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エピローグ

ー/ー



「ご苦労様、登松刑事から聞いたけど見事な解決編だったらしいわね。ぜひ、見たかったわ」 
 探偵さんは嘲笑している。その拍手をまるで、猿がシンバルをたたくおもちゃのようにするものだから、私はより馬鹿にされている気がした。
「本当に疲れましたよ……」
 しかし、文句を言う気力もない。あれから私は警察車両に載せられて帰宅を許された。そこから疲れがどっと出たのか、本当にずっと寝ていたらしい。その眠りから覚めた直後にここへ呼び出しを受けたのだ。体が自宅でゆっくりさせてくれと悲鳴を上げているのを何とか黙らせてここまでやってきた私にこの探偵さんと張り合う元気はない。まあ、私がどれだけ絶好調でも彼女にはきっと敵わないだろうけど。
「ほら、せっかくだから食べて。わざわざ押部さんがデパートの地下で用意してくれたバームクーヘンよ。う~ん、美味しい」
 そう言いながら、探偵さんはすでにバームクーヘンの四分の三ほど平らげていた。私はあわててフォークを掴み、残りを確保する。
 私が今、探偵さんとどこにいるかというと、ここは『小伏凪沙探偵事務所』。
 名前の通り、探偵さんの事務所だ。今は、紅茶とバームクーヘンをいただいている。
「それで、今日は何の用で呼ばれたんですか?」
 私はそう言いながら、事務所内を見渡す。探偵事務所なんて初めて訪れたのだが、見た感じは特に変なところはない。しきりやテーブルなどの配置が、大学受験の時に通っていた個別指導の塾に雰囲気がよく似ていた。
「そうそう。それで、あなたの知りたそうなことはすべて警察の捜査で明るみに上がったから、せっかくなら教えてあげようと思って」
「それって、私に勝手に教えてもいい情報なんですか?」
 この人には前科があるので、なんとなく遠慮する。
「別に気にしなくてもいいわよ。今回の事件を解決した立役者なんだから、ちょっとのわがままくらいは許してもらえるはずよ」
 そう言いながら、探偵さんはからからと笑う。これぐらい能天気なほうが、探偵には向いているのだろうか。
「とりあえず、副島さんの語ったことは警察の捜査によってすべて裏付けが取れたわ。ただ、罰するべき人間はすでにこの世にはいないから地獄にいる閻魔様に任せるしかないわね」
「そうですね……」
 彼らのやったことは、科学者としてももちろんダメなことではあったが、それよりも一人の人間としてしっかりと裁かれるべきことだった。
 しかし、それを行うことができる人間はいない。
「ま、被害者の親族たちには警察がうまく対処するでしょうから、あなたはもう事件のことは考えないでいいわ。世間の人間として、そんなことがあったんだくらいに考えておく方が、精神衛生的にもいいと思うし」
「そうですね。私がいくら考えてもそれはどうにかできることじゃないですから」
「それと、井野さん。井野蒼汰さんのことなんだけど」
 井野さん……彼はどう思っているのだろうか。
「警察が聞いたところ、彼は別の場所で働きながら副島さんのことを支えていくつもりみたい。きっと、上手くいくだろうって押部さんが言っていたわ」
「押部さんが話を聞いたんですね。でも、良かったです。副島さんも決して許されるようなことをしたわけじゃないけど、幸せになってほしいし」
 今回、副島さんは直接的に三人を死に追いやった。しかし、その三人は保身のために彼女へと暴行を加え、さらには女性としての尊厳を踏みにじるような行為をたびたび、繰り返していた。情状酌量の余地は十分にあるだろう。
「ただ機械が永山基準にのっとって裁くわけじゃない。しっかりと赤い血の通った、碩学たられる裁判官たちなんだから。きっと大丈夫よ」
 近年は死刑廃止の気運も高まっていることから、彼女がそう言った形で亡くなることは考えづらい。いつか、井野さんと二人で寄り添って時を過ごせる日が来ればいいと思う。
「その副島さんは、非常に大人しくしているそうよ。まあ、彼女は理知的な女性だし問題を起こすこともないでしょ。もし気が向いたら、面会にでも行ってあげたら?」
