出題編1-2
ー/ー「渡橋様、どうぞ。こちらですよ」
慌てて夕食の会場である食堂にやってきた私に、副島さんは手招きして席を知らせてくれる。赤いカーペットの敷かれた階段をドレスで駆け下りてくるなんて、話だけならシンデレラのようだ。今、私が身にまとっているのは黒いドレスだけれども。
すでに夕食の準備はあらかた終わっているようで、食堂にはいい匂いと薄く真っ白な煙が上がっていた。席はすべて円形のテーブルが間隔を並べて置かれており、その上にはシルクのテーブルクロスがかかっている。綺麗に磨かれた皿も、テーブルの中心に建てられた三本のろうそくも部屋の雰囲気に合っていてとてもお洒落だった。
「おやおや、これは先ほどのお嬢様ではありませんか」
そう声をかけてきたのは、同じテーブルに腰をおろしていたムーシェ博士だった。
「ど、どうも」
ムーシェ博士の少し距離が近い接し方に戸惑いながらも返事をする。
「では、少しお待ちくださいね。料理をすぐに準備をしてきますので」
私が挨拶を終えたことを確認すると、副島さんは去っていった。
「どうぞ、座ってください」
そう言ってくれたのは、ムーシェ博士の隣に座っている女性だった。彼女はしっかりと高そうなドレスを着ているし、それがよく似合っている。青くて上品なドレスは、胸元が開いているにも関わらず、決して下品な印象を受けることのない。きっと、彼女の立ち振る舞いが成せる技だった。
「初めまして、渡橋銀杏と言います」
そう言って、頭を下げて両手で名刺を渡す。せめて、服装などはどうしようもないとしても、礼儀や所作で失礼を働くわけにはいかない。ここにいる人物は、みな日本でも有数の研究者だ。下手をすれば、代理として送り出してくれた教授にも迷惑をかけてしまう。
「あら、これは丁寧にどうも。甲斐彩乃です、よろしく」
甲斐博士は立ち上がって、私の名刺を受け取ってくれた。ふとあたった指はすべすべで、柔らかい。彼女は私の名刺を眺めて少し考える。どうやら何かを思い出しているみたいだった。やがて、何かに引っかかったのか名刺から顔を上げて、こちらを見た。
「あら、元禄大学ってことは前島博士のところかしら」
「は、はいそうです。前島先生の下で日々、学ばせてもらっています」
「そんなに硬くならなくていいわよ。もっとリラックスしてちょうだい」
そう言って甲斐博士は口を手でかくして笑うけど、緊張するなというほうが無理だ。甲斐博士もムーシェ博士と同じく科学者のなかでは超がつくほどの有名人である。
様々な賞を得たほど優秀な頭脳と、その美貌で若いころは時の人と呼ばれるほどメディアに引っ張りだこだったのを幼心に覚えている。私も最初に化学の世界に対して興味を持ったのは、甲斐博士がテレビで科学実験をするバラエティー番組を見たことだったはずだ。
「前島先生はお元気かしら?」
「はい。相変わらず元気に四六時中研究ばかりしていますよ」
私は少し皮肉っぽく言った。
「その姿が容易に想像がつくわ。ところで、渡橋さんは前島博士の下で学んでいるということは、量子化学を学んでいるということかしら」
「はい、そうです」
私は、甲斐博士の質問に深く頷いた。
二人と同じく、私の教授である前島理玖は量子化学の分野で日本の先頭を走る人物だ。本来ならば私ではなく、前島博士が来るはずだったことを考えると、いかに火野博士の人脈が広く深いものであるかがよくわかる。よく、ここまでの人達を、こんな辺境まで招待できるものだ。
「まあ、素晴らしいわね。私も、前島教授の研究には興味があってね。もう一度、大学生からやりなおせるなら、ぜひとも受講してみたいくらいなの」
私と甲斐博士の間で話が盛り上がっていると、同じテーブルに腰掛けながら話に入れず、少しだけ居心地が悪そうにしていたムーシェ博士が入り込んできた。
「おお、他の分野にも興味を持つことは素晴らしいことです」
「お褒めいただきありがとう。ムーシェ博士」
笑顔で話しかけてきたムーシェ博士に微笑みながら返答をする甲斐博士。ムーシェ博士は、鼻の下を伸ばしてでれでれしていた。そう言えば、ムーシェ博士はかなりの女性好きで、特に日本人の女性が好きだという話を聞いたことがある。
「いやいや、こんなお美しい二人に囲まれて食事をすればより美味しくいただけるというものです」
「あ、あはは。いやいや、美しいだなんてありがとうございます」
謙遜するように私はそういった。いや、しっかりとドレスと化粧をした自分の見た目が悪いとは思わないけれども、副島さんに甲斐博士と並ぶとどうしても馬子にも衣裳というか、ちんちくりんに見えてしまう。
「あらあら、謙遜するなんてもったいない。このドレスもすごく似合っていて可愛いわ。しかも、このレースの隙間から見える肌。若いっていいわね。ねえ、ムーシェ博士?」
そういいながら、甲斐博士は私の肩を掴むように背後へと回る。レースの隙間から肩に触れた甲斐博士の指先、そこから発せられた温度を感じる。なんだか、少しこそばゆい。
「ええ、もちろんです。私がもう二十歳若ければアプローチをしていたのですが……」
ムーシェ博士がその言葉を明らかに甲斐博士に向けて、鼻の下を伸ばして言ったときだった。天井の角からマイクをコンコンと叩く音がした。スピーカーからくぐもった音が響いて、私は音のした方をむく。高価そうなスピーカーが部屋の四つ角にそれぞれ設置されており、これなら部屋の中にいれば、マイクを使って音が聞こえないことはないだろう。私たちは、話を中断して椅子に腰かけた。「皆さまお揃いのようですので、これから料理をお運びさせていただきます。お料理の後には我が火野研究所が誇る研究施設を紹介させていただきたいと思います。火野もそろそろ姿を見せると思いますので、それまでの間はしばしご歓談ください」
マイクに向かってそういったのは、副島さんと同じように白衣を身にまとった長身の青年だった。私よりも少し年上くらいだろうか。ここで働いているということはやはり彼も優秀なのだろう。
