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出題編1-1

ー/ー



「うわぁ~すご~い」
 白衣をまとった女性の開いたドアの先には、まるでヨーロッパの宮殿にワープしてしまったのかと錯覚するほどに荘厳な光景が広がっていた。二階までの吹き抜けに吊るされたシャンデリアに、床一面に広がる赤を基調としたカーペット。
 内装だけを見れば、ここが日本でも最先端の研究所に併設されている施設だとは、誰も信じないだろう。こんなにお洒落な場所に来るとわかっていれば、もう少し行きの服装を選んだのに、と思いながら自分の体を見る。
 どこのブランドかもわからないスポーツウェアに、虫刺されを防ぐための黒いインナー。薄い色のデニムを履いて、高校時代の修学旅行で使用して以来、押し入れに眠っていた青色のリュックを背負っている。そのリュックはどこかかび臭い。髪の毛はこれから暑くなるからと先週末にばっさりと切ってもらい、短くして後ろでまとめたおかげで清潔感はかろうじて保たれているはずだ。
「お気に召していただけましたか?」
 彼女は歩くスピードを少し緩めて、私にそう聞いてきた。そのハイヒールが敷かれたカーペットに沈むタイミングも一定で、歩く姿勢もとても上品だ。私がゆっくりと内観を眺めることができるように配慮してくれたのだろう。私は存分に、この空気と光景を堪能する。
「それはもちろん。まるでお姫様にでもなったみたいです」
 こんな場所に寝泊まりしながらの研究ならば、やる気も出るだろう。もはや白とは言えないほどに日焼けした壁に囲まれた、シミと汚れが支配する大学の研究室よりはよっぽど。
「実はここのデザインを希望したのは、私なんですよ」
 彼女はシャンデリアに視線を向けながらそう言った。
「正確に言えば洋風の造りにするか和風の造りにするかを決めただけなんですけどね。この研究所が作られる前に、火野博士から『居住スペースは洋風がいい? それとも和風がいい?』と聞かれたから、洋風と答えました。まさか、新しい研究所に付属する居住スペースについてだとは、思いもしませんでしたけど」
 そう言って彼女は笑う。この時に見せた笑顔が、彼女の持つ本来の笑顔だ。きっと、その時のことを思い出して笑顔になれるほど幸せな記憶なのだろうと思った。

「足元にお気をつけください。客室は全て二階にございますので」
 私は彼女の先導に従って階段を上がっていく。一段ごとの合間が広く、足を揃えても十分に余裕がある。階段の途中でドアの方を振り返ると、ドアの上にある窓から降り注ぐ光が、カーペットを照らす荘厳な景色が広がっていた。
「素敵……」
 私は少しの間、言葉を失っていた。あまりの美しさに思わず溜息が出る。その時だった、ちょうど私の背後から案内をしてくれている彼女のものとは別の足音が聞こえてきた。おそらく、誰か他の客人が降りてきたのだろう。私は振り返って挨拶をするべきタイミングを考えていると、その男性から声をかけられた。
 男性は立派な髭をたくわえ、丸い眼鏡。その奥にある青い目は、彼が外国人あるいはハーフであることを証明するのに充分だった。
「これは、美しい女性が二人も。よくこの景観に似合いますね。ぜひ、お茶をご一緒したい」
 男性はその膝を床に着け、頭を下げたままこちらへと向かって手の平を差し出してきた。なんともこの場所によく似合った誘い方ではあったが、当然だがドラマでしかそんな行動は見たことがない。だから私は思わず笑ってしまった。
「お誘いいただき嬉しい気持ちはやまやまですが、ごめんなさい。私はこちらの方を部屋へと案内しなければいけないんです」
 私が何も言わずにくすくすと笑っていると、代わりに先導していた彼女がその男性の誘いを丁重に断ってくれた。私も、美しいと言われたことは嬉しかったが、こんな汗だくの状態で優雅にお茶を楽しむことなどできない。少し頭を下げて、彼女に続いてその場を立ち去ろうと階段に足をかける。すると、その背中に男性は再び声をかけてきた。
「なら、名刺を渡しておきます。気が向いたら声をかけてください」
 そう言って彼は白衣のポケットから名刺入れを取り出す。私も礼儀として名刺を渡そうとするが、名刺入れはリュックの底に眠っている。ここで荷物をひっくり返すのは面倒だ。どうしようか悩んでいると。