 そう言って探偵さんは自身の名刺を取り出してその裏にペンを走らせる。
 そこには、ある刑務所の名前と住所が書かれていた。
「ありがとうございます。やっぱり、私も副島さんにはとても優しくしてもらえたので」
 私はその名刺をなくさないようにポケットへしまった。差し入れには、化学に関する本を持って行ってあげよう。きっと喜んでくれるはずだ。
「それと、もう一人の所員である岩塚さん。彼は、研究職から身を引く意向らしいわ。まあ、今回のようなことがあった後では、気乗りしないのもわかるけどね。彼は教員免許を取って化学の楽しさを教えたいという夢もあったらしいから、これを機に挑戦してみたいって」
 私はその言葉を聞けて嬉しかった。
 火野研究所は、所長と副所長を同時に失って崩壊。井野さんと岩塚さんは路頭に迷うことが心配だった。研究者はイメージよりも実力が評価される世界だから、就職が早く決まる可能性もあったけど、やはり心配は尽きない。
 だからこそ、二人がこの事件をしっかりと受け止めて前に進もうとしている。
 そのことに私も勇気をもらえた。
「ま、後の来客については言う事ないでしょ。みんな、副島さんの名誉を守るためにあったことをべらべら喋るような真似をしないように釘は刺しておいたけど。頭の良いあの人たちなら、善悪の判断くらいはできるだろうから」
 最後には、あんなに態度が悪かった長岡博士も、私の見事な推理を聞いてからは大人しくなっていた。それどころか、私を尊敬のまなざしで見てきたからちょっと困ったけれど。私はあくまで探偵さんの操り人形であって、私があの謎を解き明かしたわけではないのだ。
「それで、面白かったのが登松刑事よ。あの人、事件の後始末が忙しいのにも関わらず私の元までわざわざやってきて紅茶の茶葉を置いていったの。ちょうど、あなたが口にしているそれよ。どうやら、今回のことで変なプライドがへし折れたみたい。いったい、あなたが何をしたのか気になるけど」
「いや~あはは」
 私はその登松刑事が持ってきてくれた紅茶を飲んでごまかした。まさか、警察が私みたいな人に脅されて簡単に情報を渡すという事は言わない方がいいだろう。
「ま、いいわ。ともかく、もともとは優秀な人間なんだから変なプライドさえなければエリートコースに乗れるんじゃない? 数年後には大出世しているかもね」
 そう言って探偵さんは笑った。事実、この言葉は現実となるが、そのことを当時の彼女は知らない。当然だ。その後も私たちは紅茶を飲みながら、談笑にふけった。

「へぇ、それは楽しそうね。私も出所できれば、ぜひその女子会に参加させてもらいたいくらい。どうしても、仕事ばかりだと退屈で」
 ガラス越しの彼女がそう言って笑った。囚人服に身を包んでも、気品は健在だった。いや、むしろ張り詰めた緊張が解けたのか、より表情は生き生きしていると感じる。
「ぜひ、一緒にお茶をしましょう。私も探偵さんも楽しみにしています」
 私はその後、数回ほど副島さんのもとへ足を運んだ。
彼女はいつも私との会話を楽しみにしてくれていた。いつも、外の世界についてきかれるのを私はできるかぎりわかりやすく説明する。
「それで、井野さんとはどうなってるんですか?」
 私は興奮で鼻息を荒くしながら聞いた。私が聞きたいことは、これだ。牢屋の中にいる愛する人を一途に思い続けるなんて、ドラマチックで憧れる。
 それを聞くと、彼女はいつも困ったように笑う。
 けど、その困り顔が嬉しさからなるものだと私はわかっていた。
「つい昨日、結婚を前提に交際してほしいって言われたところよ」
 そう言って、彼女は頬を赤くした。
「ええっ! ほんとですか?」
 私は思わず大きな声を上げた。後ろで見張りの警官がぎろりと睨んできたので、私は少し体を小さくして反省した姿勢を見せる。
「そうよ。彼ったら、差し入れなんてできないのに花束まで持ってきて。プロポーズならともかく、告白で花を渡すなんてなんだか彼らしくて笑っちゃった」
 その花束は、それはもう豪華な薔薇だったらしい。しかし、差し入れに花束は許可されていないので受け取ることはできなかった。
