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掻痒

ー/ー



 ある日、知らない番号から着信があった。基本的に知らない番号からの電話には出ないようにしていたけれど、これがもしも、LINEのIDのみ交換していて電話番号を知らない聡一郎からだったら、あるいはスマホを落とすか壊すかして携帯番号が変わった夏芽からだったら、と、数秒の間に都合のいい可能性が次々とイメージされ、気がつくと私の指はディスプレイを左から右にスワイプしていた。
「あ……お、小瀬先輩、ですか?」
 どもるような話し方は、聞き覚えがある。玲だ。どうしてこいつが私に連絡してくるんだろう?
「なに、どしたの」
 それだけのことを口にするだけなのに、喉がうまく動かず、唇は重かった。家族を除くと、バイトの時間以外に誰かと口をきくのが久しぶりなのだということに、たった今思い至る。コミュニケーションを歪に欠いた生活を送っていると、人はこうも鈍ってしまうのだ。
「えっと、げ、元気してますか」
 そんな社交辞令に勝手に皮肉めいたものを感じてしまった。舌打ちを漏らす気力もなく、私は「まあね」と端的に返す。
「もうすぐバイトなんだけど。用がないなら切るよ」
 嘘だった。今日はバイトも入っていない。玲との会話を打ち切るのに不必要な嘘を挟んでしまう自分の冴えない判断力に、ため息が出そうになる。
「待ってください。す、少しだけでいいんで、時間とれませんか? あれだったら、バイトが終わってからでも大丈夫なんで」
 意外なことに、玲はそう言って食い下がってくる。けっきょく私は、一時間後に玲が待ち合わせ場所として指定したカフェ(こいつらは姉弟揃って喫茶店が好きなんだろうか)へと向かうことになった。
 クローゼットの中を物色して、あまり皺ができていない黒色のノースリーブのワンピースを選んでそれを頭から被った。部屋にある鏡で自分の姿を確認すると、覇気や自信といった、内面的な輝きは全然見受けられない。どこまでもつまらなさそうな顔をした私が映っている。せめて外面だけは繕おうと思い、洗面所で時間をかけて入念にメイクをする。使ったファンデと日焼け止めのパウダーは、了とショッピングモールに出かけたときに買ったものだった。
 了。私は、あのお金持ちの坊ちゃんを傷つけてしまった。多分、ほとんど一方的に。
 私たちは暗黙の了解で結ばれた共犯者で、互いにメリットを享受し合う関係だと思っていた。けれど、今になって思い返してみると、了が私以外の女と関係を持っているという決定的な証拠は、一つとして存在していなかったのだ。
 了には私と同じように他に決まった相手がいながらセフレ感覚で関係を持っている――その認識は、私が彼の容姿から、物腰から、恵まれた環境から、勝手に推測し、決めつけていたものにすぎなかった。
 今となっては、真実を確かめる術はない。けれど、了はもしかしたら、私のことをそれなりに真剣に好きだったんじゃないだろうか。彼なりに真っ当な向き合い方をして、彼なりに私との関係を健全に育もうとしていたんじゃないだろうか。
 そうじゃないと、怒りと悪意に澱んでいた彼が最後に見せた表情に悲痛なものが混ざっていたことに、説明がつかない。
 待ち合わせ場所に五分前に到着した。カウンターでフラペチーノを注文して客席を見渡してみると玲はすでにテーブル席に座っていて、こちらに気づくと会釈らしい挙動をとった。私は無言で向かいのソファに座った。
「すみません、わざわざバイト前に」
「いいよ。本当はバイトなんてないし」
「え?」
 玲は戸惑った顔をした。また言わなくてもいいことを言ってしまったな、と投げやりな後悔が思考の淵に滲む。
 よく見たら、玲は髪を切っていた。鬱陶しいほど伸びていた前髪は眉の上ほどまでに切られていて、左右には意図的な流れが作られている。着ているTシャツは白い無地のシンプルなもので、それは一瞬だけ樋渡綾のあの寒気がするほどノームコアな服装を想起させるけれど、玲が着ているものはオーバーサイズ気味のシルエットのもので、トレンドを意識しているであろうその着こなしから、私は玲の持つ自意識みたいなものをちゃんと感じ取ることができた。
「それよりさ、話があるならLINEの方で着信くれたらよかったのに。どうしてわざわざ登録されてない番号で電話かけてくるかな」
 そう訊ねると、玲は答えにくそうに口を開く。
「お、俺だとわかると、出てもらえないかもしれないって思って」
「普通、知らない番号からの着信こそ出ないもんじゃない」
 私が呆れて言うと、玲は「そう、ですね」とぐうの音も出ないという感じに俯いた。もしかしたら、今の私だったら知らない番号からの着信に一縷の望みをかけて飛びついてくると見越した上での作戦だったのかもしれないと思ったけれど、玲の反応からしてそれは流石に考えすぎだったようだ。
