恋心
ー/ー 太陽みたいだな、とあまりに陳腐すぎて今まで考えもしなかった比喩が、唐突に思い浮かぶ。
夏芽は、太陽みたいだ。大輪の向日葵みたいだ。きらきら輝くエネルギーみたいだ。
夏芽には、悪意も打算も虚栄心もない。夏芽の机の周りには、いつも誰かがいる。夏芽が笑うとみんなが微笑み、夏芽が泣くとみんなが慌てる。夏芽は基本的にいつも正しい。夏芽とそりが合わないということは、すなわち感性が歪んでいるということだ。
そんなふうに、世界を愛し、世界に愛されている夏芽を変える必要が、どこにある?
何度も、呆れるほど何度も自分に問いかけてきた。散々迷い、考えてきた。けれど、夏芽は夏芽のままで構わないと心から納得できたことは一度だって、一瞬だってなかった。精神の成長、思考の成長、感性の成長。そのすべてを、私は押し留めてしまっていた。幼さを愛くるしさと捉えてもらえなくなる時は、きっともう、すぐそこまで来てしまっている。
あの日、喫茶店で樋渡綾と向かい合ったとき、私は自分が彼女と同じ種類の人間だと感じた。けれど、そんなはずがなかった。私は、樋渡綾とは違う。聡一郎を理想という名の蝋で固めて、それを眺めて楽しんでいるだけの彼女と同じであるはずがない。
大切に造り上げた理想像を、私は崩してみせる。それがあの子のためだと、心からそう思っているから。
玲のことを意識していると自覚した夏芽は、まだ本調子ではない。内心と向き合うことに精一杯で、クラスメートとの会話もぎこちなく、授業にもあんまり集中できていないようだった。放課後になって、そんな彼女に「今日あんたんちに寄っていいかな」と声をかけたのは、伝えたいことがあったからというそれだけでなく、一人で帰らせることすら危なっかしく感じたからだ。
「私も、夏休みになったらバイト始めようと思うんだ」
並んで歩いていると、夏芽は笑顔でそう言った。無理に笑おうとしているのが丸わかりの、なんだか情けない感じの笑顔だった。
「うん」
と私は答えた。いいんじゃない、と。
「初めてのバイトってなにがおすすめかな」
「あんたがどんなバイトをしたいかによるんじゃない」
夏芽は難しい顔をして考える。わかりやすく眉間に皺を寄せているその様子を私は横目で眺める。
「テーマパークとか」
と夏芽はおずおずと例を挙げる。
「いいね」
えー、ほんと? とこのときばかりは素直に目を輝かせて、夏芽は浮かれたスキップを披露する。ふわりと浮かぶスカートの裾と、上下する胸元。白く細い手足と、陽射しに茶色く艶めく髪。あまりに見慣れた、和久井夏芽という存在。
玲も、こんなふうに夏芽のあちこちに目を奪われてしまうんだろうか。そしてそこには、本人にはとても晒せないようなどうしようもない欲求も含まれているんだろうか。そういったところを、私はあいつに訊ねてみたいと思っている。冷やかしや興味本位などではなく、わりと真面目に。
夏芽の家にはおじいちゃんもおばあちゃんもいなかった。これから話すことを考えたら、二人が家を空けていてくれてよかったかもしれない。
私を先に部屋に通してから二人分の麦茶を持って戻ってきた夏芽は、やってみたいバイトの話をまだしている。
「ゲームセンターも楽しそうだなって、最近思うんだ」
「ゲーセン? なんかガラ悪い客多そうじゃない」
「駅ビルの中にあるゲームセンターだったら、小さい子向けのゲームも多くて、あんまり不良っぽい人はいないって、玲が言ってたよ」
その名前を口にしたのは、きっと無意識のことだったんだろう。まるで禁句を口にしてしまったかのように夏芽は口を動かすのをやめてしまった。浮かべていた笑顔が緩やかにしぼみ、こちらの反応を伺うように遠慮がちな視線を寄越す。本当に、取り繕うということがいつまでも上手くできないのは、この子にかかれば一種の美徳だと思う。
「ふうん」
と私は適当に相槌を打った。
「れ、玲も一緒にバイトしようよって誘ってるんだけど、あんまり乗り気じゃないっぽいんだよね。塾が忙しいから、って言うんだけど」
