の大勢に、白い肩を見せるのかと思うと嫌になった。段々と、今日が最後かと思うと堪らなくなり佐伯の手を掴んだ。佐伯はこちらを見て、手を重ねた。開演の合図が鳴った。すぐに佐伯は手を離して、舞台に上がった。僕も佐伯に続いた。音楽が始まった。僕達に向けられるうちわや色とりどりな光を見ながら、僕は自分勝手だと思った。僕が突然消えたら、何人の方にご迷惑をおかけするのだろうと考えた。僕がどうして消えたのかほとんどの方には予想がつかないだろう。でも、今の僕にはどうでもよかった。いち早く佐伯の側から消えたかった。
 佐伯が木製の水色の椅子に座って歌っていた。佐伯はバラードを口ずさみながら、目を伏せてスポットライトを浴びていた。口づけをするなら今だと公演の構成が決まってから考えていた。演出の流れに従って佐伯の方へ近づきながら歌い、佐伯の後ろに立って手を絡ませた。衣装にかけられた香水の匂いが鼻をついた。佐伯は自分で香水を選ぶことはないのだろうと考えながら唇を重ねた。佐伯の唇は柔らかかった。客席から歓声が上がった。佐伯は目を伏せたまま演出の流れに戻って歌った。僕だけが心臓を高鳴らせていて、佐伯が何を考えているのか本当に分からなかった。
 何とか家に帰りつき、しばらくは何もできずにただ床に座り込んでいた。何とか立ち上がって、シャワーを浴びながら、考えを巡らせた。そもそも、僕だけが佐伯を求めているというのは勘違いではなかったのだろうか。佐伯は僕が手に触れれば、手を重ねてくれた。唇を重ねれば僕を見てくれた。佐伯は僕に笑いかけてくれた。佐伯は僕への思いを口には出さないけれど、僕も佐伯への思いを口には出していなかった。佐伯は実は僕のことを大切に思ってくれているからこそ、口には出さないのかもしれなかっあ。なぜなら、僕は佐伯を大切に思っているからこそ佐伯に思いを伝えていなかったのだから。もう一度、佐伯に会いたかった。もう一度、佐伯に触れたかった。佐伯の一挙手一投足に僕への思いの欠片を探したかった。佐伯の手に触れて、佐伯が手を重ねた感触をまた残したかった。僕は佐伯に会いたいと一生全ての細胞で願っておきながら、佐伯の側にいたくないと思うのだろう。佐伯へのすべての行動が自分ではないもののように思われて、過去の自分を消し去りたくなった。だが、少なくとも今は、いつか会えなくなる日まで、会えるときには一つでも多くの奇跡を感じていたいと思った。
 僕が佐伯の中にあるかもしれない僕への思いを探す中で、僕は小田さんと仲良くなった。僕が小田さんと仲良くなろうと思った理由の一つには、佐伯に嫉妬してもらいたいという思いがあった。別の人間と仲良くしているところを見たら、僕が欲しくなって追いかけてくれるのではないかと期待した。もう一つは、佐伯は色々な経験がある人が好みなのかと考えた。なぜなら、小泉さんが色々な男性と関係を持っていることは公然の秘密だったからだ。その後分かったことには、佐伯の前では僕は小泉さんになってしまったけれど、小田さんの前で僕は僕でいることができた。
 
 ガタン、と音がして僕は即座に意識を現実に戻した。一瞬彼女の身に何か起こったのかと心配になった。お風呂場の外では彼女がお昼ごはんの準備をしてくれているのであろう音がした。よかった。おそらく鍋か食器などが音を立てたのだろう。僕はようやく彼女のことを思い返そうとしていた。
 彼女は、女王様で、たくさんのものを持っていた。彼女はたくさんのものを持っていて、ずるいと言われて、ずるいと言われたことを自慢げに話す女性だった。そんな彼女のことを鼻につくと言う人も少なくなかった。実際彼女は理屈っぽくて上から目線で、面倒くさい性格をしていた。加えて彼女には都合が悪くなると勢いで押し通そうとする癖があった。実際に彼女が笑顔でやりたいと言えば空気は変わり、異議を唱えにくい雰囲気になった。唱えられなかった異議は、少しずつ積もっていって、彼女を非難できる空気ができたときには見たことがないほどに非難された。非難されると彼女は見るからに落ち込んだ。ひどいときには体調を崩した。
 彼女はとても危なっかしかった。彼女は人を惹きつける力を持っているのに、人に好かれることを目的とした力を持っていなかった。人に好かれたいと思っていなかった。そして、嫌われたくないとも思っていなかった。お恥ずかしいことに、人に好かれることが目的で人を惹きつける力を持ちたいと思う僕にとっては、人に好かれることを目的としない彼女が何かが欠けているように見えてしまった。時折、僕と彼女は似ていると思ったけれど、彼女を見るうちに僕の方は自分が好かれるために何もかもを手に入れたい強欲な人間であることを知った。きっと彼女の方は、好かれることに割く力を自分の能力の研鑽に割きたいと考えていた。たとえば、僕が固執してきた好かれるための力を、彼女のために使うことができたならどんなにいいかと思った。あるいは、僕の利己的な時間の積み重ねが、利他的なものに少しでもなりはしないかと期待した。
 また、彼女はものを集めることが好きで、色々な種類や大きさの家具やランプを集めていた。他にも、彼女は連絡先をとにかく集めていた。おそらく、彼女にとっての連絡先は、種類の違うランプと似ていた。彼女はまるで目の前にいる人間を知り合いという題名のついた箱に加えてみたいという収集癖があるようだった。彼女にとってはたくさんのものを集めることに価値があった。彼女にとってのもっているという言葉は持つことに伴う努力を当たり前に指すものだった。
 