「名刺は今度、お茶をしたときにいただきますよ」
 彼は私に向かって、一枚の名刺を差し出してきた。
 そして、私がそれを受け取るのと同時に、
「では、よい時間をお過ごしください」
 去り際にその言葉を残して階下へと消えて行った。私はそれをただ、笑顔で見送るだけだった。
 もらった名刺には、国立蛍雪大学所属 ラファエル・ムーシェと印刷されていた。
「ラファエル・ムーシェって、これはすごい方が来られるんですね」
 彼は、ドイツから来た優秀な研究者で、日本において最も権威の高い研究者の一人だ。彼の講義を受けるために、彼の在籍する大学進学を希望する学生は少なくないとと聞いたことはある。私とは研究分野が若干だが違うので顔までは覚えていなかったけれども、日本の科学者で名前を知らない者はいないほどの有名人。まさか、こんな場所で出会えるとは。
「私もあれほどの方が来てくださるとは思いませんでした。うちの火野は思ったよりも化学界で顔が広いみたいです。さあ、お茶をするにしてもまずは部屋へと参りましょう」
 階段の中腹で立ち止まっていた彼女が動き出すのを見て、私ももらった名刺をとりあえずポケットにしまい、少し遅れて彼女のあとを追いかけた。彼女の履いた靴が地面に触れるタイミングが、ちょうどロビーにつけられた時計が動くたびになる音と重なっていた。
 少し歩くと、金属製のドアに『渡橋様』と書かれた看板が付いているドアの前で彼女は立ち止まった。私は慣れない対応になんだか恥ずかしくなってしまう。
しかし、彼女はそんな私を気にすることはなく、白衣の胸ポケットからカギを取り出して鍵穴へと差し込む。カチャリと音が鳴って、ドアが内側へと開いた。
 部屋にはドアが一つあり、その奥には大きなベッドが設置されている。部屋の外の雰囲気に違わず、洋風でおしゃれな装いをしていた。幼いころに憧れた絵本の中にあるお嬢様のお屋敷は、こんな風だったかもしれない。
「こちらが渡橋様のお部屋になります。部屋を入って右側にあるドアが浴室とトイレにつながっております。冷蔵庫の中にあるものは、わざわざこのようなところまで足を運んでくださったせめてものお礼として準備させていただきました。ご自由にお召しあがりください」 
 そう言って、彼女は部屋を後にしようと、後ろに下がる。
「あ、あの……」
 私は、そんな彼女を呼び止めた。彼女は後ろに下げた右足を再びもとに戻し、直立になおす。ハイヒールがぶつかる音が、カーペットに吸い込まれていった。口調は不思議そうにしているけれども、表情は歪ませていない。
「なんでしょうか?」
「お名前を教えていただけませんか?」
 私はリュックを床に置いて、手探りで名刺入れを探すために、なんとか着替えや荷物の間に手を滑り込ませる。名刺入れの感触に気づいて顔をあげると、微笑んでいた彼女がいた。
「申し遅れました。私は副島和葉。火野響介の下で研究をしております」
 そう言って差し出された名刺には、火野研究所副所長 副島和葉と書かれていた。シンプルで機能的なデザインが、彼女の洗練された雰囲気によく似合っていた。
「わたしは渡橋銀杏です。お願いします」
 私も名刺を出そうと、手をリュックから引っ張りだしたが、そのときに詰まっている荷物が押し合いになり、名刺入れを取り出せたのはいいが、床に下着やメモ帳が散乱してしまった。慌ててそれらを拾う私を見かねて、副島さんも手伝ってくれた。
「ありがとうございます。あと、名刺」
 最後に拾ってもらったメモ帳を受け取り、それと取り換えるように名刺を渡そうとしたが、彼女はいつの間に手に入れたのかわからない私の名刺を、眼前に掲げて見せた。
「メモ帳の合間に一つ挟まれてあったので、これをいただいておきますね。あと、何か御用があれば枕元にある黒電話でご連絡をください。黒電話の隣に部屋番号とそれに対応した電話番号を書いた紙もありますので」
 そう言って彼女は微笑むと、部屋から去っていった。
