目が覚めた時、最初に見えたのは、ここ数日見慣れた納屋の天井だった。
全身にある鈍い痛みから、如月は自分がまだ生きていることを自覚し――。
「如月……良かった……」
すぐ横に、涙に濡れた雫の顔があることに気付いた。
「わたし、は……」
「あれから二日もの間、あなたは寝ていたのです。ここは久遠院家の納屋です。邸は結局燃え落ちたから、とりあえずこちらで。他は、天幕などを領民が用意してくれました」
そう言うと、雫はまだ満足に動かない如月の手を、包み込むように握った。
「大丈夫? 意識はしっかりしていますか?」
「は……い。自分が生きてることは……分かります」
「良かった。いきなり未亡人になるところでしたよ」
少なくともあの戦いの時点では、夫婦の契りは解消されていない。
あそこで如月が死ねば、雫は未亡人になってしまうのだ。
「まあ誰も……雫姫が本当に私と夫婦の契りを交わしたわけではないと知ってるでしょうが……」
あれは蛇妖をだますためだけにやったもの。
それは、雫も如月も十分承知の上だった。
だが。
「そうですね。でも、まだ解消されていません。だからあなたは私の夫で、妻としては死にそうな夫の看るのは、当然でしょう?」
「そ、それは……ですが、他の方々は」
「そちらも今は他の方が看てくれています。亡くなられた方々は……もう戻りませんが」
それから雫は粥を持ってきてくれて、手の動かない如月に食べさせつつ、あの後の状況を説明してくれた。
結局あの戦いで死んだ者は、二十名に及んだ。
そのうちの一人が、八次だ。
形式上、八次は雫を庇って死んだことになっているという。
久遠院家としても、身内に裏切り者がいたというのは非常に外聞が悪いのだろう。
あの後、火は邸を全て焼いてしまったが、それ以外には延焼は起きず、被害は久遠院家の本邸だけでとどまった。
その後、領民たちが助けてくれて、生存者の手当てを行っているという。
「そう……ですか。私が生き残るとは思いませんでしたが……」
「主命を果たしたのです。誇りに思いなさい、と言いたいところですが……」
そこで雫は言葉を切って、少し眉根を吊り上げる。
「私、怒っています」
「え」
「如月。あなた、私に会ったことがありますね。うんと子供の時ですが……今からだと、七年かそのくらい前でしょうか」
すると如月は驚いたような顔になり――その後に痛みに顔をしかめた。
「あ、ほら、あまり動かないで……」
「覚えて、いらしたのですか」
「忘れていました。ですが、あの時に思い出しました。確か……二郎、でしたか」
あの一座で仲良くなった少年の名だ。
思い出したのは、看病している最中だったが。
「はい。ですが雫姫は幼かったので、覚えていないと思って……」
「ええ。忘れてはいました。ですが、言っていただければ思い出したかもしれないのに」
「咎人の私と雫姫では、接点があると思う方があり得ないでしょうから」
それはその通りではあるが、それでもあの二郎との日々は、雫にとっても幼い頃の大切な思い出の一つだ。
蛇妖が現れてから大変だったので忘れていたのは事実だが、それまでは時々思い出していたほどである。
あの時は、毎日二郎に会うのが楽しかったし、帰る時は寂しかった。
思えば、あれが最初に人に焦がれた時だったと思う。
だから、あの時必死に助命を願い出たのだろう。
子供の雫には、それが決して叶わぬ思いであることなど分からず、ただただ二郎が死んでしまう事だけは嫌だった。
大きくなってから、それが報われることがない想いだと気付かされても、二郎を生かすことが出来たのは、雫にとって小さな誇りでもあったのだ。
「凄く今更聞くのですが、なんであんな一座にいたのですか?」
「私は……捨て子でして」
如月自身覚えていないが、河沿いに捨てられていたのを、あの一座が拾ったらしい。
二郎という名は、その一座で二番目に拾ったからという理由で付けられたという。
あの一座は元々旅芸人を擬装した盗賊一座であり、如月自身本当に手伝うのは嫌だった。
手首の傷も、それが嫌で自分で付けたものだという。
「だからあの時――私は死を覚悟しました。ですが、雫姫が助けて下さった。だからあれ以後、私は人のために何かできないかと――そして、師に拾われたのです」
咎人の焼き印がある時点で、真っ当な職には就けない。
妖切りは、そんな経歴が一切関係なく出来る、数少ない職の一つなのだ。
如月という名は、その時に付けられた。『二郎か。ふむ。つまらぬ名だな。二番目というなら……よし、今後お主は如月だ』というひどく単純な理由だったが。
「そして――師が死んでから旅をする中で、雫姫の噂を聞きました。師が死ぬ理由となった妖の片割れに、雫姫が呪われている。これはもう、運命だと思い――」