 ある日の歯医者でのお会計の待ち時間、子どもがいる俳優がつい女性を口説いてしまうとお酒を飲みながら笑って話している番組を見ていた。彼は子どものような笑顔をしていて、輝いていて、楽しそうだった。気になって彼が出ている動画を見てみると、彼は俳優仲間と仕事の在り方についてやはり子どものような懸命な目をして話していた。彼は裏表なく正しく純粋で、真っすぐに見えた。
 突然、吐き気が込み上げてきて、急いでお手洗いに駆け込んだ。内容物が胃から食道を通り喉の奥にせりあがった。大丈夫。大丈夫。色々な考えが脳内で掻き回された。歯医者の手洗いで吐いて出たら臭いや汚れで僕が吐いたと分かってしまうかもしれなかった。でも外に出てから人前で吐いてしまったら嫌だった。僕は一生公共の場で吐いた人になってしまうかもしれないと想像すると恐ろしかった。
 以前〇時発車の電車の中で飲みすぎてしまったのか吐いてしまった人を見たことがあった。大学生くらいの男性が座席で横になっていたのだが、何かの気配を感じたように体を起こし、脚を開き、下を向いた。しばらく何かを待つように下を向いたままでいたと思うと零れ落ちるように痰のような白い液体を垂らした。また座席に横になりしばらくするとまた下を向いて座った。今度はさらに多く吐き出し、吐き出し、何度も吐きなおした。しばらくして落ち着いたのか、また座席に横になった。二皿分のクリームシチューくらいの液体が彼の足元に広がっていた。消化されかけた肉と麦芽のような香りがエアコンの風に乗って流れてきた。彼と床の様子に気づいた乗客がちらほらと他の車両に移っていった。彼はスマートフォンを落として、拾った。段々彼自身も周囲の様子に気づいてか座席に横になりながら液体をスニーカーで隠そうとした。液体が少し伸びた。臭いに耐えがたくなって自分ももよおしそうになってきたころ、彼は立ち上がって隣の車両の方に消えていった。彼が立ち去った後、吐しゃ物から一番近いのは僕になり、僕のものと思われるかと気になった。しかし、偶然次の駅が下車駅だと電車の画面に表示されたのですぐに下車した。ホームを歩きながら自分とは逆方向に進む電車の中で彼を探そうとしたが、見つけることはできなかった。その後エスカレーターで前に立つ女性の背中を見ながら、自分にも臭いがついていないか少しだけ気になった。
 また、ある政治家の夫が、妻を介抱したという記事を読んだことがあった。そのとき夫婦であれば介抱するだろうと思った。また、見知らぬ男性が、気持ちが悪くなった女性を介抱して女性が恋に落ちるという少女漫画を読んだことがあった。読んだ時には出会いの演出としては弱いと思った気がした。実際に見知らぬ人が目の前で吐いていると胃の内容物はあまりにも刺激が強くて動くことはできなかった。同時に人前で吐くことは体調が悪い中で周囲からも嫌がられて本当に辛いだろうと思った。辛い思いをしている人がいるとき、さらに辛い思いをさせる人間になりたくはないとは思った。
 現実に帰ってみれば、今吐きそうなのは僕だった。ワイヤレスイヤホンを耳にはめ、一番きれいだと思う男性歌手の歌に頭を預けた。大丈夫だ。外に出ても彼の歌のフィルターを通して世界を見るならば、きっと大丈夫だ。お手洗いを出ると丁度名前を呼ばれたのでお会計を済ませて歯医者を出た。
 先ほど気持ち悪くなったのが感染症であれば周囲に迷惑をかけてしまうし、念のため病院に行こうと考えて、以前訪れた新宿の高層階にある病院に向かった。身分証明書をかざし、受付の女性の案内に従って受付を済ませた。待合室の窓からは新宿のビル群の下に歩いてきた道を見下ろすことができ、車は幼児が遊ぶおもちゃの車のようにも見えた。室内も広くきれいで、大画面のテレビや曲線状のソファが寛げる様に配置されていた。ふいに旅の雑誌と漫画が気になって、本棚の横の空いていた場所に座った。
 旅のきれいな写真を見ていたが、ふと人の気配がして顔を上げると、向かいの席にピンクのニットに花柄の黒いスカートを着たきれいな女性がソファのひじ掛けに寄りかかって座っていた。女優の小田さんに雰囲気が似ていると感じた。帽子を目深に被っていたが、骨格や目鼻立ちがくっきりとしていて人を惹きつけるが同時に近寄りがたい雰囲気があった。女性はなすすべがなさそうに震えていて、よく見ると血の気がなく、脂汗も浮いているように見えた。彼女はふいに何かに突き動かされるように下を向いた。彼女はどこか諦めているような趣があった。すぐに、彼女と電車で嘔吐した男性が重なって見えた。そして、彼女の美しい胸元が、口元が、足元が、汚れてしまう様子が思い浮かんだ。きれいなものが汚れてしまうのは間違っていると強く思った。そして、彼女が今以上に辛い思いをするのは間違っているとも思った。
 気づくと彼女の横に座って彼女の口元に僕の白いバックをあてていた。ひとまず彼女の胃の中身を受け止めることができたことと、彼女が汚れていないことを確認した。彼女が落ち着いた様子であることを確認すると、急に周囲の情報が自分の中に入り込んできた。自分も吐き気を催していたことに気づき、女性の口元だけ僕のハンカチで軽く拭ってハンカチを女性の隣に置き、持ち物をすべて持ってお手洗いに駆け込んだ。
 お手洗いを出ると、先ほどの場所に彼女の姿はなかった。お手洗いに行ったのか、病室にいるのか分からなかった。いずれにせよ今いる場所は病院であるし、自分にできることはもうないだろうと思った。ときには自分のことをどうしようもない人間だと思うこともあったが、彼女のきれいな足元が汚れなかったのだと思うと自分にも価値があるような気がした。
 受付をした手前、急に病院から帰るのは申し訳なく思ったが、バックの中身の処理もしなければいけなかったし、受付の女性に急用ができたと伝えて、そのまま家へ帰った。
