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影駈け(後編)

ー/ー



 私は、その夜から日記アプリを使い始めた。
 翌日の朝からは、最初に違和感を覚えたあの曲がり角で、毎日、同じ時間に写真を撮るようになった。


【九月一日(月)晴れ】
 ワタナベアヤメ、いとをかしげなるを見つけたり。
 七キロ増加。
 影はカフェオレ。

【九月二日(火)晴れ】
 だんだん腹が立ってきた。グループライン、タヒね。
 ナベタとサシモと付き合ってるってなんだよ。そんなん知らんわ。
 リアコとか、マジウザい。
 それを嗅ぎ回るバカどもも、超ウザいんだけど。
 私にいちいち聞くな。
 本人たちに聞け。

【九月三日(水)曇り】
 実力テストのち、ひとり日高屋。
 昼間っから大衆中華でビール飲んでるサラリーマンを見てると、人生なんて余裕ぶっこいてなんぼだと思うわ。
 青椒肉絲良き。餃子もまた格別。
 サシモなんかいなくったって、私は平気。ほら、こんなにもチルチルミチルだわ。

【九月四日(木)晴れ】
 影の濃さ、さして変わらず。濃くはならない。薄まりもしない。
 良きかな良きかな。そのままであれ。
 ナベタの影は相変わらず真っ黒だ。あいつの中に、何人も人が紛れてんじゃねえのかってくらい。

【九月五日(金)晴れ】
 両足の爪先が影になった。いきなりだ。爪のあたりだけ真っ黒。
 マジ、ブラックホール。触るとずぶずぶと指が入ってく。マジヤバ。キショ。
 どうしよう?
 これ、何科の病院に行けばいいの?

【九月六日(土)雨】
 学校もないのに、早起きして道端で写真撮ってる私、マジ自己満でキショいんだけども。雨なのに、影なんかあるはずもない。
 それにしても、足がこんななのに靴下とか履けるの、なぜだ?
 靴ズレしなさそうで、便利っちゃあ便利か。

【九月十日(水)晴れ】
 明日、台風が来るらしい。
 ママが、ベランダ菜園を台所に避難させてた。なんか、植物のある暮らしって感じ。避けるのめんどいんだけども。
 てか、もう絶望だぜ。足がまるで黒タイツみたいだ。
 気を抜くと崩れる。マジでやべえ。歩き方がマジわからん。
 ジャージ必須。
 明日の体育は逃げよう。こんなんで走れるかよ。バカ。

【九月十二日(金)晴れ】
 晴れの日が怖い。
 影なんて、この世から消えてしまえばいいんだ。
 もう怖すぎて、日陰しか歩けん。明日が休みで本当によかった。

【九月十五日(月)晴れ】
 鬱。
 頼むから晴れるな。

【九月十六日(火)晴れ】
 ついに学校を休んだ。これは、もうダメだ。布団から出がたい。
 長袖のシャツ、ジャージ、ハイソックス。体を隠そうと着込んだものが、もはや意味をなしてない。形がうまく保てないから、着たところですぐに脱げちゃう。布団の影と自分がいっしょくたになってて、どこからが私でどこからが影なのか、自分でもよく分からん。
 ママが心配してる。私を病院に連れていこうと躍起になってる。
 ほっといてよ。マジ近づくな。
 そうやってわあわあ叫んだから、今は超しずかちゃんだ。
 でも、どうしよう。
 明日には、手の指も影になってるのかな。そしたらスマホ、打てるのかな。反応するかな。しないんだろうな。ラインができないなんて、余裕でタヒれる。
 ていうか、なんで私だけこうなんだ。
 いやだよ。このまま、この世から消えてしまうのか?
 カメラで撮ったら、首まわりも黒ずんでた。本物の影は、もうほとんど見えなくなっちゃった。


 その夜更けに、私は部屋を出た。
 真っ黒になった人差し指は、スマホに反応しなかった。タップしても、指がすり抜ける。絶望的だ。ドアをどうにか開けられるうちに、ママが眠っているあいだに、家を出て、影にならなくては、と思った。
 頭まで影になり始めたら、もう隠し通せない。
 布団の中で丸まりながら、考えて考えて、決めたことだった。
 部屋を出る前に、私は遺書を残した。
 最後の日記だ。


