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湖底のグラス・レディ、11

ー/ー



『大変な時に、すみません。余裕のある方は避難をしながら聞いてください』
 外では風が轟々とうなるなか、百合野あかねの声が校内に流れる。
『私は小さい頃から湖のレディの伝説が大好きでした。九沈湖では絵本のプリンセスより身近だったから……駅や美術館、この学校にも人魚のモチーフがこの町にはたくさん散りばめられています。湖のレディが目覚めるまで、私たちが彼女を忘れないように』
 ちょっと、アンタまで死ぬ気!? クラスメイトが怒鳴るのがぼんやりとしていて、放送の声より遠く感じる。別に、飛び込もうなどとはしていないはずだが。
『目覚める頃にはわかるように兆しを見せると湖のレディはおっしゃって、ついにそれらしき印が現れました。それは十八年前のことで私もまだ生まれる数ヶ月前でした。きっと今この学校に通ってるみんな、その時のことは周りの大人から聞かされてるんじゃないでしょうか。すごく盛り上がって、お祭りなんかも催されたそうです』
 講堂にはもうほとんどの生徒が集まっていて、安全な場所から非日常を味わっている。ざわざわと友達同士で囁きあったり、一人で時間を潰していたり。いずれもその片手ではあかねの言葉に耳を傾けているようであった。
 生徒会長が影斐を見つけるなり歩いてきて何か言う。
 影斐もその質問だか連絡事項だかに答えたつもりだったが、忙しく離れていくいとこに何を伝えたのかどうにも思い出せない。
 あかねの話が続く。
『……いま、この時代に、彼女がただの人として私たちの前に現れたとして。私たちは、彼女を見つけることができるのでしょうか。ステンドグラスは、絵画は、忠実に彼女の姿をしているのでしょうか。誰も知りません。会ったことがないのだから。名乗ってくれたところで、私たちはそれをおとぎ話だからと信じず否定してしまうかもしれない』
 息継ぎをするとふっと声が止んで、外の風の音だけが響く。
 決して少なくない人数が集まった講堂の中で誰も声を発しない一瞬があった。
『私が湖のレディの伝説を好きなのは綺麗でロマンチックだからですが、最近思います。あの時……この地に辿り着いて湖のレディと呼ばれる前は、私たちのご先祖さまには彼女はどう見えていたのでしょう。人間とは違う姿は怖く映った、のかも。それでもありのままを受け入れた……その心が素敵だなって、思ったの』
 その言葉がやけに近くに聞こえる。目を閉じる。
『あなたの目で確かめて下さい。もし私の言うことがみんな勘違いで、目覚めたあの子が本物の湖のレディじゃなかったとしても。どうか』
 少し、ノイズが途切れて。
『みんなが九沈湖の人たちなら同じことができる。あなたたちには簡単なことのはずです』
 百合野あかねは、こう言って締め括った。
『レディ……ううん、井藤ルルさん。あなたにこの町を好きになってもらえるよう、がんばるから。どうか私たちと一緒に、卒業してね』

 ルルが戻ってきたのは、放送が終わって間もなくであった。
 いつの間にか建物を揺さぶる責め立てるような風雨は忽然と消えて、講堂の曇りガラスに白金色の光が差し込んでいた。