 その後、やはり感染症の検査をしたほうがいいかと心配になり、また病院へ戻った。またどこかに彼女の痕跡が見つかれば有り難いとも思った。
 エレベーターを降り、病院の入口がある方向へ向かって廊下を歩きながら、彼女がいるのではないか、と思った。いると思うのと同じくらいの強さで現実的に考えているわけがないとも強く思った。体の向きを変えて入口から待合室に足を踏み入れながら二つの強い考えに頭は熱くなっていた。
 彼女はいた。僕が初めて見たときに時間が戻ったのかと思うほど同じ場所で同じ美しさで座っていた。高揚して顔がにやけてしまうのを抑えながら先ほどと同じ受付の女性の方へ話しかけた。
「先程受付だけして急用で帰ってしまった者なのですが、今からよろしいでしょうか。」
申し訳なく思いながら聞くと、快諾していただいたので安堵し、念の為また身分証明書を出した。
「あの、間違っていたら申し訳ないのですが、先ほどあちらの女性に声をかけられていた方ですか?」
「え?おそらく、そうですね。」
思えばあのとき、女性の許可もなく近づいて触れたかもしれない。性犯罪者だと思われたら今からの人生を性犯罪者として生きていくのだろうかなどと色々な考えが頭を巡った。
「あちらの女性が、あなたに貸してもらったハンカチを返したいということでした。あなたが来るかもしれないということで出口のところにいるつもりだったようですけれど、体調が悪いのに外にいるのも良くないと思って、そちらで座っているようにお声がけしております。」
「ありがとうございます。」
彼女の方へ振り向くと、彼女は話しかけに行こうかどうしようかと迷っている様子だった。僕が彼女の方に向かうと、彼女が立ち上がろうとしたので、「よろしければ座ったままでいてください。」と言って手で椅子を示した。
 立ったまま彼女を見下ろすのも憚られて先ほど座っていた彼女の向かいの席に腰を下ろした。
「体調は、大丈夫ですか?」
「大丈夫です。あの、先ほどはありがとうございました。バッグとか、中の物とか、弁償させていただきます。」
「はは。僕が勝手にやったことですから、お金を受け取ったら当たり屋みたいになっちゃいますよ。僕に格好つけさせていただけると助かります。」
「え?それは流石に私が困ります。お礼は本当にさせてください。」
「そういえば、気になっていたお粥のお店がありまして、お洒落すぎて僕一人じゃ行きにくくて。もしよかったら付き添ってくださるとありがたいです。もちろん、無理そうだったら連絡していただければ大丈夫ですし。」
「え?はい。ひとまず、それで大丈夫なら。あ、でも連絡って、そしたら、交換します?」
「ありがとうございます。これ僕のQRコードです。おー!本棚の写真ってことは、本好きなのですか?」
「はい。本棚見ると幸せな気持ちになります。」
「分かります。僕小学生のころ、歩きながら本を読んでいました。名前は、小田さんであっていますか?僕一木っていいます。」
「いつきさん。よろしくお願いします。」
「よろしくお願いいたします。じゃあ、細かい待ち合わせとかはまた連絡で大丈夫ですか?」
「はい。あの、今日はありがとうございました。本当に助かりました。」
「はい。小田さん、無理しやすい性格なのかもしれないですけど、体お大事にされてくださいね。」
「ありがとうございます。私は月に一度辛いだけなので大丈夫です。いつきさんこそ、大丈夫ですか?」
「ええ。小田さん辛い時点で大丈夫じゃないですよ。僕は感染症の検査をしようかなって思って。あ、ごめんなさい!僕はあんまり小田さんと近づかないように気を付けていたのに、少し近づいてしまっていましたよね。離れますね。」
「そんなの気にしないですよ。でも、いつまでも病院で話しているのも良くないですよね。今日はありがとうございました。」
「こちらこそ、ありがとうございます。」
 その後、受付の女性にもお礼を言った。診察の順番が来て、事情を説明し、感染症の検査をした。医師から問診をされた。
「ストレスとかは無いですか?」
「無いと思います。そもそもストレスってどんなものかよく分かっていなくて。すみません。きちんと答えられなくて。」
「うーん。外部からの刺激とそれに対する心身の反応をあわせてストレスと呼ぶことがありますね。睡眠不足や人間関係でストレスを感じる方は多くいらっしゃいます。」
「そうですよね、睡眠をもっととれるように心がけてみます。人間関係は、周囲の方々に嫌われないように行動しすぎて、偶に自分が嫌になるくらいですかね。でも、周りの方々は本当に良い方々なので人間関係のストレスはやっぱり無いと思います。」
「そうですか。ストレスから起こるこころや体調の変化に気づくことは大切なことですからね。誰かに相談することや、日記に書くことで解消できるようですから、やってみてくださいね。」
「はい。ありがとうございます。やってみます。」
お礼を言って診察室を出た。医師と話すのは緊張してしまった。自分が痛い、辛いというのは恥ずかしかった。まるで拷問のようだと思った。自分の弱い部分を覗かれるようで、医師を前にするとすぐに逃げたくなってしまった。せっかく恥ずかしい思いをして、やると言ってしまったのだし、日記や相談をしてみようかと考えた。
彼女には、連絡しない方がいい印象のままで終われるだろうかとも思ったけれど、本好きの方に久しぶりに会えたのでやはり話してみたいと思った。まずは、一つも知らないおしゃれなお粥の店を調べるところから始めようと思った。


スタンプを贈って作者を応援しよう!

