私がほとんど一方的に誘ったあの夜を境に、聡一郎は性という概念そのものに対して卑屈っぽい感情を抱いているような気がする。卑屈という表現が適切ではないのだとしたら、萎縮してしまっていると言っていいかもしれない。経験の差なんて承知の上だったはずなのに、と思うけれど、私がラブホテルの利用歴を隠していたことが、きっと彼の想定というか、許容できる範囲を超えていて、いわば後出しジャンケン的にその事実を伝えられたことに対してダメージを受けているのだろう、と私は分析している。多分、この分析はそれなりに的を射ているんじゃないだろうか。
本来であればそのあたりのことって、推察したりするんじゃなくて直接訊ねてみないとはっきりしないし、これから続く恋人同士という関係を良好なものとするのなら、確かめて、向き合って、話し合って、解決していくべきなんだろう。わかっているけれど、実際に行動に移すことを想像すると、ひどく億劫な気分になってしまう。
この三週間あまり、聡一郎とは何度かデートをした。そのときの様子は付き合う前と変わらない。落ちついていて、気遣いができて、分かりやすく論理的な話をする。けれど、深いキスをしたり、ボディタッチを試みたりすると、まるで特別なスイッチが入ったかのように身体を強張らせ、最後にはそっと私を引き剥がす。そして決まって「すまない」と謝る。
だから、今の聡一郎との間に
もう一度の空気は生まれない。私たちは噛み合わず、食い違っている。
付き合い始めて三週間と少し。早くも私は、自分の選択を後悔し始めている。
金曜日の昼休みは、夏芽と璃李依の三人で昼食を食べようということになっていた。一年のときは何度かこの組み合わせで昼休みを過ごしていたけれど、二年に進級してからは初めてだった。クラスが離れた璃李依は夏芽を「なっつん久しぶりっ」と抱きしめて、夏芽はリラックスした表情でにこにこ笑う。こうやって一方的に抱きしめられるのには慣れているのだ。
私たちが購買の列の最後尾に入って程なく、男子の二人組が後ろに並んだ。するとすぐに夏芽が「玲!」と弾んだ声を上げた。
「……っす」
挨拶だかなんだかわからない返事を口にして、玲は頭を軽く下げる。横にいた背が低い小太りの男子も釣られて会釈をする。「うす」と璃李依が親しみと揶揄が半々くらいの笑顔で応じる。
「偶然だね。いつもここでなにか頼んでるの?」
と夏芽はにこにこ笑いながら言った。せっかくの笑顔も玲のような陰キャにとってはちょっと眩しすぎるみたいで、俯いたままの顔は一向にあげられる気配がない。
「いえ、今日はたまたま」
「そっか。私も普段はお弁当なんだ」
「そ、そうなんですね」
「隣の子は友達? 初めまして、二年の和久井夏芽ですっ」
「あ、オオタです」
オオタ君、と夏芽が復唱すると、それだけでオオタ君は少し顔を赤くする。
「玲、友達できたんだね」
「は、はい、なんとか」
玲の前髪の隙間から、左目だけが朧げに覗く。夏芽の上履きのあたりを見つめながらどうにか会話をしているその姿がなんとなく癇に障ってしまうのは、聡一郎がいざというときになって醸し出す卑屈さと似たものを感じるからだろうか。
列が進み、それぞれの昼食を注文して、ブレザーを置いてとっておいた四人がけのテーブルに座ると、璃李依が待ちきれないといった様子で「なっつん」と口を開く。
「さっきの子、一年だよね? 仲良いの?」
「うん。玲とはよく喋るよ」
「え、もしかして付き合ったりしてる感じ?」
「違うよー」
健康的に笑いながら夏芽はあっさりと否定し、「なんだあ」と璃李依が残念がる。
何度も目にしてきた、天使のような笑み。その笑みが爛れていく様を、なぜだかこのときはリアルに想像することができた。
春のうららの、満員御礼の学生食堂の中で、私は一人身震いを抑えるのに必死だった。
土曜日、私と聡一郎は地元の私立大学のキャンパスで開かれている新入生歓迎会に顔を出した。たしかに聡一郎の言っていた通り、規模としてはいわゆる大学の学園祭と比べてもなんら遜色ないものだった。なぜかテーマがオーストラリアになっていて、本格的なミートパイを出すお店があったり、ディジュリドゥという民族楽器を吹かせてもらったりと、想像以上に楽しめる内容だった。博識な聡一郎はオーストラリアに関する情報を色々と聞かせてくれた。
私は笑ったし、聡一郎も笑顔だった。周囲は活気に溢れていて、春の日差しは穏やかで、なんの申し分もないデートだと思った。
「小瀬」
お笑いサークルによるライブがあるという講堂に向かっていると、スマホを手にした聡一郎が申し訳なさそうに私を呼ぶ。どうやら彼の友達から、今なら時間を作れるから一目会いたいと連絡があったらしい。
「すまないが、ちょっとだけ顔を出していいか?」
「いいよ。そこの芝生広場で待ってるね」
「ライブはいいのか」
「うん。聡一郎と一緒に見たかったから」
そう言うと、聡一郎は困ったように笑った。彼がまっすぐな言辞を正面切って受け止めてくれないのは以前からのことなのに、今の私はその反応が不満だ。
私は手を振って聡一郎を送り出す。そして、なだらかな斜面に広がる眩しいほどの緑色をした芝生に腰を下ろす。散水されてからまだあまり時間が経っていないのか、こんなに晴れているのに、芝生の根っこの方は冷たく僅かに湿っている。