広場には、風の音さえなかった。
草が静かに石畳の隙間を埋め始めていた。立ち並ぶ建物の扉は開いたまま、誰も閉じるものはいない。
時が止まったかのような街が、真っ赤に染まり、やがて夜の帷に包まれてゆけば、星々が空に滲み始める。
老犬が広場の片隅にうずくまっていた。
干からびた土のような毛はまばらで、うっすらと地肌が透けており、頬まで垂れた耳は、劇場の垂れ幕を思わせた。
広場の中央にある街の象徴ともいえる豪華な噴水―――とはいっても今は水は上がっていないが―――の前に男は立っていた。
顔は白練り粉で真っ白に塗られているが、目尻や額に張り付いた皺を隠すことはできず、むしろ月明かりの下では、それらが実際よりも深く刻まれているかのように見えた。色褪せた赤い水玉模様の衣装、真っ赤に塗られた鼻。両頬から目にかけて描かれた
十字の模様、そして先端が2つに分かれ、それぞれが赤と黒に染められた双角帽子。
「さて―――最後の舞台だ」
男は呟いた。
特に日を選んだわけではない。だが、今宵は満月だった。月明かりに照らされた街の陰影は、美しかった。そして、やはり望んだわけではないが、一匹の観客がいた。
「最後の舞台の観客がくたびれた犬コロ一匹とは・・・まるで道化だな」
男はかすかに口元を緩めた。
―――あんたは道化師でしょ!
かつての仲間が隣にいれば、間髪入れずに言い返してくれるところだが、彼はもう長い間一人だった。そこでうずくまっている老犬に期待するわけにもいかない。
男は、かつて必ずそうしていたように、帽子に両手を添え、帽子の向きを確認した。
そして、その手で優雅に弧を描き、深々と一礼をした。
男は、深々と下げた頭を上げる前に跳ねた。
ひとつ、ふたつ、みっつ。
―――その合図で楽団が、リズミカルな曲の演奏を始めるのだった。男は、音楽に合わせて滑稽に舞台を歩き回り、観客をからかってまわった。髭の男性を指さしては、髭を剃ってサッパリした顔を見せ、太った男性を見れば、衣装を手で膨らませ、その姿を真似て見せた。
その度に、客席は爆笑に包まれていった。
月明かりに照らされた今宵は、楽団はいない。だが、男はかつて王都の劇場で喝采を浴びた頃と変わらぬ軽やかさ。だが、今は誰も笑わない。
誰も笑わないが、男は劇場の空気が温まったことを感じる。
―――楽団は荘厳な音楽を鳴り響かせた。
男は王を演じた。
背中を丸め、目を細め、杖を振り回す。
「我が王国は永遠の繁栄をするであろう!」
男はそんな王の振る舞いを皮肉たっぷりに無言で演じてみせた。
だが、今は拍手の音は聞こえない。
かつての王は、名君というほどではないが、暗君ではなかった。
しかし、少々決断力が自尊心を下回った。結果、貴族達や役人の横領や利権構造を増大させることになってしまった。結果、王国の財政は、年々悪化していった。
いや、それだけなら良かったのかもしれなかった。
王は、世継ぎをいつまでも決めることが出来なかった。そして、そのまま王はひどく老い、当然のように後継者争いが勃発した。
―――男は3人の王子に扮した。
楽団は、滑稽な旋律を奏でた。
一人は剣を振り回し、
一人は金貨を数え、
一人は女を侍らせた。
男は3人を同時に演じた、体の向きを変えるだけで王子が入れ替わった。身体を捻り、顔を歪め、無様に踊った。それは、観客が腹を抱えて笑った場面だった。
しかし、今それを見ているのは、すっかり曇った眼の老犬だけだった。
男は跳ねる。
跳ねる。
跳ねる度に、あの記憶がよみがえってくる。両足が鎖に繋がれたかのような重さがあった。
王子たちの怒り。
王の沈黙。
追放の宣告と道化の禁刑。
それでも、男は笑う。
声を出さずに笑い、跳ねる。
音楽はテンポを早め、畳み掛けるようなリズムとなっていった。
男は回る。
片足を上げ、跳ねるように回る。
一回りごとに、顔を歪ませながら。
悲しみ。
怒り。
絶望。
悲哀。
嘲笑。
男は回り続ける。
両手を広げ、天を仰ぎ、そして自身を抱きしめながら回った。
突如、男は倒れた。
いや、倒れる演技をした。
再び全てが静寂に包まれた。
拍手喝采は、起こらなかった。
そう、まだ終わりではない。
それまで月明かりに照らされていた広場が、フッと闇に呑まれる。
無論、狙った演出ではなかったが、ちょうど、大劇場の飾り塔が月の光を遮る。
男はゆっくりと起き上がる。
男はもう、男ではなかった。眼窩が窪み、頬は痩け、すべての生気が抜け落ちた肌は、輪郭こそ人のそれだが、明らかに人外の何かだった。それが干からびた手を翳すと墓場から亡者が這い出て来た。
それは、亡者たちに町を襲わせた。
突然の出来事にパニックに陥る人々は、次々と亡者の餌食となってゆく。そして、亡者の餌食となって命を落とした者も、亡者として蘇った。
だれも笑わなかった。
一人目の王子が勇ましくやってきた。
しかし、あまりの恐怖に腰を抜かしたところを亡者に喰われた。
二人目の王子は、ありったけの財宝を馬車に詰め込み、逃げ出した。
しかし、重くなりすぎた馬車は崖を転げ落ち、二人目の王子は命を落とした。
三人目の王子は、二人の兄の死を喜んだ。
多くの女から后となる一人を選んだところ、別の女に後ろから刺し殺された。
住民を、兵士を飲み込みながら、亡者の群れは数を膨らませ、たちまち王国をも飲み込もうとしていた。
笑えるものはここにいない。
病に附した王の姿があった。もはや、起き上がることすら出来なかった。
それでも王は、王家の宝剣を指差しながら何言かを語った後、血を吐いて死んだ。
笑えるものなどいるはずがない、なかった。
再び、銀白の光が男を包んでいる。
もう男を追放した者も、道化を禁じた者もいない。思うがままに舞台を跳ね回れる。
男は、今この瞬間になっても、演目の続きを決めかねている。
このまま全ての終わりを演じるべきだろうか。
あるいは、
―――ひそかに囁かれている第四の王子の末路でも?
フォォーーン
突如、老犬が吠えた。男にはその吠え声が、ファンファーレのように聞こえた。
老犬は、いつの間にか背筋を伸ばして座り、男を見つめている。
フォォォーーーン!
再びファンファーレが響き、静寂を打ち消した。
―――この先は、台本無しの即興劇、無もなき道化師の最後の一幕が始まった。
今宵の役目を終えた満月は、西に沈んでいた。広場を夜の幕が覆い、舞台の終わりを告げていた。
一方、東の端にはかすかに光が滲み始めていた。
広場の石畳に、奇妙な帽子が置かれていた。帽子の中央から左右に伸びる二本の突起が伸びている。赤と黒に染められたその突起の先端には、何かの飾りが付いていたようにも見えた。
その帽子を守るように、一匹の老犬が佇んでいた。時折、老犬はその垂れた耳をピクリと動かすが、世界はまだ静寂の中にあった。
=終=