次のエピソードへ進む 終わりの後で


みんなのリアクション



おすすめ作品を読み込み中です…



佐伯は、自分に素直で、器が大きかった。自分に素直になることに価値があることさえ、僕は佐伯に言われるまで考えようともしていなかった。佐伯といると、自分に素直になろうと意識して考えることができた。
 佐伯に小説の話をすると、情事の場面はあるのかとまず聞かれた。僕自身は情事の場面はあまりにも他の作品と同じような動きをしていると飽きてしまう方だった。わざわざ同じ動きを大切な行数を割いて書く意味が僕には理解ができていなかった。彼がわざわざ情事の場面があるか聞くのは場に笑いを提供することや秘密を共有することで距離を縮めようとしてくれているのかと考えていた。実際情事の話はいわば全人類に共通する内輪話のようだった。他人同士の壁を壊し、距離を縮めるには最善の方法の一つにも感じられた。
 佐伯は何も怖いものがなく器が大きく万能で、いつも余裕があるように見えた。でも、佐伯が情事に関わる話をするとき、彼は少しだけ、縋るような目をしていることに気づいた。彼は、他人が情事に関心があることを本気で望んでいて、信じたいようだった。
 佐伯は、僕と同じアイドルグループに所属している仲間だった。いつも明るく空腹であるとき以外は本当に不機嫌になるところを見たことがなかった。歌も踊りもいつの間にかできてしまっていて、失敗しても彼が笑うと周囲も自然と笑顔になってしまった。まるで佐伯の周囲だけ、オレンジ色で丸い空間がある気がした。
 佐伯は無邪気だった。自分を脅かす存在や、自分の周囲のものに手を出す存在全てに敵意を向けている僕から見ると佐伯は完璧な人間に見えた。佐伯のことを考えると、自分のことばかりで焦燥感に駆られていたことが馬鹿らしくなって落ち着くことができた。落ち着くと、張り詰めていた神経が和らいで、自分が近視眼的になっていたことに気づいた。そして、見えていなかったものが見えてくるようになった。しかも、佐伯といると、自分ができないと思いこんでいたことが、できていることに気づいた。その中の一つは、計画的に少しずつ仕事を進めることだった。もともと僕は、瞬間的に気力と体力を爆発させることでしか自分を働かせることができないと考えていた。なぜか僕は集中しようとすると半日ほどで疲れて、二日で限界を迎え、半月ほどで判断能力を失い、以降は惰性で動くことしかできなくなった。だから、僕は僕がやりたいことを継続することを半ば諦めていた。でも佐伯がいれば神経が張り詰めて、張り詰めて、爆発四散する前に和らいで、仕事をすることができた。正に佐伯は僕を永久機関にするために欠かせない人間だった。
 僕は佐伯とずっと一緒にいたいと思った。そもそも、佐伯はおそらく、食べものと情事のこと以外関心がなかった。そのため、僕が自意識過剰であろうと、気恥ずかしい夢を持っていようと、他人の動きに合わせることができなかろうと、自己中心的であろうと、どうでもいいと思っているように見えた。僕の心の中で、僕が自己中心的であることが自然なのであれば受け容れる器の広さがあった。だから、僕の自意識への佐伯のおおらかな無関心さに僕は大変に救われた。
 しかし段々と、僕は佐伯に執着心を持ち始めた。僕が佐伯を求めるように、佐伯も僕を求め返してほしいと期待してしまった。
 ある日の朝、僕は朝五時三〇分に目が覚めた。布団の上で全身が高揚して一分でも長く佐伯のことを考えていたいと思った。毎日寝不足で眠いはずなのに、毎日が恐ろしく楽しく、自分を高揚する成分が脳から分泌され続けているのを感じた。いつか恋が終わったとき、脳からその成分が分泌されなくなるのが怖かった。時には、佐伯のことを目で追っているときに佐伯が自分の方を向き、慌てて顔を伏せた。時には、どこに行っても佐伯のことを思い出し、不意に涙ぐんだ。時には、佐伯との幸せなやり取りに思いを巡らせるあまり、目の前にいる方の言葉が耳に入らなかった。時には、脈があるか判断するための記事をひたすらに読み漁った。時には、女性から食事に誘われたときには好きな人がいるからと伝えて断るようになった。時には、佐伯とやりたいことや、もらったものをメモ帳にまとめ続けた。時折、自分が典型的な恋に落ちた子どものような馬鹿げた行動をしていることに失望した。また、自分の行動が佐伯の好意を得るために必ずしも有効ではないことにも気づいていた。たとえ、好意を得るために有効な方法を他の方に対してであればいくらでも実践できたとしても、佐伯を前にすると冷静に実践することが不可能だった。ただ僕は、佐伯が発して僕が聞き取れたすべての言葉をメモ帳に書き留めて、永遠に僕への気持ちを探し続けた。
 時折佐伯は帰るとき、誰かに止めてほしそうだった。誰でもいいから誰かと一緒にいたいならその誰かに僕がなりたかった。でもその誰かが僕じゃない誰かだったなら、僕が止めるのは間違っていた。それなら、僕は必ず佐伯に笑顔でお疲れ様と言おうと決めた。
 あるとき、僕は佐伯が笑顔を向ける相手を観察した。佐伯は計算ができて計画的に細かい仕事ができる人が好きなようだった。佐伯は大らかで細かい計算が得意ではないように見えたから、器用に俯瞰して佐伯を助けられる存在は佐伯が活躍するために必要な存在であると感じた。そして、佐伯が好み、佐伯を助けられる存在は僕とは真逆の人間だった。佐伯が笑顔を向ける相手は僕と佐伯が毎週トーク番組をしている女性アナウンサーの小泉さんだった。