「あ、あの、もしかして、痩せましたか?」
 自分のカップに口をつけてから、玲はおずおずとそう訊ねる。
「ありがと」
「いや……」
「てか、まだ要件聞いてなかったけど、まさかそれだけ言うために呼んだの?」
 低く掠れた、心の底からうんざりしている人間の声が出せた。どうしてか、今このとき、私は普段以上に冷静且つ俯瞰的な目で自分の言動を捉えることができた。感性が鋭く研ぎ澄まされているわけではない。それは言うなれば、名前も素性も知らない一人の人間を観察しているときのような、ドライで白々しい無感情なジャッジだった。
「ま、まさか」
 玲は慌てて首を振る。そして、俯きながら、小さな声で「お礼を、言おうと思ってて」
 と言った。
「お礼?」
「はい」
 ――和久井先輩と、付き合えたことのお礼です。
 そのとき、私は初めて玲とまっすぐ視線がぶつかった気がした。向かい合わせに座っているという位置関係だけでなく、玲の方が目を逸らすことなくこちらを見据えているというたしかな感覚があった。私はそっと息を吸う。
「上手くいってんの?」
 フラペチーノのストローをいじりながら、フラットなトーンでそう訊ねる。
「はい、多分」
「多分?」
「じゅ、順調です。とても仲良いです」
 中途半端な答えが私の癇に障ったと思ったのか、玲は慌てて首を振りながら訂正した。
「キスはしたの」
「そ、そんなのまだに決まってるじゃないですか」
「夏芽の誕生日に付き合ったんでしょ? もう一ヶ月じゃん」
「そうですけど、でも……」
 玲が口ごもって私をちらりと見やる。けれどその視線は一瞬で逸らされてしまう。その反応で、ああ、そうか、と納得がいく。
 二人が付き合うことになった日――夏芽の誕生日から一週間も経たないうちに、私はあの子をひどく傷つけてしまった。そのことを玲に隠し通したまま恋人としての関係に浸るなんて、そんな器用な真似があの子にできるはずがないのだ。
 だとしたら、玲が私に連絡をよこした理由もそのあたりにあるのかもしれない。お礼を伝えたい、という気持ちが全くの嘘というわけではないにしても。
 私はあえてなにも言わず、玲の次の言葉を待つ。ストローを咥えてみても、フラペチーノの味がよくわからない。もしかして、私は緊張しているのだろうか? 玲を相手に?
「小瀬先輩」
「なに」
「その、け、喧嘩、したんですよね」
「誰と」
 そう訊き返してから、私は己の言葉に失笑しそうになった。それから、自分がなんだかとっても小さくて惨めな存在に思えた。
「和久井先輩とです」
 私と反比例するように、玲の態度は毅然としたものだった。いつの間にか私は向かいの席に座る彼の手元のあたりに視線を下ろしてしまっている。
「したけど」
 淡々と、なんでもないことのように答えたつもりだった。けれど、実際に口をついた言葉は情けないほどの卑屈さを纏っていた。これじゃあまるで、いじけたガキだ。
 私が認めても、玲はそこから言葉を続けるでもなく黙り込んでいる。なにか口にしなければいけない、という彼の内心からの焦りみたいなのが伝わってきて、小さな苛立ちが生まれる。
「あの人が、全然小瀬先輩の話をしなくなったんです」
「ふうん」
 私はグラスを手に取り、音を立てて投げやりに中身を飲み干した。均衡を崩した氷がカランと音を立てる。
「あの、げ、原因って、なにかあるんですか」
「別にないよ」
 取り繕う気力もなくて、私は短く否定する。
「お、俺は、二人の関係性が素敵だって思ってたんです」
「ふうん」
 私はもう一度平坦な返事をする。それからなんだか急に、なにもかもどうでもいいやという気分になって、鼻からふっと息が漏れてしまう。
「どうして笑うんですか」
「あんた、そんな面白いこと言えんだね」
 私が半笑いでそう言うと、玲はわずかに眉根を寄せた。多分、結構本気で怒っているんだろう。
「し、真剣に言ってるんです」
 どもりながらも、玲はこれまでに聞いたことのないほど大きな声をあげた。周囲の客が何事かとこちらを見ていた。私は鼻白む思いでこれ見よがしなため息をついた。
「なら、こっちも思ってること真剣に話してあげよっか。これからは、あんたが私の代わりに夏芽の傍にいてあげて。私はもう、あの子と関わるつもりはないから」
 そこまで口にして、私は息苦しさを意識した。それはまるで、本能による直接的な警告のように激しく突発的な息苦しさだった。


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「あ……お、小瀬先輩、ですか?」
 どもるような話し方は、聞き覚えがある。玲だ。どうしてこいつが私に連絡してくるんだろう?