このとき、私はぼんやりと思った。この二人は、お互いの間に築かれた関係性を崩せないんだろうな、と。さらに言うと、夏芽の方はきっと、崩すという選択肢があることそのものをうまく認識できていない。だから今こうして、ずっとまっすぐ続いてきた道が急に枝分かれしたことに戸惑ってしまっているんだろう。
「夏芽」
私が道を教えてあげる。これまでずっとそうしてきたように、手を引いて案内してあげる。それだけの、ことじゃないか。
「ん?」
「あんた、玲のこと好きでしょ」
こういった、核心に迫る直接的な質問はもっと慎重に、タイミングを見計らって口にされるべきだと、私は漠然と考えていた。けれど、玲にも言って聞かせたように、これこそ紛れもない確認行為なのだ。心の準備だとか、シチュエーションだとか、そんな情緒的な要素は必要ない。
夏芽は、絶句したまま固まっていた。次第に頬が赤くなり、その赤みは顔全体に浸透するように広がった。あまりにもわかりやすい反応だ。けれど、夏芽がそのようにわかりやすい反応を示してしまったことが、やっぱりそれなりにショックだ。
「ん……」
俯きながら、肯定とも否定ともつかない呟きを夏芽は漏らす。それは愛らしく、微笑ましい光景だ。けれど、私は胸がざわつく。裏切られたような気持ちになってしまうのを、止められない。
「なんでもっと早く教えてくれなかったの」
わかりきったことを、私は訊いてしまう。
「だって、わかんないんだもん」
「わかんないって?」
「私にも、わかんないの。玲のこと、いい子だって思うのに、それなのに、なんだか、まっすぐ見れなくなっちゃったの」
あともう少しで涙が溢れる。そう思った。けれど、夏芽は泣くことを我慢していた。私の前で、涙を流すまいと闘っていた。
「それ、玲に恋してるってことじゃない」
「違うよ。こんなの、恋じゃないよ」
そんなふうにいじらしく否定されたら、抱きしめたくなってしまう。無防備にさらされているハートを包んであげたくて。そして私のハートも、きりきりと音を立てて締め上げられていく。馬鹿か、私は。
「どうして?」
くだらない考えを振り払いながら、私はわかりきったことを訊ねた。
「だって、恋って、もっと幸せなものでしょ? 嬉しくて、楽しくて、元気になるようなものでしょ? だったら、こんなの、恋じゃないよ」
ああ、この子は、本当に私の理想通りに育ってくれたんだな。場違いだということは百も承知だけれど、私はそんな感慨を覚えざるを得なかった。
「じゃあ、あんたは玲と一緒にいても、嬉しくも楽しくもならない?」
「なるよ。一緒に話したり、帰ったりしてると、この時間がずっと続いてほしいなって思うし、一人でいるときに玲のことを考えたら、幸せな気持ちになる。で、でも、玲が……」
「玲が?」
言葉に詰まった末に、夏芽は抱えていた思いを吐き出す。
「玲が、他の女の子と話しているのを見たことを思い出したら、嫌な気持ちになるの。その子のこと、なにも知らないのに嫌いになるの。それで、そんなこと考えちゃう自分のことが、もっと嫌いになるの」
そう。これが、私の望んだ和久井夏芽の姿。世間擦れしていない、誰の手垢もついていない、類い稀なる澄んだ感性を持った、十七歳の女の子。そんな夏芽に、私は別れを告げる。
「なにも間違ってない」
と私は言った。
「夏芽は今、間違いなく玲に恋してるんだよ」
さよなら、私の夏芽。さよなら、私の夢。
夏芽は、太陽みたいだ。大輪の向日葵みたいだ。きらきら輝くエネルギーみたいだ。
夏芽には、悪意も打算も虚栄心もない。夏芽の机の周りには、いつも誰かがいる。夏芽が笑うとみんなが微笑み、夏芽が泣くとみんなが慌てる。夏芽は基本的にいつも正しい。夏芽とそりが合わないということは、すなわち感性が歪んでいるということだ。
そんなふうに、世界を愛し、世界に愛されている夏芽を変える必要が、どこにある?
