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1-8

ー/ー



 車内で汗を引かせてから、二人は器具を持って生徒の少なくなった校内を調べ始めた。職員から許可はもらっていて、二人は敷地内調査の人間として肉吸の追跡を開始したのだ。
 月乃が右手に持っている四角いラジオのような端末は探知機で、堕人の痕跡を手っ取り早く知らせてくれる最新式。旧式と違って精度が上がり、機械上部のモニターには足跡さえ辿れるのだ。更にいつの痕跡か時間まで表示され、探知機が開発されてから堕人の追跡が容易になっていた。
 痕跡が消えるまでは十六時間。汐里の話ではまだ時間は経っていない。五階をくまなく調べたが、堕人の痕跡はなかった。四階も同じだったが、三階を調査していると探知機から音が鳴り始める。カチカチといった時計の針が異様な速度で進むような音だ。
 堕人の残り香が強ければ強いほど反応も鋭くなるが、一番示したのはとある教室の前だった。
 ここは、黎人がいる教室の前だ。堕人はすぐ側まで迫っていたのだ。
 彼が潰されるのは時間の問題だ。早いうちに例の堕人をどうにかしないと最悪の未来が予想できる。次期会長が正司になれば一日も休めなくなるどころか、政府さえ篭絡(ろうらく)して恐怖政治が訪れる可能性さえあるのだ。正司の思想は分からないが、堕人を使って改革を望むような男だ。その行為はさながら、日本の未来を破壊するようなもの。
 時間を見ると、堕人がここに来たのはちょうど黎人を連れ出した直後のようだった。血の惨劇を防げたのは今日一番の成果だろうか。
 しばらく探知機を見ながら呆然としていると、目の前に男子生徒が立っているのに気付いた。彼は真面目そうに制服を着こなし、童顔で中央分けの黒髪。扉の前に立っていたから邪魔だったかと思い、月乃は数歩後ろに下がった。だが彼は扉から外に出るでもなく、月乃を見てこう言った。
「黎人と一緒にいた人、ですよね」
 緊張しているようだった。どう見ても人見知りだ。月乃は短く「そうだよ」と応えて探知機の電源を落とした。
「これ、後で電話してください」
 彼は自分の名前を言う前に赤色の折り紙を月乃に渡すと、足早に教室の中へ戻っていってしまった。紙には黒い鉛筆で電話番号が書かれている。告白にしては歳が離れているから対象外だと思いながらも、月乃はポケットの中にしまって別の考え事もしていた。黎人について何か聞けるかもしれないと。
 会話術は汐里の方が高い。作戦会議の時間が必要だ。
 月乃は痕跡探しを再開した。足跡は裏庭まで続いていて、裏庭には血の跡が僅かに残っていた。連と小梢が協力して遺体や血をほぼ片付けてくれたのだろう。そこから更に足跡をたどり、裏門に向かっている。ここから先は車で追い詰めたほうが早いに違いない。
 彼女は車に戻り、汐里の調査が戻ってくるのを待った。
 一人の時間になると、不意に思い浮かぶのが綾芽の顔。笑顔も怒った顔も、滝のように流れてくる。最悪にも、そのほとんどが楽しい思い出だった。
 これから先、敵対関係になるのだろうか。あの日公園で見た幻は、本当に彼女自身だったのだろうか。底なし沼から忙しなく疑問符が幾つも浮かび上がってくるせいで、それは暑さのせいであったかもしれないが、眩暈(めまい)のようなものを起こした。
 後悔していた事柄が一つだけある。一度、綾芽からバディを組まないか誘いを受けたのだ。汐里と三人で動くのも提案したが、三人で調査したり戦ったりするとかえって連携がとりにくくなる。
 月乃はしかし気付いていた。それ以上に、綾芽は月乃に対して独占欲のような感情を持っていたのだ。
 誘いは断った。その一ヶ月後が、失踪した日だった。
 汐里が戻ってドアが開くと、夏の湿った空気が入り込んでむせかえりそうになった。
「お待たせしました。月乃、何か見つかりましたか」
 探知機に足跡が反応したのと、見知らぬ男子生徒の話をした月乃は同じ質問を汐里にしてみせた。
「肉吸に襲われたのは日高(ひだか)寛一(かんじ)という教師でした。生徒からの信頼は厚いものの、甘やかしすぎだと親からは厳しい目で見られていたそうです」