マイクを持って話す姿にも、どこか慣れを感じる。そんな彼に、部屋中から拍手が鳴り響く。私も慌てて握ったままにしていた名刺入れをポケットにしまい、拍手した。
そしてそれと同時に、副島さんによって香ばしい匂いともくもくとあがる煙を纏いながら、料理が運ばれてきた。色とりどりの料理は、私の食欲をそそる。昼間は移動に時間をとられて、山の麓にあるコンビニで買った安い鮭おにぎりと麦茶で済ませたから、個包装のチョコレートだけではおなかがすいていた。そのせいか私のお腹は鳴ってしまい、それを甲斐博士に聞かれてしまった。
「あらあら、かわいらしいこと」
私は恥ずかしい気持ちで顔がふくらんで破裂しそうだった。顔が熱くなったのを、グラスに七割ほど注がれた水を飲んで冷やす。
「す、すいません」
「気にすることはないわ。それだけこの料理が美味しそうに見えたってことよ。副島さん、渡橋さんはとても美味しそうだと言ってくれているわ」
甲斐博士は、ちょうど配膳ワゴンで料理を運んできた副島さんに、優しく声をかけた。その言葉に副島さんも微笑んで、
「そう言っていただけて嬉しいです。ぜひ、夕食を楽しんでください」
そういいながら本当に嬉しそうにしている。
「これは、どなたが調理したのかしら? どなたかシェフでもいらっしゃるの?」
その質問に、副島さんは少し照れくさそうに答えた。
「これは私がすべて調理したものです。シェフだなんて、ご冗談でも嬉しいです」
「ええっ! こんなにすごいものを一人で?」
私の口からは素直な驚きの言葉が出ていた。テーブルに並べられた料理は到底、一人で作ったとは思えないような内容だし、ましてやそれが調理師免許を持っているような女性ではない。礼儀が正しい、品が良い、美しい、頭が良いだけでなく、料理も得意だなんて私の自尊心はどこか遠くへ行ってしまいそうだ。
「そんな、料理は昔から好きでしたし。ここではいつも私が調理担当ですから」
副島さんがそれを、なんでもないことのように笑う。火野博士はかなりグルメで、毎日とはいかないまでもこのレベルの料理を求められるらしい。そんな環境にいれば否が応でも料理の腕は上達するだろう。カレーと炒飯くらいしか作れない私とは大違いだ。
「素晴らしい料理の数々、おいしくいただくわ」
「では、ワインを注がせていただきますね」甲斐博士とムーシェ博士は堂々としているけれども、私は恐縮しながら注いでもらった。
テーブルには、目の前に二つのグラスがあった。一つは、水が入ったもの。さっき、恥ずかしさのあまりに一気飲みをしたせいでもう三分ほどしか残っていない。空のワイングラスに、トクトクと上品な音を立てて赤黒い色の液体が注ぎ込まれた。とてもフルーティーな香りが、椅子に背中を付けたままでも届いてくる。
「うん、美味しそう。せっかくだから、副島さんも乾杯に参加して頂戴」
「お誘いは嬉しいのですが、料理の準備がまだありますので」
他にも二つのテーブルにそれぞれ三人ずつが席についている。すでにテーブルごとに飲み始めているようだ。少し大きな笑い声がこっちまで聞こえてくる。
「別にあんなおじさん連中は放っておいてもいいわよ。どうせお酒でお腹がいっぱいになるでしょ。それより、あなたたちもちゃんと食べてね。私からしっかりと火野博士には言っておくから。ほらほら、ついであげる」
甲斐博士がワゴンに乗っていた予備のワイングラスを手に取り、そこへとワインを注いだ。多少、強引な気もしたけれども副島さんも本気で困っているというわけではなさそうだ。
「じゃあ、一杯だけ」
「うんうん、一杯だけね」
ほどほどに注がれたワイングラスを副島さんが手にしたところで、全員が右手にグラスを抱えた。それを確認して、甲斐博士が乾杯の音頭を取る。
「では、この素晴らしいパーティーを準備してくれた火野研究所のみなさんに、乾杯」
ムーシェ博士も乾杯の音頭に合わせてグラスをぶつける。私もそっとグラスを差し出した。ぶつかったグラスが心地の良い音を立てて、中にある赤ワインが揺れている。
「ああ、このワインは非常に美味しいですね。渡橋さんもぜひ」
ムーシェ博士が先にワインを飲んで、それを私にも勧めてくる。
私も今から飲むところだったが、ムーシェ博士にいただきますと言って、ワインに口を付けた。
「すごく、フルーティーですね。美味しいです」
私は、初めて飲んだ高級なワインの味に驚いた。頻繁に実験もあるためバイトもできず、田舎の両親から仕送りのみで生活しているので、成人してからも高いワインなんて飲んだことはなかった。いつもぼろいアパートで友人たちと、安いワインと発泡酒で朝までだらだらとテレビでも見ながら将来への不安を忘れるまで語り明かす。その時に飲むものとはわけが違う。
「みなさんに喜んでいただけたようで。良かったです」
「あなたもお仕事を終えたらぜひ、デザートもご一緒したいわ」
「わかりました。ぜひ、寄らせていただきます」
甲斐博士の誘いに、副島さんは少し申し訳なさそうに断った。そして、慌ただしく部屋を出て行く。それほど、忙しいのだろう。私はそのあわただしい背中を見ながらも、気が付くと再びワイングラスに唇を添えていた。
「どうやら、かなりお気に召したようですね」
「はい。こんなに美味しいお酒を飲んだことは初めてなので」
「それは良かったです。若いうちに良いお酒の味を覚えておくことは幸せなことですからね。しかし、私もここまで美味しいものはなかなか飲んだことはありませんね。後で、何年に作られたワインか聞いておきましょう」
ムーシェ博士は嬉しそうだ。そのあとの話から、彼がかなりのワイン好きで、自宅にワインセラーを置くほどだということがわかった。どうりで、ワインについて話すときには少し自慢気な口調だった。聞いたところ、このワインは私と同い年の生まれだということも教えてくれた。