何度も、呆れるほど何度も自分に問いかけてきた。散々迷い、考えてきた。けれど、夏芽は夏芽のままで構わないと心から納得できたことは一度だって、一瞬だってなかった。精神の成長、思考の成長、感性の成長。そのすべてを、私は押し留めてしまっていた。幼さを愛くるしさと捉えてもらえなくなる時は、きっともう、すぐそこまで来てしまっている。
あの日、喫茶店で樋渡綾と向かい合ったとき、私は自分が彼女と同じ種類の人間だと感じた。けれど、そんなはずがなかった。私は、樋渡綾とは違う。聡一郎を理想という名の蝋で固めて、それを眺めて楽しんでいるだけの彼女と同じであるはずがない。
大切に造り上げた理想像を、私は崩してみせる。それがあの子のためだと、心からそう思っているから。
玲のことを意識していると自覚した夏芽は、まだ本調子ではない。内心と向き合うことに精一杯で、クラスメートとの会話もぎこちなく、授業にもあんまり集中できていないようだった。放課後になって、そんな彼女に「今日あんたんちに寄っていいかな」と声をかけたのは、伝えたいことがあったからというそれだけでなく、一人で帰らせることすら危なっかしく感じたからだ。
「私も、夏休みになったらバイト始めようと思うんだ」
並んで歩いていると、夏芽は笑顔でそう言った。無理に笑おうとしているのが丸わかりの、なんだか情けない感じの笑顔だった。
「うん」
と私は答えた。いいんじゃない、と。
「初めてのバイトってなにがおすすめかな」
「あんたがどんなバイトをしたいかによるんじゃない」
夏芽は難しい顔をして考える。わかりやすく眉間に皺を寄せているその様子を私は横目で眺める。
「テーマパークとか」
と夏芽はおずおずと例を挙げる。
「いいね」
えー、ほんと? とこのときばかりは素直に目を輝かせて、夏芽は浮かれたスキップを披露する。ふわりと浮かぶスカートの裾と、上下する胸元。白く細い手足と、陽射しに茶色く艶めく髪。あまりに見慣れた、和久井夏芽という存在。
玲も、こんなふうに夏芽のあちこちに目を奪われてしまうんだろうか。そしてそこには、本人にはとても晒せないようなどうしようもない欲求も含まれているんだろうか。そういったところを、私はあいつに訊ねてみたいと思っている。冷やかしや興味本位などではなく、わりと真面目に。
夏芽の家にはおじいちゃんもおばあちゃんもいなかった。これから話すことを考えたら、二人が家を空けていてくれてよかったかもしれない。
私を先に部屋に通してから二人分の麦茶を持って戻ってきた夏芽は、やってみたいバイトの話をまだしている。
「ゲームセンターも楽しそうだなって、最近思うんだ」
「ゲーセン? なんかガラ悪い客多そうじゃない」
「駅ビルの中にあるゲームセンターだったら、小さい子向けのゲームも多くて、あんまり不良っぽい人はいないって、玲が言ってたよ」
その名前を口にしたのは、きっと無意識のことだったんだろう。まるで禁句を口にしてしまったかのように夏芽は口を動かすのをやめてしまった。浮かべていた笑顔が緩やかにしぼみ、こちらの反応を伺うように遠慮がちな視線を寄越す。本当に、取り繕うということがいつまでも上手くできないのは、この子にかかれば一種の美徳だと思う。
「ふうん」
と私は適当に相槌を打った。
「れ、玲も一緒にバイトしようよって誘ってるんだけど、あんまり乗り気じゃないっぽいんだよね。塾が忙しいから、って言うんだけど」