「また良いやつが犠牲になったのか」
 汐里の沈黙それこそが肯定を示していた。
 いつからか姉妹の恒例になっていた。犠牲者たちには敬意(けいい)を示し、せめてもの安楽を願う。決して命を軽く扱いたくはないという想いが、二人の信条だった。
 下唇を噛みしめた月乃が助手席の窓にもたれかかると車は発進した。探知機をナビの位置に設置して、汐里は痕跡を辿り始めた。痕跡は既に三時間以上経過している。
「月乃、私たちのせいではありません。それだけは分かっていますよね」
「言われなくても分かってる」
「起こるべくして起きた。彼の運命であった。そして、死は(おり)からの解放である」
 感化されやすい月乃にとって、善人の死は堪えるものだった。真面目に生きてきた人間がある日、なんの脈絡もなく事故や事件で命を奪われる。その運命自体が、月乃にとって忌々しいものに他ならないのだ。
 その運命から人を救うために武身として戦いを決意したのに、いまだに救えない人もいる無力感からの重圧に押しつぶされそうになる日が、時折襲ってくる。
「お酒、今日は何を飲みますか」
「バーボンがいい」
 予約しているラブホテルの近くにスーパーがあるのを、汐里は事前に調べていた。
 音を鳴らしていた探知機が突然小さくなり始め、車は減速し始めた。道は空いていて、車道から少し離れた広い路地の真横を通っている。痕跡はここで途絶えていた。
 横を見ると、これ見よがしに五階建ての建物が立っていた。周囲の風景に馴染むように自然な暖色系の煉瓦(れんが)が敷き詰められた壁。横に長く、普通のマンションなら二桁ほどの部屋数があってもおかしくないだろう。
 庭はなく、扉の上につけられた貼り付け看板には弧竜会と書かれていた。隠れる気はさらさらなく、町の玉座に座る王様のように堂々としていた。
 午後十七時を回る頃合い、人気はほぼ皆無だが周囲の家には明かりがついている。一般家庭があるというからには、迷惑をかけていない証拠なのだろうか。それかここの一帯全てが会員達によって占領されているのか。
 スマートフォンを取り出した汐里は、現在地点に印をつけた。
「乗り込むには情報が無さ過ぎますね」
 中から聞こえてくるのは生活音らしき音だけ。騒々しくはなかった。
「そうだね。慎重にやれって親父から言われてるし、あたしはこのまま帰りたい」
「意見一致です。帰りますか」
 月乃の我慢が難しくなってきた頃合いを汐里は把握(はあく)していた。長居も危険だろうからとアクセルペダルに足を置いた途端、車が左右に小さく揺れた。何かがトランクの上に乗っかったようだった。揺れ方から察すると人間ほどの重さ。汐里はじんわりと身体が汗ばむのを感じた。
 姉妹は顔を前に向けている。緊縛した空気感の中、車窓が下へスライドしていった。冷気は外に逃げ、代わりに入ってきた熱気には男の声が混じっていた。
「聞いたよ、巫女なんだってな」
 歴史が刻まれているような、貫禄(かんろく)のある声だった。四十代後半くらいだろうか。
「それが、何か」
「初めて目にしたから珍しくてつい。いや、悪いね。けど怒ってなくてよかった、君のような美女に嫌われてしまってはどうも、この歳でもヘコんでしまう」
 バックミラーに映っていたのは後ろ姿だった。黒いワイシャツを着ていて、手にはバットのようなものを持っている。堕人ではない。
「なあ巫女さん。一つ提案があるんだが」
 二人は直感的に理解した。彼はただの会員ではない。改革派のトップ、相田正司だ。
 そのトップが姿を現し、提案を持ち掛けてきた。月乃は静かに「車を出そう」と口にしたが、汐里はハンドルこそ握っているもののアクセルを踏めなかった。
「これはお互いに利益のある提案だ。俺と手を組もう。俺の女になれ。そうすればこの世界の真実を教えてやれるし、あらゆる脅威から守ってやる」
 分かりきった提案、しかし汐里は固唾を飲みこむ。ここにいるのは正司だけでないと誰が言い切れるのか。もし仲間が控えていて、誘いを断った途端に一斉攻撃を仕掛けられれば瞬時に蜂の巣にされる。それを防ぐ巫術はあれど、守れるのは自分だけ。月乃は間違いなく救えない。
