家に帰ればひょいと靴下を脱ぎ、ぺたぺたと床を歩いていく。すっかりここを陸の家としているようで、帰り道では少し静かだったルルは影斐の後ろにくっついて生き返ったようにおしゃべりをしていた。
「今日はね、デパートってとこに行ってきてさ。あれ知ってる? なんだっけ、箱の中に入ると写真が出てくるやつ」
「証明写真機かプリント倶楽部ですね」
「そんな名前だったっけ。とにかく水澄と紅葉がらくがきするもんだから綺麗に撮った写真がもうめちゃくちゃになってね。ねえこれ僕の学生証に貼ってくれよ」
「駄目です」
四人がぎゅうぎゅうづめになって映る長方形のシールとルルの学生証を一緒に鼻先に渡されるので押し返した。
「で、猫カフェにも」
「その服で猫カフェに?」
「いいやこれは昨日の話。あの子達すごいぞ、あんなのを躊躇いなくこう、抱っこして。僕には近付くのも無理だったけど、水澄なんてすごい囲まれててね」
両手でゆりかごを作るルルを横目に見つつ、ようやく居間の座卓にたどり着いた。影斐は二人分のマグカップを机に並べて正座した。
湖のレディには雨を止ませる力があったとか。
「熱ッ」
目の前で舌を火傷しかける少女の正体がそれだとして。望みを叶えるなんてアバウトな約束は自分勝手に忘れてくれた方が良かった。
貴女との約束のせいで、九沈は未だに願いが叶うのを待ってしまっている。
「僕のいない間、寂しくしてたでしょう」
「いえ。日常が戻ってきた感じで、いい休日になりました」
「お前ね」
もっと言えば彼女は執事を連れて行かなかったので、家事などに気を取られず静かで快適に過ごせていた。出る杭は打たれる、蛇足は切り取られる。危ないので言わずにおいた。
面白くない顔をしながらカップの縁を親指でなぞり、ミルクが冷めるのを待つルル。影斐のコーヒーはもう半分以上減っているので、いつ飲み干してしまおうか考えていた。
「やっぱりあんな時計、もらってしまった方が良かったのかね」
「そう言ったでしょう」
「違うよ。ほんとに君ってやつは」
顔を上げると呆れ顔の彼女と目が合って。ルルは傍に置いてあったポットから角砂糖を一つつまんで、影斐のカップに投げ入れた。
「えい君はもっと僕のことで悩むべきなんだよ」
「悩む……?」
影斐は思わず眉を顰めた。
「不足がありますか。シャンプーは何種類か買いました。服が足りないなら選んでもらって構いません。もう何年もほとんど一人暮らしだからわからないことは多いですが言ってもらえれば揃えます」
僕の伴侶になりなさい。
あのようなめちゃくちゃな求婚を受けた理由に打算がなかったとは言えないが、受け入れる以外に、選択肢などなかったくせに。
「貴女がこの家に来てから、……私の生活はぐちゃぐちゃなんです。貴女のことばかりで」
こんなに困ってるのに、これ以上どう悩めと、いうのだろうか。
「……僕にいなくなって欲しいならあの時止める必要もなかったんじゃないか?」
穏やかに、彼女は悲しいことを言う。冷めていくホットミルクがやけに気になって、影斐は湯気のなくなった白い水面を見つめた。
「そういうことじゃ、ないでしょう」
「君は案外寂しがりなのかもね」
「…………?」
「僕の友達に意地悪を言うなよ。あの三人は僕が割り込んだくらいで揺らぐような関係じゃなかったよ。本当に仲がいいんだ」
あかねを突っぱねたのが聞かれていたのだろうか。それともあかねが話したのか。自分でも矛盾した行動をとっていた自覚があるけれど。
「……湖のレディは人に愛されているべきですから。周りの全てが貴女の味方であればいいと——」
いや、こんな説明ではまるで善意のもとにそう言っているかのようだ。首を振りながら、言葉を選ぶ。選べなくなっていく。
「そうでないなら要らなかった」
「極端だなあ」
「貴女は奔放なようでいて他人のために何かしようとする。それに躊躇いがないでしょう。こうやって『湖のレディ』と呼ばれるときも、そう振る舞おうとするのでしょう。そんなことはしなくていいんです。他人の落とし物を拾うのに、二メートルも下の水に落ちなくていいんです。誰の期待にも添おうとしないでいいから……」
息継ぎをすると喉が鳴る。
「自分を第一にしてください」
「そうしてるとも」
さも当然というように彼女は答えた。それからこちらを見つめる目が、ふっと和らいで。
「…………」
「何ですか?」
「心配しなくても、僕は自分勝手に君を選んだ。これからもそうやっていくだろう。とはいえ……」
とはいえ、と彼女は頬杖をついた。「君が『湖のレディ』を負担に感じるのはつまらないからね。君にとっての僕はただの井藤ルルであろう。ただの友人のように接してもらって構わないよ」
友人。
湖の底から現れた、ただの友人。
「それはそれで扱いに困るんですが」
「あははいいぞ、それだよ。どんどん困ってしまえ」
少女は悪戯っぽく笑った。
風呂から上がったルルが、今の広い空間に戻ってきてくるりと回ってみせた。白いワンピースのようなパジャマの裾がふわりと浮かぶ。
「どう?」
「は?」
「あの子達がやたらと君と僕のことについて聞きたがるんだよ。君と僕は恋人らしさがないっていうんだ。これはまずいよ。僕らの仲が疑われてしまう」
なんだそれは。
「ですから、そもそもの始まりが……」
「それでえい君の好みのパジャマをどうにか推測して選んでくれたんだ。せっかく一緒に住んでるからいい雰囲気になればって」