「なに、どしたの」
 それだけのことを口にするだけなのに、喉がうまく動かず、唇は重かった。家族を除くと、バイトの時間以外に誰かと口をきくのが久しぶりなのだということに、たった今思い至る。コミュニケーションを歪に欠いた生活を送っていると、人はこうも鈍ってしまうのだ。
「えっと、げ、元気してますか」
 そんな社交辞令に勝手に皮肉めいたものを感じてしまった。舌打ちを漏らす気力もなく、私は「まあね」と端的に返す。
「もうすぐバイトなんだけど。用がないなら切るよ」
 嘘だった。今日はバイトも入っていない。玲との会話を打ち切るのに不必要な嘘を挟んでしまう自分の冴えない判断力に、ため息が出そうになる。
「待ってください。す、少しだけでいいんで、時間とれませんか? あれだったら、バイトが終わってからでも大丈夫なんで」
 意外なことに、玲はそう言って食い下がってくる。けっきょく私は、一時間後に玲が待ち合わせ場所として指定したカフェ(こいつらは姉弟揃って喫茶店が好きなんだろうか)へと向かうことになった。
 クローゼットの中を物色して、あまり皺ができていない黒色のノースリーブのワンピースを選んでそれを頭から被った。部屋にある鏡で自分の姿を確認すると、覇気や自信といった、内面的な輝きは全然見受けられない。どこまでもつまらなさそうな顔をした私が映っている。せめて外面だけは繕おうと思い、洗面所で時間をかけて入念にメイクをする。使ったファンデと日焼け止めのパウダーは、了とショッピングモールに出かけたときに買ったものだった。
 了。私は、あのお金持ちの坊ちゃんを傷つけてしまった。多分、ほとんど一方的に。
 私たちは暗黙の了解で結ばれた共犯者で、互いにメリットを享受し合う関係だと思っていた。けれど、今になって思い返してみると、了が私以外の女と関係を持っているという決定的な証拠は、一つとして存在していなかったのだ。
 了には私と同じように他に決まった相手がいながらセフレ感覚で関係を持っている――その認識は、私が彼の容姿から、物腰から、恵まれた環境から、勝手に推測し、決めつけていたものにすぎなかった。
 今となっては、真実を確かめる術はない。けれど、了はもしかしたら、私のことをそれなりに真剣に好きだったんじゃないだろうか。彼なりに真っ当な向き合い方をして、彼なりに私との関係を健全に育もうとしていたんじゃないだろうか。
 そうじゃないと、怒りと悪意に澱んでいた彼が最後に見せた表情に悲痛なものが混ざっていたことに、説明がつかない。
 待ち合わせ場所に五分前に到着した。カウンターでフラペチーノを注文して客席を見渡してみると玲はすでにテーブル席に座っていて、こちらに気づくと会釈らしい挙動をとった。私は無言で向かいのソファに座った。
「すみません、わざわざバイト前に」
「いいよ。本当はバイトなんてないし」
「え?」
 玲は戸惑った顔をした。また言わなくてもいいことを言ってしまったな、と投げやりな後悔が思考の淵に滲む。
 よく見たら、玲は髪を切っていた。鬱陶しいほど伸びていた前髪は眉の上ほどまでに切られていて、左右には意図的な流れが作られている。着ているTシャツは白い無地のシンプルなもので、それは一瞬だけ樋渡綾のあの寒気がするほどノームコアな服装を想起させるけれど、玲が着ているものはオーバーサイズ気味のシルエットのもので、トレンドを意識しているであろうその着こなしから、私は玲の持つ自意識みたいなものをちゃんと感じ取ることができた。
「それよりさ、話があるならLINEの方で着信くれたらよかったのに。どうしてわざわざ登録されてない番号で電話かけてくるかな」
 そう訊ねると、玲は答えにくそうに口を開く。
「お、俺だとわかると、出てもらえないかもしれないって思って」
「普通、知らない番号からの着信こそ出ないもんじゃない」
 私が呆れて言うと、玲は「そう、ですね」とぐうの音も出ないという感じに俯いた。もしかしたら、今の私だったら知らない番号からの着信に一縷の望みをかけて飛びついてくると見越した上での作戦だったのかもしれないと思ったけれど、玲の反応からしてそれは流石に考えすぎだったようだ。
「あ、あの、もしかして、痩せましたか?」
 自分のカップに口をつけてから、玲はおずおずとそう訊ねる。