「でもね、彼は言ってくれたの。この花が枯れたら、また新しい花束を用意して飾るから。それを見て、いつも私のことを考えているからって」
 私は声にならない悲鳴を上げた。なんだか、まぶしすぎる。
「私はそれまでに何回も告白を断っていたんだけどね。こんな刑務所の中にいる女を愛するよりも、彼はまっとうに生きてまっとうな人と交際して幸せな家庭を築いてほしいと思っていたから。でも、昨日のあれには根負けしたなあ。私はダメだってわかっていたけど、気が付いたら泣きながら首を縦に振ってた。それに対する喜び方もまた可愛くて」
 それから私は面会時間いっぱいまで、彼女ののろけ話を聞いていた。きっと、彼女はそれだけ幸せになる権利がある。私もその幸せをおすそ分けしてもらえて、とても温かい気持ちになった。
 そして、面会時間の終わりが近づく。彼女は刑務官に促されて席を立つ。
「ありがとう。なんだか、私の話ばっかりになっちゃったわね。あと、本も大事に読むわ」
 彼女はそう言って笑った。
「いえいえ、幸せな話が聞けて嬉しかったです。また来ます」
私も笑顔でそう言った。
「ありがとう、楽しみにしている。あなたが探偵として活躍できると信じているわ」
 彼女は最後にそう言って、面会室を後にした。私も、彼女がドアの向こうに消えたところで立ち上がって刑務所を後にした。

 その後、井野さんと副島さんはめでたく獄中結婚をすることになった。

「あはは、やっぱり君は面白いね。僕なんかじゃ到底、思いつかないようなことを言い出すんだから」
 私は、目の前で食欲をそそる音を立てているハラミを網の上から確保しながら、教授の話を聞いていた。そのハラミを小皿の端に載せてからすぐに口へ放り込む。
 もちろんこれは、教授のおごりである。しかも、食べ放題なんかじゃなくて東京の一等地にある超高級焼き肉店だ。すべてのお肉が、私が食べたことのないような味をしている。
「でも、僕は君がしたいと思ったことを応援するよ。もちろん、君に研究職へと進んでほしいと思う気持ちが無いと言えば嘘になるけどね」
 そう言いながら、教授はお酒に口を付けた。普段、お酒を飲んだ後は頭がはたらかないという理由で、研究室の飲み会に誘ってもノンアルコールのドリンクしか飲まないのが、今日はどんどんビールを喉に流し込んでいる。私も負けずと肉を口に運ぶたびに、口いっぱいのお酒を胃の中まで流し込む。
「やりたいことが見つかったので。国立の理系にまで行かせてくれた両親には申し訳ないんですけど」
 その気持ちは本当だった。せめて、研究職でなくても持っている教員免許で理科の先生にでもなれば両親は安心してくれただろう。
「ご両親も、君がやりたいと思うことをやってくれるのが望みだと思うよ。それに、全く研究室で学んだことを生かさないわけじゃないんだろう?」
 私は、冷静に状況を俯瞰していた。はずだったけど、どうしようもないこともある。
「ま、君の人生だから最後は君が決めるべきだ。もともと、君の成績ならば就職には困らないだろう。もしも、何かあれば相談してくれたらいい」
「ありがとうございます。そう言っていただけると心強いです」
 私は座りながら頭を下げた。網から上がる煙が顔の表面にあたって少し熱い。少し化粧が崩れそうだった。
「応援してるよ、またいつでも遊びに来てくれ」
 私はそれ以降、大学を卒業するまで研究室へ遊びに行くことは無かった。

 そして、私は日を改めて小伏凪沙探偵事務所を訪れていた。
私は事件の顛末以外にも、もう一つ話したいことがあった。
「どうしたの? そんなに真面目な顔をして」
 探偵さんはこちらを向かずに、くるくると椅子を回して遊んでいる。
「私、あの研究所で過ごす間の暇な時間に、いろいろと考えたんですよ。副島さん達は夢を叶えて厳しい環境でも頑張って働いている。そんな人たちを見ていると、自分のやりたいことってこれだったのかなって。確かに化学は面白いですし、大好きです。きっとこのことを生涯の仕事にできれば楽しいとは思います」
「じゃあ、研究職でも目指すの?」
「いえ、もう一つ。やりたいことが見つかりました。今はそっちに挑戦したい気持ちが大きいです」