ムーシェ博士と甲斐博士と三人で主に現在の化学界についての話をしながら食事をしていると、他の席で食事をしていた客人がムーシェ博士と甲斐博士に挨拶をするためにどんどんこちらの席へとやってきた。どうやら、他の席ではもう食事があらかた終わってるようだ。話が弾んだこともあるけど、私はなれないフォークとナイフに悪戦苦闘しつつ食べていたため、どうしても時間がかかってしまう。
「どうもこんばんわ。ご機嫌いかがですか?」
「これはどうも。お久しぶりね、長岡博士。元気にしてた?」
「これはミスター大庭。研究は順調ですか?」
甲斐博士とムーシェ博士にはそれぞれの交流のある人物と会話を始めてしまったため、私は一人で黙々と食事をすることになってしまう。まあ、仕方のないことだし、覚悟はしていた。一人で食べることは問題ないけれども、私も早く食べ終わって挨拶に行くべきだろうか。そう思いながら食べるスピードをペースアップさせる。
ちょうど皿の上に置かれた料理が一通り片付いたところで、背後から声が聞こえた。その声は、どこか威厳を感じる男性の声だった。
「おやおや、お嬢さん。あまり急いで食べるのは体に良くないよ」
お嬢さんだなんて生まれてから初めて言われたので、私は自分が呼ばれているのだと最初は気がつかなかった。しかし、再び呼ばれた時にはその声が近づいてきていたので、後ろを振り返ると、そこにはかの有名な西野博士がいた。
「西野博士!」
私は思わず、大きな声をあげてしまう。口に残った少しの食べ物がこぼれそうになったのを、口で隠した。なんとか、口の中で転がるにとどまってくれたようだ。
「ああ、知っていてくれたのかな。これは光栄だ」
知ってくれていたなんてレベルじゃない。化学を志す者なら、いや日本人ならば知っていて当然なレベルの有名人だ。
これまで数多くの研究を成して、日本現代化学の父とも呼ばれる西野幸助博士。私と研究している分野はやはり違うけれど、憧れている人の一人だ。
「そんなに謙遜なさらないでください」
きっとぎこちない口の動きで、私はそう言った。
「いやいや、そういうわけにもいかないよ。こんな爺さんになってしまったからね」
西野博士はテレビや雑誌などで見るたびに感じた印象とは違わず、人当たりが良い。私みたいな人にも、しっかりと目を見て優しく話しかけてくれる。さすがはこの世界で何年も生きて、メディアなどとも付き合ってきた方だ。
他の研究者よりもメディアへの露出が多く、そこで化学の面白さをより多くの人に知ってもらおうと活動している。だからこそ化学を志す者以外の会話にも名前が出てくるくらい有名な科学者である。
「ところで、良ければお名前を教えてくれるかな?」
「そ、そうですよね。すいません、渡橋銀杏と言います」
私が名刺入れを取り出そうと手をポケットへ入れようと右手を動かす。しかし、私の置いていたワイングラスに肘がぶつかる。そのワイングラスは飲みほしていたおかげで中身がこぼれることは無かった。
しかし、ワイングラスは倒れた勢いのまま転がる。その先は、テーブルの端だ。
「やばいっ!」
私は慌てて左手をまわそうとするが体の後ろにあるため間に合わない。落ちると思って耳を塞ぐ覚悟を決めた瞬間だった。白く綺麗な手が伸びてそのワイングラスを掴んだ。
「あ、ありがとうございます」
私はすぐにその手に向かってお礼をする。ちょうどワイングラスをなんとかテーブルの上に押しとどめようと体を前に倒していたので、その勢いのままに頭を下げる。
「大丈夫でしたか?」
その手はワイングラスをテーブルの中心辺りに立て、こちらの様子をうかがっているようだった。私は、その声に聞き覚えがあった。
「副島さん……すいません、ありがとうございます」
「いいえ、気にしないでいいんですよ。それより、私もご一緒させていただいても? 西野博士」
「もちろんだよ。ここは少し騒がしいから、私たちのテーブルでどうかな」
「ぜひ。ほら、渡橋さんも行きましょう」
そう言って副島さんは私の手を引いて、西野博士の方へと歩いていく。私もそれに引っ張られて椅子を立ち上がり、その背中を追った。
「どうぞ、こちらに」
西野博士は二人分の椅子を引いて、私たちを誘導してくれた。副島さんがその片方に腰をおろすのを確認した後、私も余った一つに腰を下ろす。西野博士が私たちのためにあまりのワイングラスを用意して、そこに新しく赤ワインを注いでくれた。そして、博士の音頭で私としては本日二度目の乾杯が行われる。
「渡橋さん。さっきは名刺を渡そうとしてたんじゃないの?」
ワインを一口飲んだ副島さんが、私が西野博士に名刺を渡す機会を自然に作ってくれた。その姿もまるで、コマーシャルみたいに綺麗だ。
「そ、そうでした」
私は、今度はちゃんと手がどこにも当たらないよう周りに気を付けて、名刺を取り出した。両手で頭を下げて渡すと、博士は優しく微笑んで受け取ってくれた。
「そうか、前島君のところで学んでいるんだね。彼は人に教えるのが得意だとは思えないが、どうだろう。不満はないかな?」
「博士は前島教授とお知り合いなんですか?」
そりゃ、有名人同士で顔や名前くらいは知っていてもおかしくはないし、こういった場所で出会うこともあるだろう。しかし、西野博士の言い方はそれ以上に深く近い関係性から出るような口調だと感じた。
「ん? どういうことだろう」
私の言葉に西野博士は最初、不思議そうな顔をしていたが、すぐに何かを理解したようだ。少し中心によった顔のパーツが、再び元の位置へと戻っていく。
「ああ、そういうことか。彼はあまり自分のことを語らないだろうから、知らなくてもおかしくないね。実は彼、大学院を卒業してから数年は私の下で働いていたことがあるんだよ」
「ほんとうですか!」