  小泉さんは、僕が持っている高い自尊心や理屈っぽさを持っていないように思えた。そして、小泉さんは何事も一人で進めようとする気力のようなものも持っていなかった。小泉さんは仕事でもお金でもいつも計算をしていて、自分が少しでも得をするように振る舞っているようだった。僕は初め、少しでも得をしようとする小泉さんが小賢しく感じてあまり良い印象を持てなかった。でも、佐伯が好意を向ける相手として見てみると、人を見下すことや、支配しようとすることはなく自分だけが少し得をしようと計算している小泉さんは実はとてもさっぱりとした機械的な無機質さがあって、きれいな存在なのではないかとも思えてきた。いずれにしても、僕は無機質な人間になれる気はしなかった。また、小泉さんは真ん中や普通を好む人だった。ときには、全体を俯瞰したうえで人々の中でどのように振舞うべきか計算をして器用に立ち回ることができた。ある意味では僕と同じように誰とでも関われるようだった。しかし、僕は自分の世界の内側に引き込むことでしか周囲と関われないのに対して、小泉さんは外側から広い視野で見ることで場面に適応して必要な役割をこなすことができた。まるで、外側から広い視野で観測しようとする小泉さんを内側に引き込めず僕が苦労するように、小泉さんとまともに向き合うと苦労するのだろうと感じられた。また、小泉さんは普通の家庭で育った、問題のない普通の人を好むようだった。その結果、僕は小泉さんの前で大人しくて優しい僕だけが見えるようにしていた。
佐伯が小泉さんを好きでいるなら、僕は小泉さんになりたいと思った。小泉さんが困っている様子のときは手を差し伸べ、疲れている様子のときには話を聞いて小泉さんの頑張っているところを褒め、優しい言葉だけを投げかけ続けた。話を聞くうちに小泉さんが上司との関係に悩んでいることや、周囲が結婚をしていて焦りつつあることを聞くことができた。おそらく小泉さんは様々な人に適応できる分、器用に適応し続けることに疲れてしまうことがあるようだった。小泉さんの悩みが僕の中に入ってくるたび、僕は小泉さんが手に入っているような気がして楽しかった。結果として、僕は小泉さんにはなれなかった。小泉さんの悩みや考え方を知ったところで僕は小泉さんの器用さも、細やかさも、豊満な肉体も、色気も身につけることはできなかった。代わりに、小泉さんが僕に好意を向けるようになった。僕が佐伯に向け、佐伯が小泉さんに向け、小泉さんが僕に向けた好意は自分の尾を噛んで輪を作る蛇のようだった。
 段々と佐伯のあまりの僕への無関心さに、僕は、佐伯に強く当たってしまうことがあった。佐伯は、考えていないと言葉で言って、やはり考えているようで、考えていないようだった。佐伯を傷つけてしまったかもしれないと思うたび、僕一人で絶望をして無関心な佐伯によくわからない言い訳をした。その結果、僕は佐伯に対して、本当に恥ずかしい姿ばかりを見せた。理不尽なことに、僕は恥ずかしいものに触れようとする人は全て傷つけてしまった。まるで、僕の中の佐伯の周りには数え切れないほどの地雷が埋められたようだった。
  同じように、僕が小泉さんに無関心であれば、どのように傷つくのか、想像をせずにはいられなかった。まるで、地雷が作られないように優しくし、地雷を爆破させないように優しくするようだった。そしてまるで、僕の中に数多くの地雷が埋められたことで、地雷が多い人は優しい人だと僕は学んだような気がした。そして僕の目には、恋をする人は本当に愛おしく、傷つきやすく映った。
 初めは佐伯が僕の自意識に無関心だったことに救われたが、段々と佐伯の無関心さに僕は耐えられなくなってきた。そして僕は小泉さんのように自分の強い自意識を表に出さないようにしていることに気づいた。同時に、僕が佐伯の一番になることを望む限り、僕は僕ではいられないのだと気づいた。僕が、目の前の人間に好かれていなければ生きられない人間ではなかったのなら僕は佐伯の前でも僕でいられたのかもしれなかった。でも、僕は佐伯の一番になれないのに佐伯の目の前にいられるほど、正常な自意識を持ち合わせていなかった。僕のことを好きにならない人間が僕は嫌いだった。
 僕は佐伯と一緒に活動することを辞めようと決めた。佐伯のように自分に素直な人間が僕は好きだったはずなのに嫌いに思えてしまったことが辛かった。さらに、ときには佐伯の姿を見ると無意識に佐伯の不幸を願ってしまう自分が、本当に悲しかった。僕は僕が佐伯の側にいるべき人間だとは思えなかった。また、僕が側にいるのに佐伯が他の誰かを選ぶくらいなら、僕が側にいなくなってから佐伯が他の誰かを選んだほうが僕は耐えられた。一刻も早く佐伯と離れたかったし、別れを告げたかった。誰にも相談しないまま、自分の中で決めた最後の公演で、僕は佐伯に口づけをして、そのままきれいな海がある島国にでも行って、二度と誰とも会わないようにしようと決めた。
 公演の日、佐伯は相変わらず僕が求める感情を僕に向けてはいなかった。僕にとって最後の開演の合図だけを待つ暗い舞台袖で、佐伯を盗み見た。佐伯の万能さを感じさせず何も考えていなさそうな頬が、男らしく骨ばった尺骨がきれいだった。また、佐伯は袖のない衣装を着ていて、白い肩が露わになっていた。肩は、体と腕の間にあって、まるでどちらからも仲間外れにされながらも存在感を示して、二つを繋いでいるように感じた。佐伯の白い肩を見ていると、佐伯の白い裸を想像せずにはいられなかった。佐伯が僕以外の大勢に、白い肩を見せるのかと思うと嫌になった。段々と、今日が最後かと思うと堪らなくなり佐伯の手を掴んだ。佐伯はこちらを見て、手を重ねた。開演の合図が鳴った。すぐに佐伯は手を離して、舞台に上がった。僕も佐伯に続いた。音楽が始まった。僕達に向けられるうちわや色とりどりな光を見ながら、僕は自分勝手だと思った。僕が突然消えたら、何人の方にご迷惑をおかけするのだろうと考えた。僕がどうして消えたのかほとんどの方には予想がつかないだろう。でも、今の僕にはどうでもよかった。いち早く佐伯の側から消えたかった。
