罅割れた鏡
ー/ー 翌日、聡一郎と会ったときに玲のことを話した。
「そうか、小瀬は玲と初対面だったのか」
「うん。いつの間にか樋渡先輩の弟と仲良くなってて、ちょっとびっくりした」
「去年の秋に綾の家でバーベキューをしたときに知り合ったんじゃないか。ちょうど玲が受験だったから、色々相談に乗ってもらっていたみたいだ」
「ふうん」
そんなこと、夏芽からは一言も聞いていなかった。いや、もしかしたら私が聞き流していただけなのかもしれないけれど、どちらにしろ、やっと樋渡綾が去ったと思えば入れ違いにその弟が入ってくるなんて笑えない展開だ。
夏芽や聡一郎には気取られている様子はないけれど、自分がいかに樋渡綾を苦手にしていたのか、そのことを改めて思い知る。
これまで関わってきた中で、樋渡先輩は私に対して一度たりとも穏やかな態度を崩さなかった。避ける理由を訊ねられても、「なんかあの感じが嫌だから」としか答えられない。本能的に拒否してしまっているのだ。
私はため息をついて、ベッドに仰向けに寝転んだ。デスクチェアに座った聡一郎が、こちらを遠慮がちに見ているのがわかる。
私は今、聡一郎の部屋にいる。両親が共働きで日中は誰もいない彼の家に来るのはこれが二度目のことだった。
「ね、玲ってどんな子なの」
聡一郎が考える仕草を見せる。その理知的な横顔が、私は好きだ。
「大人しいやつだよ。昔はよく遊んだけど、あんまり感情的になっているところを見たことがないな」
聡一郎が玲と――あと、おそらく樋渡綾と――遊んでいる光景というのは、なんだか想像しづらい。特に樋渡綾の幼少期なんて、まったくイメージが浮かばない。
「ふうん」
「昔から、綾は玲のことを可愛がっていたよ」
「ブラコンってこと?」
「……まあ、そうなるのかもしれない」
複雑そうに眉根を寄せながら、聡一郎は認める。樋渡綾に関する不気味な情報が、また一つ増えてしまった。
「ね、週末なんだけど、大学の用事とかないんなら、どこか遊びに行こうよ」
とりあえずあの姉弟のことは忘れて、聡一郎をデートに誘ってみる。「ああ」と彼は相槌を打つけれど、それは了承というより、私の提案をとりあえず一度受け入れて自分の中で吟味するかのような、事務的な相槌だった。
「デートらしいデート、付き合ってからまだできてないよね」
「ああ」
また、同じ意味合いの相槌が彼の口から漏れる。その口許に何の前触れもなくキスをしようかとも考えたけれど、それに対する彼の反応を想像して、冷静になってしまう。
「そういえば今週、俺の友達が通う大学でちょっとした学園祭が開かれるんだ」
「学祭? この時期に?」
「まあ、厳密には学園祭というより外部にも解放された新入生歓迎会、といった感じだな。流石に有名人を招いたりはしないようだけど、出し物や模擬店には力が入っているらしい」
「面白そう。行きたい」
聡一郎は緩やかな笑みを見せた。そして、コーヒーを入れてくるよ、と部屋を出ようとする。私はベッドから起き上がって彼のそばに行き、キスをする。目を閉じて、少しかさついた薄い唇に、私のリップの薄桃色が残る様を想像する。そっと舌を伸ばして下唇を撫でると、それだけで彼の身体に力が入るのがわかった。顔を離し、側にあった照明のスイッチを切って、それから手を取って二人してベッドに倒れ込む。我ながら、嫌になる程の手際の良さだ。僅かに開いたカーテンから差し込む西陽の隙間でキラキラと埃が舞っていて、その光景が、かつて誰かの部屋ですごした記憶を曖昧に呼び起こす。
横たわったまま、私は聡一郎を見つめる。数ミリだけずれた眼鏡の奥の瞳は、私の顔をまっすぐ捉えてはくれない。互いの吐息が降りかかるだけの距離なのに、彼の存在をひどく遠くに感じてしまう。
「すまない」
聡一郎が謝った。ようやく目が合ったかと思うと、そこには罪悪感に重く湿った双眸があって、その中に映し出されている自分の姿がひどく情けない。
「んーん」
と私は努めてなんでもないことのように首を振る。けれど、内心では羞恥や空虚な失望が小さな棘を作っていて、唇が震えそうになってしまう。
「多分、余計なことを考えすぎているんだろうな」
と聡一郎は言った。少しだけ怒っているような声だった。彼が身体を起こすと、スプリングが音を立ててマットレスが膨らむ感覚が横たわった身体に伝わってくる。
「無理しなくていいよ」
と私は優しく言った。優しく言えたと思う。聡一郎は「ああ」と頷いて、部屋から出ていってしまった。私の言葉が、彼の中に染み入らずにシャットアウトされてしまったのをはっきりと感じる。
卒業式の夜にホテルでセックスをして以来、私たちは一度も交わっていない。
聡一郎は、そのときが初めてだった。私はなんとなくそうだろうな、と予測を立てていたので特に驚きもなかったけれど、彼は自分が未経験であったことを恥じているようだった。最後まで終えてベッドに並んで横たわっていると、「これからも、小瀬の期待には応えられないかもしれない」とか細い声で言った。眼鏡を外して顔を晒したことで、そのときの彼は普段より脆く幼い印象を受けた。
「そうか、小瀬は玲と初対面だったのか」
「うん。いつの間にか樋渡先輩の弟と仲良くなってて、ちょっとびっくりした」
