私は、その夜から日記アプリを使い始めた。
翌日の朝からは、最初に違和感を覚えたあの曲がり角で、毎日、同じ時間に写真を撮るようになった。
【九月一日(月)晴れ】
ワタナベアヤメ、いとをかしげなるを見つけたり。
七キロ増加。
影はカフェオレ。
【九月二日(火)晴れ】
だんだん腹が立ってきた。グループライン、タヒね。
ナベタとサシモと付き合ってるってなんだよ。そんなん知らんわ。
リアコとか、マジウザい。
それを嗅ぎ回るバカどもも、超ウザいんだけど。
私にいちいち聞くな。
本人たちに聞け。
【九月三日(水)曇り】
実力テストのち、ひとり日高屋。
昼間っから大衆中華でビール飲んでるサラリーマンを見てると、人生なんて余裕ぶっこいてなんぼだと思うわ。
青椒肉絲良き。餃子もまた格別。
サシモなんかいなくったって、私は平気。ほら、こんなにもチルチルミチルだわ。
【九月四日(木)晴れ】
影の濃さ、さして変わらず。濃くはならない。薄まりもしない。
良きかな良きかな。そのままであれ。
ナベタの影は相変わらず真っ黒だ。あいつの中に、何人も人が紛れてんじゃねえのかってくらい。
【九月五日(金)晴れ】
両足の爪先が影になった。いきなりだ。爪のあたりだけ真っ黒。
マジ、ブラックホール。触るとずぶずぶと指が入ってく。マジヤバ。キショ。
どうしよう?
これ、何科の病院に行けばいいの?
【九月六日(土)雨】
学校もないのに、早起きして道端で写真撮ってる私、マジ自己満でキショいんだけども。雨なのに、影なんかあるはずもない。
それにしても、足がこんななのに靴下とか履けるの、なぜだ?
靴ズレしなさそうで、便利っちゃあ便利か。
【九月十日(水)晴れ】
明日、台風が来るらしい。
ママが、ベランダ菜園を台所に避難させてた。なんか、植物のある暮らしって感じ。避けるのめんどいんだけども。
てか、もう絶望だぜ。足がまるで黒タイツみたいだ。
気を抜くと崩れる。マジでやべえ。歩き方がマジわからん。
ジャージ必須。
明日の体育は逃げよう。こんなんで走れるかよ。バカ。
【九月十二日(金)晴れ】
晴れの日が怖い。
影なんて、この世から消えてしまえばいいんだ。
もう怖すぎて、日陰しか歩けん。明日が休みで本当によかった。
【九月十五日(月)晴れ】
鬱。
頼むから晴れるな。
【九月十六日(火)晴れ】
ついに学校を休んだ。これは、もうダメだ。布団から出がたい。
長袖のシャツ、ジャージ、ハイソックス。体を隠そうと着込んだものが、もはや意味をなしてない。形がうまく保てないから、着たところですぐに脱げちゃう。布団の影と自分がいっしょくたになってて、どこからが私でどこからが影なのか、自分でもよく分からん。
ママが心配してる。私を病院に連れていこうと躍起になってる。
ほっといてよ。マジ近づくな。
そうやってわあわあ叫んだから、今は超しずかちゃんだ。
でも、どうしよう。
明日には、手の指も影になってるのかな。そしたらスマホ、打てるのかな。反応するかな。しないんだろうな。ラインができないなんて、余裕でタヒれる。
ていうか、なんで私だけこうなんだ。
いやだよ。このまま、この世から消えてしまうのか?