「俺の女になってきた奴らは全員揃ってこういう。ああ、もっと気持ちよくなりたい。あらゆる快楽への探求が止まらなくなる。性的欲求だけの話じゃない。君もどうだ、無駄に命を削る日々にグッバイして一緒に崇高な世界を作り上げないか」
「もし断ったら」
 慎重に。
「断ったらどうなると思う」
 正司は声色を変えず、おそらく顔色に笑みだけを浮かべながらこう言った。
「俺が脅威そのものになる」
 月乃はホルスターの中にしまっていた銃を取り出そうとしたが、汐里は制した。今なら頭を撃てる距離ではあるだろう。だが得策ではない。
 サディスティックであり、カリスマ的立ち振る舞いをする彼に囚われた女性たちは薬を使って強制的な快楽刺激を植え付けられたのだろう。承諾すれば汐里もただでは済まない、なりうる未来。考えたくもない身の毛もよだつ誘い。その想像は月乃も浮かんでいるようで、怒りの感情が隠しきれていなかった。
「考える時間がほしい」
 汐里からの、決死の提案だった。
「良いだろう。だがリミットがほしいな。そうだな遅くても……明日の夜だ。期限が早いって、バカを言うなよ。これはじつに簡単で迷いの余地もない提案なんだから」
 彼の言い方から察するに期限の延長もなければ、過ぎれば襲撃するという脅迫も含まれている。
 トランクから降りた男は、バットを持ったまま家へと向かった。
「明日の夜、君に会いにいく。もし逃げたら? お楽しみが待ってる。実際そのお楽しみとやらを実行するのも楽しそうだから、俺としては逃げててもホテルにいてもどっちでもいい」
 居場所まで彼は把握している。熟練の技術者がいる証拠だった。
 逃げられない、逃げてもいい。でも逃げれば明後日は来ない。汐里の傷ついた心臓が、呻くように高鳴っていた。
 ――これは一世一代の賭けになる。
 月乃はやさしく、汐里と手を重ねた。
「姉貴はあたしが守る。絶対守る。大事な家族だから」
 これまで相手にしてきた堕人とは規模が違う。裏世界の組織を相手にするのだ。何をしてくるのかが一切分からない。
 不穏の鐘の音が胸に響く中、車はホテルに向けて発進した。きっと明日の夜が、白藤汐里としての最後の日となるだろう。


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 月乃が右手に持っている四角いラジオのような端末は探知機で、堕人の痕跡を手っ取り早く知らせてくれる最新式。旧式と違って精度が上がり、機械上部のモニターには足跡さえ辿れるのだ。更にいつの痕跡か時間まで表示され、探知機が開発されてから堕人の追跡が容易になっていた。
 痕跡が消えるまでは十六時間。汐里の話ではまだ時間は経っていない。五階をくまなく調べたが、堕人の痕跡はなかった。四階も同じだったが、三階を調査していると探知機から音が鳴り始める。カチカチといった時計の針が異様な速度で進むような音だ。
 堕人の残り香が強ければ強いほど反応も鋭くなるが、一番示したのはとある教室の前だった。
 ここは、黎人がいる教室の前だ。堕人はすぐ側まで迫っていたのだ。
 彼が潰されるのは時間の問題だ。早いうちに例の堕人をどうにかしないと最悪の未来が予想できる。次期会長が正司になれば一日も休めなくなるどころか、政府さえ篭絡《ろうらく》して恐怖政治が訪れる可能性さえあるのだ。正司の思想は分からないが、堕人を使って改革を望むような男だ。その行為はさながら、日本の未来を破壊するようなもの。
 時間を見ると、堕人がここに来たのはちょうど黎人を連れ出した直後のようだった。血の惨劇を防げたのは今日一番の成果だろうか。
 しばらく探知機を見ながら呆然としていると、目の前に男子生徒が立っているのに気付いた。彼は真面目そうに制服を着こなし、童顔で中央分けの黒髪。扉の前に立っていたから邪魔だったかと思い、月乃は数歩後ろに下がった。だが彼は扉から外に出るでもなく、月乃を見てこう言った。
「黎人と一緒にいた人、ですよね」
 緊張しているようだった。どう見ても人見知りだ。月乃は短く「そうだよ」と応えて探知機の電源を落とした。
「これ、後で電話してください」
