いとはやし。
終わった。
夏休みが、あっという間に終わった。
「しかし、なにゆえこんなにも暑いのか」
太陽暦とはよく言ったもので、当の本人は季節など知らない。
「もう、九月なんだけどさ?」
そう呟き、空を見上げたところでいったい何が変わろうか。
依然として、朝日はシリアルキラーなままだった。
ハンドルをY字に曲げた自転車が、魔法陣のように風を巻き上げ、私を追い越していった。
ヤンキーだ。
チャリンチャリン、とベルを鳴らしながら、こちらを振り返る。
「お、意外とキャワイイ」
立ち漕ぎで走り去る赤髪チャラ男に、私は自然と十字を切っていた。
──彼に、安らかなる眠りあらんことを。
実に敬虔な殺意だ。
見知らぬ男子に好意を持たれて喜ぶほど、私は陽キャではない。
むしろ、真逆。
ただのモグラだ。
この四十日間、渡邉彩女という名のJKは、怠惰の上に怠惰を積み重ねただけだった。
夏の甲子園をすべて見た。
ユーチューブやティックトックを余すことなく見尽くし、気になるアニメを片っ端から見た。けれど、途中で『名探偵コナン』を一から見始めたせいで、すべてが中途半端なまま終わってしまった。
家から一歩も出なかった。
唯一の登校日も休んだ。コンビニにさえ行かなかった。友達からの誘いもことごとく断った。
花火大会に海水浴。
セブンティーンの儚き良き思い出を一切合切放棄し、クーラーがガンガンに効いた空間で快適な日々を過ごした。
結果として、色白になった。
しかし、たまごっちのように、私のボディもすくすくと育っていた。
餌のやり過ぎだ。
スカートのフックが、届きそうで届かない。
よもやと思い体重計に乗ってみると、デジタル数字が目まぐるしく動き、初めて見る数値を叩き出した。
ジャスト五十八キロ。
これぞ『諸行無常の響きあり』だ。
間食のカロリー分、私は正しく太っていた。
夏休み初日も真夏日。
夏休み明けも、また真夏日。
──なんでやねん。
日本列島が生粋の大阪人だったら、吉本新喜劇よろしく、太陽をどついてるところだ。
「さっきのヤンキー、粗品に似てたな」
粗品の漫才コンビの名前、なんだったっけ。
肉だよな。
そう考えているうちに、大通りに出た。
横断歩道を渡り、左に曲がると、シリアルキラーは背後に回った。
強烈な日差しで背中が痛い。
まるで、千手観音がオールハンドで待ち針をつまみ、チクチクとつついているかのようだ。
「まったくもって『超超超イイ感じ』だわ」
毒づきつつ、私はデコりたてのスクールバッグから、アイフォーンを引っ張り出した。
ママのお下がりだ。
いくら決め顔をしたところで、うんともすんとも言わない、旧式のアイフォーン。顔認証機能なんて、洒落たものは付いていない。
その四桁の暗証番号を入力しようとしたとき、ふと、私はあることに気がついた。
「──なんか、私の影、薄くない?」
思わず立ち止まる。
まこと、色白な影だった。
アスファルトに映る私の影は、さながら入道雲が頭上にだけ発達したかのような、そんな淡さだった。
私の影を横切る電線も、その上で「カア」と鳴く黒いやからも、はっきりとした黒い影を落としているのに、私のそれは、あまりに儚げなものだった。
「やばし。これは完全に『ちんくり』の見過ぎかも」
お気に入りの動画チャンネル『青椒肉絲膝栗毛』のことが、とっさに思い浮かんだ。なにせ、私の語彙が若干迷子なのも、その動画のせいなのだ。
青椒肉絲の、いとをかしげなるを見つけたり。
まるで『見た目は子供、頭脳は大人』のような、お決まりのフレーズだ。
「あとで、マツキヨで目薬でも買うかな」
きっと、四十日ぶりに外に出たから、視力すら迷子なのだ。
人間社会に戻らねば。
私は、開いたスマホが八時ちょうどであることを懸念し、とんと地面を蹴った。
バス停まであと三百メートル。
バスが時刻表どおりに到着するまで、残り二分。
桐生某のように大地を疾走しなければ、新学期早々、大の遅刻だ。
二年B組。
開けっ放しの扉から教室に入ると、床には薄い影がウヨウヨと蠢いていた。
ほっとした。
どれも、私と大差ない。
「よきかな」
胸を撫で下ろしつつ、窓際最後尾の席に腰を下ろす。
気のせいだったのだ。
たまたま、影が薄く感じられただけだったのだ。
軽く頬杖をつきながら、それでも注意深く床を見つめていると、机の上のスマホがピコンと鳴った。
くまモンのアイコン。ママからだ。
おつかいの要請だろうか。
画面をタップしようとすると、時代錯誤な挨拶が、豊満な肉体ごと飛んできた。
「チョリース!」
クラスメイトのサシモだ。
私よりもふくよかになったのではなかろうか。
背後からぎゅっと抱き締める二の腕も、背中に密着する腹回りも、私と良い勝負。
実にふかふかな仕上がりだった。
「サシモ、重い」
サシモは、漢字に直すと『然萌』。
徳永然萌だ。
キラキラネームというより、むしろ近未来の尼さんといったところか。
本人は気に入らないらしいが、『青椒肉絲膝栗毛』を見たあとでは、かえって羨ましいくらいだ。
「レディーに対して『重い』とは失礼な。ねえねえ。餃子! アヤナベ、あとで日高屋行こうぜ!」
「いとをかし。だが、マックが良き」