 それはまだ地方にいる両親にも話していない事だ。副島さんと教授にしか話していないし、二人とも応援してくれた。
「何かしら。そこまで言うほど高尚な仕事を、私は知らないけども」
 探偵さんは興味があるらしく、椅子の開店を止めて少し前傾姿勢になって聞いてくる。
「私をここで働かせてください」
 その言葉を口にするがはやいか、探偵さんは口から紅茶を吹き出した。やっぱり、電話越しのイメージ通り、オーバーな人だなあと思う。
 私はスーツにかかった紅茶を気にせず、彼女に自分の視線をぶつけた。
「ちょ、ちょっと。本気で言ってるの?」
 探偵さんは、汚れた口元をティッシュで拭いながら、確認してきた。
「ええ、私達っていいコンビになると思うんですよ」
 私は笑顔でそう答える。この人と話していて初めて会話の主導権の握れた気がした。
「そりゃ、あなたのおかげで火野博士を殺害した一連の事件を早急に解決できたのは事実だけど。こんな仕事は安定しないし、危険だからメリットがないわよ」
「大丈夫ですよ。実際に調査をしていても襲われるどころか、警察から情報を引き出して推理の大きな手助けをしたんですから」
 私はここぞとばかりに胸を張る。
「それに、この部屋だって汚れてばっかりじゃないですか。掃除とかもしてないんでしょ」
 なにも返事をせず、窓の外に視線を移した彼女は、何よりも雄弁に物語っていた。
「別にそんなたくさんの給料なんていりませんから。そもそも、ここのお金ってどこから出てるんですか?」
「そ、それはまあ……」
 探偵さんは口ごもる。
「言いたくないなら聞きません。お金の管理はこれまでやってくれていた人に任せてください。何か事件が無いときはこのオフィスで掃除もしますし、料理もしますから。こんな汚れた部屋でこんな食生活をしていると体を壊しますよ」
 部屋の隅には、インスタントラーメンの残骸が山のように積まれていた。こんな食生活をしていてどこから元気が湧いてくるんだろうか。
「とにかく、これからよろしくお願いします。私が今度は、探偵さんの右腕になります」
 彼女はやれやれと言いたそうな表情で、右手を差し出した。
「仕方ないわ、よろしくね」
 私は探偵さんと固く握手をした。
「よろしくお願いします」


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「本当に疲れましたよ……」
 しかし、文句を言う気力もない。あれから私は警察車両に載せられて帰宅を許された。そこから疲れがどっと出たのか、本当にずっと寝ていたらしい。その眠りから覚めた直後にここへ呼び出しを受けたのだ。体が自宅でゆっくりさせてくれと悲鳴を上げているのを何とか黙らせてここまでやってきた私にこの探偵さんと張り合う元気はない。まあ、私がどれだけ絶好調でも彼女にはきっと敵わないだろうけど。
「ほら、せっかくだから食べて。わざわざ押部さんがデパートの地下で用意してくれたバームクーヘンよ。う~ん、美味しい」
 そう言いながら、探偵さんはすでにバームクーヘンの四分の三ほど平らげていた。私はあわててフォークを掴み、残りを確保する。
 私が今、探偵さんとどこにいるかというと、ここは『小伏凪沙探偵事務所』。
 名前の通り、探偵さんの事務所だ。今は、紅茶とバームクーヘンをいただいている。
「それで、今日は何の用で呼ばれたんですか?」
 私はそう言いながら、事務所内を見渡す。探偵事務所なんて初めて訪れたのだが、見た感じは特に変なところはない。しきりやテーブルなどの配置が、大学受験の時に通っていた個別指導の塾に雰囲気がよく似ていた。
「そうそう。それで、あなたの知りたそうなことはすべて警察の捜査で明るみに上がったから、せっかくなら教えてあげようと思って」
「それって、私に勝手に教えてもいい情報なんですか?」
 この人には前科があるので、なんとなく遠慮する。
「別に気にしなくてもいいわよ。今回の事件を解決した立役者なんだから、ちょっとのわがままくらいは許してもらえるはずよ」
 そう言いながら、探偵さんはからからと笑う。これぐらい能天気なほうが、探偵には向いているのだろうか。
