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花を刎ねる

ー/ー



 二人の異性との関係が同時に切れてしまったショックと、愚かしいまでの己の迂闊さを呪う気持ちのせいで、私は最悪な週末を迎えることになった。日曜日にバイトが入っていてまだよかったかもしれない。働いている間だけは、どうにか心身を奮い立たせることができるから。ただ、それ以外の時間はなにをする気力も湧かず、ベッドに寝転んで過ごした。時折部屋を訪ねてくる親には、体調不良だと伝えた。
 聡一郎、そして了への罪悪感を、いつまでたっても私は探し当てることができなかった。
 自分の心の中を覗き込んでも、そこはがらんどうで、なにも見えてこない。そんなことは初めてだった。今日まで私の意志を、行動を規定してきた私自身は、何度呼び掛けてもその姿を見せなかった。
 月曜日。本来ならば期末テストが返却される予定で、授業はないものの登校しなければいけないという日だったけれど、私は体調が良くないと律儀に学校に連絡を入れて休んだ。親は病院に行ったほうがいいんじゃないかと言っていたけれど、熱が出たら行く、と言うとそれ以上しつこくなにかを言ってくることはなかった。夏芽や璃李依をはじめとした何人かの友達やクラスメートから連絡があったけれど、そのどれにも私は返信をしなかった。
 次の日から木曜日までは追試期間で、赤点がなかった私(担任が電話でそのことを教えてくれた)は、空っぽになった心を抱えながら、身体を鈍くする喪失感がどこかに行ってしまうのを待った。
 寝て、起きて、シャワーを浴びて、シフトが入っていればバイト先に向かって。そうやって、一人で完結する日々を機械的に過ごしているうちに、終業式の日を迎えたけれど、どうしても学校には足が向かなかった。親は、仮病を使う娘に呆れ果てたのか、今日が終業式だということをそもそも把握していなかったのか、なにも言ってこなかった。
 部屋にいる間は、了に買ってもらったタバコを惰性で吸っていた。それを切らすと、姉の部屋にあるラークのカートンボックスから一箱拝借した。いつからか、気持ちを落ち着けるためにはタバコが必要となった。それが果たして依存症状なのか、ただ依存症状を装ってその気になっているだけなのか、そのことすらわからない。今の私は、自己決定どころか、自己認識すら覚束ない。
「ちょっと」
 昼前になると、母が部屋にやってきた。「なっちゃんが来たよ」と言いながら、なぜか険しい顔をしている。
「夏芽が?」
 どうしてそれだけのことでしかめっ面をする必要があるんだろう、と思ったけれど、それから「あんた今日、終業式だったんだって?」と続けられて、なるほど、と思った。
「元気だった?」
 と部屋に入るなり夏芽が訊く。学校帰りにそのまま来たのか、夏服姿だった。長い黒髪が、今日はまっすぐ下ろされている。
「ん」
「ん、じゃないよ。ずっと連絡してるのに全然出ないから心配したんだよ」
「大丈夫だって。お腹痛かっただけだから」
 もう治ったから、と言うと、夏芽は「そっか」と笑った。屈託というものがまるで感じられない晴れ渡った表情を、なんだか久しぶりに見た気がする。
 おみやげ、と言って夏芽はみかんゼリーの入ったレジ袋を差し出してくる。私はお礼を言って、プラスチックのちゃちなスプーンでそれを食べる。
「ねえみーちゃん、この部屋ちょっと臭くない?」
 そう言いながら、夏芽はみかんゼリーのレシートをゴミ箱に捨てようとした。
 捨てようとして、固まった。
 その様子を見て、私は自分がそこに捨てたもののことを思い出した。
「なに、これ」
 ゴミ箱の中に顔を向けたまま、夏芽は引き攣った声を上げた。確認するまでもない。そこには、ラークの空箱が入っている。
 本当に、今の私はどうかしている。タバコを吸うようになってから、夏芽をこの部屋に上げるタイミングについては常に慎重を期していたはずじゃないか。それなのに、私は彼女がこの部屋のヤニ臭さに顔をしかめ、決定的な証拠を見られるまで、バレるというその可能性にすら、まったく頭が回っていなかったのだ。