 彼は自分の名前を言う前に赤色の折り紙を月乃に渡すと、足早に教室の中へ戻っていってしまった。紙には黒い鉛筆で電話番号が書かれている。告白にしては歳が離れているから対象外だと思いながらも、月乃はポケットの中にしまって別の考え事もしていた。黎人について何か聞けるかもしれないと。
 会話術は汐里の方が高い。作戦会議の時間が必要だ。
 月乃は痕跡探しを再開した。足跡は裏庭まで続いていて、裏庭には血の跡が僅かに残っていた。連と小梢が協力して遺体や血をほぼ片付けてくれたのだろう。そこから更に足跡をたどり、裏門に向かっている。ここから先は車で追い詰めたほうが早いに違いない。
 彼女は車に戻り、汐里の調査が戻ってくるのを待った。
 一人の時間になると、不意に思い浮かぶのが綾芽の顔。笑顔も怒った顔も、滝のように流れてくる。最悪にも、そのほとんどが楽しい思い出だった。
 これから先、敵対関係になるのだろうか。あの日公園で見た幻は、本当に彼女自身だったのだろうか。底なし沼から忙しなく疑問符が幾つも浮かび上がってくるせいで、それは暑さのせいであったかもしれないが、眩暈《めまい》のようなものを起こした。
 後悔していた事柄が一つだけある。一度、綾芽からバディを組まないか誘いを受けたのだ。汐里と三人で動くのも提案したが、三人で調査したり戦ったりするとかえって連携がとりにくくなる。
 月乃はしかし気付いていた。それ以上に、綾芽は月乃に対して独占欲のような感情を持っていたのだ。
 誘いは断った。その一ヶ月後が、失踪した日だった。
 汐里が戻ってドアが開くと、夏の湿った空気が入り込んでむせかえりそうになった。
「お待たせしました。月乃、何か見つかりましたか」
 探知機に足跡が反応したのと、見知らぬ男子生徒の話をした月乃は同じ質問を汐里にしてみせた。
「肉吸に襲われたのは日高《ひだか》寛一《かんじ》という教師でした。生徒からの信頼は厚いものの、甘やかしすぎだと親からは厳しい目で見られていたそうです」
「また良いやつが犠牲になったのか」
 汐里の沈黙それこそが肯定を示していた。
 いつからか姉妹の恒例になっていた。犠牲者たちには敬意《けいい》を示し、せめてもの安楽を願う。決して命を軽く扱いたくはないという想いが、二人の信条だった。
 下唇を噛みしめた月乃が助手席の窓にもたれかかると車は発進した。探知機をナビの位置に設置して、汐里は痕跡を辿り始めた。痕跡は既に三時間以上経過している。
「月乃、私たちのせいではありません。それだけは分かっていますよね」
「言われなくても分かってる」
「起こるべくして起きた。彼の運命であった。そして、死は檻《おり》からの解放である」
 感化されやすい月乃にとって、善人の死は堪えるものだった。真面目に生きてきた人間がある日、なんの脈絡もなく事故や事件で命を奪われる。その運命自体が、月乃にとって忌々しいものに他ならないのだ。
 その運命から人を救うために武身として戦いを決意したのに、いまだに救えない人もいる無力感からの重圧に押しつぶされそうになる日が、時折襲ってくる。
「お酒、今日は何を飲みますか」
「バーボンがいい」
 予約しているラブホテルの近くにスーパーがあるのを、汐里は事前に調べていた。
 音を鳴らしていた探知機が突然小さくなり始め、車は減速し始めた。道は空いていて、車道から少し離れた広い路地の真横を通っている。痕跡はここで途絶えていた。
 横を見ると、これ見よがしに五階建ての建物が立っていた。周囲の風景に馴染むように自然な暖色系の煉瓦《れんが》が敷き詰められた壁。横に長く、普通のマンションなら二桁ほどの部屋数があってもおかしくないだろう。
 庭はなく、扉の上につけられた貼り付け看板には弧竜会と書かれていた。隠れる気はさらさらなく、町の玉座に座る王様のように堂々としていた。
 午後十七時を回る頃合い、人気はほぼ皆無だが周囲の家には明かりがついている。一般家庭があるというからには、迷惑をかけていない証拠なのだろうか。それかここの一帯全てが会員達によって占領されているのか。
 スマートフォンを取り出した汐里は、現在地点に印をつけた。
「乗り込むには情報が無さ過ぎますね」