「とりあえず、副島さんの語ったことは警察の捜査によってすべて裏付けが取れたわ。ただ、罰するべき人間はすでにこの世にはいないから地獄にいる閻魔様に任せるしかないわね」
「そうですね……」
 彼らのやったことは、科学者としてももちろんダメなことではあったが、それよりも一人の人間としてしっかりと裁かれるべきことだった。
 しかし、それを行うことができる人間はいない。
「ま、被害者の親族たちには警察がうまく対処するでしょうから、あなたはもう事件のことは考えないでいいわ。世間の人間として、そんなことがあったんだくらいに考えておく方が、精神衛生的にもいいと思うし」
「そうですね。私がいくら考えてもそれはどうにかできることじゃないですから」
「それと、井野さん。井野蒼汰さんのことなんだけど」
 井野さん……彼はどう思っているのだろうか。
「警察が聞いたところ、彼は別の場所で働きながら副島さんのことを支えていくつもりみたい。きっと、上手くいくだろうって押部さんが言っていたわ」
「押部さんが話を聞いたんですね。でも、良かったです。副島さんも決して許されるようなことをしたわけじゃないけど、幸せになってほしいし」
 今回、副島さんは直接的に三人を死に追いやった。しかし、その三人は保身のために彼女へと暴行を加え、さらには女性としての尊厳を踏みにじるような行為をたびたび、繰り返していた。情状酌量の余地は十分にあるだろう。
「ただ機械が永山基準にのっとって裁くわけじゃない。しっかりと赤い血の通った、碩学たられる裁判官たちなんだから。きっと大丈夫よ」
 近年は死刑廃止の気運も高まっていることから、彼女がそう言った形で亡くなることは考えづらい。いつか、井野さんと二人で寄り添って時を過ごせる日が来ればいいと思う。
「その副島さんは、非常に大人しくしているそうよ。まあ、彼女は理知的な女性だし問題を起こすこともないでしょ。もし気が向いたら、面会にでも行ってあげたら?」
 そう言って探偵さんは自身の名刺を取り出してその裏にペンを走らせる。
 そこには、ある刑務所の名前と住所が書かれていた。
「ありがとうございます。やっぱり、私も副島さんにはとても優しくしてもらえたので」
 私はその名刺をなくさないようにポケットへしまった。差し入れには、化学に関する本を持って行ってあげよう。きっと喜んでくれるはずだ。
「それと、もう一人の所員である岩塚さん。彼は、研究職から身を引く意向らしいわ。まあ、今回のようなことがあった後では、気乗りしないのもわかるけどね。彼は教員免許を取って化学の楽しさを教えたいという夢もあったらしいから、これを機に挑戦してみたいって」
 私はその言葉を聞けて嬉しかった。
 火野研究所は、所長と副所長を同時に失って崩壊。井野さんと岩塚さんは路頭に迷うことが心配だった。研究者はイメージよりも実力が評価される世界だから、就職が早く決まる可能性もあったけど、やはり心配は尽きない。
 だからこそ、二人がこの事件をしっかりと受け止めて前に進もうとしている。
 そのことに私も勇気をもらえた。
「ま、後の来客については言う事ないでしょ。みんな、副島さんの名誉を守るためにあったことをべらべら喋るような真似をしないように釘は刺しておいたけど。頭の良いあの人たちなら、善悪の判断くらいはできるだろうから」
 最後には、あんなに態度が悪かった長岡博士も、私の見事な推理を聞いてからは大人しくなっていた。それどころか、私を尊敬のまなざしで見てきたからちょっと困ったけれど。私はあくまで探偵さんの操り人形であって、私があの謎を解き明かしたわけではないのだ。
「それで、面白かったのが登松刑事よ。あの人、事件の後始末が忙しいのにも関わらず私の元までわざわざやってきて紅茶の茶葉を置いていったの。ちょうど、あなたが口にしているそれよ。どうやら、今回のことで変なプライドがへし折れたみたい。いったい、あなたが何をしたのか気になるけど」
「いや~あはは」
 私はその登松刑事が持ってきてくれた紅茶を飲んでごまかした。まさか、警察が私みたいな人に脅されて簡単に情報を渡すという事は言わない方がいいだろう。