このとき、私はぼんやりと思った。この二人は、お互いの間に築かれた関係性を崩せないんだろうな、と。さらに言うと、夏芽の方はきっと、崩すという選択肢があることそのものをうまく認識できていない。だから今こうして、ずっとまっすぐ続いてきた道が急に枝分かれしたことに戸惑ってしまっているんだろう。
「夏芽」
私が道を教えてあげる。これまでずっとそうしてきたように、手を引いて案内してあげる。それだけの、ことじゃないか。
「ん?」
「あんた、玲のこと好きでしょ」
こういった、核心に迫る直接的な質問はもっと慎重に、タイミングを見計らって口にされるべきだと、私は漠然と考えていた。けれど、玲にも言って聞かせたように、これこそ紛れもない確認行為なのだ。心の準備だとか、シチュエーションだとか、そんな情緒的な要素は必要ない。
夏芽は、絶句したまま固まっていた。次第に頬が赤くなり、その赤みは顔全体に浸透するように広がった。あまりにもわかりやすい反応だ。けれど、夏芽がそのようにわかりやすい反応を示してしまったことが、やっぱりそれなりにショックだ。
「ん……」
俯きながら、肯定とも否定ともつかない呟きを夏芽は漏らす。それは愛らしく、微笑ましい光景だ。けれど、私は胸がざわつく。裏切られたような気持ちになってしまうのを、止められない。
「なんでもっと早く教えてくれなかったの」
わかりきったことを、私は訊いてしまう。
「だって、わかんないんだもん」
「わかんないって?」
「私にも、わかんないの。玲のこと、いい子だって思うのに、それなのに、なんだか、まっすぐ見れなくなっちゃったの」
あともう少しで涙が溢れる。そう思った。けれど、夏芽は泣くことを我慢していた。私の前で、涙を流すまいと闘っていた。
「それ、玲に恋してるってことじゃない」
「違うよ。こんなの、恋じゃないよ」
そんなふうにいじらしく否定されたら、抱きしめたくなってしまう。無防備にさらされているハートを包んであげたくて。そして私のハートも、きりきりと音を立てて締め上げられていく。馬鹿か、私は。
「どうして?」
くだらない考えを振り払いながら、私はわかりきったことを訊ねた。
「だって、恋って、もっと幸せなものでしょ? 嬉しくて、楽しくて、元気になるようなものでしょ? だったら、こんなの、恋じゃないよ」
ああ、この子は、本当に私の理想通りに育ってくれたんだな。場違いだということは百も承知だけれど、私はそんな感慨を覚えざるを得なかった。
「じゃあ、あんたは玲と一緒にいても、嬉しくも楽しくもならない?」
「なるよ。一緒に話したり、帰ったりしてると、この時間がずっと続いてほしいなって思うし、一人でいるときに玲のことを考えたら、幸せな気持ちになる。で、でも、玲が……」
「玲が?」
言葉に詰まった末に、夏芽は抱えていた思いを吐き出す。
「玲が、他の女の子と話しているのを見たことを思い出したら、嫌な気持ちになるの。その子のこと、なにも知らないのに嫌いになるの。それで、そんなこと考えちゃう自分のことが、もっと嫌いになるの」
そう。これが、私の望んだ和久井夏芽の姿。世間擦れしていない、誰の手垢もついていない、類い稀なる澄んだ感性を持った、十七歳の女の子。そんな夏芽に、私は別れを告げる。
「なにも間違ってない」
と私は言った。
「夏芽は今、間違いなく玲に恋してるんだよ」
さよなら、私の夏芽。さよなら、私の夢。
みんなのリアクション
まだリアクションはありません。最初の一歩を踏み出しましょう!