【九月十七日(水)?】
 ママ、ごめんね。
 本当のことがどうしても言えなかった。
 だって、こんな人間がいたら、誰だって悲鳴を上げて逃げていくと思う。ママだって、きっと同じだ。
 サシモも、ナベタも、お医者さんも、『ムー』の編集者も。
 NASAも、日本政府も。
 人類滅亡ぐらいの大騒ぎになって、ワタナベだらけのこの小世界を中心に、コロナ禍以上のことが起きて、私を狙ってどこぞかの国がサンプル収集にやってこようものなら、ママだってきっと無事じゃ済まない。
 その前に、消えます。
 だから、さよなら。


 最後だからと、私はお気に入りのワンピースに身を包んだ。
 一目惚れで買ったものの、露出の多いデザインで、一度も外に着ていけなかったやつだ。まさか、こんな使い方になるとは思ってもみなかった。
 廊下に出ると、晩ご飯のハンバーグが、ラップに包まれたまま置かれていた。
 ママの作るハンバーグは、私の大好物だった。夏休みのあいだ、ハンバーグを作ろうとするママに異議を唱え、中華ばかり作らせたことを、今さらのように後悔した。
 もっと食べたかった。
 肉団子のようなまあるい形の、煮込みハンバーグ。
 ラップの上から、唇で触れてみた。
 冷たかった。
 常温のはずなのに、どうしてか、氷のように冷たい。
 形の崩れた足が、ハンバーグの影と混ざり合った。付け合わせのフライドポテトも、にんじんのグラッセも、暗雲が垂れ込めたように色を失う。
「幽霊みたい」
 ふと呟いたその声が、廊下に思いのほか響いた。私は、影になりきらない手のひらで、思わず口を塞いだ。
 これでは、完全に隠キャだ。
 私らしくもない。
 ハンバーグから目を背けると、私は階段を滑らかに降りて、玄関の鍵を開けようとした。
 指は、まだ八本も残っている。開けられなくはなかった。でも、途端に怖くなった。
 ──バレたらどうしよう。
 いくら二階の部屋で休んでいるとはいえ、玄関のドアが開いたら、ママが何事かと思うに違いない。あいにく、深夜にコンビニに行くような不良娘じゃないのだ。
 それに、このワンピース。
 足のない体。
 見つかったら大ごとだ──。私は一旦、トイレに入った。
 鍵は閉めない。
 見せたら困るようなものなど、私にはもうなかった。
 力を緩めると、ワンピースはするりと床に落ちた。それを拾い上げると、天井すれすれの高さにある、使われていない、狭い棚の上にむりやり押し込んだ。
 影さえあれば、空だって飛べる。
 あかりのついていないトイレは、私にとって絶好の場所だった。壁つたいに棚の上へ登ると、首から上だけを残したまま、私は長い時間をそこで過ごした。
 朝が来て、夜が来る。
 その繰り返しを、ただ見つめることしかできなかった。出られなくなってしまったのだ。完全に影になるまでは、棚の上から降りられない。
 まるで、本当に幽霊になったような気分だった。
 トイレの花子さんも、こんな気持ちだったのだろうか。さみしくて、みじめで、自分がどうしてこうなったのかさえ分からなくて、でも、ここから離れられもしない。
 ママは、あれからずっと泣いてばかりいた。
「どこに行ったの?」
「私が、もっとしっかりしていたら」
 ママのせいじゃない、と言い返したくても、私はただ隠れることしかできなかった。
 そのうち、単身赴任中のパパが入ってきた。きっと知らせを受けて、上海から帰ってきたのだ。
 営業マンらしい、活発なパパの声。
 その声が私の名前を口にするのを、何回耳にしただろう。
 ──アヤメ。アヤメ。
 そのたびに、何度、棚から飛び出そうと思ったか知れない。
「私、ここにいるよ」
 そんなことをしようものなら、二人とも泡を吹いて絶叫するだろう。本当にあった怖い話。夏のホラーにしてはやりすぎだ。
 一週間ほどが過ぎた頃、サッカー留学中の楓が突然現れた。
 どうして、と思った。
 まさか、こんな情けない姉を心配して、自分のことを差し置いて、日本に戻ってきてしまったのだろうか。申し訳なさすぎて、消え入ってしまいたいほどだった。
 二年ぶりの再会だった。
 写真で見るよりも、楓は大人になっていた。もう隣に並ぶこともないけれど、私の背丈よりもずっと高い。
 剃り残したヒゲが数本、顎先から生えていた。
 ついこないだまで、彼の活躍を憎たらしいとさえ思っていたのに、それにふと触れたくなるほど、彼の成長が愛おしく思えた。
 用を足しながら、楓はなぜか、トイレを見回していた。
 上を見るな、という祈りは届かなかった。
 彼は棚の上のワンピースを見つけると、排泄もそこそこに、ズボンを履きながら飛び出していった。
「──警察呼んで!」
 私は、部屋にジャージやパンツを脱ぎ散らかし、トイレにワンピースを残して行方をくらませた、謎の女子高生になってしまった。
 密室トリックだ。
 こんな事件、江戸川コナンだって解決できそうにない。それに、もしあの遺書が見つかろうものなら、事件はさっさと闇の中だ。
『影になったので消えます、さよなら』
 厨二病もはなはだしい。あの日記は書くべきじゃなかった。
 私は、何もかも間違えたのだ。
 体が少しでもおかしくなったときに、ママに告げるべきだった。全世界がいくら驚愕しようとも、きちんと言うべきだった。
 私、こんなふうになっちゃいました、って。
 そしたら、ママも、パパも、楓も、こんなふうに取り乱したりしなかった。きっと、こんな大ごとにはならなかった。
 日本政府のことも、『ムー』のことも、気にしなければよかった。
 ありのままを話せばよかった。
 ほどなくして駆けつけた警察官が、トイレに入ってきた。
 まるで、ドラマのワンシーンだ。
 何枚も写真を撮り、ワンピースを回収した。指紋を採取し、棚の上の埃を、綿棒のようなもので拭い取っていった。
 二階から絶え間なく、足音が聞こえていた。
 私の部屋をしらみ潰しに調べているのだろう。こうなる前に、掃除くらいしておけばよかった。
 私は、誰にも見つからなかった。
 棚の上を覗き込まれても、指紋や埃を取られても、誰も何も言わなかった。
 消えてしまったのだ。
 私は、完全に影になりきってしまった。怠惰を極めし女子高生、渡邉彩女はもうこの世のどこにもいなかった。
 死んでいないのに、死んでいる。
 なぜだろう。その無言の宣告は、不思議と絶望ではなかった。
 これで、いつでもここから抜け出せる。どこにでも行ける。
 むしろ、安息にも似た感情だった。ほっとした。
 それなのに──それでもなお、どうしたらいいのか分からない。