余計なことを。
「余計なことを……」
あまりにあけすけに魂胆を語るので、影斐は眉間を押さえる。
当の本人は至って無邪気で、初心者のバレエよろしくくるくると回っている。レース生地の清楚なネグリジェは、長い髪を下ろしたルルが着ると色気を誘うというよりは少女型のフランス人形のような可憐さだった。
「で、どう?」
「別にどうとも」
「な、なんだと……」
しかし別に初めて見る服装ではない。出会った夜、人魚から人の姿に変わった彼女は似たような白いワンピースを着ていた。あの夜を思い出すと、連鎖的に彼女の尾びれが想起される。
「そんなはずないだろ。夜しか見られない新たな一面だぞ!」
「あの、私もそろそろ風呂に入りたいんですが」
無理やり視界に入ってこようとするルルを避けて居間を後にする。しかしさせまいとルルが服を掴んでくるので身動きが取れなくなった。
「以前も言いましたが、私は貴女に愛情があって婚約したわけではないので」
熱されるものもなければ冷めるものもない。淡白なくらいが楽だしいい距離感だと思っていたのに、新しい友達は一歩踏み込んだことを吹き込んでくれたようだ。
「にしたってこんな上玉が一つ屋根の下で暮らしてるんだぞ。もうちょっとドギマギしたりしてくれてもいいと思うんだけど」
「上玉とか言わない」
その美貌に一目惚れしてくれる男はいるでしょうね。私ではなかっただけで。そういう目で見ろと言われているようでこちらとしては物凄く気まずい。悩ましげに腕を組む彼女にこの立場をどう言ったものか。
「……わざわざそういうことをしなくてもこちらから婚約を破る気はありませんよ」
そう言っても、ぱっと顔を上げたルルの顔は全く納得していなかった。
「何だその含みのある言い方は。まるでいつか僕が破るみたいじゃないか。君は婚約者をそんな飽きっぽいと思っているの?」
「まあ、はい」
「あーあ。怒っちゃおうかな」
宣言する前にすでに手が出ていて、影斐は背中にきた衝撃でつんのめった。
「……げほ、」
「こちらを向きなさい、八十科影斐」
命じられて振り向くと首筋を抱き寄せられ、影斐は素直にルルに向き合う。すぐ近くにいつも見る少女の顔があって、円い瞳がじっと見つめてくる。
「…………」
「そんな困った顔するなよ」
ルルの眉が珍しく下がって、影斐より豊かに表情を変える。
人魚とはもっと、冷厳とした女神なのかと思っていた。それが目の前にいる彼女とは全く不相応で、情緒豊かで、言うことがころころと変わる。真正面からぶつかってきて理不尽で、困れと言ったくせに、いざそうなれば彼女もぐらつくのだ。
「私は……」影斐はそっと彼女の腕を外して。「つまらない人間です。貴女を後悔させることになるかもしれない」
彼女を引き取っておいて、楽しませられる自信なんてひとつもない。
「ふむ……思うに、僕らには足りないんだ。恋への意欲が」
ルルは顎に指を触れ、つんと天井を向く。そして破顔した。突拍子もないことを言い出す前触れであった。
「こうしよう! 今日から毎晩、おやすみのキスをする」
…………。
「は?」
影斐の当惑を眺めてルルは愉快そうに苦笑する。
「嫌そうな顔だね」
「嫌なので……」
正直な拒絶に一瞬唇を尖らせて、まあ聞きなさいとルルは言う。
「なに、ちょっとしたごっこ遊びだよ。足りないってんなら、真似をするしかないよね。擬似的にそう振る舞うことでやがて気持ちもついてくるんじゃないかな?」
それらしく言うけれど段階を考えてあまりに一足飛びだ。しかし出会い頭にプロポースをするような相手に言っても仕方がないのかもしれないし、外で恋人らしくしろと言われるよりは瞬間的な課題で済むのでマシなのかもしれない。
「どうしてそこまでする必要が」
「僕は君を愛してやりたい。他に理由が?」
言葉を失った。動揺か、当惑か、居た堪れなさが襲ってぐらりとよろけた。その拍子に襖に肩がぶつかってガタンと大袈裟な音が響く。
まずいな。彼女は本気だ。
「さあしなさい」
「……私がですか!?」
「僕がしてもいいけど、僕から近付くと身構えるじゃない」
ああ。ああ。
心の中で存分に嘆いてから、頽れるようにして影斐は彼女の前に片膝をつく。
『湖のレディ』。その実在の真偽についてはどうでも良かった。人魚は憧れられ、恐れられ、人間の手に落ち、最後は道具として利用されて捨てられる。その純粋さゆえに。
「どこでもいいよ。えい君の好きなところにしてくれたらいい」
最優先は、人魚の保護。彼女の身柄が、意思が、他の手に渡ってしまうことのないように、ルルをこの家で守ること。繋ぎ止めておくことだ。
私と違って気まぐれで人間が好きな、このひとを。
影斐はその右手を慎重に掬い上げた。月夜の此岸でルルが自分をつかまえたように。静かな視線を受けながら、息を止める。瞬きの音すら聞こえるようだった。
細く白い指に、影斐は微かに唇を落とした。
「まるで王子様だね」
こちらはどこかの女王に挨拶をするような張り詰めた心持ちだと言うのに、ルルは呑気に感想を述べている。
「何か楽しいですか……」
「ふふっ」
彼女は満足したようだった。笑って手を離すと、その指で影斐の髪をさらりと梳かす。
「じゃ、おやすみ。えい君」
「…………」
これを毎晩?
跳ねるように去っていく人魚を見送って、額に手をやった。手のひらには甘い香りが残っている。
大波のような後悔が襲う。
動悸の激しい夜だった。