太陽みたいだな、とあまりに陳腐すぎて今まで考えもしなかった比喩が、唐突に思い浮かぶ。
夏芽は、太陽みたいだ。大輪の向日葵みたいだ。きらきら輝くエネルギーみたいだ。
夏芽には、悪意も打算も虚栄心もない。夏芽の机の周りには、いつも誰かがいる。夏芽が笑うとみんなが微笑み、夏芽が泣くとみんなが慌てる。夏芽は基本的にいつも正しい。夏芽とそりが合わないということは、すなわち感性が歪んでいるということだ。
そんなふうに、世界を愛し、世界に愛されている夏芽を変える必要が、どこにある?
何度も、呆れるほど何度も自分に問いかけてきた。散々迷い、考えてきた。けれど、夏芽は夏芽のままで構わないと心から納得できたことは一度だって、一瞬だってなかった。精神の成長、思考の成長、感性の成長。そのすべてを、私は押し留めてしまっていた。幼さを愛くるしさと捉えてもらえなくなる時は、きっともう、すぐそこまで来てしまっている。
あの日、喫茶店で樋渡綾と向かい合ったとき、私は自分が彼女と同じ種類の人間だと感じた。けれど、そんなはずがなかった。私は、樋渡綾とは違う。聡一郎を理想という名の蝋で固めて、それを眺めて楽しんでいるだけの彼女と同じであるはずがない。
大切に造り上げた理想像を、私は崩してみせる。それがあの子のためだと、心からそう思っているから。
玲のことを意識していると自覚した夏芽は、まだ本調子ではない。内心と向き合うことに精一杯で、クラスメートとの会話もぎこちなく、授業にもあんまり集中できていないようだった。放課後になって、そんな彼女に「今日あんたんちに寄っていいかな」と声をかけたのは、伝えたいことがあったからというそれだけでなく、一人で帰らせることすら危なっかしく感じたからだ。
「私も、夏休みになったらバイト始めようと思うんだ」
並んで歩いていると、夏芽は笑顔でそう言った。無理に笑おうとしているのが丸わかりの、なんだか情けない感じの笑顔だった。
「うん」
と私は答えた。いいんじゃない、と。
「初めてのバイトってなにがおすすめかな」
「あんたがどんなバイトをしたいかによるんじゃない」
夏芽は難しい顔をして考える。わかりやすく眉間に皺を寄せているその様子を私は横目で眺める。
「テーマパークとか」
と夏芽はおずおずと例を挙げる。
「いいね」
えー、ほんと? とこのときばかりは素直に目を輝かせて、夏芽は浮かれたスキップを披露する。ふわりと浮かぶスカートの裾と、上下する胸元。白く細い手足と、陽射しに茶色く艶めく髪。あまりに見慣れた、和久井夏芽という存在。
玲も、こんなふうに夏芽のあちこちに目を奪われてしまうんだろうか。そしてそこには、本人にはとても晒せないようなどうしようもない欲求も含まれているんだろうか。そういったところを、私はあいつに訊ねてみたいと思っている。冷やかしや興味本位などではなく、わりと真面目に。
夏芽の家にはおじいちゃんもおばあちゃんもいなかった。これから話すことを考えたら、二人が家を空けていてくれてよかったかもしれない。
私を先に部屋に通してから二人分の麦茶を持って戻ってきた夏芽は、やってみたいバイトの話をまだしている。
「ゲームセンターも楽しそうだなって、最近思うんだ」
「ゲーセン? なんかガラ悪い客多そうじゃない」
「駅ビルの中にあるゲームセンターだったら、小さい子向けのゲームも多くて、あんまり不良っぽい人はいないって、玲が言ってたよ」
その名前を口にしたのは、きっと無意識のことだったんだろう。まるで禁句を口にしてしまったかのように夏芽は口を動かすのをやめてしまった。浮かべていた笑顔が緩やかにしぼみ、こちらの反応を伺うように遠慮がちな視線を寄越す。本当に、取り繕うということがいつまでも上手くできないのは、この子にかかれば一種の美徳だと思う。
「ふうん」
と私は適当に相槌を打った。
「れ、玲も一緒にバイトしようよって誘ってるんだけど、あんまり乗り気じゃないっぽいんだよね。塾が忙しいから、って言うんだけど」