 某月某日。晴れ。
 私はトイレをすり抜け、外壁の影と同化した。
 手入れを怠った地面には、伸び切った草むらが細長く続いていた。壁つたいにするすると移動し、玄関の近くまで進むと、資源ごみの大きな袋がいくつも放置されていた。
 コンビニ弁当や、ポテトチップス、カップ麺。
 まるで、独身男性の捨てそうな中身だ。
 この一年でママは太った。スタイルが良くて評判だった私のママは、肌も荒れ、もはやその面影すらなくなってしまっていた。
 その原因が『これ』か。
 私は、ママの人格を、ライフスタイルを壊してしまった。
 玄関先に置かれた鉢植えも、花壇も、全部枯れてしまっていた。猫じゃらしの草だけがぼうぼうに生え、猫に優しい玄関に変わり果ててしまっていた。
 車にも、砂埃がうっすらと積もっている。
 アンダーフィフティーン日本代表、渡邉楓の自宅とはとても思えない有様だった。弟のため、神経質なまでに世間体を気にしていた渡邉家は、たったの一年で見事に荒廃していた。
 悲しいけれど、ただの影にはどうしようもない。
 こんな私にもそれほどの価値があったのだと、家族に感謝するのが関の山だ。
 電線の影を伝い、隣家の影に飛び込んだ。
 どうやら、今日は平日らしい。
 バス停へ向かう人たちが、マフラーに顔をうずめながら、次々と私の前を通り過ぎていく。
 寒そうだ。
 片田舎の道路には冬らしく、たくさんの薄ら影が生まれていた。
 いつでも、外に出ることはできた。
 どこへでも行くことはできた。
 だけど、私がこれまでそうしなかったのは、その必要性をまるで感じなかったからだった。
 外に出たところで、行きたいと思える場所も特になかった。
 ディズニーランド。東京スカイツリー。鬼怒川温泉。
 今となっては好きに遊べるはずの観光地にも、興味ひとつ湧かなかった。行ったところで、お土産の影になるのがせいぜいだ。楽しめなければ、なんの意味もない。
 淡い期待もあった。
 もしかしたら、ある日突然、私は元通りに戻るかもしれない。そのときは、この家にいたかった。きっと腰を抜かすだろうけれど、どうせ見つけてもらうなら、ママがよかった。
 でも、結局は影のまま、私は元には戻らなかった。
 そんな私がトイレから出ようと決めたのは、確かめたいことが見つかったからだった。
 ──もしかしたら、私のような『生きた影』が、この世にはたくさん存在するのかもしれない。
 大きく膨らんだママの影を見て、ふとそう思ったのだ。
 同じような経験をした『仲間』が、どこかにいるのではないか。
 この世界に影が溢れているように、私たちもまた、溢れているのではないか。
 そんな影たちと出会いたい。
 探し回り、もし見つけたなら、抱き合いたい──。いつしか、そう願うようになっていた。
 どうして、私が影になってしまったのか。
 どうして、あなたが影にならなくてはならなかったのか。
 その答えが見つかっても、見つからなくてもいい。
 会いさえすれば。
 そうしたら、少しは世界が変わるのではないか。