「見りゃわかるでしょ」
 自分でも驚くほど、乾いた声が出た。焦る感情も、取り繕う気力も湧かない。もうどうにでもなれ、と思った。
「みーちゃん、タバコ吸ってるの?」
「うん」
「え、え、なんで? 駄目だよ、そんなの」
 戸惑いと悲しみと、ほんの僅かな怒りが綯い交ぜになった、悲痛な表情。可哀想で、気の毒な夏芽。私には、そんな表情、絶対にできっこない。
「中学んときからだし、今さらなに言ってんの」
 とうとう、夏芽は黙り込んでしまう。いや、黙り込んでんなよ、と私は内心憤る。ずっと抑え込んでいた昏い感情が、冷たい苛立ちとなって私を刺激する。
「あんた、私のことなにも知らないんだよ」
 そう、この子は私のことをなにも知らない。他でもない私自身が、隠し通してきたから。汚れを知らない無垢な女の子でいてほしかったから。でも、もうそんなことで気を遣わなくていいんだ。頑張らなくていいんだ。好かれなくてもいいんだ。なんだ、ちょうどいい機会じゃないか。
「みーちゃんは……私のこと、好きじゃないの?」
 そう言って、いよいよ夏芽は泣きじゃくってしまう。その涙はまるで、遅れて身体中を回り始めた透明な毒の雫のように映る。
 この子は今、生まれて初めて経験する裏切りという行為に苦しんでいるんだろうな。私は夏芽の心情を想像することができる。にもかかわらず、もう少しで私は笑ってしまいそうになった。それから、どんどん心が冷え切っていった。
 どうしてこの期に及んで、口をついて出るのがそんな言葉なんだろう。どうしてこんなことで泣けるんだろう。普段なら微笑ましく思えるはずのその姿を目にして、私の中で固く(もや)われていた悪意が、荒れた心の海へと解き放たれてしまうのがわかった。
 だから、これまでに一度だって口にしてこなかった言葉を――一度だって思ったことのない言葉を――私は夏芽にぶつけることができた。
「好きなわけないじゃん。嫌いだし、あんたのことなんか」


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 二人の異性との関係が同時に切れてしまったショックと、愚かしいまでの己の迂闊さを呪う気持ちのせいで、私は最悪な週末を迎えることになった。日曜日にバイトが入っていてまだよかったかもしれない。働いている間だけは、どうにか心身を奮い立たせることができるから。ただ、それ以外の時間はなにをする気力も湧かず、ベッドに寝転んで過ごした。時折部屋を訪ねてくる親には、体調不良だと伝えた。
 聡一郎、そして了への罪悪感を、いつまでたっても私は探し当てることができなかった。
 自分の心の中を覗き込んでも、そこはがらんどうで、なにも見えてこない。そんなことは初めてだった。今日まで私の意志を、行動を規定してきた私自身は、何度呼び掛けてもその姿を見せなかった。
 月曜日。本来ならば期末テストが返却される予定で、授業はないものの登校しなければいけないという日だったけれど、私は体調が良くないと律儀に学校に連絡を入れて休んだ。親は病院に行ったほうがいいんじゃないかと言っていたけれど、熱が出たら行く、と言うとそれ以上しつこくなにかを言ってくることはなかった。夏芽や璃李依をはじめとした何人かの友達やクラスメートから連絡があったけれど、そのどれにも私は返信をしなかった。
 次の日から木曜日までは追試期間で、赤点がなかった私(担任が電話でそのことを教えてくれた)は、空っぽになった心を抱えながら、身体を鈍くする喪失感がどこかに行ってしまうのを待った。
 寝て、起きて、シャワーを浴びて、シフトが入っていればバイト先に向かって。そうやって、一人で完結する日々を機械的に過ごしているうちに、終業式の日を迎えたけれど、どうしても学校には足が向かなかった。親は、仮病を使う娘に呆れ果てたのか、今日が終業式だということをそもそも把握していなかったのか、なにも言ってこなかった。