「ありがと」
「いや……」
「てか、まだ要件聞いてなかったけど、まさかそれだけ言うために呼んだの?」
 低く掠れた、心の底からうんざりしている人間の声が出せた。どうしてか、今このとき、私は普段以上に冷静且つ俯瞰的な目で自分の言動を捉えることができた。感性が鋭く研ぎ澄まされているわけではない。それは言うなれば、名前も素性も知らない一人の人間を観察しているときのような、ドライで白々しい無感情なジャッジだった。
「ま、まさか」
 玲は慌てて首を振る。そして、俯きながら、小さな声で「お礼を、言おうと思ってて」
 と言った。
「お礼?」
「はい」
 ――和久井先輩と、付き合えたことのお礼です。
 そのとき、私は初めて玲とまっすぐ視線がぶつかった気がした。向かい合わせに座っているという位置関係だけでなく、玲の方が目を逸らすことなくこちらを見据えているというたしかな感覚があった。私はそっと息を吸う。
「上手くいってんの?」
 フラペチーノのストローをいじりながら、フラットなトーンでそう訊ねる。
「はい、多分」
「多分?」
「じゅ、順調です。とても仲良いです」
 中途半端な答えが私の癇に障ったと思ったのか、玲は慌てて首を振りながら訂正した。
「キスはしたの」
「そ、そんなのまだに決まってるじゃないですか」
「夏芽の誕生日に付き合ったんでしょ? もう一ヶ月じゃん」
「そうですけど、でも……」
 玲が口ごもって私をちらりと見やる。けれどその視線は一瞬で逸らされてしまう。その反応で、ああ、そうか、と納得がいく。
 二人が付き合うことになった日――夏芽の誕生日から一週間も経たないうちに、私はあの子をひどく傷つけてしまった。そのことを玲に隠し通したまま恋人としての関係に浸るなんて、そんな器用な真似があの子にできるはずがないのだ。
 だとしたら、玲が私に連絡をよこした理由もそのあたりにあるのかもしれない。お礼を伝えたい、という気持ちが全くの嘘というわけではないにしても。
 私はあえてなにも言わず、玲の次の言葉を待つ。ストローを咥えてみても、フラペチーノの味がよくわからない。もしかして、私は緊張しているのだろうか? 玲を相手に?
「小瀬先輩」
「なに」
「その、け、喧嘩、したんですよね」
「誰と」
 そう訊き返してから、私は己の言葉に失笑しそうになった。それから、自分がなんだかとっても小さくて惨めな存在に思えた。
「和久井先輩とです」
 私と反比例するように、玲の態度は毅然としたものだった。いつの間にか私は向かいの席に座る彼の手元のあたりに視線を下ろしてしまっている。
「したけど」
 淡々と、なんでもないことのように答えたつもりだった。けれど、実際に口をついた言葉は情けないほどの卑屈さを纏っていた。これじゃあまるで、いじけたガキだ。
 私が認めても、玲はそこから言葉を続けるでもなく黙り込んでいる。なにか口にしなければいけない、という彼の内心からの焦りみたいなのが伝わってきて、小さな苛立ちが生まれる。
「あの人が、全然小瀬先輩の話をしなくなったんです」
「ふうん」
 私はグラスを手に取り、音を立てて投げやりに中身を飲み干した。均衡を崩した氷がカランと音を立てる。
「あの、げ、原因って、なにかあるんですか」
「別にないよ」
 取り繕う気力もなくて、私は短く否定する。
「お、俺は、二人の関係性が素敵だって思ってたんです」
「ふうん」
 私はもう一度平坦な返事をする。それからなんだか急に、なにもかもどうでもいいやという気分になって、鼻からふっと息が漏れてしまう。
「どうして笑うんですか」
「あんた、そんな面白いこと言えんだね」
 私が半笑いでそう言うと、玲はわずかに眉根を寄せた。多分、結構本気で怒っているんだろう。
「し、真剣に言ってるんです」
 どもりながらも、玲はこれまでに聞いたことのないほど大きな声をあげた。周囲の客が何事かとこちらを見ていた。私は鼻白む思いでこれ見よがしなため息をついた。
「なら、こっちも思ってること真剣に話してあげよっか。これからは、あんたが私の代わりに夏芽の傍にいてあげて。私はもう、あの子と関わるつもりはないから」
 そこまで口にして、私は息苦しさを意識した。それはまるで、本能による直接的な警告のように激しく突発的な息苦しさだった。