 ──事、有れかしと心密かに願ひぬ。
 私はそう心に呟くと、電柱の影を伝い、道路を渡った。
 振り返ると、渡邉家があった。
 一軒家が詰め込まれた住宅地の中の、特徴のない小さな家。
 泣きたいけれど、もう涙はない。
 さようなら。
 みんな、元気で。
 静まり返った我が家に手を振り、私は大きな影の中へ飛び込んだ。
 世界が走り出す。
 繁華街へ向け、建物の影を踏みながら、私は駆けた。
 渡邉彩女は木枯らし一号に軽やかに乗ると、一目散に東へと駆けていった。



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 翌日の朝からは、最初に違和感を覚えたあの曲がり角で、毎日、同じ時間に写真を撮るようになった。
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 七キロ増加。
 影はカフェオレ。
【九月二日(火)晴れ】
 だんだん腹が立ってきた。グループライン、タヒね。
 ナベタとサシモと付き合ってるってなんだよ。そんなん知らんわ。
 リアコとか、マジウザい。
 それを嗅ぎ回るバカどもも、超ウザいんだけど。
 私にいちいち聞くな。
 本人たちに聞け。
【九月三日(水)曇り】
 実力テストのち、ひとり日高屋。
 昼間っから大衆中華でビール飲んでるサラリーマンを見てると、人生なんて余裕ぶっこいてなんぼだと思うわ。
 青椒肉絲良き。餃子もまた格別。
 サシモなんかいなくったって、私は平気。ほら、こんなにもチルチルミチルだわ。
【九月四日(木)晴れ】
 影の濃さ、さして変わらず。濃くはならない。薄まりもしない。
 良きかな良きかな。そのままであれ。
 ナベタの影は相変わらず真っ黒だ。あいつの中に、何人も人が紛れてんじゃねえのかってくらい。
【九月五日(金)晴れ】
 両足の爪先が影になった。いきなりだ。爪のあたりだけ真っ黒。
 マジ、ブラックホール。触るとずぶずぶと指が入ってく。マジヤバ。キショ。
 どうしよう?
 これ、何科の病院に行けばいいの?
【九月六日(土)雨】
 学校もないのに、早起きして道端で写真撮ってる私、マジ自己満でキショいんだけども。雨なのに、影なんかあるはずもない。
 それにしても、足がこんななのに靴下とか履けるの、なぜだ?
 靴ズレしなさそうで、便利っちゃあ便利か。
【九月十日(水)晴れ】
 明日、台風が来るらしい。
 ママが、ベランダ菜園を台所に避難させてた。なんか、植物のある暮らしって感じ。避けるのめんどいんだけども。
 てか、もう絶望だぜ。足がまるで黒タイツみたいだ。
 気を抜くと崩れる。マジでやべえ。歩き方がマジわからん。
 ジャージ必須。
 明日の体育は逃げよう。こんなんで走れるかよ。バカ。
【九月十二日(金)晴れ】
 晴れの日が怖い。
 影なんて、この世から消えてしまえばいいんだ。
 もう怖すぎて、日陰しか歩けん。明日が休みで本当によかった。
【九月十五日(月)晴れ】
 鬱。
 頼むから晴れるな。
【九月十六日(火)晴れ】
 ついに学校を休んだ。これは、もうダメだ。布団から出がたい。
 長袖のシャツ、ジャージ、ハイソックス。体を隠そうと着込んだものが、もはや意味をなしてない。形がうまく保てないから、着たところですぐに脱げちゃう。布団の影と自分がいっしょくたになってて、どこからが私でどこからが影なのか、自分でもよく分からん。
 ママが心配してる。私を病院に連れていこうと躍起になってる。
 ほっといてよ。マジ近づくな。
 そうやってわあわあ叫んだから、今は超しずかちゃんだ。
 でも、どうしよう。