「アヤナベだって『ちんくり』全部見たんでしょ? なのに、なんでドナルド・マクドナルドなんかに浮気するのよ」
「中華は飽きた。マックが良き」
「ダブル・ドナルド?」
「ダブル・ドナルド、ツーピースが良き」
体重計の針が振り切れると、人はかくも強くなれるのだった。
両指でWマークを作りながら、サシモが別のクラスメイトの輪に飛び込んでいったので、私は真っ暗になったスマホの画面を再びタップした。
グループライン、渡邉家。
「見て!」
ママの手短なメッセージの下には、ラインニュースのリンクが貼られていた。
日本サッカー界の若き至宝・渡邉楓、アンダーフィフティーン日本代表入り確定。
ドイツ留学中の弟の顔は、ニュースで見るたびに大人びていく。
「あー!」
「ナベタ、キタ!」
教室内から突如としてナベタコールが沸き起こったので、スマホをよそに、そちらを見た。
松崎しげるほどではないにせよ、こんがりと日焼けした面立ちが、廊下の窓から室内を覗き込んでいた。
いかにも善人らしく、少し照れ臭げだ。
「おめでとう!」
「お前、マジ『神』確定な!」
ナベタ。
本名は渡邉翔太だ。略してナベタ。
この片田舎にはワタナベさんが多く、『ナベ』系の生徒が多く存在する。
彼もその一人だ。
「神とか、そんな」
まんざらでもなさげに、ナベタは教室に入ってきた。背中に、額に、びっしょりと汗をかいていた。
ホームルームが始まるまで、残すところあと一分。
シャイな彼のことだ。きっと屋外で、時間ギリギリまで粘っていたに違いない。
「ラインでもみんな、応援ありがとな。センキュだぜ」
ナベタは、日本高校界のオリンピック、インターハイで優勝した。
弓道の個人競技だ。
「来年とかさあ、マジ弓道部員増えるんじゃね?」
「弱小ラグビー部でも買い取って、ちゃんとした弓道場作ってもらいなよ」
「ちょ、俺らのラグビー部舐めんなよ!」
「キャハハ」
そういうことなのである。
創部二年目にして、K高校に初の横断幕をもたらした男。
弓道部を自ら立ち上げ、間に合わせの部員十名を全国へと連れていった、アニメキャラのような男。
「なあに、アヤナベ。もしかして、リアコしてる?」
サシモの肘が、私の脇をつついた。
「ねえねえねえ」
「うっせえわ」
私は、そのくすぐったい肘を払いのけた。
これは、恋じゃない。
ただ、ナベタの両足から伸びる影だけが異様に真っ黒で、淡く入り混じる私たちの影とは、まるで違っていたのだった。
数十分後、渡り廊下にて。
「今日のイングの寝癖、マジキューピーじゃん?」
隣を歩くサシモが、隠し撮りした始業式の写真を私に見せてきた。
イングとは校長のことだ。
グローイング、チェンジング、ラーニング──。
話にやたらと『イング』を用いたがるので、生徒からそう呼ばれている。
ボリューミーな校長の頭からは、一本の太い毛束が、体育館の天井めがけて伸びていた。
言われてみれば、確かにキューピーだ。やや、ジャックと豆の木にも似ている。
「イングの髪型をさあ、ずらっと並べて高速再生したら、意外とバズるんじゃね? ゴリラみたい顔のくせに、なぜだか今どきのマッシュヘアで、おまけに寝癖付きとか、最高かよ」
サシモの笑い声は独特だ。
まるでラッパーのように、「ハッ、ハッ、ン、フッヘッ」とビートを刻む。
しかし、私はそれどころじゃなかった。
影だ。
日差しを浴びたクラスメイトの影が、どれも黒く、くっきりとしていた。
「アヤナベー?」
ひび割れた廊下の床が、私に手を振った。
「あんたさあ、やっぱ、ナベタにキュンしてんじゃないのー?」
「うっせえわ」
私にリアコなど必要ない。
恋した女の、あの気色悪い声色。
男に媚びるなど、想像するだけで自分が死ぬ。
「その割に鬱ってんじゃん。うつむいちゃってさあ」
「違うっての」
ベタベタと引っついてくるサシモの影も、また濃厚だった。
「それよりもさ。……なんで、こんなに影の色が違うの?」
私は、二つの影を交互に指差した。
サシモの影は、ブラックコーヒー無糖。
私の影は、カフェオレよりも薄かった。
「みんなより薄くない? 私の影だけさ」
「なによ、それ。超アリストテレスなんだけど」
さすがは埼玉随一のトップギャル。返し方もまた独特だった。
サシモの第一志望は『赤門』だ。
私も、この高校に入ったときはまだマシなほうだった。
「光が物体に遮られ、その背後に光が届かない領域ができることで影が生じるんだから、あんたがただ薄っぺらいだけでしょ」
「これのどこが」
私はブラウス越しに、腹の贅肉をつまんだ。
「プライベート・ブランドに身を包んだ腹肉が、たんまりありますけど?」
ママが買ってくるポテトチップスは、いつだってスーパーのブランド品だった。
「バカ。そういう意味じゃないよ」
渡り廊下を渡り切り、私たちは校舎に入った。
「中身だよ」
サシモの声は、廊下の空気よりも冷ややかだった。
あまりに辛辣な、その一言。
唖然とした。
「冗談、冗談」
今朝の空よりも爽快な物言いで、サシモが私よりも先へ行く。
薄暗い廊下は私たちを投影せず、実力はおろか、影の比較さえしなかった。
バカ、ブス、ハゲ、隠キャ。
友達に言われて傷つく言葉は多かれど、これほどまで強烈で、嘘のない悪口があろうか。
──中身が、ない。