そして、雫の前に現れたのである。
「最初からあなたは、私を守るために来たのですね」
「はい。ですが……十分に守り切れはしなかったですが」
如月は採光の為大きく開け放たれている納屋の出口を見やる。
そこには、焼け落ちた邸の跡が見えた。
「何を言ってるのですか。邸はまた建て直せばいいのです。少なくとも私たちは、生きているのですから」
「そう……ですね」
「でも、私一人では到底無理です。この先も久遠院家当主としてやっていくとしても――私だけではとても」
「それは……でも、もう蛇の呪いは解けました。久遠院家の姫として、これで他の家も放っておかないでしょう。きっと素晴らしい婿殿が来て下さる。そうすれば、この地はより豊かになるでしょう」
すると雫は目を細め――やや呆れたように如月を見る。
「雫姫?」
「何を言っているのですか。私に、二夫の妻になれと?」
「いえ、私との契りは仮初のもので……」
「私はそれを解消していません。そして、解消する気はありません」
「え……え。あの、それは一体……」
「そもそも仮初だからとて、生きたまま
夫婦の契りを解消するのは、とても外聞が悪いのです
。三行半を突きつけられたと言われますしね。ですから私は、そのようなことをするつもりはありません」
女が当主というだけでも侮られることが多いのに、その上そのような醜聞など歓迎しません、と雫は続ける。
だがこれが、ただの言い訳であることを、雫自身がよくわかっていた。
「ですがその、私は咎人の身であり」
「こういうとなんですが……咎人の焼き印など、あなたのどこにあるのですか。とはいえ、もっと痛々しい痕になっていますが……それは私を守った証でもありますから」
そう言うと、雫は動けない如月の上着をはだけさせ、当て布をどけると薬――先に如月が渡した火傷用の軟膏――を取り出し、如月の胸に塗る。
そこは、痛々しい火傷の痕があるが、咎人の焼き印は、それと分かる者はまずいないといえるような状態だった。
「妖切りであるとはいえ、あなたは私を守ってくれた、立派な
武士です。それに今の戦乱の世で、出自の明らかではない者であろうと、力があれば栄達するなど、珍しいことではありませんよ」
「で、ですが……」
「要するに、どうとでも言い訳できるのです」
雫は、そう言いながら当て布を戻し、再び如月を寝かせる。
「しかし、わざわざ私のような者を選ばずとも……」
すると雫は、先ほど以上に不満をあらわにした顔になる。
「はっきり言わないと伝わりませんか。私は、あなたの妻でいたいのです。如月」
そう言いきってから、雫は何かに気付いたようにはっとなった。
「あ……まさか、その、実はもう将来を約束した
女性がすでにいる、とか」
すると如月は慌てて首を振ろうとして――その激痛に顔をしかめた。
「あ、ちょ、ちょっと。大丈夫ですか。無理に動いては」
「だ、大丈夫です。雫姫」
「そ、それとも、もしかして私のことが嫌い……ですか」
次々に悪い考えに転ぶ雫に、慌てて首を振っては苦痛に呻く如月。
傍から見れば、どういう茶番を繰り返しているのだ、と言いたくなる光景だが、本人たちは大真面目だった。
「それも違うなら……それでも、如月は私との関係を解消したいのですか?」
「い、いえ……そうではない、のですが……私にこのようなことが許されるのかと」
「むしろ、駄目だという理由を聞きたいです。何かありますか?」
あるなら言ってみなさい、と言外ににじませ、雫は如月をまっすぐに見る。
咎人であるとか、傷があるなどということは、すでに理由にならないとはっきり言ってある。
それは如月にも分かっていた。だから、他の理由を探しても――そんなものはない。
故に、しばしの沈黙が流れる。
だがそれは、何もないだろうという雫の言葉を肯定する沈黙だった。
「本当に私で……よろしいのですか」
「あなたがいいのです、如月。……それとも、二郎の方がいいですか?」
「如月で……お願いします。今の私は、その名を雫姫に呼んでもらえることが、嬉しいと思うので」
すると雫は満面の笑みを浮かべて、頷いた。
「では如月。これからも夫として、私を――久遠院雫を支えてくれますね?」
「――はい。これからよろしくお願いします、雫姫」
その答えは、文字通り花が咲いたかのような、雫の美しい笑顔だった。
それは、都から遠く離れた小さな領地の、小さな物語。
後に、その小さな領地の仲睦まじい領主夫婦と、その領地の平和な在り様の噂は都にまで届き、いつしか歌にまで詠まれたという――。
忘れ
路の
雫一つの 願いこそ
救世の
御手と なりにけるなり