 明日には、手の指も影になってるのかな。そしたらスマホ、打てるのかな。反応するかな。しないんだろうな。ラインができないなんて、余裕でタヒれる。
 ていうか、なんで私だけこうなんだ。
 いやだよ。このまま、この世から消えてしまうのか?
 カメラで撮ったら、首まわりも黒ずんでた。本物の影は、もうほとんど見えなくなっちゃった。
 その夜更けに、私は部屋を出た。
 真っ黒になった人差し指は、スマホに反応しなかった。タップしても、指がすり抜ける。絶望的だ。ドアをどうにか開けられるうちに、ママが眠っているあいだに、家を出て、影にならなくては、と思った。
 頭まで影になり始めたら、もう隠し通せない。
 布団の中で丸まりながら、考えて考えて、決めたことだった。
 部屋を出る前に、私は遺書を残した。
 最後の日記だ。
【九月十七日(水)?】
 ママ、ごめんね。
 本当のことがどうしても言えなかった。
 だって、こんな人間がいたら、誰だって悲鳴を上げて逃げていくと思う。ママだって、きっと同じだ。
 サシモも、ナベタも、お医者さんも、『ムー』の編集者も。
 NASAも、日本政府も。
 人類滅亡ぐらいの大騒ぎになって、ワタナベだらけのこの小世界を中心に、コロナ禍以上のことが起きて、私を狙ってどこぞかの国がサンプル収集にやってこようものなら、ママだってきっと無事じゃ済まない。
 その前に、消えます。
 だから、さよなら。
 最後だからと、私はお気に入りのワンピースに身を包んだ。
 一目惚れで買ったものの、露出の多いデザインで、一度も外に着ていけなかったやつだ。まさか、こんな使い方になるとは思ってもみなかった。
 廊下に出ると、晩ご飯のハンバーグが、ラップに包まれたまま置かれていた。
 ママの作るハンバーグは、私の大好物だった。夏休みのあいだ、ハンバーグを作ろうとするママに異議を唱え、中華ばかり作らせたことを、今さらのように後悔した。
 もっと食べたかった。
 肉団子のようなまあるい形の、煮込みハンバーグ。
 ラップの上から、唇で触れてみた。
 冷たかった。
 常温のはずなのに、どうしてか、氷のように冷たい。
 形の崩れた足が、ハンバーグの影と混ざり合った。付け合わせのフライドポテトも、にんじんのグラッセも、暗雲が垂れ込めたように色を失う。
「幽霊みたい」
 ふと呟いたその声が、廊下に思いのほか響いた。私は、影になりきらない手のひらで、思わず口を塞いだ。
 これでは、完全に隠キャだ。
 私らしくもない。
 ハンバーグから目を背けると、私は階段を滑らかに降りて、玄関の鍵を開けようとした。
 指は、まだ八本も残っている。開けられなくはなかった。でも、途端に怖くなった。
 ──バレたらどうしよう。
 いくら二階の部屋で休んでいるとはいえ、玄関のドアが開いたら、ママが何事かと思うに違いない。あいにく、深夜にコンビニに行くような不良娘じゃないのだ。
 それに、このワンピース。
 足のない体。
 見つかったら大ごとだ──。私は一旦、トイレに入った。
 鍵は閉めない。
 見せたら困るようなものなど、私にはもうなかった。
 力を緩めると、ワンピースはするりと床に落ちた。それを拾い上げると、天井すれすれの高さにある、使われていない、狭い棚の上にむりやり押し込んだ。
 影さえあれば、空だって飛べる。
 あかりのついていないトイレは、私にとって絶好の場所だった。壁つたいに棚の上へ登ると、首から上だけを残したまま、私は長い時間をそこで過ごした。
 朝が来て、夜が来る。
 その繰り返しを、ただ見つめることしかできなかった。出られなくなってしまったのだ。完全に影になるまでは、棚の上から降りられない。