 副島さんの言った通り、枕元には懐かしい家庭用電話のようなものがあり、その隣には電話帳代わりの紙が、エアコンの風で飛ばないようにテレビのリモコンを載せて置かれている。とにかく、急に無音になったのがなんだか不安になって私はテレビの電源を入れた。時間帯が悪く、おもしろい番組は放送していなかったが、ひと昔前に流行った芸人のテレビショッピングで充分だった。どうやら、今日は新発売の包丁を紹介しているらしい。それを背景音にして、ベッドの隣にある椅子に腰をかけてぼんやりと上を向いた。
 名刺を頬の付近にかけて、蠱惑的に微笑む彼女の表情が白い天井にぼんやりと浮かんだ。それが、当分の間は忘れられなかった。
「とりあえず、お風呂に入るか」
 脈絡のない独り言も、誰も気に留めない。
 私は、荷物の整理は後にして体にべったりと貼りついた汗を流すことにした。べとべとしたままの手で、あまりメモ帳やノートに触れたくないし、着替えを取り出さなくてもどうせ誰もいないんだから裸で出てくればいい。私はスリッパを玄関にある下駄箱から取り出し、それだけ持ってバスルームへとつながるドアを開く。
「うわぁ、きれい」
 ドアを開いた私は驚いた。 先には大きな鏡があり、その下には水垢一つも無い鏡、そして手洗いがピカピカに磨かれていた。向かって左側に浴室があり、浴室へのドア付近にはタオルをかけるパイプが三本ならんだ手すりが設置されている。そこにはボトルのシャンプー、リンス、ボディーソープが並んでいた。私はその三つを浴室において、そこへシャツ、アンダーウェア、下着を脱いだままぐちゃぐちゃに載せて置く。
「はぁ~生き返る」
 シャワーヘッドから飛び出すお湯が、体から汗を流してゆく。お湯に濡れた髪が体へと落ち、その上をさらに流れてゆく。湯を張るのは面倒だったのでシャワーのみにして、さっと手で体を洗うとすぐにあがった。シャンプーを置いてあった手すり、そのもう一つ上の段にあったホテルに置かれてあるような白く分厚いタオルで体をふいて、足にスリッパをひっかけてベッドへ戻る。空調がしっかりと作動しているので、裸だと少し寒いけれど、そのおかげで裸のままにその高級な布団をまとうとなんだか背徳感で気持ちがいい。少しだけそうしてから、リュックの中からきれいな下着、着替えを取り出して身にまとい、一息つくためにベッドに腰をおろす。
「そうだ、冷蔵庫」
 教授へ無事に到着したことを連絡をしようと思ったけれども、先に私は副島さんの言葉を思い出した。せめてものお礼と言っていたが、ここまで綺麗な部屋と設備を見せられれば、期待せざるを得ない。意気揚々と冷蔵庫の取っ手に手をかけてその扉を開くと、そこにはケーキやチョコレート、タルトなどがところせましと並んでおり、ドアポケットには様々なジュースに加えてビールも並んでいる。色とりどりの冷蔵庫に私は歓喜の声を抑えられなかった。
「うわぁ~最高!」
 さっそく、冷蔵庫からチョコレートと牛乳を取り出し、テーブルに置かれていたマグカップに注いで、携帯をいじりながら個包装されたチョコレートの包み紙を器用に片手で外し、次から次へと口に放り込んでいく。チョコレートはしっかりとカカオの入った高級品で、意識を携帯に向けていると左手は止まらなかった。携帯ですることがなくなる前に、チョコレートが一袋まるまる、胃袋の中に消えていた。気づいた時には、もう遅い。
「やば……また、太るかな」
 せっかく、ここに来るまでたくさん歩いて汗を流したから少しは痩せたかと思ったが、冷蔵庫の中身をすべて消費するころには意味がなくなっているだろう。幸せな気持ちから一転、むしむしとした憂鬱が押し寄せる。その憂鬱に押しつぶされるように体をベッドに倒すと、体が安心したのかだんだんと眠気が押し寄せてきた。
 そしてそのまま、私は眠りについたのだった。

「渡橋様、渡橋様。大丈夫ですか?」
 ドアの向こうから聞こえる声と、ドアを叩く音で私は目を覚ます。慌てて手元に落ちていた携帯電話の電源をいれると、時間はもう十八時を過ぎていた。普段なら、夕食の準備を始めているころだ。時計を見たところで、ようやくお腹がすいていることに気が付いた。私は慌てて体を起こし、とりあえずドアを開けに向かう。
「すみません、お待たせして」
 私が眠い目をこすりながらドアを開くと、そこには驚いた顔をした副島さんがいた。その手には、簡易的な黄緑色のタイマーが握られていた。
「起こしてしまいましたか? 申し訳ありません」
 彼女は、小さな声でそう言いながら頭を下げようとする。