 佐伯が木製の水色の椅子に座って歌っていた。佐伯はバラードを口ずさみながら、目を伏せてスポットライトを浴びていた。口づけをするなら今だと公演の構成が決まってから考えていた。演出の流れに従って佐伯の方へ近づきながら歌い、佐伯の後ろに立って手を絡ませた。衣装にかけられた香水の匂いが鼻をついた。佐伯は自分で香水を選ぶことはないのだろうと考えながら唇を重ねた。佐伯の唇は柔らかかった。客席から歓声が上がった。佐伯は目を伏せたまま演出の流れに戻って歌った。僕だけが心臓を高鳴らせていて、佐伯が何を考えているのか本当に分からなかった。
 何とか家に帰りつき、しばらくは何もできずにただ床に座り込んでいた。何とか立ち上がって、シャワーを浴びながら、考えを巡らせた。そもそも、僕だけが佐伯を求めているというのは勘違いではなかったのだろうか。佐伯は僕が手に触れれば、手を重ねてくれた。唇を重ねれば僕を見てくれた。佐伯は僕に笑いかけてくれた。佐伯は僕への思いを口には出さないけれど、僕も佐伯への思いを口には出していなかった。佐伯は実は僕のことを大切に思ってくれているからこそ、口には出さないのかもしれなかっあ。なぜなら、僕は佐伯を大切に思っているからこそ佐伯に思いを伝えていなかったのだから。もう一度、佐伯に会いたかった。もう一度、佐伯に触れたかった。佐伯の一挙手一投足に僕への思いの欠片を探したかった。佐伯の手に触れて、佐伯が手を重ねた感触をまた残したかった。僕は佐伯に会いたいと一生全ての細胞で願っておきながら、佐伯の側にいたくないと思うのだろう。佐伯へのすべての行動が自分ではないもののように思われて、過去の自分を消し去りたくなった。だが、少なくとも今は、いつか会えなくなる日まで、会えるときには一つでも多くの奇跡を感じていたいと思った。
 僕が佐伯の中にあるかもしれない僕への思いを探す中で、僕は小田さんと仲良くなった。僕が小田さんと仲良くなろうと思った理由の一つには、佐伯に嫉妬してもらいたいという思いがあった。別の人間と仲良くしているところを見たら、僕が欲しくなって追いかけてくれるのではないかと期待した。もう一つは、佐伯は色々な経験がある人が好みなのかと考えた。なぜなら、小泉さんが色々な男性と関係を持っていることは公然の秘密だったからだ。その後分かったことには、佐伯の前では僕は小泉さんになってしまったけれど、小田さんの前で僕は僕でいることができた。
 ガタン、と音がして僕は即座に意識を現実に戻した。一瞬彼女の身に何か起こったのかと心配になった。お風呂場の外では彼女がお昼ごはんの準備をしてくれているのであろう音がした。よかった。おそらく鍋か食器などが音を立てたのだろう。僕はようやく彼女のことを思い返そうとしていた。
 彼女は、女王様で、たくさんのものを持っていた。彼女はたくさんのものを持っていて、ずるいと言われて、ずるいと言われたことを自慢げに話す女性だった。そんな彼女のことを鼻につくと言う人も少なくなかった。実際彼女は理屈っぽくて上から目線で、面倒くさい性格をしていた。加えて彼女には都合が悪くなると勢いで押し通そうとする癖があった。実際に彼女が笑顔でやりたいと言えば空気は変わり、異議を唱えにくい雰囲気になった。唱えられなかった異議は、少しずつ積もっていって、彼女を非難できる空気ができたときには見たことがないほどに非難された。非難されると彼女は見るからに落ち込んだ。ひどいときには体調を崩した。
 彼女はとても危なっかしかった。彼女は人を惹きつける力を持っているのに、人に好かれることを目的とした力を持っていなかった。人に好かれたいと思っていなかった。そして、嫌われたくないとも思っていなかった。お恥ずかしいことに、人に好かれることが目的で人を惹きつける力を持ちたいと思う僕にとっては、人に好かれることを目的としない彼女が何かが欠けているように見えてしまった。時折、僕と彼女は似ていると思ったけれど、彼女を見るうちに僕の方は自分が好かれるために何もかもを手に入れたい強欲な人間であることを知った。きっと彼女の方は、好かれることに割く力を自分の能力の研鑽に割きたいと考えていた。たとえば、僕が固執してきた好かれるための力を、彼女のために使うことができたならどんなにいいかと思った。あるいは、僕の利己的な時間の積み重ねが、利他的なものに少しでもなりはしないかと期待した。
 また、彼女はものを集めることが好きで、色々な種類や大きさの家具やランプを集めていた。他にも、彼女は連絡先をとにかく集めていた。おそらく、彼女にとっての連絡先は、種類の違うランプと似ていた。彼女はまるで目の前にいる人間を知り合いという題名のついた箱に加えてみたいという収集癖があるようだった。彼女にとってはたくさんのものを集めることに価値があった。彼女にとってのもっているという言葉は持つことに伴う努力を当たり前に指すものだった。