 部屋にいる間は、了に買ってもらったタバコを惰性で吸っていた。それを切らすと、姉の部屋にあるラークのカートンボックスから一箱拝借した。いつからか、気持ちを落ち着けるためにはタバコが必要となった。それが果たして依存症状なのか、ただ依存症状を装ってその気になっているだけなのか、そのことすらわからない。今の私は、自己決定どころか、自己認識すら覚束ない。
「ちょっと」
 昼前になると、母が部屋にやってきた。「なっちゃんが来たよ」と言いながら、なぜか険しい顔をしている。
「夏芽が?」
 どうしてそれだけのことでしかめっ面をする必要があるんだろう、と思ったけれど、それから「あんた今日、終業式だったんだって?」と続けられて、なるほど、と思った。
「元気だった?」
 と部屋に入るなり夏芽が訊く。学校帰りにそのまま来たのか、夏服姿だった。長い黒髪が、今日はまっすぐ下ろされている。
「ん」
「ん、じゃないよ。ずっと連絡してるのに全然出ないから心配したんだよ」
「大丈夫だって。お腹痛かっただけだから」
 もう治ったから、と言うと、夏芽は「そっか」と笑った。屈託というものがまるで感じられない晴れ渡った表情を、なんだか久しぶりに見た気がする。
 おみやげ、と言って夏芽はみかんゼリーの入ったレジ袋を差し出してくる。私はお礼を言って、プラスチックのちゃちなスプーンでそれを食べる。
「ねえみーちゃん、この部屋ちょっと臭くない?」
 そう言いながら、夏芽はみかんゼリーのレシートをゴミ箱に捨てようとした。
 捨てようとして、固まった。
 その様子を見て、私は自分がそこに捨てたもののことを思い出した。
「なに、これ」
 ゴミ箱の中に顔を向けたまま、夏芽は引き攣った声を上げた。確認するまでもない。そこには、ラークの空箱が入っている。
 本当に、今の私はどうかしている。タバコを吸うようになってから、夏芽をこの部屋に上げるタイミングについては常に慎重を期していたはずじゃないか。それなのに、私は彼女がこの部屋のヤニ臭さに顔をしかめ、決定的な証拠を見られるまで、バレるというその可能性にすら、まったく頭が回っていなかったのだ。
「見りゃわかるでしょ」
 自分でも驚くほど、乾いた声が出た。焦る感情も、取り繕う気力も湧かない。もうどうにでもなれ、と思った。
「みーちゃん、タバコ吸ってるの?」
「うん」
「え、え、なんで? 駄目だよ、そんなの」
 戸惑いと悲しみと、ほんの僅かな怒りが綯い交ぜになった、悲痛な表情。可哀想で、気の毒な夏芽。私には、そんな表情、絶対にできっこない。
「中学んときからだし、今さらなに言ってんの」
 とうとう、夏芽は黙り込んでしまう。いや、黙り込んでんなよ、と私は内心憤る。ずっと抑え込んでいた昏い感情が、冷たい苛立ちとなって私を刺激する。
「あんた、私のことなにも知らないんだよ」
 そう、この子は私のことをなにも知らない。他でもない私自身が、隠し通してきたから。汚れを知らない無垢な女の子でいてほしかったから。でも、もうそんなことで気を遣わなくていいんだ。頑張らなくていいんだ。好かれなくてもいいんだ。なんだ、ちょうどいい機会じゃないか。
「みーちゃんは……私のこと、好きじゃないの?」
 そう言って、いよいよ夏芽は泣きじゃくってしまう。その涙はまるで、遅れて身体中を回り始めた透明な毒の雫のように映る。
 この子は今、生まれて初めて経験する裏切りという行為に苦しんでいるんだろうな。私は夏芽の心情を想像することができる。にもかかわらず、もう少しで私は笑ってしまいそうになった。それから、どんどん心が冷え切っていった。
 どうしてこの期に及んで、口をついて出るのがそんな言葉なんだろう。どうしてこんなことで泣けるんだろう。普段なら微笑ましく思えるはずのその姿を目にして、私の中で固く舫《もや》われていた悪意が、荒れた心の海へと解き放たれてしまうのがわかった。
 だから、これまでに一度だって口にしてこなかった言葉を――一度だって思ったことのない言葉を――私は夏芽にぶつけることができた。
「好きなわけないじゃん。嫌いだし、あんたのことなんか」