「い、いえ。決してそんなことは」
 私は手を振って、それを否定した。その仕草がどうやらうまく伝わったみたいで、彼女の表情には少し明るさが戻った。
「それで、何かありましたか?」
 私が首をかしげると、副島さんは手を横に振って大事ではないことをアピールする。
「そろそろ夕食の時間ですので準備の時間が必要かと……」
 副島さんが最後を私に預けてくれた間に、脳のスイッチを入れる。
「それは気遣いありがとうございます。すぐに準備しますね」
「そうですか。それは良かったです」
 私の反応を見て、副島さんは完全に明るさを取り戻したようだった。私もそれを見てほっと胸をなでおろす。副島さんはどうやら少し人に気を使いすぎるタイプのようだ。私も、そういった部分があるから気持ちはわかる。お互いに、まだまだ緊張が抜けない。
「では、下でお待ちしております」
 そう言って、副島さんは階段を下りて行った。 私は、会話が終わってからすぐに下へ向かう準備をした。別にドレスコードなどはないだろうけど、パーティーに呼ばれているのだから最低限の服は用意してきたつもりだ。大学生にできる限りのドレスは用意したつもりだ。もちろん、その領収書の宛名も前島教授にしている。
 レーススリーブのドレス。我ながら可愛いチョイスだと思う。
 だが……
「あ、リュックから出しておくの忘れてた」
 ちゃんとしたドレスだったから、しっかりと畳んで持ってきたけどもリュックの中で様々な荷物にもまれているので、決していい状態ではなかった。本当なら、部屋についてすぐにハンガーにかけておくべきだったんだけど、それも忘れて冷蔵庫を漁った後にはすぐに眠ってしまった。そのことを、深く後悔する。
「ど、どうしよう。さすがにアイロンは部屋に置いてないよね……」
 寝室にはテレビと冷蔵庫。バスルームにはドライヤーがちゃんと置かれていた。だが、さすがにアイロンまでは置いているわけもなく、私は階下に行ってアイロンを副島さんに借りることになった。きっちりとアイロンをかけると、なんとか間に合った。副島さんが気を配って先に起こしてくれたおかげ。私は後で感謝を伝えようと思っていたが、それどころではないことが起こってしまう。その足音はすでに、私たちの後ろへぴったりとくっついていた。


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 白衣をまとった女性の開いたドアの先には、まるでヨーロッパの宮殿にワープしてしまったのかと錯覚するほどに荘厳な光景が広がっていた。二階までの吹き抜けに吊るされたシャンデリアに、床一面に広がる赤を基調としたカーペット。
 内装だけを見れば、ここが日本でも最先端の研究所に併設されている施設だとは、誰も信じないだろう。こんなにお洒落な場所に来るとわかっていれば、もう少し行きの服装を選んだのに、と思いながら自分の体を見る。
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「お気に召していただけましたか?」
 彼女は歩くスピードを少し緩めて、私にそう聞いてきた。そのハイヒールが敷かれたカーペットに沈むタイミングも一定で、歩く姿勢もとても上品だ。私がゆっくりと内観を眺めることができるように配慮してくれたのだろう。私は存分に、この空気と光景を堪能する。
「それはもちろん。まるでお姫様にでもなったみたいです」
 こんな場所に寝泊まりしながらの研究ならば、やる気も出るだろう。もはや白とは言えないほどに日焼けした壁に囲まれた、シミと汚れが支配する大学の研究室よりはよっぽど。
「実はここのデザインを希望したのは、私なんですよ」
 彼女はシャンデリアに視線を向けながらそう言った。
「正確に言えば洋風の造りにするか和風の造りにするかを決めただけなんですけどね。この研究所が作られる前に、火野博士から『居住スペースは洋風がいい? それとも和風がいい?』と聞かれたから、洋風と答えました。まさか、新しい研究所に付属する居住スペースについてだとは、思いもしませんでしたけど」
 そう言って彼女は笑う。この時に見せた笑顔が、彼女の持つ本来の笑顔だ。きっと、その時のことを思い出して笑顔になれるほど幸せな記憶なのだろうと思った。