カメラで撮ったら、首まわりも黒ずんでた。本物の影は、もうほとんど見えなくなっちゃった。
その夜更けに、私は部屋を出た。
真っ黒になった人差し指は、スマホに反応しなかった。タップしても、指がすり抜ける。絶望的だ。ドアをどうにか開けられるうちに、ママが眠っているあいだに、家を出て、影にならなくては、と思った。
頭まで影になり始めたら、もう隠し通せない。
布団の中で丸まりながら、考えて考えて、決めたことだった。
部屋を出る前に、私は遺書を残した。
最後の日記だ。
【九月十七日(水)?】
ママ、ごめんね。
本当のことがどうしても言えなかった。
だって、こんな人間がいたら、誰だって悲鳴を上げて逃げていくと思う。ママだって、きっと同じだ。
サシモも、ナベタも、お医者さんも、『ムー』の編集者も。
NASAも、日本政府も。
人類滅亡ぐらいの大騒ぎになって、ワタナベだらけのこの小世界を中心に、コロナ禍以上のことが起きて、私を狙ってどこぞかの国がサンプル収集にやってこようものなら、ママだってきっと無事じゃ済まない。
その前に、消えます。
だから、さよなら。
最後だからと、私はお気に入りのワンピースに身を包んだ。
一目惚れで買ったものの、露出の多いデザインで、一度も外に着ていけなかったやつだ。まさか、こんな使い方になるとは思ってもみなかった。
廊下に出ると、晩ご飯のハンバーグが、ラップに包まれたまま置かれていた。
ママの作るハンバーグは、私の大好物だった。夏休みのあいだ、ハンバーグを作ろうとするママに異議を唱え、中華ばかり作らせたことを、今さらのように後悔した。
もっと食べたかった。
肉団子のようなまあるい形の、煮込みハンバーグ。
ラップの上から、唇で触れてみた。
冷たかった。
常温のはずなのに、どうしてか、氷のように冷たい。
形の崩れた足が、ハンバーグの影と混ざり合った。付け合わせのフライドポテトも、にんじんのグラッセも、暗雲が垂れ込めたように色を失う。
「幽霊みたい」
ふと呟いたその声が、廊下に思いのほか響いた。私は、影になりきらない手のひらで、思わず口を塞いだ。
これでは、完全に隠キャだ。
私らしくもない。
ハンバーグから目を背けると、私は階段を滑らかに降りて、玄関の鍵を開けようとした。
指は、まだ八本も残っている。開けられなくはなかった。でも、途端に怖くなった。
──バレたらどうしよう。
いくら二階の部屋で休んでいるとはいえ、玄関のドアが開いたら、ママが何事かと思うに違いない。あいにく、深夜にコンビニに行くような不良娘じゃないのだ。
それに、このワンピース。
足のない体。
見つかったら大ごとだ──。私は一旦、トイレに入った。
鍵は閉めない。
見せたら困るようなものなど、私にはもうなかった。
力を緩めると、ワンピースはするりと床に落ちた。それを拾い上げると、天井すれすれの高さにある、使われていない、狭い棚の上にむりやり押し込んだ。
影さえあれば、空だって飛べる。
あかりのついていないトイレは、私にとって絶好の場所だった。壁つたいに棚の上へ登ると、首から上だけを残したまま、私は長い時間をそこで過ごした。
朝が来て、夜が来る。
その繰り返しを、ただ見つめることしかできなかった。出られなくなってしまったのだ。完全に影になるまでは、棚の上から降りられない。
まるで、本当に幽霊になったような気分だった。
トイレの花子さんも、こんな気持ちだったのだろうか。さみしくて、みじめで、自分がどうしてこうなったのかさえ分からなくて、でも、ここから離れられもしない。
ママは、あれからずっと泣いてばかりいた。
「どこに行ったの?」
「私が、もっとしっかりしていたら」
ママのせいじゃない、と言い返したくても、私はただ隠れることしかできなかった。
そのうち、単身赴任中のパパが入ってきた。きっと知らせを受けて、上海から帰ってきたのだ。
営業マンらしい、活発なパパの声。
その声が私の名前を口にするのを、何回耳にしただろう。
──アヤメ。アヤメ。
そのたびに、何度、棚から飛び出そうと思ったか知れない。
「私、ここにいるよ」
そんなことをしようものなら、二人とも泡を吹いて絶叫するだろう。本当にあった怖い話。夏のホラーにしてはやりすぎだ。
一週間ほどが過ぎた頃、サッカー留学中の楓が突然現れた。
どうして、と思った。
まさか、こんな情けない姉を心配して、自分のことを差し置いて、日本に戻ってきてしまったのだろうか。申し訳なさすぎて、消え入ってしまいたいほどだった。
二年ぶりの再会だった。
写真で見るよりも、楓は大人になっていた。もう隣に並ぶこともないけれど、私の背丈よりもずっと高い。
剃り残したヒゲが数本、顎先から生えていた。
ついこないだまで、彼の活躍を憎たらしいとさえ思っていたのに、それにふと触れたくなるほど、彼の成長が愛おしく思えた。
用を足しながら、楓はなぜか、トイレを見回していた。
上を見るな、という祈りは届かなかった。
彼は棚の上のワンピースを見つけると、排泄もそこそこに、ズボンを履きながら飛び出していった。
「──警察呼んで!」
私は、部屋にジャージやパンツを脱ぎ散らかし、トイレにワンピースを残して行方をくらませた、謎の女子高生になってしまった。