 ある日の歯医者でのお会計の待ち時間、子どもがいる俳優がつい女性を口説いてしまうとお酒を飲みながら笑って話している番組を見ていた。彼は子どものような笑顔をしていて、輝いていて、楽しそうだった。気になって彼が出ている動画を見てみると、彼は俳優仲間と仕事の在り方についてやはり子どものような懸命な目をして話していた。彼は裏表なく正しく純粋で、真っすぐに見えた。
 突然、吐き気が込み上げてきて、急いでお手洗いに駆け込んだ。内容物が胃から食道を通り喉の奥にせりあがった。大丈夫。大丈夫。色々な考えが脳内で掻き回された。歯医者の手洗いで吐いて出たら臭いや汚れで僕が吐いたと分かってしまうかもしれなかった。でも外に出てから人前で吐いてしまったら嫌だった。僕は一生公共の場で吐いた人になってしまうかもしれないと想像すると恐ろしかった。
 以前〇時発車の電車の中で飲みすぎてしまったのか吐いてしまった人を見たことがあった。大学生くらいの男性が座席で横になっていたのだが、何かの気配を感じたように体を起こし、脚を開き、下を向いた。しばらく何かを待つように下を向いたままでいたと思うと零れ落ちるように痰のような白い液体を垂らした。また座席に横になりしばらくするとまた下を向いて座った。今度はさらに多く吐き出し、吐き出し、何度も吐きなおした。しばらくして落ち着いたのか、また座席に横になった。二皿分のクリームシチューくらいの液体が彼の足元に広がっていた。消化されかけた肉と麦芽のような香りがエアコンの風に乗って流れてきた。彼と床の様子に気づいた乗客がちらほらと他の車両に移っていった。彼はスマートフォンを落として、拾った。段々彼自身も周囲の様子に気づいてか座席に横になりながら液体をスニーカーで隠そうとした。液体が少し伸びた。臭いに耐えがたくなって自分ももよおしそうになってきたころ、彼は立ち上がって隣の車両の方に消えていった。彼が立ち去った後、吐しゃ物から一番近いのは僕になり、僕のものと思われるかと気になった。しかし、偶然次の駅が下車駅だと電車の画面に表示されたのですぐに下車した。ホームを歩きながら自分とは逆方向に進む電車の中で彼を探そうとしたが、見つけることはできなかった。その後エスカレーターで前に立つ女性の背中を見ながら、自分にも臭いがついていないか少しだけ気になった。
 また、ある政治家の夫が、妻を介抱したという記事を読んだことがあった。そのとき夫婦であれば介抱するだろうと思った。また、見知らぬ男性が、気持ちが悪くなった女性を介抱して女性が恋に落ちるという少女漫画を読んだことがあった。読んだ時には出会いの演出としては弱いと思った気がした。実際に見知らぬ人が目の前で吐いていると胃の内容物はあまりにも刺激が強くて動くことはできなかった。同時に人前で吐くことは体調が悪い中で周囲からも嫌がられて本当に辛いだろうと思った。辛い思いをしている人がいるとき、さらに辛い思いをさせる人間になりたくはないとは思った。
 現実に帰ってみれば、今吐きそうなのは僕だった。ワイヤレスイヤホンを耳にはめ、一番きれいだと思う男性歌手の歌に頭を預けた。大丈夫だ。外に出ても彼の歌のフィルターを通して世界を見るならば、きっと大丈夫だ。お手洗いを出ると丁度名前を呼ばれたのでお会計を済ませて歯医者を出た。
 先ほど気持ち悪くなったのが感染症であれば周囲に迷惑をかけてしまうし、念のため病院に行こうと考えて、以前訪れた新宿の高層階にある病院に向かった。身分証明書をかざし、受付の女性の案内に従って受付を済ませた。待合室の窓からは新宿のビル群の下に歩いてきた道を見下ろすことができ、車は幼児が遊ぶおもちゃの車のようにも見えた。室内も広くきれいで、大画面のテレビや曲線状のソファが寛げる様に配置されていた。ふいに旅の雑誌と漫画が気になって、本棚の横の空いていた場所に座った。
 旅のきれいな写真を見ていたが、ふと人の気配がして顔を上げると、向かいの席にピンクのニットに花柄の黒いスカートを着たきれいな女性がソファのひじ掛けに寄りかかって座っていた。女優の小田さんに雰囲気が似ていると感じた。帽子を目深に被っていたが、骨格や目鼻立ちがくっきりとしていて人を惹きつけるが同時に近寄りがたい雰囲気があった。女性はなすすべがなさそうに震えていて、よく見ると血の気がなく、脂汗も浮いているように見えた。彼女はふいに何かに突き動かされるように下を向いた。彼女はどこか諦めているような趣があった。すぐに、彼女と電車で嘔吐した男性が重なって見えた。そして、彼女の美しい胸元が、口元が、足元が、汚れてしまう様子が思い浮かんだ。きれいなものが汚れてしまうのは間違っていると強く思った。そして、彼女が今以上に辛い思いをするのは間違っているとも思った。
 気づくと彼女の横に座って彼女の口元に僕の白いバックをあてていた。ひとまず彼女の胃の中身を受け止めることができたことと、彼女が汚れていないことを確認した。彼女が落ち着いた様子であることを確認すると、急に周囲の情報が自分の中に入り込んできた。自分も吐き気を催していたことに気づき、女性の口元だけ僕のハンカチで軽く拭ってハンカチを女性の隣に置き、持ち物をすべて持ってお手洗いに駆け込んだ。
 お手洗いを出ると、先ほどの場所に彼女の姿はなかった。お手洗いに行ったのか、病室にいるのか分からなかった。いずれにせよ今いる場所は病院であるし、自分にできることはもうないだろうと思った。ときには自分のことをどうしようもない人間だと思うこともあったが、彼女のきれいな足元が汚れなかったのだと思うと自分にも価値があるような気がした。
 受付をした手前、急に病院から帰るのは申し訳なく思ったが、バックの中身の処理もしなければいけなかったし、受付の女性に急用ができたと伝えて、そのまま家へ帰った。