このとき、私はぼんやりと思った。この二人は、お互いの間に築かれた関係性を崩せないんだろうな、と。さらに言うと、夏芽の方はきっと、崩すという選択肢があることそのものをうまく認識できていない。だから今こうして、ずっとまっすぐ続いてきた道が急に枝分かれしたことに戸惑ってしまっているんだろう。
「夏芽」
私が道を教えてあげる。これまでずっとそうしてきたように、手を引いて案内してあげる。それだけの、ことじゃないか。
「ん?」
「あんた、玲のこと好きでしょ」
こういった、核心に迫る直接的な質問はもっと慎重に、タイミングを見計らって口にされるべきだと、私は漠然と考えていた。けれど、玲にも言って聞かせたように、これこそ紛れもない確認行為なのだ。心の準備だとか、シチュエーションだとか、そんな情緒的な要素は必要ない。
夏芽は、絶句したまま固まっていた。次第に頬が赤くなり、その赤みは顔全体に浸透するように広がった。あまりにもわかりやすい反応だ。けれど、夏芽がそのようにわかりやすい反応を示してしまったことが、やっぱりそれなりにショックだ。
「ん……」
俯きながら、肯定とも否定ともつかない呟きを夏芽は漏らす。それは愛らしく、微笑ましい光景だ。けれど、私は胸がざわつく。裏切られたような気持ちになってしまうのを、止められない。
「なんでもっと早く教えてくれなかったの」
わかりきったことを、私は訊いてしまう。
「だって、わかんないんだもん」
「わかんないって?」
「私にも、わかんないの。玲のこと、いい子だって思うのに、それなのに、なんだか、まっすぐ見れなくなっちゃったの」
あともう少しで涙が溢れる。そう思った。けれど、夏芽は泣くことを我慢していた。私の前で、涙を流すまいと闘っていた。
「それ、玲に恋してるってことじゃない」
「違うよ。こんなの、恋じゃないよ」
そんなふうにいじらしく否定されたら、抱きしめたくなってしまう。無防備にさらされているハートを包んであげたくて。そして私のハートも、きりきりと音を立てて締め上げられていく。馬鹿か、私は。
「どうして?」
くだらない考えを振り払いながら、私はわかりきったことを訊ねた。
「だって、恋って、もっと幸せなものでしょ? 嬉しくて、楽しくて、元気になるようなものでしょ? だったら、こんなの、恋じゃないよ」
ああ、この子は、本当に私の理想通りに育ってくれたんだな。場違いだということは百も承知だけれど、私はそんな感慨を覚えざるを得なかった。
「じゃあ、あんたは玲と一緒にいても、嬉しくも楽しくもならない?」
「なるよ。一緒に話したり、帰ったりしてると、この時間がずっと続いてほしいなって思うし、一人でいるときに玲のことを考えたら、幸せな気持ちになる。で、でも、玲が……」
「玲が?」
言葉に詰まった末に、夏芽は抱えていた思いを吐き出す。
「玲が、他の女の子と話しているのを見たことを思い出したら、嫌な気持ちになるの。その子のこと、なにも知らないのに嫌いになるの。それで、そんなこと考えちゃう自分のことが、もっと嫌いになるの」
そう。これが、私の望んだ和久井夏芽の姿。世間擦れしていない、誰の手垢もついていない、類い稀なる澄んだ感性を持った、十七歳の女の子。そんな夏芽に、私は別れを告げる。
「なにも間違ってない」
と私は言った。
「夏芽は今、間違いなく玲に恋してるんだよ」
さよなら、私の夏芽。さよなら、私の夢。
夏芽は、太陽みたいだ。大輪の向日葵みたいだ。きらきら輝くエネルギーみたいだ。
夏芽には、悪意も打算も虚栄心もない。夏芽の机の周りには、いつも誰かがいる。夏芽が笑うとみんなが微笑み、夏芽が泣くとみんなが慌てる。夏芽は基本的にいつも正しい。夏芽とそりが合わないということは、すなわち感性が歪んでいるということだ。
そんなふうに、世界を愛し、世界に愛されている夏芽を変える必要が、どこにある?