密室トリックだ。
こんな事件、江戸川コナンだって解決できそうにない。それに、もしあの遺書が見つかろうものなら、事件はさっさと闇の中だ。
『影になったので消えます、さよなら』
厨二病もはなはだしい。あの日記は書くべきじゃなかった。
私は、何もかも間違えたのだ。
体が少しでもおかしくなったときに、ママに告げるべきだった。全世界がいくら驚愕しようとも、きちんと言うべきだった。
私、こんなふうになっちゃいました、って。
そしたら、ママも、パパも、楓も、こんなふうに取り乱したりしなかった。きっと、こんな大ごとにはならなかった。
日本政府のことも、『ムー』のことも、気にしなければよかった。
ありのままを話せばよかった。
ほどなくして駆けつけた警察官が、トイレに入ってきた。
まるで、ドラマのワンシーンだ。
何枚も写真を撮り、ワンピースを回収した。指紋を採取し、棚の上の埃を、綿棒のようなもので拭い取っていった。
二階から絶え間なく、足音が聞こえていた。
私の部屋をしらみ潰しに調べているのだろう。こうなる前に、掃除くらいしておけばよかった。
私は、誰にも見つからなかった。
棚の上を覗き込まれても、指紋や埃を取られても、誰も何も言わなかった。
消えてしまったのだ。
私は、完全に影になりきってしまった。怠惰を極めし女子高生、渡邉彩女はもうこの世のどこにもいなかった。
死んでいないのに、死んでいる。
なぜだろう。その無言の宣告は、不思議と絶望ではなかった。
これで、いつでもここから抜け出せる。どこにでも行ける。
むしろ、安息にも似た感情だった。ほっとした。
それなのに──それでもなお、どうしたらいいのか分からない。
某月某日。晴れ。
私はトイレをすり抜け、外壁の影と同化した。
手入れを怠った地面には、伸び切った草むらが細長く続いていた。壁つたいにするすると移動し、玄関の近くまで進むと、資源ごみの大きな袋がいくつも放置されていた。
コンビニ弁当や、ポテトチップス、カップ麺。
まるで、独身男性の捨てそうな中身だ。
この一年でママは太った。スタイルが良くて評判だった私のママは、肌も荒れ、もはやその面影すらなくなってしまっていた。
その原因が『これ』か。
私は、ママの人格を、ライフスタイルを壊してしまった。
玄関先に置かれた鉢植えも、花壇も、全部枯れてしまっていた。猫じゃらしの草だけがぼうぼうに生え、猫に優しい玄関に変わり果ててしまっていた。
車にも、砂埃がうっすらと積もっている。
アンダーフィフティーン日本代表、渡邉楓の自宅とはとても思えない有様だった。弟のため、神経質なまでに世間体を気にしていた渡邉家は、たったの一年で見事に荒廃していた。
悲しいけれど、ただの影にはどうしようもない。
こんな私にもそれほどの価値があったのだと、家族に感謝するのが関の山だ。
電線の影を伝い、隣家の影に飛び込んだ。
どうやら、今日は平日らしい。
バス停へ向かう人たちが、マフラーに顔をうずめながら、次々と私の前を通り過ぎていく。
寒そうだ。
片田舎の道路には冬らしく、たくさんの薄ら影が生まれていた。
いつでも、外に出ることはできた。
どこへでも行くことはできた。
だけど、私がこれまでそうしなかったのは、その必要性をまるで感じなかったからだった。
外に出たところで、行きたいと思える場所も特になかった。
ディズニーランド。東京スカイツリー。鬼怒川温泉。
今となっては好きに遊べるはずの観光地にも、興味ひとつ湧かなかった。行ったところで、お土産の影になるのがせいぜいだ。楽しめなければ、なんの意味もない。
淡い期待もあった。
もしかしたら、ある日突然、私は元通りに戻るかもしれない。そのときは、この家にいたかった。きっと腰を抜かすだろうけれど、どうせ見つけてもらうなら、ママがよかった。
でも、結局は影のまま、私は元には戻らなかった。
そんな私がトイレから出ようと決めたのは、確かめたいことが見つかったからだった。
──もしかしたら、私のような『生きた影』が、この世にはたくさん存在するのかもしれない。
大きく膨らんだママの影を見て、ふとそう思ったのだ。
同じような経験をした『仲間』が、どこかにいるのではないか。
この世界に影が溢れているように、私たちもまた、溢れているのではないか。
そんな影たちと出会いたい。
探し回り、もし見つけたなら、抱き合いたい──。いつしか、そう願うようになっていた。
どうして、私が影になってしまったのか。
どうして、あなたが影にならなくてはならなかったのか。
その答えが見つかっても、見つからなくてもいい。
会いさえすれば。
そうしたら、少しは世界が変わるのではないか。
──事、有れかしと心密かに願ひぬ。
私はそう心に呟くと、電柱の影を伝い、道路を渡った。
振り返ると、渡邉家があった。
一軒家が詰め込まれた住宅地の中の、特徴のない小さな家。
泣きたいけれど、もう涙はない。
さようなら。
みんな、元気で。
静まり返った我が家に手を振り、私は大きな影の中へ飛び込んだ。
世界が走り出す。
繁華街へ向け、建物の影を踏みながら、私は駆けた。
渡邉彩女は木枯らし一号に軽やかに乗ると、一目散に東へと駆けていった。