「ま、いいわ。ともかく、もともとは優秀な人間なんだから変なプライドさえなければエリートコースに乗れるんじゃない? 数年後には大出世しているかもね」
 そう言って探偵さんは笑った。事実、この言葉は現実となるが、そのことを当時の彼女は知らない。当然だ。その後も私たちは紅茶を飲みながら、談笑にふけった。
「へぇ、それは楽しそうね。私も出所できれば、ぜひその女子会に参加させてもらいたいくらい。どうしても、仕事ばかりだと退屈で」
 ガラス越しの彼女がそう言って笑った。囚人服に身を包んでも、気品は健在だった。いや、むしろ張り詰めた緊張が解けたのか、より表情は生き生きしていると感じる。
「ぜひ、一緒にお茶をしましょう。私も探偵さんも楽しみにしています」
 私はその後、数回ほど副島さんのもとへ足を運んだ。
彼女はいつも私との会話を楽しみにしてくれていた。いつも、外の世界についてきかれるのを私はできるかぎりわかりやすく説明する。
「それで、井野さんとはどうなってるんですか?」
 私は興奮で鼻息を荒くしながら聞いた。私が聞きたいことは、これだ。牢屋の中にいる愛する人を一途に思い続けるなんて、ドラマチックで憧れる。
 それを聞くと、彼女はいつも困ったように笑う。
 けど、その困り顔が嬉しさからなるものだと私はわかっていた。
「つい昨日、結婚を前提に交際してほしいって言われたところよ」
 そう言って、彼女は頬を赤くした。
「ええっ! ほんとですか?」
 私は思わず大きな声を上げた。後ろで見張りの警官がぎろりと睨んできたので、私は少し体を小さくして反省した姿勢を見せる。
「そうよ。彼ったら、差し入れなんてできないのに花束まで持ってきて。プロポーズならともかく、告白で花を渡すなんてなんだか彼らしくて笑っちゃった」
 その花束は、それはもう豪華な薔薇だったらしい。しかし、差し入れに花束は許可されていないので受け取ることはできなかった。
「でもね、彼は言ってくれたの。この花が枯れたら、また新しい花束を用意して飾るから。それを見て、いつも私のことを考えているからって」
 私は声にならない悲鳴を上げた。なんだか、まぶしすぎる。
「私はそれまでに何回も告白を断っていたんだけどね。こんな刑務所の中にいる女を愛するよりも、彼はまっとうに生きてまっとうな人と交際して幸せな家庭を築いてほしいと思っていたから。でも、昨日のあれには根負けしたなあ。私はダメだってわかっていたけど、気が付いたら泣きながら首を縦に振ってた。それに対する喜び方もまた可愛くて」
 それから私は面会時間いっぱいまで、彼女ののろけ話を聞いていた。きっと、彼女はそれだけ幸せになる権利がある。私もその幸せをおすそ分けしてもらえて、とても温かい気持ちになった。
 そして、面会時間の終わりが近づく。彼女は刑務官に促されて席を立つ。
「ありがとう。なんだか、私の話ばっかりになっちゃったわね。あと、本も大事に読むわ」
 彼女はそう言って笑った。
「いえいえ、幸せな話が聞けて嬉しかったです。また来ます」
私も笑顔でそう言った。
「ありがとう、楽しみにしている。あなたが探偵として活躍できると信じているわ」
 彼女は最後にそう言って、面会室を後にした。私も、彼女がドアの向こうに消えたところで立ち上がって刑務所を後にした。
 その後、井野さんと副島さんはめでたく獄中結婚をすることになった。
「あはは、やっぱり君は面白いね。僕なんかじゃ到底、思いつかないようなことを言い出すんだから」
 私は、目の前で食欲をそそる音を立てているハラミを網の上から確保しながら、教授の話を聞いていた。そのハラミを小皿の端に載せてからすぐに口へ放り込む。
 もちろんこれは、教授のおごりである。しかも、食べ放題なんかじゃなくて東京の一等地にある超高級焼き肉店だ。すべてのお肉が、私が食べたことのないような味をしている。
「でも、僕は君がしたいと思ったことを応援するよ。もちろん、君に研究職へと進んでほしいと思う気持ちが無いと言えば嘘になるけどね」
 そう言いながら、教授はお酒に口を付けた。普段、お酒を飲んだ後は頭がはたらかないという理由で、研究室の飲み会に誘ってもノンアルコールのドリンクしか飲まないのが、今日はどんどんビールを喉に流し込んでいる。私も負けずと肉を口に運ぶたびに、口いっぱいのお酒を胃の中まで流し込む。