そんな話、聞いたことも無かった。もちろん、経歴などを調べればそれくらいの情報は転がっているだろうけど、顔見知りの相手に対してネットからその情報を入れることはなんだか抵抗があったため、研究室に入って以後は前島理玖の名前で検索をかけることはなかった。
「あはは、その様子だとやはり彼はあまり多くのことを君たちに語らないようだね。その時から、実験以外には何も興味がないような人物だったからなあ」
西野博士は昔を懐かしむように笑った。確かに、彼は今も実験と仕事である私たちの教育以外のことはどうでもいいと考えている節がある。年齢で言えば結婚適齢期なので恋人くらいはいてもおかしくないが、そんなことをしている暇があれば勉強、研究と言うような人だ。
だからこそ、研究室にいる学生がたまに彼のお世話をすることになる。
「でも、彼の名声や金銭にとらわれずにただただ自分の好奇心に従って研究を続ける姿勢は、尊敬に値するよ。少なくとも私にはそれができない。彼のような人の下で化学を学ぶことは将来に必ず生きてくるさ」
どうやら、西野博士はほどよくお酒が回って気分が良いらしい。こんな打算的なことはあまり考えたくはないが、ここで私が前島教授の力も借りて西野博士に気に入られることができれば、これから先の人生に良い影響を及ぼすことは間違いない。
「副島さんと言ったかな。君も火野君みたいな優秀な科学者の下でこうして研究に打ち込めるというのは幸せなことだ。やはり、我々のような前の時代の人間は研究をすると同時に後進の育成や学習する環境も作っていかなければいけないからね」
確かに、研究に打ち込めるということだけを考えればここは理想の環境だろう。静かな環境で、俗世間から離れて意識する必要もない。事実、こうしてパーティーでも行われなければしんとしたものだろう。しかし、それらは裏返せば不便であることに他ならない。近くのコンビニへ行くためにはわざわざ山を下らなければいけないし、山を下ったところであるものと言えばコンビニとスーパー、古臭いカラオケとスナックくらいだった。きっと流行りの音楽も入っていないのだろう。少なくとも私はこんなところで何年も研究できるほど精神が強くない。
「本当に、こんなところで研究に打ち込める副島さんはすごいと思います」
「あはは、二人とも褒めてくれてありがとうございます」
だからこそ、隣にいる副島さんはまだまだ若くて遊びたい年齢なのにこんな山奥にこもって研究をしていることは素直に尊敬できる。本当に人生を捧げたいと思えるような研究が見つかればそういう覚悟も決まるのだろうか。 私はそれが、いまだに見つからないでいる。確かに研究や実験は大変だけどやりがいはあるし、机に向かってひたすらノートをとっているような形式の学びよりは自分の性にあっている。
だけど、それを仕事として続けていくのかと聞かれれば素直に首が縦に振ることができないのが現状だ。それが決まらない以上は安くない学費を親に出してもらって大学院に進学するのは申し訳ない。両親はお金の心配はいらないと言ってくれるが、それはあくまで私が勉強したいと思えることに対してかけるコストの話だ。就活から逃げるための進学にかけるお金など、どこの家庭にもそうそうありはしないだろう。 私はお酒の力も借りて、思い切って質問してみた。
「ご質問なんですけど、西野博士や副島さんはどうしてこの研究を極めようと、生涯のテーマにしようと考えたんですか?」
だから、私はこのパーティーはその悩みに何かしらの進展をもたらしてくれると期待している部分もある。化学の各分野でトップクラスの人物が一堂に会するのだから。教授はおそらく、ダブルブッキングやこんな僻地まで行く時間があるなら研究に没頭したいというマイナスな理由だけでなく、悩める私に何か解決となるようなものが見つかればいいという親心で送り出してくれたのだろう。そう信じたい。
少しきょとんとして間が空いたあとに、話し始めたのは西野博士だった。
「そうだね……私はただ、この分野の発展が将来の日本に、いや世界にとって必ず大きな意味を持つと思っていたからかな。私の小さいころは、戦争は終わっていたけどもやはり国の発展に心血を注いで働くことが幸せだとされていたからね」
確かに、そのころから西野博士は先を見る力もあったのだろう。彼の研究をなくして、現代科学の発展は成しえなかった。私もできることなら自分の力を使って日本や世界に貢献したいという思いはある。ただ、それが研究者としてなのか、それとも別の方法でもよいのかがわからない。
「副島さんは、ここにきて研究を続けることに抵抗は無かったですか?」
私は体の向きを副島さんに向けて、そう聞いた。彼女は少しの逡巡を挟む。
「そうですね。私の場合は最初から研究職につくよりも、教職につくかとの二択で悩んでいたんですよ。ちょうど私の卒業した大学では全員が教員免許を取っていたので」
教職、確かに理系学部ではかなり人気のある職種だ。私は彼女がスーツを着て教壇に立ち、生徒たちに化学の面白さを説いている姿を想像した。それはかなりスムーズで、はっきりと浮かんでくる。きっと副島さんなら教職でもうまくやれただろう。化学の美人先生として男子生徒から人気が出そうだ。
「そんな時に火野博士が新しい論文を発表したんです。もちろん、私が大学時代に研究していた分野と内容が近かったので、過去の論文はすべて読んでいたんですけども、その論文だけはいつもの形式が決まった、はっきり言えば研究を発表するために書かされたような内容じゃなかった。少なくとも、私にはそう感じたんです。例えるなら、子供がクレヨンで画用紙に描いたような夢のある話。それを読んだときに、私もこの研究をしたい、力になりたいと思いました」
「それは素晴らしい話だね。やっぱり化学は夢を与えるものじゃないといけない」
副島さんの話に、西野博士も私も感動していた。思わず拍手をしそうになるが、グラスを片手に持っていたことを思い出し、左手をそっとテーブルの下におろした。