「足元にお気をつけください。客室は全て二階にございますので」
 私は彼女の先導に従って階段を上がっていく。一段ごとの合間が広く、足を揃えても十分に余裕がある。階段の途中でドアの方を振り返ると、ドアの上にある窓から降り注ぐ光が、カーペットを照らす荘厳な景色が広がっていた。
「素敵……」
 私は少しの間、言葉を失っていた。あまりの美しさに思わず溜息が出る。その時だった、ちょうど私の背後から案内をしてくれている彼女のものとは別の足音が聞こえてきた。おそらく、誰か他の客人が降りてきたのだろう。私は振り返って挨拶をするべきタイミングを考えていると、その男性から声をかけられた。
 男性は立派な髭をたくわえ、丸い眼鏡。その奥にある青い目は、彼が外国人あるいはハーフであることを証明するのに充分だった。
「これは、美しい女性が二人も。よくこの景観に似合いますね。ぜひ、お茶をご一緒したい」
 男性はその膝を床に着け、頭を下げたままこちらへと向かって手の平を差し出してきた。なんともこの場所によく似合った誘い方ではあったが、当然だがドラマでしかそんな行動は見たことがない。だから私は思わず笑ってしまった。
「お誘いいただき嬉しい気持ちはやまやまですが、ごめんなさい。私はこちらの方を部屋へと案内しなければいけないんです」
 私が何も言わずにくすくすと笑っていると、代わりに先導していた彼女がその男性の誘いを丁重に断ってくれた。私も、美しいと言われたことは嬉しかったが、こんな汗だくの状態で優雅にお茶を楽しむことなどできない。少し頭を下げて、彼女に続いてその場を立ち去ろうと階段に足をかける。すると、その背中に男性は再び声をかけてきた。
「なら、名刺を渡しておきます。気が向いたら声をかけてください」
 そう言って彼は白衣のポケットから名刺入れを取り出す。私も礼儀として名刺を渡そうとするが、名刺入れはリュックの底に眠っている。ここで荷物をひっくり返すのは面倒だ。どうしようか悩んでいると。
「名刺は今度、お茶をしたときにいただきますよ」
 彼は私に向かって、一枚の名刺を差し出してきた。
 そして、私がそれを受け取るのと同時に、
「では、よい時間をお過ごしください」
 去り際にその言葉を残して階下へと消えて行った。私はそれをただ、笑顔で見送るだけだった。
 もらった名刺には、国立蛍雪大学所属 ラファエル・ムーシェと印刷されていた。
「ラファエル・ムーシェって、これはすごい方が来られるんですね」
 彼は、ドイツから来た優秀な研究者で、日本において最も権威の高い研究者の一人だ。彼の講義を受けるために、彼の在籍する大学進学を希望する学生は少なくないとと聞いたことはある。私とは研究分野が若干だが違うので顔までは覚えていなかったけれども、日本の科学者で名前を知らない者はいないほどの有名人。まさか、こんな場所で出会えるとは。
「私もあれほどの方が来てくださるとは思いませんでした。うちの火野は思ったよりも化学界で顔が広いみたいです。さあ、お茶をするにしてもまずは部屋へと参りましょう」
 階段の中腹で立ち止まっていた彼女が動き出すのを見て、私ももらった名刺をとりあえずポケットにしまい、少し遅れて彼女のあとを追いかけた。彼女の履いた靴が地面に触れるタイミングが、ちょうどロビーにつけられた時計が動くたびになる音と重なっていた。
 少し歩くと、金属製のドアに『渡橋様』と書かれた看板が付いているドアの前で彼女は立ち止まった。私は慣れない対応になんだか恥ずかしくなってしまう。
しかし、彼女はそんな私を気にすることはなく、白衣の胸ポケットからカギを取り出して鍵穴へと差し込む。カチャリと音が鳴って、ドアが内側へと開いた。
 部屋にはドアが一つあり、その奥には大きなベッドが設置されている。部屋の外の雰囲気に違わず、洋風でおしゃれな装いをしていた。幼いころに憧れた絵本の中にあるお嬢様のお屋敷は、こんな風だったかもしれない。
「こちらが渡橋様のお部屋になります。部屋を入って右側にあるドアが浴室とトイレにつながっております。冷蔵庫の中にあるものは、わざわざこのようなところまで足を運んでくださったせめてものお礼として準備させていただきました。ご自由にお召しあがりください」 