「去年の秋に綾の家でバーベキューをしたときに知り合ったんじゃないか。ちょうど玲が受験だったから、色々相談に乗ってもらっていたみたいだ」
「ふうん」
そんなこと、夏芽からは一言も聞いていなかった。いや、もしかしたら私が聞き流していただけなのかもしれないけれど、どちらにしろ、やっと樋渡綾が去ったと思えば入れ違いにその弟が入ってくるなんて笑えない展開だ。
夏芽や聡一郎には気取られている様子はないけれど、自分がいかに樋渡綾を苦手にしていたのか、そのことを改めて思い知る。
これまで関わってきた中で、樋渡先輩は私に対して一度たりとも穏やかな態度を崩さなかった。避ける理由を訊ねられても、「なんかあの感じが嫌だから」としか答えられない。本能的に拒否してしまっているのだ。
私はため息をついて、ベッドに仰向けに寝転んだ。デスクチェアに座った聡一郎が、こちらを遠慮がちに見ているのがわかる。
私は今、聡一郎の部屋にいる。両親が共働きで日中は誰もいない彼の家に来るのはこれが二度目のことだった。
「ね、玲ってどんな子なの」
聡一郎が考える仕草を見せる。その理知的な横顔が、私は好きだ。
「大人しいやつだよ。昔はよく遊んだけど、あんまり感情的になっているところを見たことがないな」
聡一郎が玲と――あと、おそらく樋渡綾と――遊んでいる光景というのは、なんだか想像しづらい。特に樋渡綾の幼少期なんて、まったくイメージが浮かばない。
「ふうん」
「昔から、綾は玲のことを可愛がっていたよ」
「ブラコンってこと?」
「……まあ、そうなるのかもしれない」
複雑そうに眉根を寄せながら、聡一郎は認める。樋渡綾に関する不気味な情報が、また一つ増えてしまった。
「ね、週末なんだけど、大学の用事とかないんなら、どこか遊びに行こうよ」
とりあえずあの姉弟のことは忘れて、聡一郎をデートに誘ってみる。「ああ」と彼は相槌を打つけれど、それは了承というより、私の提案をとりあえず一度受け入れて自分の中で吟味するかのような、事務的な相槌だった。
「デートらしいデート、付き合ってからまだできてないよね」
「ああ」
また、同じ意味合いの相槌が彼の口から漏れる。その口許に何の前触れもなくキスをしようかとも考えたけれど、それに対する彼の反応を想像して、冷静になってしまう。
「そういえば今週、俺の友達が通う大学でちょっとした学園祭が開かれるんだ」
「学祭? この時期に?」
「まあ、厳密には学園祭というより外部にも解放された新入生歓迎会、といった感じだな。流石に有名人を招いたりはしないようだけど、出し物や模擬店には力が入っているらしい」
「面白そう。行きたい」
聡一郎は緩やかな笑みを見せた。そして、コーヒーを入れてくるよ、と部屋を出ようとする。私はベッドから起き上がって彼のそばに行き、キスをする。目を閉じて、少しかさついた薄い唇に、私のリップの薄桃色が残る様を想像する。そっと舌を伸ばして下唇を撫でると、それだけで彼の身体に力が入るのがわかった。顔を離し、側にあった照明のスイッチを切って、それから手を取って二人してベッドに倒れ込む。我ながら、嫌になる程の手際の良さだ。僅かに開いたカーテンから差し込む西陽の隙間でキラキラと埃が舞っていて、その光景が、かつて誰かの部屋ですごした記憶を曖昧に呼び起こす。
横たわったまま、私は聡一郎を見つめる。数ミリだけずれた眼鏡の奥の瞳は、私の顔をまっすぐ捉えてはくれない。互いの吐息が降りかかるだけの距離なのに、彼の存在をひどく遠くに感じてしまう。
「すまない」
聡一郎が謝った。ようやく目が合ったかと思うと、そこには罪悪感に重く湿った双眸があって、その中に映し出されている自分の姿がひどく情けない。
「んーん」
と私は努めてなんでもないことのように首を振る。けれど、内心では羞恥や空虚な失望が小さな棘を作っていて、唇が震えそうになってしまう。
「多分、余計なことを考えすぎているんだろうな」
と聡一郎は言った。少しだけ怒っているような声だった。彼が身体を起こすと、スプリングが音を立ててマットレスが膨らむ感覚が横たわった身体に伝わってくる。
「無理しなくていいよ」
と私は優しく言った。優しく言えたと思う。聡一郎は「ああ」と頷いて、部屋から出ていってしまった。私の言葉が、彼の中に染み入らずにシャットアウトされてしまったのをはっきりと感じる。
卒業式の夜にホテルでセックスをして以来、私たちは一度も交わっていない。
聡一郎は、そのときが初めてだった。私はなんとなくそうだろうな、と予測を立てていたので特に驚きもなかったけれど、彼は自分が未経験であったことを恥じているようだった。最後まで終えてベッドに並んで横たわっていると、「これからも、小瀬の期待には応えられないかもしれない」とか細い声で言った。眼鏡を外して顔を晒したことで、そのときの彼は普段より脆く幼い印象を受けた。
みんなのリアクション
まだリアクションはありません。最初の一歩を踏み出しましょう!
おすすめ作品を読み込み中です…
作者の他の作品
この作者の他作品はありません。
この作品と似た作品
似た傾向の作品は見つかりませんでした。
この作品を読んだ人が読んでいる作品
読者の傾向からおすすめできる作品がありませんでした。
おすすめ作品は現在準備中です。
おすすめ作品の取得に失敗しました。時間をおいて再度お試しください。