何度も、呆れるほど何度も自分に問いかけてきた。散々迷い、考えてきた。けれど、夏芽は夏芽のままで構わないと心から納得できたことは一度だって、一瞬だってなかった。精神の成長、思考の成長、感性の成長。そのすべてを、私は押し留めてしまっていた。幼さを愛くるしさと捉えてもらえなくなる時は、きっともう、すぐそこまで来てしまっている。
あの日、喫茶店で樋渡綾と向かい合ったとき、私は自分が彼女と同じ種類の人間だと感じた。けれど、そんなはずがなかった。私は、樋渡綾とは違う。聡一郎を理想という名の蝋で固めて、それを眺めて楽しんでいるだけの彼女と同じであるはずがない。
大切に造り上げた理想像を、私は崩してみせる。それがあの子のためだと、心からそう思っているから。
玲のことを意識していると自覚した夏芽は、まだ本調子ではない。内心と向き合うことに精一杯で、クラスメートとの会話もぎこちなく、授業にもあんまり集中できていないようだった。放課後になって、そんな彼女に「今日あんたんちに寄っていいかな」と声をかけたのは、伝えたいことがあったからというそれだけでなく、一人で帰らせることすら危なっかしく感じたからだ。
「私も、夏休みになったらバイト始めようと思うんだ」
並んで歩いていると、夏芽は笑顔でそう言った。無理に笑おうとしているのが丸わかりの、なんだか情けない感じの笑顔だった。
「うん」
と私は答えた。いいんじゃない、と。
「初めてのバイトってなにがおすすめかな」
「あんたがどんなバイトをしたいかによるんじゃない」
夏芽は難しい顔をして考える。わかりやすく眉間に皺を寄せているその様子を私は横目で眺める。
「テーマパークとか」
と夏芽はおずおずと例を挙げる。
「いいね」
えー、ほんと? とこのときばかりは素直に目を輝かせて、夏芽は浮かれたスキップを披露する。ふわりと浮かぶスカートの裾と、上下する胸元。白く細い手足と、陽射しに茶色く艶めく髪。あまりに見慣れた、和久井夏芽という存在。
玲も、こんなふうに夏芽のあちこちに目を奪われてしまうんだろうか。そしてそこには、本人にはとても晒せないようなどうしようもない欲求も含まれているんだろうか。そういったところを、私はあいつに訊ねてみたいと思っている。冷やかしや興味本位などではなく、わりと真面目に。
夏芽の家にはおじいちゃんもおばあちゃんもいなかった。これから話すことを考えたら、二人が家を空けていてくれてよかったかもしれない。
私を先に部屋に通してから二人分の麦茶を持って戻ってきた夏芽は、やってみたいバイトの話をまだしている。
「ゲームセンターも楽しそうだなって、最近思うんだ」
「ゲーセン? なんかガラ悪い客多そうじゃない」
「駅ビルの中にあるゲームセンターだったら、小さい子向けのゲームも多くて、あんまり不良っぽい人はいないって、玲が言ってたよ」
その名前を口にしたのは、きっと無意識のことだったんだろう。まるで禁句を口にしてしまったかのように夏芽は口を動かすのをやめてしまった。浮かべていた笑顔が緩やかにしぼみ、こちらの反応を伺うように遠慮がちな視線を寄越す。本当に、取り繕うということがいつまでも上手くできないのは、この子にかかれば一種の美徳だと思う。
「ふうん」
と私は適当に相槌を打った。
「れ、玲も一緒にバイトしようよって誘ってるんだけど、あんまり乗り気じゃないっぽいんだよね。塾が忙しいから、って言うんだけど」