 そう言って、彼女は部屋を後にしようと、後ろに下がる。
「あ、あの……」
 私は、そんな彼女を呼び止めた。彼女は後ろに下げた右足を再びもとに戻し、直立になおす。ハイヒールがぶつかる音が、カーペットに吸い込まれていった。口調は不思議そうにしているけれども、表情は歪ませていない。
「なんでしょうか?」
「お名前を教えていただけませんか?」
 私はリュックを床に置いて、手探りで名刺入れを探すために、なんとか着替えや荷物の間に手を滑り込ませる。名刺入れの感触に気づいて顔をあげると、微笑んでいた彼女がいた。
「申し遅れました。私は副島和葉。火野響介の下で研究をしております」
 そう言って差し出された名刺には、火野研究所副所長 副島和葉と書かれていた。シンプルで機能的なデザインが、彼女の洗練された雰囲気によく似合っていた。
「わたしは渡橋銀杏です。お願いします」
 私も名刺を出そうと、手をリュックから引っ張りだしたが、そのときに詰まっている荷物が押し合いになり、名刺入れを取り出せたのはいいが、床に下着やメモ帳が散乱してしまった。慌ててそれらを拾う私を見かねて、副島さんも手伝ってくれた。
「ありがとうございます。あと、名刺」
 最後に拾ってもらったメモ帳を受け取り、それと取り換えるように名刺を渡そうとしたが、彼女はいつの間に手に入れたのかわからない私の名刺を、眼前に掲げて見せた。
「メモ帳の合間に一つ挟まれてあったので、これをいただいておきますね。あと、何か御用があれば枕元にある黒電話でご連絡をください。黒電話の隣に部屋番号とそれに対応した電話番号を書いた紙もありますので」
 そう言って彼女は微笑むと、部屋から去っていった。
 副島さんの言った通り、枕元には懐かしい家庭用電話のようなものがあり、その隣には電話帳代わりの紙が、エアコンの風で飛ばないようにテレビのリモコンを載せて置かれている。とにかく、急に無音になったのがなんだか不安になって私はテレビの電源を入れた。時間帯が悪く、おもしろい番組は放送していなかったが、ひと昔前に流行った芸人のテレビショッピングで充分だった。どうやら、今日は新発売の包丁を紹介しているらしい。それを背景音にして、ベッドの隣にある椅子に腰をかけてぼんやりと上を向いた。
 名刺を頬の付近にかけて、蠱惑的に微笑む彼女の表情が白い天井にぼんやりと浮かんだ。それが、当分の間は忘れられなかった。
「とりあえず、お風呂に入るか」
 脈絡のない独り言も、誰も気に留めない。
 私は、荷物の整理は後にして体にべったりと貼りついた汗を流すことにした。べとべとしたままの手で、あまりメモ帳やノートに触れたくないし、着替えを取り出さなくてもどうせ誰もいないんだから裸で出てくればいい。私はスリッパを玄関にある下駄箱から取り出し、それだけ持ってバスルームへとつながるドアを開く。
「うわぁ、きれい」
 ドアを開いた私は驚いた。 先には大きな鏡があり、その下には水垢一つも無い鏡、そして手洗いがピカピカに磨かれていた。向かって左側に浴室があり、浴室へのドア付近にはタオルをかけるパイプが三本ならんだ手すりが設置されている。そこにはボトルのシャンプー、リンス、ボディーソープが並んでいた。私はその三つを浴室において、そこへシャツ、アンダーウェア、下着を脱いだままぐちゃぐちゃに載せて置く。
「はぁ~生き返る」
 シャワーヘッドから飛び出すお湯が、体から汗を流してゆく。お湯に濡れた髪が体へと落ち、その上をさらに流れてゆく。湯を張るのは面倒だったのでシャワーのみにして、さっと手で体を洗うとすぐにあがった。シャンプーを置いてあった手すり、そのもう一つ上の段にあったホテルに置かれてあるような白く分厚いタオルで体をふいて、足にスリッパをひっかけてベッドへ戻る。空調がしっかりと作動しているので、裸だと少し寒いけれど、そのおかげで裸のままにその高級な布団をまとうとなんだか背徳感で気持ちがいい。少しだけそうしてから、リュックの中からきれいな下着、着替えを取り出して身にまとい、一息つくためにベッドに腰をおろす。
「そうだ、冷蔵庫」