     ◯

「ただいま」
 嵐の騒動から二日経った夕方。ルルが駅前まで帰ってきた頃には薄暮が始まり、一等星も光り始めるであろうという頃だった。
 軽くお泊まり会をするからとあかねたちに連れていかれ、クラスメイト三人と一緒にいる彼女は遠目に見れば私服の女子高生と混ざって違和感もない。影斐の目で見て変わった点といえば、帽子から靴までおろしたての新しい服に身を包んでいることくらいか。
「八十科くんだ」
「お迎えね。ごくろうさま」
 こちらに気付いた四人が改札を出るなり近寄ってくるので、かすかに逃げたい衝動に駆られる。かといってもう囲まれているし知らないフリで逃げられる雰囲気でもない。
「どうどう? 服買ったんだけど!」
 紅葉がしてやったという顔でルルに向けて手をひらひらさせる。 ルルが着ているのは、レトロでシックだけれど可愛らしいシルエットの服装。これを褒めろと言われていることはわかるがしかし女子のファッションに対する興味など持ち合わせておらず、特にコメントが思いつかない。
「ああ。良かったですね。——立て替えてもらって悪い、費用は返す。誰か領収証を……」
「ちがうじゃん!」
「そうじゃなくて」
「八十科くんって」
 不服を同時に浴びせ掛けられ、流石の影斐も途方に暮れた。
「アッハッハ。言ったろ、こいつにはわからないって」
「あんたそれでいいの!? ハァーッまじか」
 今の一言でクラスメイト三人から一気に幻滅されたようだった。対して当のルルは逆に友達三人を慰めるように笑う。それがどうにも複雑な気がして、影斐は気配を消した。
「…………」
「さ。そろそろ夕飯の時間だ。君たちも帰らなきゃね」
「えー、てか井藤さん、水泳部入らない?」
「え?」
 戸惑うルルに「紅葉ちゃんは水泳部なの」とあかねがそっと補足をする。
「泳ぎめっちゃ上手いんでしょ。あんな暴風の中を生きて帰ってんだから。ちゃんと時計だって拾ってさ」
「そんな危ないこと二度としないでほしいけどね」
「三賀。今入ってもすぐ引退よ。受験勉強しないとだし」
「だってもったいないじゃんせっかく泳げるのに。あんたたちちゃんと見た、コイツ飛び込んだんだよ、あの荒波に! 信じらんないんだから、普通ムリなんだから! 死んだかと思ったんだから!」
 二人が口々いうのを構わず、紅葉はルルの肩を前後に揺らしながら入部を誘う。
「ウ、波より揺れる。酔いそうだ。助けてえい君」
 前後に揺らされるルルを遠巻きに眺め、影斐に割り込む隙はない。
「あんたヤな奴かと思ってたけど勘違いしてたよ。ただの変な子じゃんね! 絶対楽しいからさ、あたしと水泳やろうよ」
「君、ちょっと虫が良すぎるぞ。覚悟しなさいって言ったの、忘れた? 僕は君より尊い……」
「はいはい、わかってんよ。それもキャラ付けでしょ? キュートキュート」
 紅葉は手でハートの形を作る。
「なんなんだいこの子」
「だめだよ紅葉ちゃん。ルルちゃんはこれから私のクロスカントリー部に勧誘するんだから」
「なにいッ、部長権限ずるいぞ!」
 あかねに引き寄せられて三角関係のような構図になり、いよいよルルの顔に疲れが滲む。そんな光景を眺めていて、影斐も安堵よりどっと疲れが出た。先日までの険悪はなんだったのか。
 しかしわかる。彼女は自分の気まぐれで、確固たる善意で、自身の魅力でクラスメイトの信用を勝ち取ったのだった。
 離れがたいのかおしゃべりが止まらない女子たちと、ひたすら立ち尽くして待つ影斐。ともかくルルと彼女たちは、一晩を経た今すっかり友達であるようだった。

 あかねたちを執事の車に送らせて(ルルがちゃんと紹介しないので三人は不思議そうな顔で送られていった)、影斐とルルは八十科家へと歩いて帰る。
「時計はどう? 直りそうかい」
「いえ」
 湖に一度水没した腕時計は、その日のうちに修理に出してはいる。しかし、古いし繊細な機械だ。影斐は特に期待をしていなかった。
「そう。せっかく拾ってあげたのだから生き返って欲しかったけど。ごめんね、えい君」
「十分使いましたから——」
 言いかけて、影斐はルルの方を見る。ルルはいつもとあまり変わらない普通の顔で前を見て歩いている。
「なんだよ」
「貴女も謝ったりなさるんですね」
「こいつ……」
「ただの時計ですよ。別のを使えばいいだけです」
 少し間を開けて、一言付け足そうとした時。強めに袖が引かれてバランスを崩すとルルが覗き込んでくる。
「それは兎も角、ご褒美をもらわないとな」
「…………。ケーキでどうですか」
「甘味で黙らせられると思うなよ」
 微笑む彼女の目が光って背筋が冷える。
 そこに、少し離れたところから声が割り込んだ。
「あらっ、もしかして……湖のレディ?」
 後ろからルルを呼び止めたのは六十代くらいの夫人。どこかで見覚えがあるので、おそらく親か祖父母の顔見知りだ。助かったというかタイミングが悪いというか、微笑ましげに二人を見る表情に影斐は気まずくなる。何をしていると思われただろう。
「影斐くんも。フフッ」
「……こんばんは」
 名前も思い出せない近所の奥様に影斐は最低限挨拶をする。
「孫が言ってたのよ、貴女たちと同じ高校に通ってるんだけどね、湖のレディがお目覚めになったらしいって。昨日の大雨もあなたの力でおさまったんでしょう? お会いできて嬉しいわ」
 ぱちくりとするルルと目を見合わせた。
 微かにある笑い皺を深くして、夫人が言う。
瑚羽(こはね)さんが言ってたのは本当だったのね。あなたが湖のレディのお目覚めを知らせる()()()だって……十年も前のことだったから、少し不安に思ってしまったんだけど、よかったわ。影斐くんのおかげよ」
「しるし?」
「いえ。私は何も」
 ルルは夫人に向き直って一歩前に出る。
「こんばんはマダム。井藤ルルです。彼にもらった名なんだ、そう呼んでくれ」
「あらまあ可愛いお名前」優しげな夫人は差し出されたルルの手をふくよかな指で包み込むように握った。
「九沈町へようこそ。あなたをずっと待っていたわ」