慌てて夕食の会場である食堂にやってきた私に、副島さんは手招きして席を知らせてくれる。赤いカーペットの敷かれた階段をドレスで駆け下りてくるなんて、話だけならシンデレラのようだ。今、私が身にまとっているのは黒いドレスだけれども。
すでに夕食の準備はあらかた終わっているようで、食堂にはいい匂いと薄く真っ白な煙が上がっていた。席はすべて円形のテーブルが間隔を並べて置かれており、その上にはシルクのテーブルクロスがかかっている。綺麗に磨かれた皿も、テーブルの中心に建てられた三本のろうそくも部屋の雰囲気に合っていてとてもお洒落だった。
「おやおや、これは先ほどのお嬢様ではありませんか」
そう声をかけてきたのは、同じテーブルに腰をおろしていたムーシェ博士だった。
「ど、どうも」
ムーシェ博士の少し距離が近い接し方に戸惑いながらも返事をする。
「では、少しお待ちくださいね。料理をすぐに準備をしてきますので」
私が挨拶を終えたことを確認すると、副島さんは去っていった。
「どうぞ、座ってください」
そう言ってくれたのは、ムーシェ博士の隣に座っている女性だった。彼女はしっかりと高そうなドレスを着ているし、それがよく似合っている。青くて上品なドレスは、胸元が開いているにも関わらず、決して下品な印象を受けることのない。きっと、彼女の立ち振る舞いが成せる技だった。
「初めまして、渡橋銀杏と言います」
そう言って、頭を下げて両手で名刺を渡す。せめて、服装などはどうしようもないとしても、礼儀や所作で失礼を働くわけにはいかない。ここにいる人物は、みな日本でも有数の研究者だ。下手をすれば、代理として送り出してくれた教授にも迷惑をかけてしまう。
「あら、これは丁寧にどうも。甲斐彩乃です、よろしく」
甲斐博士は立ち上がって、私の名刺を受け取ってくれた。ふとあたった指はすべすべで、柔らかい。彼女は私の名刺を眺めて少し考える。どうやら何かを思い出しているみたいだった。やがて、何かに引っかかったのか名刺から顔を上げて、こちらを見た。
「あら、元禄大学ってことは前島博士のところかしら」
「は、はいそうです。前島先生の下で日々、学ばせてもらっています」
「そんなに硬くならなくていいわよ。もっとリラックスしてちょうだい」
そう言って甲斐博士は口を手でかくして笑うけど、緊張するなというほうが無理だ。甲斐博士もムーシェ博士と同じく科学者のなかでは超がつくほどの有名人である。
様々な賞を得たほど優秀な頭脳と、その美貌で若いころは時の人と呼ばれるほどメディアに引っ張りだこだったのを幼心に覚えている。私も最初に化学の世界に対して興味を持ったのは、甲斐博士がテレビで科学実験をするバラエティー番組を見たことだったはずだ。
「前島先生はお元気かしら?」
「はい。相変わらず元気に四六時中研究ばかりしていますよ」
私は少し皮肉っぽく言った。
「その姿が容易に想像がつくわ。ところで、渡橋さんは前島博士の下で学んでいるということは、量子化学を学んでいるということかしら」
「はい、そうです」
私は、甲斐博士の質問に深く頷いた。
二人と同じく、私の教授である前島理玖は量子化学の分野で日本の先頭を走る人物だ。本来ならば私ではなく、前島博士が来るはずだったことを考えると、いかに火野博士の人脈が広く深いものであるかがよくわかる。よく、ここまでの人達を、こんな辺境まで招待できるものだ。
「まあ、素晴らしいわね。私も、前島教授の研究には興味があってね。もう一度、大学生からやりなおせるなら、ぜひとも受講してみたいくらいなの」
私と甲斐博士の間で話が盛り上がっていると、同じテーブルに腰掛けながら話に入れず、少しだけ居心地が悪そうにしていたムーシェ博士が入り込んできた。
「おお、他の分野にも興味を持つことは素晴らしいことです」
「お褒めいただきありがとう。ムーシェ博士」
笑顔で話しかけてきたムーシェ博士に微笑みながら返答をする甲斐博士。ムーシェ博士は、鼻の下を伸ばしてでれでれしていた。そう言えば、ムーシェ博士はかなりの女性好きで、特に日本人の女性が好きだという話を聞いたことがある。
「いやいや、こんなお美しい二人に囲まれて食事をすればより美味しくいただけるというものです」
「あ、あはは。いやいや、美しいだなんてありがとうございます」
謙遜するように私はそういった。いや、しっかりとドレスと化粧をした自分の見た目が悪いとは思わないけれども、副島さんに甲斐博士と並ぶとどうしても馬子にも衣裳というか、ちんちくりんに見えてしまう。
「あらあら、謙遜するなんてもったいない。このドレスもすごく似合っていて可愛いわ。しかも、このレースの隙間から見える肌。若いっていいわね。ねえ、ムーシェ博士?」
そういいながら、甲斐博士は私の肩を掴むように背後へと回る。レースの隙間から肩に触れた甲斐博士の指先、そこから発せられた温度を感じる。なんだか、少しこそばゆい。
「ええ、もちろんです。私がもう二十歳若ければアプローチをしていたのですが……」
ムーシェ博士がその言葉を明らかに甲斐博士に向けて、鼻の下を伸ばして言ったときだった。天井の角からマイクをコンコンと叩く音がした。スピーカーからくぐもった音が響いて、私は音のした方をむく。高価そうなスピーカーが部屋の四つ角にそれぞれ設置されており、これなら部屋の中にいれば、マイクを使って音が聞こえないことはないだろう。私たちは、話を中断して椅子に腰かけた。「皆さまお揃いのようですので、これから料理をお運びさせていただきます。お料理の後には我が火野研究所が誇る研究施設を紹介させていただきたいと思います。火野もそろそろ姿を見せると思いますので、それまでの間はしばしご歓談ください」
マイクに向かってそういったのは、副島さんと同じように白衣を身にまとった長身の青年だった。私よりも少し年上くらいだろうか。ここで働いているということはやはり彼も優秀なのだろう。