 まるで、本当に幽霊になったような気分だった。
 トイレの花子さんも、こんな気持ちだったのだろうか。さみしくて、みじめで、自分がどうしてこうなったのかさえ分からなくて、でも、ここから離れられもしない。
 ママは、あれからずっと泣いてばかりいた。
「どこに行ったの?」
「私が、もっとしっかりしていたら」
 ママのせいじゃない、と言い返したくても、私はただ隠れることしかできなかった。
 そのうち、単身赴任中のパパが入ってきた。きっと知らせを受けて、上海から帰ってきたのだ。
 営業マンらしい、活発なパパの声。
 その声が私の名前を口にするのを、何回耳にしただろう。
 ──アヤメ。アヤメ。
 そのたびに、何度、棚から飛び出そうと思ったか知れない。
「私、ここにいるよ」
 そんなことをしようものなら、二人とも泡を吹いて絶叫するだろう。本当にあった怖い話。夏のホラーにしてはやりすぎだ。
 一週間ほどが過ぎた頃、サッカー留学中の楓が突然現れた。
 どうして、と思った。
 まさか、こんな情けない姉を心配して、自分のことを差し置いて、日本に戻ってきてしまったのだろうか。申し訳なさすぎて、消え入ってしまいたいほどだった。
 二年ぶりの再会だった。
 写真で見るよりも、楓は大人になっていた。もう隣に並ぶこともないけれど、私の背丈よりもずっと高い。
 剃り残したヒゲが数本、顎先から生えていた。
 ついこないだまで、彼の活躍を憎たらしいとさえ思っていたのに、それにふと触れたくなるほど、彼の成長が愛おしく思えた。
 用を足しながら、楓はなぜか、トイレを見回していた。
 上を見るな、という祈りは届かなかった。
 彼は棚の上のワンピースを見つけると、排泄もそこそこに、ズボンを履きながら飛び出していった。
「──警察呼んで!」
 私は、部屋にジャージやパンツを脱ぎ散らかし、トイレにワンピースを残して行方をくらませた、謎の女子高生になってしまった。
 密室トリックだ。
 こんな事件、江戸川コナンだって解決できそうにない。それに、もしあの遺書が見つかろうものなら、事件はさっさと闇の中だ。
『影になったので消えます、さよなら』
 厨二病もはなはだしい。あの日記は書くべきじゃなかった。
 私は、何もかも間違えたのだ。
 体が少しでもおかしくなったときに、ママに告げるべきだった。全世界がいくら驚愕しようとも、きちんと言うべきだった。
 私、こんなふうになっちゃいました、って。
 そしたら、ママも、パパも、楓も、こんなふうに取り乱したりしなかった。きっと、こんな大ごとにはならなかった。
 日本政府のことも、『ムー』のことも、気にしなければよかった。
 ありのままを話せばよかった。
 ほどなくして駆けつけた警察官が、トイレに入ってきた。
 まるで、ドラマのワンシーンだ。
 何枚も写真を撮り、ワンピースを回収した。指紋を採取し、棚の上の埃を、綿棒のようなもので拭い取っていった。
 二階から絶え間なく、足音が聞こえていた。
 私の部屋をしらみ潰しに調べているのだろう。こうなる前に、掃除くらいしておけばよかった。
 私は、誰にも見つからなかった。
 棚の上を覗き込まれても、指紋や埃を取られても、誰も何も言わなかった。
 消えてしまったのだ。
 私は、完全に影になりきってしまった。怠惰を極めし女子高生、渡邉彩女はもうこの世のどこにもいなかった。
 死んでいないのに、死んでいる。
 なぜだろう。その無言の宣告は、不思議と絶望ではなかった。
 これで、いつでもここから抜け出せる。どこにでも行ける。
 むしろ、安息にも似た感情だった。ほっとした。