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 ちょっと、アンタまで死ぬ気!? クラスメイトが怒鳴るのがぼんやりとしていて、放送の声より遠く感じる。別に、飛び込もうなどとはしていないはずだが。
『目覚める頃にはわかるように兆しを見せると湖のレディはおっしゃって、ついにそれらしき印が現れました。それは十八年前のことで私もまだ生まれる数ヶ月前でした。きっと今この学校に通ってるみんな、その時のことは周りの大人から聞かされてるんじゃないでしょうか。すごく盛り上がって、お祭りなんかも催されたそうです』
 講堂にはもうほとんどの生徒が集まっていて、安全な場所から非日常を味わっている。ざわざわと友達同士で囁きあったり、一人で時間を潰していたり。いずれもその片手ではあかねの言葉に耳を傾けているようであった。
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 影斐もその質問だか連絡事項だかに答えたつもりだったが、忙しく離れていくいとこに何を伝えたのかどうにも思い出せない。
 あかねの話が続く。
『……いま、この時代に、彼女がただの人として私たちの前に現れたとして。私たちは、彼女を見つけることができるのでしょうか。ステンドグラスは、絵画は、忠実に彼女の姿をしているのでしょうか。誰も知りません。会ったことがないのだから。名乗ってくれたところで、私たちはそれをおとぎ話だからと信じず否定してしまうかもしれない』
 息継ぎをするとふっと声が止んで、外の風の音だけが響く。
 決して少なくない人数が集まった講堂の中で誰も声を発しない一瞬があった。
『私が湖のレディの伝説を好きなのは綺麗でロマンチックだからですが、最近思います。あの時……この地に辿り着いて湖のレディと呼ばれる前は、私たちのご先祖さまには彼女はどう見えていたのでしょう。人間とは違う姿は怖く映った、のかも。それでもありのままを受け入れた……その心が素敵だなって、思ったの』
 その言葉がやけに近くに聞こえる。目を閉じる。
『あなたの目で確かめて下さい。もし私の言うことがみんな勘違いで、目覚めたあの子が本物の湖のレディじゃなかったとしても。どうか』
 少し、ノイズが途切れて。
『みんなが九沈湖の人たちなら同じことができる。あなたたちには簡単なことのはずです』
 百合野あかねは、こう言って締め括った。
『レディ……ううん、井藤ルルさん。あなたにこの町を好きになってもらえるよう、がんばるから。どうか私たちと一緒に、卒業してね』
 ルルが戻ってきたのは、放送が終わって間もなくであった。
 いつの間にか建物を揺さぶる責め立てるような風雨は忽然と消えて、講堂の曇りガラスに白金色の光が差し込んでいた。
     ◯
「ただいま」
 嵐の騒動から二日経った夕方。ルルが駅前まで帰ってきた頃には薄暮が始まり、一等星も光り始めるであろうという頃だった。
 軽くお泊まり会をするからとあかねたちに連れていかれ、クラスメイト三人と一緒にいる彼女は遠目に見れば私服の女子高生と混ざって違和感もない。影斐の目で見て変わった点といえば、帽子から靴までおろしたての新しい服に身を包んでいることくらいか。
「八十科くんだ」
「お迎えね。ごくろうさま」
 こちらに気付いた四人が改札を出るなり近寄ってくるので、かすかに逃げたい衝動に駆られる。かといってもう囲まれているし知らないフリで逃げられる雰囲気でもない。
「どうどう? 服買ったんだけど!」
 紅葉がしてやったという顔でルルに向けて手をひらひらさせる。 ルルが着ているのは、レトロでシックだけれど可愛らしいシルエットの服装。これを褒めろと言われていることはわかるがしかし女子のファッションに対する興味など持ち合わせておらず、特にコメントが思いつかない。
「ああ。良かったですね。——立て替えてもらって悪い、費用は返す。誰か領収証を……」
「ちがうじゃん!」
「そうじゃなくて」
「八十科くんって」
 不服を同時に浴びせ掛けられ、流石の影斐も途方に暮れた。
「アッハッハ。言ったろ、こいつにはわからないって」
「あんたそれでいいの!? ハァーッまじか」
 今の一言でクラスメイト三人から一気に幻滅されたようだった。対して当のルルは逆に友達三人を慰めるように笑う。それがどうにも複雑な気がして、影斐は気配を消した。