「やりたいことが見つかったので。国立の理系にまで行かせてくれた両親には申し訳ないんですけど」
 その気持ちは本当だった。せめて、研究職でなくても持っている教員免許で理科の先生にでもなれば両親は安心してくれただろう。
「ご両親も、君がやりたいと思うことをやってくれるのが望みだと思うよ。それに、全く研究室で学んだことを生かさないわけじゃないんだろう?」
 私は、冷静に状況を俯瞰していた。はずだったけど、どうしようもないこともある。
「ま、君の人生だから最後は君が決めるべきだ。もともと、君の成績ならば就職には困らないだろう。もしも、何かあれば相談してくれたらいい」
「ありがとうございます。そう言っていただけると心強いです」
 私は座りながら頭を下げた。網から上がる煙が顔の表面にあたって少し熱い。少し化粧が崩れそうだった。
「応援してるよ、またいつでも遊びに来てくれ」
 私はそれ以降、大学を卒業するまで研究室へ遊びに行くことは無かった。
 そして、私は日を改めて小伏凪沙探偵事務所を訪れていた。
私は事件の顛末以外にも、もう一つ話したいことがあった。
「どうしたの? そんなに真面目な顔をして」
 探偵さんはこちらを向かずに、くるくると椅子を回して遊んでいる。
「私、あの研究所で過ごす間の暇な時間に、いろいろと考えたんですよ。副島さん達は夢を叶えて厳しい環境でも頑張って働いている。そんな人たちを見ていると、自分のやりたいことってこれだったのかなって。確かに化学は面白いですし、大好きです。きっとこのことを生涯の仕事にできれば楽しいとは思います」
「じゃあ、研究職でも目指すの?」
「いえ、もう一つ。やりたいことが見つかりました。今はそっちに挑戦したい気持ちが大きいです」
 それはまだ地方にいる両親にも話していない事だ。副島さんと教授にしか話していないし、二人とも応援してくれた。
「何かしら。そこまで言うほど高尚な仕事を、私は知らないけども」
 探偵さんは興味があるらしく、椅子の開店を止めて少し前傾姿勢になって聞いてくる。
「私をここで働かせてください」
 その言葉を口にするがはやいか、探偵さんは口から紅茶を吹き出した。やっぱり、電話越しのイメージ通り、オーバーな人だなあと思う。
 私はスーツにかかった紅茶を気にせず、彼女に自分の視線をぶつけた。
「ちょ、ちょっと。本気で言ってるの?」
 探偵さんは、汚れた口元をティッシュで拭いながら、確認してきた。
「ええ、私達っていいコンビになると思うんですよ」
 私は笑顔でそう答える。この人と話していて初めて会話の主導権の握れた気がした。
「そりゃ、あなたのおかげで火野博士を殺害した一連の事件を早急に解決できたのは事実だけど。こんな仕事は安定しないし、危険だからメリットがないわよ」
「大丈夫ですよ。実際に調査をしていても襲われるどころか、警察から情報を引き出して推理の大きな手助けをしたんですから」
 私はここぞとばかりに胸を張る。
「それに、この部屋だって汚れてばっかりじゃないですか。掃除とかもしてないんでしょ」
 なにも返事をせず、窓の外に視線を移した彼女は、何よりも雄弁に物語っていた。
「別にそんなたくさんの給料なんていりませんから。そもそも、ここのお金ってどこから出てるんですか?」
「そ、それはまあ……」
 探偵さんは口ごもる。
「言いたくないなら聞きません。お金の管理はこれまでやってくれていた人に任せてください。何か事件が無いときはこのオフィスで掃除もしますし、料理もしますから。こんな汚れた部屋でこんな食生活をしていると体を壊しますよ」
 部屋の隅には、インスタントラーメンの残骸が山のように積まれていた。こんな食生活をしていてどこから元気が湧いてくるんだろうか。
「とにかく、これからよろしくお願いします。私が今度は、探偵さんの右腕になります」
 彼女はやれやれと言いたそうな表情で、右手を差し出した。
「仕方ないわ、よろしくね」
 私は探偵さんと固く握手をした。
「よろしくお願いします」