 教授へ無事に到着したことを連絡をしようと思ったけれども、先に私は副島さんの言葉を思い出した。せめてものお礼と言っていたが、ここまで綺麗な部屋と設備を見せられれば、期待せざるを得ない。意気揚々と冷蔵庫の取っ手に手をかけてその扉を開くと、そこにはケーキやチョコレート、タルトなどがところせましと並んでおり、ドアポケットには様々なジュースに加えてビールも並んでいる。色とりどりの冷蔵庫に私は歓喜の声を抑えられなかった。
「うわぁ~最高!」
 さっそく、冷蔵庫からチョコレートと牛乳を取り出し、テーブルに置かれていたマグカップに注いで、携帯をいじりながら個包装されたチョコレートの包み紙を器用に片手で外し、次から次へと口に放り込んでいく。チョコレートはしっかりとカカオの入った高級品で、意識を携帯に向けていると左手は止まらなかった。携帯ですることがなくなる前に、チョコレートが一袋まるまる、胃袋の中に消えていた。気づいた時には、もう遅い。
「やば……また、太るかな」
 せっかく、ここに来るまでたくさん歩いて汗を流したから少しは痩せたかと思ったが、冷蔵庫の中身をすべて消費するころには意味がなくなっているだろう。幸せな気持ちから一転、むしむしとした憂鬱が押し寄せる。その憂鬱に押しつぶされるように体をベッドに倒すと、体が安心したのかだんだんと眠気が押し寄せてきた。
 そしてそのまま、私は眠りについたのだった。
「渡橋様、渡橋様。大丈夫ですか?」
 ドアの向こうから聞こえる声と、ドアを叩く音で私は目を覚ます。慌てて手元に落ちていた携帯電話の電源をいれると、時間はもう十八時を過ぎていた。普段なら、夕食の準備を始めているころだ。時計を見たところで、ようやくお腹がすいていることに気が付いた。私は慌てて体を起こし、とりあえずドアを開けに向かう。
「すみません、お待たせして」
 私が眠い目をこすりながらドアを開くと、そこには驚いた顔をした副島さんがいた。その手には、簡易的な黄緑色のタイマーが握られていた。
「起こしてしまいましたか? 申し訳ありません」
 彼女は、小さな声でそう言いながら頭を下げようとする。
「い、いえ。決してそんなことは」
 私は手を振って、それを否定した。その仕草がどうやらうまく伝わったみたいで、彼女の表情には少し明るさが戻った。
「それで、何かありましたか?」
 私が首をかしげると、副島さんは手を横に振って大事ではないことをアピールする。
「そろそろ夕食の時間ですので準備の時間が必要かと……」
 副島さんが最後を私に預けてくれた間に、脳のスイッチを入れる。
「それは気遣いありがとうございます。すぐに準備しますね」
「そうですか。それは良かったです」
 私の反応を見て、副島さんは完全に明るさを取り戻したようだった。私もそれを見てほっと胸をなでおろす。副島さんはどうやら少し人に気を使いすぎるタイプのようだ。私も、そういった部分があるから気持ちはわかる。お互いに、まだまだ緊張が抜けない。
「では、下でお待ちしております」
 そう言って、副島さんは階段を下りて行った。 私は、会話が終わってからすぐに下へ向かう準備をした。別にドレスコードなどはないだろうけど、パーティーに呼ばれているのだから最低限の服は用意してきたつもりだ。大学生にできる限りのドレスは用意したつもりだ。もちろん、その領収書の宛名も前島教授にしている。
 レーススリーブのドレス。我ながら可愛いチョイスだと思う。
 だが……
「あ、リュックから出しておくの忘れてた」
 ちゃんとしたドレスだったから、しっかりと畳んで持ってきたけどもリュックの中で様々な荷物にもまれているので、決していい状態ではなかった。本当なら、部屋についてすぐにハンガーにかけておくべきだったんだけど、それも忘れて冷蔵庫を漁った後にはすぐに眠ってしまった。そのことを、深く後悔する。
「ど、どうしよう。さすがにアイロンは部屋に置いてないよね……」
 寝室にはテレビと冷蔵庫。バスルームにはドライヤーがちゃんと置かれていた。だが、さすがにアイロンまでは置いているわけもなく、私は階下に行ってアイロンを副島さんに借りることになった。きっちりとアイロンをかけると、なんとか間に合った。副島さんが気を配って先に起こしてくれたおかげ。私は後で感謝を伝えようと思っていたが、それどころではないことが起こってしまう。その足音はすでに、私たちの後ろへぴったりとくっついていた。