「…………」
「さ。そろそろ夕飯の時間だ。君たちも帰らなきゃね」
「えー、てか井藤さん、水泳部入らない?」
「え?」
 戸惑うルルに「紅葉ちゃんは水泳部なの」とあかねがそっと補足をする。
「泳ぎめっちゃ上手いんでしょ。あんな暴風の中を生きて帰ってんだから。ちゃんと時計だって拾ってさ」
「そんな危ないこと二度としないでほしいけどね」
「三賀。今入ってもすぐ引退よ。受験勉強しないとだし」
「だってもったいないじゃんせっかく泳げるのに。あんたたちちゃんと見た、コイツ飛び込んだんだよ、あの荒波に! 信じらんないんだから、普通ムリなんだから! 死んだかと思ったんだから!」
 二人が口々いうのを構わず、紅葉はルルの肩を前後に揺らしながら入部を誘う。
「ウ、波より揺れる。酔いそうだ。助けてえい君」
 前後に揺らされるルルを遠巻きに眺め、影斐に割り込む隙はない。
「あんたヤな奴かと思ってたけど勘違いしてたよ。ただの変な子じゃんね! 絶対楽しいからさ、あたしと水泳やろうよ」
「君、ちょっと虫が良すぎるぞ。覚悟しなさいって言ったの、忘れた? 僕は君より尊い……」
「はいはい、わかってんよ。それもキャラ付けでしょ? キュートキュート」
 紅葉は手でハートの形を作る。
「なんなんだいこの子」
「だめだよ紅葉ちゃん。ルルちゃんはこれから私のクロスカントリー部に勧誘するんだから」
「なにいッ、部長権限ずるいぞ!」
 あかねに引き寄せられて三角関係のような構図になり、いよいよルルの顔に疲れが滲む。そんな光景を眺めていて、影斐も安堵よりどっと疲れが出た。先日までの険悪はなんだったのか。
 しかしわかる。彼女は自分の気まぐれで、確固たる善意で、自身の魅力でクラスメイトの信用を勝ち取ったのだった。
 離れがたいのかおしゃべりが止まらない女子たちと、ひたすら立ち尽くして待つ影斐。ともかくルルと彼女たちは、一晩を経た今すっかり友達であるようだった。
 あかねたちを執事の車に送らせて(ルルがちゃんと紹介しないので三人は不思議そうな顔で送られていった)、影斐とルルは八十科家へと歩いて帰る。
「時計はどう? 直りそうかい」
「いえ」
 湖に一度水没した腕時計は、その日のうちに修理に出してはいる。しかし、古いし繊細な機械だ。影斐は特に期待をしていなかった。
「そう。せっかく拾ってあげたのだから生き返って欲しかったけど。ごめんね、えい君」
「十分使いましたから——」
 言いかけて、影斐はルルの方を見る。ルルはいつもとあまり変わらない普通の顔で前を見て歩いている。
「なんだよ」
「貴女も謝ったりなさるんですね」
「こいつ……」
「ただの時計ですよ。別のを使えばいいだけです」
 少し間を開けて、一言付け足そうとした時。強めに袖が引かれてバランスを崩すとルルが覗き込んでくる。
「それは兎も角、ご褒美をもらわないとな」
「…………。ケーキでどうですか」
「甘味で黙らせられると思うなよ」
 微笑む彼女の目が光って背筋が冷える。
 そこに、少し離れたところから声が割り込んだ。
「あらっ、もしかして……湖のレディ?」
 後ろからルルを呼び止めたのは六十代くらいの夫人。どこかで見覚えがあるので、おそらく親か祖父母の顔見知りだ。助かったというかタイミングが悪いというか、微笑ましげに二人を見る表情に影斐は気まずくなる。何をしていると思われただろう。
「影斐くんも。フフッ」
「……こんばんは」
 名前も思い出せない近所の奥様に影斐は最低限挨拶をする。
「孫が言ってたのよ、貴女たちと同じ高校に通ってるんだけどね、湖のレディがお目覚めになったらしいって。昨日の大雨もあなたの力でおさまったんでしょう? お会いできて嬉しいわ」
 ぱちくりとするルルと目を見合わせた。
 微かにある笑い皺を深くして、夫人が言う。
「|瑚羽《こはね》さんが言ってたのは本当だったのね。あなたが湖のレディのお目覚めを知らせる|し《・》|る《・》|し《・》だって……十年も前のことだったから、少し不安に思ってしまったんだけど、よかったわ。影斐くんのおかげよ」
「しるし?」
「いえ。私は何も」
 ルルは夫人に向き直って一歩前に出る。
「こんばんはマダム。井藤ルルです。彼にもらった名なんだ、そう呼んでくれ」
「あらまあ可愛いお名前」優しげな夫人は差し出されたルルの手をふくよかな指で包み込むように握った。
「九沈町へようこそ。あなたをずっと待っていたわ」