 それなのに──それでもなお、どうしたらいいのか分からない。
 某月某日。晴れ。
 私はトイレをすり抜け、外壁の影と同化した。
 手入れを怠った地面には、伸び切った草むらが細長く続いていた。壁つたいにするすると移動し、玄関の近くまで進むと、資源ごみの大きな袋がいくつも放置されていた。
 コンビニ弁当や、ポテトチップス、カップ麺。
 まるで、独身男性の捨てそうな中身だ。
 この一年でママは太った。スタイルが良くて評判だった私のママは、肌も荒れ、もはやその面影すらなくなってしまっていた。
 その原因が『これ』か。
 私は、ママの人格を、ライフスタイルを壊してしまった。
 玄関先に置かれた鉢植えも、花壇も、全部枯れてしまっていた。猫じゃらしの草だけがぼうぼうに生え、猫に優しい玄関に変わり果ててしまっていた。
 車にも、砂埃がうっすらと積もっている。
 アンダーフィフティーン日本代表、渡邉楓の自宅とはとても思えない有様だった。弟のため、神経質なまでに世間体を気にしていた渡邉家は、たったの一年で見事に荒廃していた。
 悲しいけれど、ただの影にはどうしようもない。
 こんな私にもそれほどの価値があったのだと、家族に感謝するのが関の山だ。
 電線の影を伝い、隣家の影に飛び込んだ。
 どうやら、今日は平日らしい。
 バス停へ向かう人たちが、マフラーに顔をうずめながら、次々と私の前を通り過ぎていく。
 寒そうだ。
 片田舎の道路には冬らしく、たくさんの薄ら影が生まれていた。
 いつでも、外に出ることはできた。
 どこへでも行くことはできた。
 だけど、私がこれまでそうしなかったのは、その必要性をまるで感じなかったからだった。
 外に出たところで、行きたいと思える場所も特になかった。
 ディズニーランド。東京スカイツリー。鬼怒川温泉。
 今となっては好きに遊べるはずの観光地にも、興味ひとつ湧かなかった。行ったところで、お土産の影になるのがせいぜいだ。楽しめなければ、なんの意味もない。
 淡い期待もあった。
 もしかしたら、ある日突然、私は元通りに戻るかもしれない。そのときは、この家にいたかった。きっと腰を抜かすだろうけれど、どうせ見つけてもらうなら、ママがよかった。
 でも、結局は影のまま、私は元には戻らなかった。
 そんな私がトイレから出ようと決めたのは、確かめたいことが見つかったからだった。
 ──もしかしたら、私のような『生きた影』が、この世にはたくさん存在するのかもしれない。
 大きく膨らんだママの影を見て、ふとそう思ったのだ。
 同じような経験をした『仲間』が、どこかにいるのではないか。
 この世界に影が溢れているように、私たちもまた、溢れているのではないか。
 そんな影たちと出会いたい。
 探し回り、もし見つけたなら、抱き合いたい──。いつしか、そう願うようになっていた。
 どうして、私が影になってしまったのか。
 どうして、あなたが影にならなくてはならなかったのか。
 その答えが見つかっても、見つからなくてもいい。
 会いさえすれば。
 そうしたら、少しは世界が変わるのではないか。
 ──事、有れかしと心密かに願ひぬ。
 私はそう心に呟くと、電柱の影を伝い、道路を渡った。
 振り返ると、渡邉家があった。
 一軒家が詰め込まれた住宅地の中の、特徴のない小さな家。
 泣きたいけれど、もう涙はない。
 さようなら。
 みんな、元気で。
 静まり返った我が家に手を振り、私は大きな影の中へ飛び込んだ。
 世界が走り出す。
 繁華街へ向け、建物の影を踏みながら、私は駆けた。
 渡邉彩女は木枯らし一号に軽やかに乗ると、一目散に東へと駆けていった。