 中から聞こえてくるのは生活音らしき音だけ。騒々しくはなかった。
「そうだね。慎重にやれって親父から言われてるし、あたしはこのまま帰りたい」
「意見一致です。帰りますか」
 月乃の我慢が難しくなってきた頃合いを汐里は把握《はあく》していた。長居も危険だろうからとアクセルペダルに足を置いた途端、車が左右に小さく揺れた。何かがトランクの上に乗っかったようだった。揺れ方から察すると人間ほどの重さ。汐里はじんわりと身体が汗ばむのを感じた。
 姉妹は顔を前に向けている。緊縛した空気感の中、車窓が下へスライドしていった。冷気は外に逃げ、代わりに入ってきた熱気には男の声が混じっていた。
「聞いたよ、巫女なんだってな」
 歴史が刻まれているような、貫禄《かんろく》のある声だった。四十代後半くらいだろうか。
「それが、何か」
「初めて目にしたから珍しくてつい。いや、悪いね。けど怒ってなくてよかった、君のような美女に嫌われてしまってはどうも、この歳でもヘコんでしまう」
 バックミラーに映っていたのは後ろ姿だった。黒いワイシャツを着ていて、手にはバットのようなものを持っている。堕人ではない。
「なあ巫女さん。一つ提案があるんだが」
 二人は直感的に理解した。彼はただの会員ではない。改革派のトップ、相田正司だ。
 そのトップが姿を現し、提案を持ち掛けてきた。月乃は静かに「車を出そう」と口にしたが、汐里はハンドルこそ握っているもののアクセルを踏めなかった。
「これはお互いに利益のある提案だ。俺と手を組もう。俺の女になれ。そうすればこの世界の真実を教えてやれるし、あらゆる脅威から守ってやる」
 分かりきった提案、しかし汐里は固唾を飲みこむ。ここにいるのは正司だけでないと誰が言い切れるのか。もし仲間が控えていて、誘いを断った途端に一斉攻撃を仕掛けられれば瞬時に蜂の巣にされる。それを防ぐ巫術はあれど、守れるのは自分だけ。月乃は間違いなく救えない。
「俺の女になってきた奴らは全員揃ってこういう。ああ、もっと気持ちよくなりたい。あらゆる快楽への探求が止まらなくなる。性的欲求だけの話じゃない。君もどうだ、無駄に命を削る日々にグッバイして一緒に崇高な世界を作り上げないか」
「もし断ったら」
 慎重に。
「断ったらどうなると思う」
 正司は声色を変えず、おそらく顔色に笑みだけを浮かべながらこう言った。
「俺が脅威そのものになる」
 月乃はホルスターの中にしまっていた銃を取り出そうとしたが、汐里は制した。今なら頭を撃てる距離ではあるだろう。だが得策ではない。
 サディスティックであり、カリスマ的立ち振る舞いをする彼に囚われた女性たちは薬を使って強制的な快楽刺激を植え付けられたのだろう。承諾すれば汐里もただでは済まない、なりうる未来。考えたくもない身の毛もよだつ誘い。その想像は月乃も浮かんでいるようで、怒りの感情が隠しきれていなかった。
「考える時間がほしい」
 汐里からの、決死の提案だった。
「良いだろう。だがリミットがほしいな。そうだな遅くても……明日の夜だ。期限が早いって、バカを言うなよ。これはじつに簡単で迷いの余地もない提案なんだから」
 彼の言い方から察するに期限の延長もなければ、過ぎれば襲撃するという脅迫も含まれている。
 トランクから降りた男は、バットを持ったまま家へと向かった。
「明日の夜、君に会いにいく。もし逃げたら? お楽しみが待ってる。実際そのお楽しみとやらを実行するのも楽しそうだから、俺としては逃げててもホテルにいてもどっちでもいい」
 居場所まで彼は把握している。熟練の技術者がいる証拠だった。
 逃げられない、逃げてもいい。でも逃げれば明後日は来ない。汐里の傷ついた心臓が、呻くように高鳴っていた。
 ――これは一世一代の賭けになる。
 月乃はやさしく、汐里と手を重ねた。
「姉貴はあたしが守る。絶対守る。大事な家族だから」
 これまで相手にしてきた堕人とは規模が違う。裏世界の組織を相手にするのだ。何をしてくるのかが一切分からない。
 不穏の鐘の音が胸に響く中、車はホテルに向けて発進した。きっと明日の夜が、白藤汐里としての最後の日となるだろう。