 その後、やはり感染症の検査をしたほうがいいかと心配になり、また病院へ戻った。またどこかに彼女の痕跡が見つかれば有り難いとも思った。
 エレベーターを降り、病院の入口がある方向へ向かって廊下を歩きながら、彼女がいるのではないか、と思った。いると思うのと同じくらいの強さで現実的に考えているわけがないとも強く思った。体の向きを変えて入口から待合室に足を踏み入れながら二つの強い考えに頭は熱くなっていた。
 彼女はいた。僕が初めて見たときに時間が戻ったのかと思うほど同じ場所で同じ美しさで座っていた。高揚して顔がにやけてしまうのを抑えながら先ほどと同じ受付の女性の方へ話しかけた。
「先程受付だけして急用で帰ってしまった者なのですが、今からよろしいでしょうか。」
申し訳なく思いながら聞くと、快諾していただいたので安堵し、念の為また身分証明書を出した。
「あの、間違っていたら申し訳ないのですが、先ほどあちらの女性に声をかけられていた方ですか?」
「え?おそらく、そうですね。」
思えばあのとき、女性の許可もなく近づいて触れたかもしれない。性犯罪者だと思われたら今からの人生を性犯罪者として生きていくのだろうかなどと色々な考えが頭を巡った。
「あちらの女性が、あなたに貸してもらったハンカチを返したいということでした。あなたが来るかもしれないということで出口のところにいるつもりだったようですけれど、体調が悪いのに外にいるのも良くないと思って、そちらで座っているようにお声がけしております。」
「ありがとうございます。」
彼女の方へ振り向くと、彼女は話しかけに行こうかどうしようかと迷っている様子だった。僕が彼女の方に向かうと、彼女が立ち上がろうとしたので、「よろしければ座ったままでいてください。」と言って手で椅子を示した。
 立ったまま彼女を見下ろすのも憚られて先ほど座っていた彼女の向かいの席に腰を下ろした。
「体調は、大丈夫ですか?」
「大丈夫です。あの、先ほどはありがとうございました。バッグとか、中の物とか、弁償させていただきます。」
「はは。僕が勝手にやったことですから、お金を受け取ったら当たり屋みたいになっちゃいますよ。僕に格好つけさせていただけると助かります。」
「え?それは流石に私が困ります。お礼は本当にさせてください。」
「そういえば、気になっていたお粥のお店がありまして、お洒落すぎて僕一人じゃ行きにくくて。もしよかったら付き添ってくださるとありがたいです。もちろん、無理そうだったら連絡していただければ大丈夫ですし。」
「え?はい。ひとまず、それで大丈夫なら。あ、でも連絡って、そしたら、交換します?」
「ありがとうございます。これ僕のQRコードです。おー!本棚の写真ってことは、本好きなのですか?」
「はい。本棚見ると幸せな気持ちになります。」
「分かります。僕小学生のころ、歩きながら本を読んでいました。名前は、小田さんであっていますか?僕一木っていいます。」
「いつきさん。よろしくお願いします。」
「よろしくお願いいたします。じゃあ、細かい待ち合わせとかはまた連絡で大丈夫ですか?」
「はい。あの、今日はありがとうございました。本当に助かりました。」
「はい。小田さん、無理しやすい性格なのかもしれないですけど、体お大事にされてくださいね。」
「ありがとうございます。私は月に一度辛いだけなので大丈夫です。いつきさんこそ、大丈夫ですか?」
「ええ。小田さん辛い時点で大丈夫じゃないですよ。僕は感染症の検査をしようかなって思って。あ、ごめんなさい!僕はあんまり小田さんと近づかないように気を付けていたのに、少し近づいてしまっていましたよね。離れますね。」
「そんなの気にしないですよ。でも、いつまでも病院で話しているのも良くないですよね。今日はありがとうございました。」
「こちらこそ、ありがとうございます。」
 その後、受付の女性にもお礼を言った。診察の順番が来て、事情を説明し、感染症の検査をした。医師から問診をされた。
「ストレスとかは無いですか?」
「無いと思います。そもそもストレスってどんなものかよく分かっていなくて。すみません。きちんと答えられなくて。」
「うーん。外部からの刺激とそれに対する心身の反応をあわせてストレスと呼ぶことがありますね。睡眠不足や人間関係でストレスを感じる方は多くいらっしゃいます。」
「そうですよね、睡眠をもっととれるように心がけてみます。人間関係は、周囲の方々に嫌われないように行動しすぎて、偶に自分が嫌になるくらいですかね。でも、周りの方々は本当に良い方々なので人間関係のストレスはやっぱり無いと思います。」
「そうですか。ストレスから起こるこころや体調の変化に気づくことは大切なことですからね。誰かに相談することや、日記に書くことで解消できるようですから、やってみてくださいね。」
「はい。ありがとうございます。やってみます。」
お礼を言って診察室を出た。医師と話すのは緊張してしまった。自分が痛い、辛いというのは恥ずかしかった。まるで拷問のようだと思った。自分の弱い部分を覗かれるようで、医師を前にするとすぐに逃げたくなってしまった。せっかく恥ずかしい思いをして、やると言ってしまったのだし、日記や相談をしてみようかと考えた。
彼女には、連絡しない方がいい印象のままで終われるだろうかとも思ったけれど、本好きの方に久しぶりに会えたのでやはり話してみたいと思った。まずは、一つも知らないおしゃれなお粥の店を調べるところから始めようと思った。