マイクを持って話す姿にも、どこか慣れを感じる。そんな彼に、部屋中から拍手が鳴り響く。私も慌てて握ったままにしていた名刺入れをポケットにしまい、拍手した。
そしてそれと同時に、副島さんによって香ばしい匂いともくもくとあがる煙を纏いながら、料理が運ばれてきた。色とりどりの料理は、私の食欲をそそる。昼間は移動に時間をとられて、山の麓にあるコンビニで買った安い鮭おにぎりと麦茶で済ませたから、個包装のチョコレートだけではおなかがすいていた。そのせいか私のお腹は鳴ってしまい、それを甲斐博士に聞かれてしまった。
「あらあら、かわいらしいこと」
私は恥ずかしい気持ちで顔がふくらんで破裂しそうだった。顔が熱くなったのを、グラスに七割ほど注がれた水を飲んで冷やす。
「す、すいません」
「気にすることはないわ。それだけこの料理が美味しそうに見えたってことよ。副島さん、渡橋さんはとても美味しそうだと言ってくれているわ」
甲斐博士は、ちょうど配膳ワゴンで料理を運んできた副島さんに、優しく声をかけた。その言葉に副島さんも微笑んで、
「そう言っていただけて嬉しいです。ぜひ、夕食を楽しんでください」
そういいながら本当に嬉しそうにしている。
「これは、どなたが調理したのかしら? どなたかシェフでもいらっしゃるの?」
その質問に、副島さんは少し照れくさそうに答えた。
「これは私がすべて調理したものです。シェフだなんて、ご冗談でも嬉しいです」
「ええっ! こんなにすごいものを一人で?」
私の口からは素直な驚きの言葉が出ていた。テーブルに並べられた料理は到底、一人で作ったとは思えないような内容だし、ましてやそれが調理師免許を持っているような女性ではない。礼儀が正しい、品が良い、美しい、頭が良いだけでなく、料理も得意だなんて私の自尊心はどこか遠くへ行ってしまいそうだ。
「そんな、料理は昔から好きでしたし。ここではいつも私が調理担当ですから」
副島さんがそれを、なんでもないことのように笑う。火野博士はかなりグルメで、毎日とはいかないまでもこのレベルの料理を求められるらしい。そんな環境にいれば否が応でも料理の腕は上達するだろう。カレーと炒飯くらいしか作れない私とは大違いだ。
「素晴らしい料理の数々、おいしくいただくわ」
「では、ワインを注がせていただきますね」甲斐博士とムーシェ博士は堂々としているけれども、私は恐縮しながら注いでもらった。
テーブルには、目の前に二つのグラスがあった。一つは、水が入ったもの。さっき、恥ずかしさのあまりに一気飲みをしたせいでもう三分ほどしか残っていない。空のワイングラスに、トクトクと上品な音を立てて赤黒い色の液体が注ぎ込まれた。とてもフルーティーな香りが、椅子に背中を付けたままでも届いてくる。
「うん、美味しそう。せっかくだから、副島さんも乾杯に参加して頂戴」
「お誘いは嬉しいのですが、料理の準備がまだありますので」
他にも二つのテーブルにそれぞれ三人ずつが席についている。すでにテーブルごとに飲み始めているようだ。少し大きな笑い声がこっちまで聞こえてくる。
「別にあんなおじさん連中は放っておいてもいいわよ。どうせお酒でお腹がいっぱいになるでしょ。それより、あなたたちもちゃんと食べてね。私からしっかりと火野博士には言っておくから。ほらほら、ついであげる」
甲斐博士がワゴンに乗っていた予備のワイングラスを手に取り、そこへとワインを注いだ。多少、強引な気もしたけれども副島さんも本気で困っているというわけではなさそうだ。
「じゃあ、一杯だけ」
「うんうん、一杯だけね」
ほどほどに注がれたワイングラスを副島さんが手にしたところで、全員が右手にグラスを抱えた。それを確認して、甲斐博士が乾杯の音頭を取る。
「では、この素晴らしいパーティーを準備してくれた火野研究所のみなさんに、乾杯」
ムーシェ博士も乾杯の音頭に合わせてグラスをぶつける。私もそっとグラスを差し出した。ぶつかったグラスが心地の良い音を立てて、中にある赤ワインが揺れている。
「ああ、このワインは非常に美味しいですね。渡橋さんもぜひ」
ムーシェ博士が先にワインを飲んで、それを私にも勧めてくる。
私も今から飲むところだったが、ムーシェ博士にいただきますと言って、ワインに口を付けた。
「すごく、フルーティーですね。美味しいです」
私は、初めて飲んだ高級なワインの味に驚いた。頻繁に実験もあるためバイトもできず、田舎の両親から仕送りのみで生活しているので、成人してからも高いワインなんて飲んだことはなかった。いつもぼろいアパートで友人たちと、安いワインと発泡酒で朝までだらだらとテレビでも見ながら将来への不安を忘れるまで語り明かす。その時に飲むものとはわけが違う。
「みなさんに喜んでいただけたようで。良かったです」
「あなたもお仕事を終えたらぜひ、デザートもご一緒したいわ」
「わかりました。ぜひ、寄らせていただきます」
甲斐博士の誘いに、副島さんは少し申し訳なさそうに断った。そして、慌ただしく部屋を出て行く。それほど、忙しいのだろう。私はそのあわただしい背中を見ながらも、気が付くと再びワイングラスに唇を添えていた。
「どうやら、かなりお気に召したようですね」
「はい。こんなに美味しいお酒を飲んだことは初めてなので」
「それは良かったです。若いうちに良いお酒の味を覚えておくことは幸せなことですからね。しかし、私もここまで美味しいものはなかなか飲んだことはありませんね。後で、何年に作られたワインか聞いておきましょう」
ムーシェ博士は嬉しそうだ。そのあとの話から、彼がかなりのワイン好きで、自宅にワインセラーを置くほどだということがわかった。どうりで、ワインについて話すときには少し自慢気な口調だった。聞いたところ、このワインは私と同い年の生まれだということも教えてくれた。