このとき、私はぼんやりと思った。この二人は、お互いの間に築かれた関係性を崩せないんだろうな、と。さらに言うと、夏芽の方はきっと、崩すという選択肢があることそのものをうまく認識できていない。だから今こうして、ずっとまっすぐ続いてきた道が急に枝分かれしたことに戸惑ってしまっているんだろう。
「夏芽」
私が道を教えてあげる。これまでずっとそうしてきたように、手を引いて案内してあげる。それだけの、ことじゃないか。
「ん?」
「あんた、玲のこと好きでしょ」
こういった、核心に迫る直接的な質問はもっと慎重に、タイミングを見計らって口にされるべきだと、私は漠然と考えていた。けれど、玲にも言って聞かせたように、これこそ紛れもない確認行為なのだ。心の準備だとか、シチュエーションだとか、そんな情緒的な要素は必要ない。
夏芽は、絶句したまま固まっていた。次第に頬が赤くなり、その赤みは顔全体に浸透するように広がった。あまりにもわかりやすい反応だ。けれど、夏芽がそのようにわかりやすい反応を示してしまったことが、やっぱりそれなりにショックだ。
「ん……」
俯きながら、肯定とも否定ともつかない呟きを夏芽は漏らす。それは愛らしく、微笑ましい光景だ。けれど、私は胸がざわつく。裏切られたような気持ちになってしまうのを、止められない。
「なんでもっと早く教えてくれなかったの」
わかりきったことを、私は訊いてしまう。
「だって、わかんないんだもん」
「わかんないって?」
「私にも、わかんないの。玲のこと、いい子だって思うのに、それなのに、なんだか、まっすぐ見れなくなっちゃったの」
あともう少しで涙が溢れる。そう思った。けれど、夏芽は泣くことを我慢していた。私の前で、涙を流すまいと闘っていた。
「それ、玲に恋してるってことじゃない」
「違うよ。こんなの、恋じゃないよ」
そんなふうにいじらしく否定されたら、抱きしめたくなってしまう。無防備にさらされているハートを包んであげたくて。そして私のハートも、きりきりと音を立てて締め上げられていく。馬鹿か、私は。
「どうして?」
くだらない考えを振り払いながら、私はわかりきったことを訊ねた。
「だって、恋って、もっと幸せなものでしょ? 嬉しくて、楽しくて、元気になるようなものでしょ? だったら、こんなの、恋じゃないよ」
ああ、この子は、本当に私の理想通りに育ってくれたんだな。場違いだということは百も承知だけれど、私はそんな感慨を覚えざるを得なかった。
「じゃあ、あんたは玲と一緒にいても、嬉しくも楽しくもならない?」
「なるよ。一緒に話したり、帰ったりしてると、この時間がずっと続いてほしいなって思うし、一人でいるときに玲のことを考えたら、幸せな気持ちになる。で、でも、玲が……」
「玲が?」
言葉に詰まった末に、夏芽は抱えていた思いを吐き出す。
「玲が、他の女の子と話しているのを見たことを思い出したら、嫌な気持ちになるの。その子のこと、なにも知らないのに嫌いになるの。それで、そんなこと考えちゃう自分のことが、もっと嫌いになるの」
そう。これが、私の望んだ和久井夏芽の姿。世間擦れしていない、誰の手垢もついていない、類い稀なる澄んだ感性を持った、十七歳の女の子。そんな夏芽に、私は別れを告げる。
「なにも間違ってない」
と私は言った。
「夏芽は今、間違いなく玲に恋してるんだよ」
さよなら、私の夏芽。さよなら、私の夢。