ムーシェ博士と甲斐博士と三人で主に現在の化学界についての話をしながら食事をしていると、他の席で食事をしていた客人がムーシェ博士と甲斐博士に挨拶をするためにどんどんこちらの席へとやってきた。どうやら、他の席ではもう食事があらかた終わってるようだ。話が弾んだこともあるけど、私はなれないフォークとナイフに悪戦苦闘しつつ食べていたため、どうしても時間がかかってしまう。
「どうもこんばんわ。ご機嫌いかがですか?」
「これはどうも。お久しぶりね、長岡博士。元気にしてた?」
「これはミスター大庭。研究は順調ですか?」
甲斐博士とムーシェ博士にはそれぞれの交流のある人物と会話を始めてしまったため、私は一人で黙々と食事をすることになってしまう。まあ、仕方のないことだし、覚悟はしていた。一人で食べることは問題ないけれども、私も早く食べ終わって挨拶に行くべきだろうか。そう思いながら食べるスピードをペースアップさせる。
ちょうど皿の上に置かれた料理が一通り片付いたところで、背後から声が聞こえた。その声は、どこか威厳を感じる男性の声だった。
「おやおや、お嬢さん。あまり急いで食べるのは体に良くないよ」
お嬢さんだなんて生まれてから初めて言われたので、私は自分が呼ばれているのだと最初は気がつかなかった。しかし、再び呼ばれた時にはその声が近づいてきていたので、後ろを振り返ると、そこにはかの有名な西野博士がいた。
「西野博士!」
私は思わず、大きな声をあげてしまう。口に残った少しの食べ物がこぼれそうになったのを、口で隠した。なんとか、口の中で転がるにとどまってくれたようだ。
「ああ、知っていてくれたのかな。これは光栄だ」
知ってくれていたなんてレベルじゃない。化学を志す者なら、いや日本人ならば知っていて当然なレベルの有名人だ。
これまで数多くの研究を成して、日本現代化学の父とも呼ばれる西野幸助博士。私と研究している分野はやはり違うけれど、憧れている人の一人だ。
「そんなに謙遜なさらないでください」
きっとぎこちない口の動きで、私はそう言った。
「いやいや、そういうわけにもいかないよ。こんな爺さんになってしまったからね」
西野博士はテレビや雑誌などで見るたびに感じた印象とは違わず、人当たりが良い。私みたいな人にも、しっかりと目を見て優しく話しかけてくれる。さすがはこの世界で何年も生きて、メディアなどとも付き合ってきた方だ。
他の研究者よりもメディアへの露出が多く、そこで化学の面白さをより多くの人に知ってもらおうと活動している。だからこそ化学を志す者以外の会話にも名前が出てくるくらい有名な科学者である。
「ところで、良ければお名前を教えてくれるかな?」
「そ、そうですよね。すいません、渡橋銀杏と言います」
私が名刺入れを取り出そうと手をポケットへ入れようと右手を動かす。しかし、私の置いていたワイングラスに肘がぶつかる。そのワイングラスは飲みほしていたおかげで中身がこぼれることは無かった。
しかし、ワイングラスは倒れた勢いのまま転がる。その先は、テーブルの端だ。
「やばいっ!」
私は慌てて左手をまわそうとするが体の後ろにあるため間に合わない。落ちると思って耳を塞ぐ覚悟を決めた瞬間だった。白く綺麗な手が伸びてそのワイングラスを掴んだ。
「あ、ありがとうございます」
私はすぐにその手に向かってお礼をする。ちょうどワイングラスをなんとかテーブルの上に押しとどめようと体を前に倒していたので、その勢いのままに頭を下げる。
「大丈夫でしたか?」
その手はワイングラスをテーブルの中心辺りに立て、こちらの様子をうかがっているようだった。私は、その声に聞き覚えがあった。
「副島さん……すいません、ありがとうございます」
「いいえ、気にしないでいいんですよ。それより、私もご一緒させていただいても? 西野博士」
「もちろんだよ。ここは少し騒がしいから、私たちのテーブルでどうかな」
「ぜひ。ほら、渡橋さんも行きましょう」
そう言って副島さんは私の手を引いて、西野博士の方へと歩いていく。私もそれに引っ張られて椅子を立ち上がり、その背中を追った。
「どうぞ、こちらに」
西野博士は二人分の椅子を引いて、私たちを誘導してくれた。副島さんがその片方に腰をおろすのを確認した後、私も余った一つに腰を下ろす。西野博士が私たちのためにあまりのワイングラスを用意して、そこに新しく赤ワインを注いでくれた。そして、博士の音頭で私としては本日二度目の乾杯が行われる。
「渡橋さん。さっきは名刺を渡そうとしてたんじゃないの?」
ワインを一口飲んだ副島さんが、私が西野博士に名刺を渡す機会を自然に作ってくれた。その姿もまるで、コマーシャルみたいに綺麗だ。
「そ、そうでした」
私は、今度はちゃんと手がどこにも当たらないよう周りに気を付けて、名刺を取り出した。両手で頭を下げて渡すと、博士は優しく微笑んで受け取ってくれた。
「そうか、前島君のところで学んでいるんだね。彼は人に教えるのが得意だとは思えないが、どうだろう。不満はないかな?」
「博士は前島教授とお知り合いなんですか?」
そりゃ、有名人同士で顔や名前くらいは知っていてもおかしくはないし、こういった場所で出会うこともあるだろう。しかし、西野博士の言い方はそれ以上に深く近い関係性から出るような口調だと感じた。
「ん? どういうことだろう」
私の言葉に西野博士は最初、不思議そうな顔をしていたが、すぐに何かを理解したようだ。少し中心によった顔のパーツが、再び元の位置へと戻っていく。
「ああ、そういうことか。彼はあまり自分のことを語らないだろうから、知らなくてもおかしくないね。実は彼、大学院を卒業してから数年は私の下で働いていたことがあるんだよ」
「ほんとうですか!」
そんな話、聞いたことも無かった。もちろん、経歴などを調べればそれくらいの情報は転がっているだろうけど、顔見知りの相手に対してネットからその情報を入れることはなんだか抵抗があったため、研究室に入って以後は前島理玖の名前で検索をかけることはなかった。
「あはは、その様子だとやはり彼はあまり多くのことを君たちに語らないようだね。その時から、実験以外には何も興味がないような人物だったからなあ」
西野博士は昔を懐かしむように笑った。確かに、彼は今も実験と仕事である私たちの教育以外のことはどうでもいいと考えている節がある。年齢で言えば結婚適齢期なので恋人くらいはいてもおかしくないが、そんなことをしている暇があれば勉強、研究と言うような人だ。
だからこそ、研究室にいる学生がたまに彼のお世話をすることになる。
「でも、彼の名声や金銭にとらわれずにただただ自分の好奇心に従って研究を続ける姿勢は、尊敬に値するよ。少なくとも私にはそれができない。彼のような人の下で化学を学ぶことは将来に必ず生きてくるさ」
どうやら、西野博士はほどよくお酒が回って気分が良いらしい。こんな打算的なことはあまり考えたくはないが、ここで私が前島教授の力も借りて西野博士に気に入られることができれば、これから先の人生に良い影響を及ぼすことは間違いない。
「副島さんと言ったかな。君も火野君みたいな優秀な科学者の下でこうして研究に打ち込めるというのは幸せなことだ。やはり、我々のような前の時代の人間は研究をすると同時に後進の育成や学習する環境も作っていかなければいけないからね」
確かに、研究に打ち込めるということだけを考えればここは理想の環境だろう。静かな環境で、俗世間から離れて意識する必要もない。事実、こうしてパーティーでも行われなければしんとしたものだろう。しかし、それらは裏返せば不便であることに他ならない。近くのコンビニへ行くためにはわざわざ山を下らなければいけないし、山を下ったところであるものと言えばコンビニとスーパー、古臭いカラオケとスナックくらいだった。きっと流行りの音楽も入っていないのだろう。少なくとも私はこんなところで何年も研究できるほど精神が強くない。
「本当に、こんなところで研究に打ち込める副島さんはすごいと思います」
「あはは、二人とも褒めてくれてありがとうございます」
だからこそ、隣にいる副島さんはまだまだ若くて遊びたい年齢なのにこんな山奥にこもって研究をしていることは素直に尊敬できる。本当に人生を捧げたいと思えるような研究が見つかればそういう覚悟も決まるのだろうか。 私はそれが、いまだに見つからないでいる。確かに研究や実験は大変だけどやりがいはあるし、机に向かってひたすらノートをとっているような形式の学びよりは自分の性にあっている。
だけど、それを仕事として続けていくのかと聞かれれば素直に首が縦に振ることができないのが現状だ。それが決まらない以上は安くない学費を親に出してもらって大学院に進学するのは申し訳ない。両親はお金の心配はいらないと言ってくれるが、それはあくまで私が勉強したいと思えることに対してかけるコストの話だ。就活から逃げるための進学にかけるお金など、どこの家庭にもそうそうありはしないだろう。 私はお酒の力も借りて、思い切って質問してみた。
「ご質問なんですけど、西野博士や副島さんはどうしてこの研究を極めようと、生涯のテーマにしようと考えたんですか?」
だから、私はこのパーティーはその悩みに何かしらの進展をもたらしてくれると期待している部分もある。化学の各分野でトップクラスの人物が一堂に会するのだから。教授はおそらく、ダブルブッキングやこんな僻地まで行く時間があるなら研究に没頭したいというマイナスな理由だけでなく、悩める私に何か解決となるようなものが見つかればいいという親心で送り出してくれたのだろう。そう信じたい。
少しきょとんとして間が空いたあとに、話し始めたのは西野博士だった。
「そうだね……私はただ、この分野の発展が将来の日本に、いや世界にとって必ず大きな意味を持つと思っていたからかな。私の小さいころは、戦争は終わっていたけどもやはり国の発展に心血を注いで働くことが幸せだとされていたからね」
確かに、そのころから西野博士は先を見る力もあったのだろう。彼の研究をなくして、現代科学の発展は成しえなかった。私もできることなら自分の力を使って日本や世界に貢献したいという思いはある。ただ、それが研究者としてなのか、それとも別の方法でもよいのかがわからない。
「副島さんは、ここにきて研究を続けることに抵抗は無かったですか?」
私は体の向きを副島さんに向けて、そう聞いた。彼女は少しの逡巡を挟む。
「そうですね。私の場合は最初から研究職につくよりも、教職につくかとの二択で悩んでいたんですよ。ちょうど私の卒業した大学では全員が教員免許を取っていたので」
教職、確かに理系学部ではかなり人気のある職種だ。私は彼女がスーツを着て教壇に立ち、生徒たちに化学の面白さを説いている姿を想像した。それはかなりスムーズで、はっきりと浮かんでくる。きっと副島さんなら教職でもうまくやれただろう。化学の美人先生として男子生徒から人気が出そうだ。
「そんな時に火野博士が新しい論文を発表したんです。もちろん、私が大学時代に研究していた分野と内容が近かったので、過去の論文はすべて読んでいたんですけども、その論文だけはいつもの形式が決まった、はっきり言えば研究を発表するために書かされたような内容じゃなかった。少なくとも、私にはそう感じたんです。例えるなら、子供がクレヨンで画用紙に描いたような夢のある話。それを読んだときに、私もこの研究をしたい、力になりたいと思いました」
「それは素晴らしい話だね。やっぱり化学は夢を与えるものじゃないといけない」
副島さんの話に、西野博士も私も感動していた。思わず拍手をしそうになるが、グラスを片手に持っていたことを思い出し、左手をそっとテーブルの下におろした。
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